凪ゆう

3 件の小説

凪ゆう

書けるかな

残暑

伊敷は黒い大学ノートを開く。 最初のページには日付だけ。 「七月二十八日」 ページをめくる。 そこには、自分とまったく同じ状況が日記のように書かれていた。 「今日、遺失物管理室で黒いノートを拾った。」 「棚の奥から「振り返るな」という紙を拾った。」 さらにめくる。 そこには、 「今、お前の後ろで名前を呼ぶ。」 伊敷の背後から。 「……伊敷。」 佐伯の声だった。 振り返ろうとして、 ポケットの紙を思い出す。 「振り返るな。」 佐伯の声が近づく。 「伊敷、何やってる。」 「おい。」 「聞こえてるか。」 何度も呼ばれる。 それでも振り返らない。 すると今度は、 母親の声。 友人の声。 亡くなった祖父の声。 最後には、 自分自身の声。 「振り返れ。」 管理室の空気が冷えていく。 時計は午後一時で止まったまま。 ノートの最後のページには一行だけ。 振り返らなければ、お前は次の管理人になれる。 伊敷は意味が分からない。 その瞬間。 管理室の棚という棚から、 何百という遺失物が一斉に床へ落ちる。 財布。 携帯。 傘。 ぬいぐるみ。 そして大量の黒い大学ノート。 全部、同じ。 最後のページだけが違う。 伊敷は一冊開く。 そこには違う名前。 さらに一冊。 また違う名前。 歴代の遺失物担当者の日記だった。 全員、 七月二十八日に管理室でノートを拾い、 名前を呼ばれ、 振り返ったところで記録が終わっていた。 伊敷だけは振り返らない。 やがて声は消える。 時計が再び動き始める。 カチ。 カチ。 外から佐伯が扉を開ける。 「おい、大丈夫か?」 今度は本物だ。 伊敷はゆっくり前を向いたまま、 「……今行きます。」 と答える。 佐伯は不思議そうな顔をする。 「何で振り返らねぇんだ?」 伊敷は笑う。 「呼ばれても、振り返っちゃいけない日なんです。」 その日以降、 管理室では何も起こらなくなる。

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盛夏

翌日・・。 伊敷は遺失物管理室の鍵を開けた。 金属製の扉は、いつも通り重く嫌な音を立てる。 部屋に入ると、ホコリと共にむっとした空気が肌にまとわりついた。 冷房はついている。 なのに、この部屋だけは妙に湿り気を帯びていた。 積み上げられた遺失物のせいなのか、それとも長年閉ざされた空気が淀んでいるだけなのか。 天井の蛍光灯は頼りなく白い光を落とし、窓から差し込む日差しも、空気に溶ける。 壁一面に並ぶ保管棚。 透明な収納ケース。 「財布」「貴重品」「衣類」「電子機器」 規則通り分類された遺失物が、静かに眠っていた。 今日届いた段ボールを開封する。 財布。 折り畳み傘。 子どもの靴。 片方だけのイヤホン。 ぬいぐるみ。 そして、一冊の黒い大学ノート。 表紙には何も書かれていない。 拾得場所は―ー ○○警察署 遺失物管理室。 伊敷の手が止まる。 「……管理室?」 拾得場所を記入した紙を見直す。 間違いではない。 “管理室内で拾得” そう書かれていた。 「佐伯先輩。」 廊下へ顔を出す。 「遺失物って……管理室の中で落ちてることあります?」 佐伯先輩は缶コーヒーを飲みながら笑った。 「あるわけねえだろ。」 「ですよね。」 「誰が書類書いた?」 「……当番印を見ると、去年です。」 佐伯は一瞬だけ表情を消した。 「去年?」 「はい。」 「……そんな書類、まだ残ってたか。」 何か言いかけて、やめた。 「まあ気にすんな。昔のミスだ。」 そう言って立ち去る。 だが伊敷は気付いてしまう。 書類の日付。 去年の今日だった。 部屋の時計が、 カチ。 と鳴る。 その音と同時に、棚の奥で何かが落ちた。 乾いた音だった。 伊敷は懐中電灯を手に取り、棚の隙間へ光を滑らせた。 白い光が、積もった埃をゆっくりと浮かび上がらせる。 息を殺しながら奥まで照らす。 何もない。 いや、 一枚だけ紙が落ちている。 拾い上げる。 そこには乱れた字で、たった一文。 「振り返るな。」 伊敷は紙を裏返した。 何も書かれていない。 インクはところどころ滲み、書かれてから長い時間が経っているようにも見えた。 「……誰の悪戯だ。」 思わず独り言が漏れる。 こんな場所に、こんな紙が落ちているはずがない。 管理室は部外者の立ち入りを禁止している。 入室できるのは担当者と、ごく限られた署員だけだ。 誰かが故意に置いたのだとしても、その「誰か」は限られる。 伊敷は棚の裏側をもう一度照らした。 床。 壁。 配管。 積もった埃。 紙が入り込む隙間はある。 だが、人が隠れられるような空間はどこにもない。 それでも胸の奥の違和感だけは消えなかった。 拾い上げた紙を遺失物として扱うべきか、それとも廃棄物として処分するべきか。 一瞬迷った末、伊敷は透明の証拠袋に紙を入れた。 念のためだ。 理由は説明できない。 ただ、捨ててはいけない気がした。 管理番号を書くため、机に向かう。 ボールペンを手に取った、そのときだった。 管理室の奥で、 ガタン。 今度は、はっきりと音がした。 さっきより近い。 伊敷は反射的に顔を上げる。 暗い棚の列は、何事もなかったように静まり返っていた。 …… いや。 一番奥の棚。 ほんの一瞬だけ、 誰かが、こちらを覗いていた気がした。 瞬きをした次の瞬間には、もう何もいない。

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初夏

注意:この物語を読んでいる途中で名前を呼ばれても絶対に振り返らないでください。 「おまえ、夏と冬どっちが好き?」 ミーン、ミーン、ミーン――。 頭上のケヤキに止まった蝉が、競い合うように鳴いている。焼けたアスファルトは陽炎を揺らし、遠くのパトカーが歪んで見えた。警察署の玄関前に立つ温度計は三十七度を示している。午後一時。空気は息を吸うだけで肺が熱くなるほど重く、制服の襟元には汗がじっとりと張り付いていた。 帽子をかぶっていても意味はない。額を流れた汗が眉を伝い、目に入りそうになる。袖口で拭った瞬間には、新しい汗が首筋をつたって背中へ流れていく。 巡回から戻ってくる警察官たちは、誰もが「暑い」の一言を残して署内へ吸い込まれていく。自動ドアが開くたび、冷房の効いた空気が一瞬だけ外へ漏れ、その涼しさはすぐに熱気へ飲み込まれた。 「おーい、聞いてるのか?」 声をかけられて我に返る。 目の前には、缶コーヒーを片手に笑う三十代半ばの男がいた。 生活安全課の巡査部長、佐伯修平。 配属初日から何かと気にかけてくれる先輩だ。 面倒見はいいが口は悪い。警察学校を出たばかりの俺が緊張でガチガチになっていたときも、「肩、力入りすぎ。犯人捕まえに行くんじゃねえんだから」と笑ってくれた。 その一言で少しだけ気が楽になったのを覚えている。 「……あ、すみません。ぼーっとしてました。」 「おいおい、大丈夫かよ。熱中症なんて勘弁してくれよ。今月は熱中症対策月間だろ? おまえが倒れたら、報告書だの始末書だので俺まで巻き添えなんだから。」 「すみません。気を付けます。」 「よし。それでいい。」 そう言って佐伯先輩は缶コーヒーを俺に放り投げた。 反射的に受け取る。 冷たい。 たったそれだけで、生き返るような気がした。 「新人は無理すんな。倒れるのが一番迷惑だからな。」 口では雑に言うくせに、こういうところだけ妙に優しい。 配属されて三か月。 警察官になりたいと思ったのは、中学生の頃だった。 たまたまテレビで見た刑事ドラマ。 犯人を追い詰める刑事、被害者を守る警察官。誰かの人生を救える仕事が、子どもの俺にはひどく眩しく見えた。 その憧れだけで勉強を続け、大学院まで進み、採用試験に合格した。 交番勤務になると思っていた。 刑事課に配属される日を夢見ていた。 けれど現実は違った。 「伊敷。今日も遺失物、段ボール六箱届いてるぞ。」 署内から誰かの声が飛ぶ。 「はい!」 返事をしながら、自分でも苦笑する。 俺の仕事は事件を解くことでも、人を逮捕することでもない。 財布、傘、スマートフォン、鍵、ぬいぐるみ。 誰かが落とした「物」を受け取り、番号を付け、保管し、持ち主へ返す。 警察署の一番奥。 日もほとんど差し込まない、小さな遺失物管理室。 そこが、俺の職場だった。 あの日までは、この仕事が人生を変えるなんて思ってもいなかった。

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