逢坂

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逢坂

青春、現代ドラマ、日常が好きです。たくさん読みたいです。よろしくお願いします!

短編②松浦蓮とプラネタリウム

「地球は人類のゆりかごである。しかし人類はいつまでもこのゆりかごに留まってはいないだろう。」  と、兄はよく言った。  出来のいい兄だった。  勉強ができるのはもちろん、頭が良かった。  見解が深くて、視点をたくさん持っていて、優しくて、穏やかで、平等で、そしてとても、強かった。    ふと兄を思い出したのは、今、蓮のクラスでは、ロングホームルームとして来週の課外授業であるプラネタリウムについて説明がされていたからだ。 「プラネタリウムは人数と時間が限られるので、2日間に分けて行きます。前半は1組から4組。後半は5組から7組です」  プラネタリウム、という単語に、高校生はあまり気乗りしないものだ。  他の生徒を見渡すと、ほとんどの生徒が、つまらなそうにペラペラと紙をめくっていた。  蓮の幼馴染である涼太も、あくびをしながら頬杖をつき、今にも寝そうな瞳で紙をペラペラとめくっている。  蓮はプラネタリウムが嫌いじゃなかった。  落ち着いた解説の声と、薄暗いが精悍とした空気。  瞳を開ければ無数の星が、吸い込んでと叫んでいるように広がっている。  その空間にいると、自分がたいしたことない存在に思えて気が楽になる。  ただ存在する。そんな単純なことが、何かに許されたような気持ちになるのだった。 「それじゃあ今から6人班を組んでもらうんだが…。皆はどうやって組みたいか?くじでもいいし、自分たちで決めてもらうっていうのもあるんだが…」  担任が席替えの時に使うくじ箱を教卓の中から取り出しながら、乗り気ではない生徒たちに、うーんと頭を悩ませる。  気が弱いが優しく穏やかで、そこが生徒たちに好かれているような教員である。 「自由がいいっす」  さっきまで寝かけていた涼太が、あくびをしながら手を挙げた。  それに続いて他の生徒も賛同するように声を出す。  涼太はこういう時、さらりと自分の意見を提示して、それで物事を進めるのが上手なやつだった。  自由だと決まった途端、生徒たちは各々で6人組を組むために席を立ち始めた。  涼太が蓮の頭を軽く叩く。 「れーんちゃん。一緒に組もーぜ」  まだ眠そうに瞼を落としながら、涼太はしゃがみ込み蓮の椅子の側面にもたれかかった。  椅子の足と足の間が空いているので、それでは体重が背中の両端に集まってしまい背中が痛くないのだろうかと思ったが、涼太は見かけによらず図太い神経の持ち主なので何の問題もなさそうだった。 「おい鮎川ァ、お前も来い」  涼太が5席ほど離れた鮎川に声をあげ、その声に素直に鮎川はついてくる。 「プラネタリウムとかくそ懐い」  鮎川が蓮の机に腰掛け、スマホを触りながら呟いた。 「懐いっていえる思い出がねーよ」  涼太が眠そうな声で呟き返す。 「残りの3人どうすんの」  蓮が2人に尋ねると、鮎川は「誰でもいい」と答え、涼太は「適当にアヤとか津田ちゃんとか誘っとけよ」と言い首をがっくりと膝の間に落として眠ってしまった。  適当に。誰でも。  その言葉に、蓮は眉間に皺を寄せる。  アヤと津田に目を向けるともう既に、スカートを限界まで短くして長い爪でスマホをいじる女子6人の巨大なグループが完成していて、蓮はとてもじゃないがここに入る隙はないと感じた。  しかしあとで涼太に文句を言われても面倒だと感じたので、涼太の要望を一度掛け合ってみようと津田に声をかけた。  津田はわりかし女子の中では背が高く、長くサラサラの黒髪と大人っぽい顔立ちが印象に残る女子だ。 「津田ちゃーん、…なに、風邪でもひいてんの?」  今日の津田はマスクをつけていた。 「寝坊したの。メイクする時間なかったんだってば察してよ」  怒られてしまい「さーせん」と頭を下げる。 「津田ちゃんたちはもうそこの6人で決定?」  本題にうつり、そこの6人を見渡しながら、蓮は尋ねた。 「そうだけど、何。うちらと組みたいの?」 「俺っつーか、涼太が。津田ちゃんとかアヤとか誘えっていうからさ」 「は?指名制?調子乗んな三浦」  なんて言いつつ、女子にモテる涼太の口から名前の上がった津田とアヤの表情は嬉しそうである。  蓮からすれば、涼太のどこがいいのか皆目見当もつかなかった。 「まあ、普通に無理。うちら6人で組むし。橋本さんたちのとこ3人だから、そっち誘えば?」 津田は、教室の後ろの方で困ったように周りを見渡す橋本と中村、関谷を長い爪で指さした。ついでに他の女子も、「ひっこめ松浦」「女子になってから出直しな」とスマホの片手間に暴言を吐く。  蓮がすごすごと自分の席に戻ると、涼太はまだしゃがんだまま寝ていたので、脛を蹴り飛ばして起こした。 「津田ちゃんが、チンコ切ってから出直してこいって」  津田を親指で指差すと、起き上がった涼太が「わーお」と言いながら目を丸くさせた。 「……タイにでも行ってくるかァ…」  ボソリと呟けば、涼太は体を伸ばしながら橋本たちの方へ向かう。  蓮もその後についていった。 「橋本さんたちさァ、もしよかったら俺らと組まね?」 「そっちも3人組だよな。こっちもだから」  鮎川を指差しながら、蓮は「嫌だったらいいんだけど」と付け足す。 「あ、嫌だなんて全然…。…ミユウちゃんたちと組まなくていいの?」  橋本が津田の方を見ながら、伺うように尋ねる。 「ゴリラとプラネタリウムなんてごめんだなァ」  涼太があっけらかんと笑い飛ばした瞬間、津田の鋭い眼光がこちらに向いた気がしたので、蓮は橋本たちから視線を決して動かさなかった。 「三浦松浦あとで集合」  アヤのそんな声が聞こえたので、耳を塞いで表情を無にしておく。 「俺たちは全然…。橋本さんたちが嫌じゃなかったらいいんだけど」  とにかく早く班を決めたかったので、蓮は話を元に戻すことにした。  橋本たちは顔を見合わせると、困ったような表情が軽い笑顔にかわった。 「三浦くんたちがいいなら、お願いします」  ぺこりと頭を下げられ、蓮と涼太も軽く下げ返す。  周りを見渡すと、どうやら班長を決めて、班長が先生に班員を伝えにいくシステムのようだった。 「班長やりたい人いる?」  蓮が橋本たちに尋ねると、3人は一斉に首を横に振る。 「鮎川、お前班長でいい?」  少し離れた席でスマホを見ていた鮎川の顔が上がり、俺たちに視線が向いた。  クラスの雑音でどうやら、俺らの声は聞こえてないらしい。よくわからないと言ったような顔で、こちらを見つめてくる。 「あ、ゆ、か、わ。お、ま、え。は、ん、ちょ、う」  一音一音分けて声を出す蓮の後ろで、涼太が手を合わせ、麺を啜る素振りをする。 「あー!そういうことね、いいよ全然」  鮎川が何故か涼太を見ながら返事をしたので、蓮は、こいつ絶対誤解してるなと思ったが言わないでおいた。  手振りで鮎川を担任の元まで向かわせ、班員を言わせる。  担任の元から戻ってきた鮎川は「お前ら騙したなっ」と蓮と涼太の頭を小突いた。 「お前が勝手に騙されただけだろーが」  涼太が口角を上げ鼻をならす。 「お前のあのジェスチャーは完全に、"昼飯は蕎麦でいい?"のジェスチャーじゃねーか!」 「落ち着けって鮎川クン…」  どうどうと困った笑顔で宥める涼太と宥められる鮎川をよそに、蓮は、ぽかーんとしたままの橋本たちに向かい合った。 「俺たちは2時半からだから、2時にプラネタリウム集合でいい?昼飯とかは各々食べてくる感じで…」  こくりと3人揃って縦に動く首を確認したところで、ちょうどチャイムが鳴った。 「ただいま」  誰かに届けるつもりもないような声量でポツリとそんな言葉を漏らしながら、蓮は靴を脱ぐ。 「おかえり!」  そんな声が、リビングと廊下を隔てる一枚のドアの向こうから聞こえてきて、蓮はおや?と首を傾げた。  晩御飯であろう肉じゃがの匂いがする。  母親の仕事が休みだったことを思い出し、今の声は母親のものかと納得した。 「今日、肉じゃが?」 「そうよ。美味しそうでしょう」  にっこり笑いながら振り向いてきた母親の姿に「うん」とだけ返し2階の自室に向かう。  部屋に入るとすぐ見える机には、デスクライトと単語帳しか置いていない。  机の横に置いてある本棚にも、漫画と戦隊モノのフィギュアしか飾られていなかった。  我ながらシンプルな部屋だなと思いながら、最初からこんな部屋ではなかったことを思い出し、嫌になって思い切りリュックを床に置いた。  ドスン、という重苦しい鈍い音が部屋に響いて、蓮の気持ちは一層重くなった。  棚や机の不自然な空白には埃が溜まっているが、蓮はその埃を払うのが怖かったので、そのままにしておく。  水筒と弁当箱だけ取り出して一階に向かった。 「大きい音が鳴ったけど、大丈夫?」  肉じゃがを盛り付けながら母親が心配そうに尋ねてきたので「うん」とだけ返し、流しで水筒と弁当箱を洗った。 「明日校外学習なんだってね」  水の音に負けないように、背中から聞こえる声に耳を向けて、蓮は「うん」と返事をする。 「どこ行くのよ」  弁当箱は、いくら洗ってもぬるぬるした感触が取れない。  このぬるぬるは元々なのか、それとも食材のせいなのかわからず、そして蓮はその判断をするのが苦手で、だから洗い物が嫌いだった。  水筒の洗剤も、どこまで落とせばいいのかわからない。  落とした食器も、洗剤をつけるべきか悩ましい。  そういった少しの選択が苦手で、どこまで洗えばいいのか考え、判断するのが苦痛だった。 「ちょっと、どこ行くのよ」  急かすような母親の声に意識が戻され、蓮は「プラネタリウム。湯川緑地の」とだけ返した。 「…ああ、あそこの!」  「いい場所よね」と言いながら、昨日つくられたお味噌汁を電子レンジにかけている。 「…蓮。楽しんできなさいね」  そんな母親の言葉のあとに、電子レンジの音がリビングに響いた。 「…言われなくても。てゆーか、プラネタリウム楽しむってなんだよ」  軽く笑いながら、蓮は「いただきます」と手を合わせた。  辺りは暗闇ですらなかった。  モザイクというには温かく、インスタントカメラというにはあまりにもふやけた世界だった。  自分自身の手や足は目視できるが、それ以外のものは全て色だけで、「ああそこには木があるな」「きっとあれは家だろう」といったくらいなら分かるような世界である。  蓮は訳もわからず、その空間をただ歩く。  歩き続けると、いつもこの庭園にたどり着くのだ。  緑や赤の、多分きっと植物のようなもの。それから白色の柱のようなものがいくつもたっているので、蓮は勝手にそこを庭園だと認識していた。  蓮の思う庭園とは、異世界漫画でよくみるような洋風なものであった。  しかし上を見上げると真っ暗で、そこにぼやぼやといくつかの光が見える。  きっとあれは星空だろう。  蓮はわけもなく、そしてなにも違和感はなく、ここはそういう場所だと認識していた。  この庭園にはいつも木の箱がある。  これはいつも、自分の手や足と同じくらいはっきり見えて、それでいて絶対に開かない。  なぜか急に出てきた金槌やポールを使って箱を殴ったが、微塵も空く様子はなかった。  何度も殴り蹴り飛ばしたが、絶対に開かなかった。  いつもこの箱に会うたびそんなことをしていたので、最近はもうなす術がなく、見つけても放っておいている。  蓮はぼんやりと上を見上げながら、その箱に触ってみた。  優しく撫でても開きはしないが、既視感のあるものを見つけた時のような懐かしさが、蓮の表情を柔らかくさせた。 「れーーん!起きなさーい!」  目覚ましの音と母親の怒声が混ざり合い、蓮は勢いよく上半身を起こす。 「…またあの夢か……」  ここ数年定期的に見るこの夢をみたあと、蓮はいつも不思議な気持ちになる。  それが心地悪くて、あまり好きではなかった。 「おはよう。早くご飯食べなさい、遅れちゃうわよ。涼太くんがあと30分後にきますって、わざわざインターフォン鳴らしてきたんだから」  着替えながら一階に降りていると、母親は忙しなく動きながらそう注意してくる。  土曜だというのにテキパキと動く母親を見ていると、自分は大人になったらあんなふうになれるのだろうかと考えてしまう。 「わざわざすぎだろ…」  あくびをしながら席につき、用意されたサンドイッチに手を伸ばす。 「うま」 「蓮、醤油とってくれ」  父親に醤油を渡しながら、蓮は母親に視線を向けた。 「30分後って、それいつの話?」 「えーっと、9時半ちょうどくらいかしら…」  時計を見ると、10時前だった。 「母さん、それもっと早く言ってほしい」   「悪ィ、遅れた」  走って向かってくる鮎川に、蓮と涼太は軽く手を挙げる。  鮎川が遅刻をするのは日常茶飯事なので、もはや怒る気力も湧かない。 「まだ時間あるし、ファミレス行こうぜ」  蓮の提案に頷く2人を確認しながら、3人はファミレスへ向かうことになった。  プラネタリウムは2時半からなので、それまで3人で昼飯を食おうという作戦である。  プラネタリウムは高校の近くにはないので、高校から1番近い、蓮と涼太の地元のプラネタリウムが選ばれた。  そのため、2人はここら辺の道には詳しかった。 「緑地駅の近くにファミレスがあるから、そこにしようぜ」 「緑地駅にファミレスなんてあんの」 「ちょっと入り組んでるんだよ。奥の方にあるから」  少し歩いた先に見つかったファミレスで蓮たちは各々メニューを注文する。 「俺プラネタリウム、結構楽しみ」  鮎川がハンバーグを平らげながら、嬉々として口を開く。 「そーかなァ…。俺は絶対寝る自信あるね。隣に女子でもいたら、別の話だけど」  たった今、座席は蓮、涼太、鮎川の順に決まった、と蓮は思った。 「俺は…結構好き。プラネタリウム」  ステーキを口に入れながらポツリと呟くと、鮎川が「わかる。俺星とか好きだし、将来そーゆうの研究したいっつーか」と長くなりそうな話をし始めたので「わかったわかった」と抑えておいた。  鮎川は少し…いやだいぶ天然でぬけているが、その頭の中身はド理系の天才肌である。  文系科目もできるのだが、本人は理系の方が楽しいらしく、選択科目も物理を選んでいた。  こんな感じなのにテストは毎回上位でよく勉強を教えてくれる。  サッカー部で運動神経も抜群。勉強だってできて、顔もかっこいい。しかし、天然で空気が読めないような一面が、津田からは「彼氏としてはナシ」という評価をいただいている。 「……なんだよ」  それはそうと、先ほどからやけに見つめてくる涼太に、蓮は視線を向けた。 「別になんでもねーけど。…お前さ、」  涼太が言いかけた瞬間、「あーっ!」と鮎川が叫んだ。 「班長って1時間前に集合かよ。もう行かなきゃ、やべえ!」  確かにスマホを見ると、クラスのグループチャットに「班長は1時間前集合」と送られてきていた。  鮎川は財布からぴったりのお金を出し、テーブルにおくと、「こっからプラネタリウムまで、どんくらい?」と蓮と涼太に尋ねる。 「徒歩15分」 「オッケー」  慌てて荷物をまとめ店員に事情を話すと、鮎川はさっさと出て行ってしまった。 「なんでプラネタリウムを見るだけなのに、班長が1時間前集合なんだ?」  蓮が単純な疑問をこぼすと、涼太も目をぱちぱちとさせながら返してくる。 「鮎川はなんだかんだ、こういう時真面目なんだよなァ…」  なんだかよくわからない展開に、蓮と涼太の気持ちもぼやっとしてしまう。  食べ終えた皿を脇目に置いて、ドリンクバーのジュースを飲みながら、蓮は「そういえば」と口を開いた。 「さっき何を言いかけてたんだよ?」 「さっきィ?」  眉間に皺を寄せ思い出す涼太に、「ほら、お前さ、みたいな」と蓮は片言でヒントを与える。 「ん?…あ、あァ、思い出したぞ」  パッと涼太の眉間に皺がなくなり、元の綺麗な額に戻った。  基本センター分けである涼太の額は、いつも通り整えられた眉がよく見える。 「平気なフリするなよって言いたかったんだ。いい加減に」 「平気なフリ?」  予想外な言葉に、次は蓮の眉間に皺がよる。 「ピンとこねーンだったら、いいんだ」  それだけ言うと、涼太はスマホに目線をうつしてしまった。  平気なフリ。この言葉を聞いた時、少しだけ鼓動が早くなった気がした。少しだけ。  それでも自分の中でピンとくるほどの何かを、今すぐ見付けるのは無理そうだった。  蓮が何かを考えているのがみて取れたのか、涼太が片頬を吊り上げて笑う。 「深く考えんなよ、意味ねーって」  涼太が片頬つりあげて笑う癖は、昔からだった。  蓮の記憶の中の涼太の笑顔は、いつもこの、少しだけ変な笑顔。  その笑顔を見るたびに、涼太は昔から変わらないヤツだと思う。  蓮は昔、泣き虫な子だった。  本当は繊細だけど、一つ一つの感情があまり表情に出ないものだから、泣くまでのプロセスを表に出さずに泣き出してしまうような子だった。  なので周りからは急に泣き出したと思われ、それが悔しくて、もっと泣いてしまっていたことをよく覚えている。  今ではただ単に、感情が表情に出づらい人というだけになってしまったが、それに比べて涼太はずっと変わらない。  いつも周りに人がいて、明るくて、軽快で、我儘で、まるで王様のような態度をとるのは、幼稚園から高校まで、涼太に弟が生まれた後も、基本的にずっと変わらない。  周りの人を甘い言葉ですぐ誑かすくせして、心の底では本当は、誰のことも信頼していないのだ。  蓮にはそれが、よくわかっていた。  それくらいしか、わからなかった。  涼太は本当はとても冷たい人間であること。  そして涼太が、そんな自分を本当は嫌いがっているということ。 「…蓮、おい蓮!」  意識を思考から離すと、涼太が怪訝な顔でこちらを見ていた。 「時間、そろそろ」  スマホの画面に、蓮や涼太、それから鮎川や細木などと行った江ノ島の海の上にポツンと浮かんでいる数字が、集合時間まで残り15分であることを表していた。 「そろそろっつーか、ギリギリじゃねーか」  急いで会計を済ませ自転車に飛び乗る。  急な坂を立ち漕ぎで息を切らしながら登ると辿り着くのが、プラネタリウムのある湯川緑地だった。  この坂の向こうに続く道路は高速道路につながっている為、車の交通量が多い。歩道側にはラーメン屋や雑貨屋なども立っていて、上を見ると緑色の木々が光を透かしてキラキラと輝いていた。  坂道はきついが、蓮はこの光景は嫌いじゃなかった。 「チャリ禁止だぞ」「何やってんだアイツら」という他の生徒の声を無視して、2人はぐんぐん進んでいく。  駐輪場を右に曲がり急いでとめると、そのまま木々に囲まれた坂をまた登る。  だんだん広場にいる子どもたちの声が近づいてきて、そろそろ着くな、と思う。  地面から出る噴水が子供達の声を賑わせている。  いつきてもここは生命力に溢れていると蓮は感じた。  プラネタリウムのある博物館の前にはもう数班集まっていて、蓮たちは急いでその集団に駆け寄る。 「前からチケットを配るので受け取ってください。2時半からの人は、もう館内に入るように」  橋本から受け取ったチケットの1枚を涼太に渡し、蓮はプラネタリウムのマスコットキャラクターと星空の描かれたチケットを眺めた。 「懐かしいなァ」  と後ろから声が聞こえ振り向くと、涼太がチケットをゆらゆらと振りながらあくびをしていた。 「は?」 「蓮クンの気持ちの代弁。熱っぽい目でチケット眺めちゃってさァ…」  フ、と軽く笑ったのが妙に腹立たしくなり、蓮は前を向く。 「眺めてねえ」  怒りを込めた口調で返すと、背中から涼太の声が返ってきた。 「そうかなァ」 「そうだよ。さっきから何なんだよお前」 「それはこっちのセリフだぜ。…熱っぽく見てると思われるのが、そんなに嫌か?」 「…どういうことだ?」  涼太の質問の意図が分からず、蓮は思わず後ろを振り向く。  どうせまた変な笑顔を浮かべているのだろうと思っていたものだから、予想以上に真剣な表情をした涼太に、蓮の心臓は少しだけ跳ねた。  少しだけ吊り上がった目や結ばれた唇が、まるで涼太の全神経をぶつられているような気持ちになる。  ドク、ドク、と心臓が動いてるのがわかった。  今まで忘れていた汗が、日差しの暑さが、蝉の音が、今まで意識していなかったこと全てが、体にのし掛かってきたようだった。 「蓮のいいところは引きずらないところだ。それでいて蓮の悪いところも、そういうところなんだよ」  涼太は、周りが思っている以上に、蓮のことをよくわかっている。  それは蓮も自覚していた。  だからこそ、蓮は怖かった。  涼太が蓮のことを分かっているのと同じくらい、蓮は涼太のことを分かってやれる自信がなかったからだ。 「お前ら何やってんの?暑いし早く入ろうぜ」 「なんか…大丈夫?」  いつの間にか担任の話は終わっていたらしい。  先頭をきって並んでいてくれた班長の鮎川が、深刻そうな雰囲気の2人など意に介さず割って入る。  鮎川とは打って変わって心配そうな顔をした橋本の後ろで、無表情を崩さない関谷と気遣っているような笑顔を浮かべる中村がしゃがんだままの蓮たちを囲う様に立っていた。 「まあ…たまには真剣に会話してみたってだけ」  両頰をちゃんとあげて、涼太が4人に笑いかける。  非の打ち所がない綺麗な笑顔に、橋本は「あ、ならいいの」と目線を逸らした。  照れている、というより怖がっている様だった。  蓮にも、橋本の気持ちは少しだけわかる。  涼太の寸分狂わない笑顔を、怖いと感じる人は一定数いるのだ。 「…お前さ、多分その笑顔怖ェんだよ」  蓮は涼太を追いかける様に立ち上がると、軽く睨みつける。  これくらいは許されると橋本たちに教えてあげれば、橋本たちも安心できると思い、あえて涼太に軽口を叩いた。 「うるせー、俺がイケメンだから悔しいんだろお前」  笑いながら蓮に体重をぶつけてくる。 「俺、まじで涼太のこと好きになる女子の気持ちがわかんねえ」 「わかる」 「鮎川、それは俺に対する肯定のわかるだよな」 「は?」  蓮はちらりと後ろを振り向き中村たちを見る。  3人で楽しそうに会話してるのが見えて、ほっとした。    館内に入ると、スウッとした冷房の風が汗を乾かす。  鼻に入る空気が冷たくて、蓮たちはしばらくその空気を堪能した。  館内には昆虫や鳥、熊、兎など様々な生物の剥製が飾られていた。  地層や星の模型もあって、蓮たちはプラネタリウムが始まるまでの15分くらいを、それらをみて過ごすことにした。 「すげーっ、近くで見ると兎ってこんなでかいのか」  地層のコーナーにいってしまった女子3人の声が遠ざかるのを感じながら、蓮は昆虫の剥製を眺めながら歩く。  角を曲がると、感激したようにショーケースに張り付く鮎川を他所に、澄ました顔で鳥の剥製を眺めている涼太の姿があった。  蓮が近づいたことに気づいたのか、涼太が光を失った目の飾られている烏から、目を離さないまま呟く。 「俺、動物好きじゃない」  思い返せば、涼太は小学生の頃から、犬や猫を通学路で見かけるとじゃれる同級生を無視して、スタスタと先に帰ってしまうような子供だった。  楽しく一緒に帰っていた同級生が関心を示したものに、無理して合わせようとせず、それはそれとして帰るやつなのだ。子供の頃から。 「知ってる」 「お前にknowとunderstandの違いって、分かんの?」 「は?」 「分かんのかどうか聞いてんだよ」 「…言葉通りだろ。知ると、理解する」 「さっき言いたかったのは、そういうことだよ」  意味のわからない涼太に、蓮はまた、沸々とした苛立ちを感じる。 「さっきから何言ってんだお前」  蓮の怪訝な様子に気付いたのだろう。  涼太がまた、真面目な顔をして蓮に近づく。 「蓮はさ、考えてないだろ?」 「は?」 「臭い物に蓋をする、ってことわざ分かる?」 「なんとなく」 「俺が思うに蓮ってさ、典型的なそれだと思うンだけど」 「……くさいものって、なんだよ」  ようやく出たのは絞り出したようなその声だけで、 「やだな蓮クン、心当たりあるくせにさァ」  という涼太の声に蓮の心臓はドクンと動く。  今のは本当に、涼太の声だろうか。  蓮の心の底から出た声じゃないだろうか。  蓮自信も本当は、分かっているんじゃないか。木の箱の中身を。  黙ってしまった蓮の肩を、涼太は少し驚いた様子で抱く。 「…悪かったよ、意地悪なこと言ったよ」  チラリと横を見ると視界に入る、すぐ近くにある涼太の綺麗な顔が癪に触って蓮は反対側を向いた。 「自覚あんのマジでタチ悪いからな」 「俺もそう思う」 聞いたことのないような低い声で返され、思わず涼太の方に首を戻す。 「俺も同じなんだ蓮。俺も考えなきゃいけないことから、目を逸らしてる。蓮はきっと大丈夫だ、大丈夫な…器量がある、お前には」  真面目な声でそう返されては、返す言葉も出ない。  蓮は涼太の少し伏せた睫毛を見つめながら、何か喋ろうと喉に意識を向けた。 「俺はあんまり、器量よくないタイプだけど」 「馬鹿、そういう話、してンじゃねーよ」  涼太が頭上で、笑みをこぼしたのが分かった。  プラネタリウム館内に入ると、ひんやりとした空気が静観な空気感と交わり一層冷たく感じる。  くるりと円形に置かれた席に囲まれる、中心に聳え立つ赤色のてんとう虫みたいな機械は、M××ST⚪︎×といって、世界最高水準のリアルな星空を映し出すプラネタリウムらしい。  小学生の頃、よく夏に聞いていた子ども化学電話相談というラジオ番組で、そんなようなことを言っていた。  宇宙や生物、科学に関する質問を小学生が電話で専門家に聞く、と言ったような内容で、それを聞きながら夜眠りにつくのが、蓮と兄の夏の日常だった。  ふと思い出して、今まですっかり忘れていたということに気づいた。  そんな懐かしさに頭を委ねながら、蓮は体も斜めがけの椅子に委ねる。  プラネタリウム館内のドアが閉まる前の、客がそわそわと支度を始め座るこの時間が、蓮は温かくて好きだった。  真っ白な天井がまぶしい。  よく見ると、天井の中心にある円から壁の下の方まで線が弧を描いている。  ここの線に目を凝らしてじっと線を数えながら始まるのを待つのは、蓮の昔からの癖だった。 「皆さん、おはようございます」  パタン、という扉の閉まる音と館内に響く女性の声が、蓮の心を浮き立たせた。 「今日は海城高校の生徒さんも来てくださっているいうことですが、皆さんプラネタリウムに興味は……」  生徒の笑い声に、女性の声も柔らかくなる。 「なさそうですね。仕方ありません。遊びざかりな高校生の皆さんはもっと行きたいところがあったかもしれないです……が、せっかく来てくださったので、本日はぜひ、ここ、湯川緑地の空を楽しんでいってください――――」  天井のトーンが少しだけ落とされる。  仕切り直すように声のトーンを低くした女性のアナウンスが館内に響く。 「皆さんこんにちは。ようこそ、湯川緑地プラネタリウムへ。これから夏の星空を一緒に見上げていきましょう。今日解説するのは、ここ、湯川緑地プラネタリウム解説員、小林です」  久石譲のOne Summer’s Dayが、蓮の耳にするりと流れ込んでくる。 「日が沈み、夜が訪れると、空にはひときわ明るい星が輝きはじめます。西の空、オレンジ色に光っているのが“宵の明星”――金星です。太陽の光を受けて輝く金星は、私たちの夜の始まりを告げる星でもあります」  そうだ、確か金星は西洋だとヴィーナス。東洋だと太白星と呼ばれていて、ギリシャではアフロディーテなんて名前ももっている。  これらには全て、  「愛、命、美しさ、再生。どの文化でも、金星は、これらの象徴だったんだ。夜明けに現れる金星は新しい命の誕生。夕暮れに沈む金星は日々の終わりの祈り。昔から人々は、金星の光に、はじまりとおわりの意味を重ねたんだよ」  ふとそんな声が頭をよぎる。  その声を聞いたのは遠い昔のようにも思え、昨日のようにも思えた。  気づけばあたりはすっかり暗くなっていて、星々の数が増えていく。  目を凝らして見ていると、あちらこちらから星が浮き出てきて、気づいた時には満天の星空になっていた。 「さて、頭の真上を見上げてみましょう。そこに、夏の星座たちが勢ぞろいしています。夏の夜空といえば一ーやはり"夏の大三角”ですね」  白い線で星が結ばれ、夏の大三角が形を表す。 「ひとつめはこと座のベガ。青白く輝く、夏の夜空で一番明るい星です。ふたつめはわし座のアルタイル。そして、はくちょう座のデネブ。この3つを線で結ぶと、大きな三角形ーー"夏の大三角"が浮かび上がります」  夏の大三角。  蓮が空に浮かぶ大きな三角形を見るのは、これが初めてではなかった。   「蓮、大丈夫か?こんな坂でへこたれてちゃ天文学者なんてなれないぞ。星に対する執念。新しい星を見つけるのはいつだって、これが強い人なんだ」  少し湿った土の上にばら撒かれた木々を踏みしめながら坂道を登る。  周りは木だらけで、空は見えず、手元の懐中電灯で足元を照らすのが精一杯。  蓮は息を切らしながら、「そんなこと言ったって…」と足を上げ続けた。 「空を見上げてごらん」  少し先を歩いていた兄が、蓮の元まで降りてきて軽くしゃがむ。  蓮の肩に手を置いて、自身も上を見上げながら呟く。 「…なんにも見えないけど」 「今は、な」  それだけ呟くと兄は、「ほら、先を行くぞ」と蓮の手を軽く引いた。  1人で戻るにも進むにもできない蓮は、兄に手を引かれながら素直に坂を登り続けるほかなかった。  10分ほど経っただろうか、だんだんと月明かりがさしてきて、少し先の坂を登り切ったところに、開けた場所が見える。 「もう少しだぞ」  嬉しそうな兄の声を右耳で受け取りながら、蓮の心臓は少し高鳴っていた。  坂を登り切ると、目の前の暗闇が嘘のように消えて、無数の星々が入り込んでくる。  兄の胸元まである柵にぐるりと囲われたそこは、蓮たちが登ってきた坂のてっぺんにある広場だった。 「…これ、全部、星?」  空を見つめながら、蓮は空に浮いた声で呟く。 「そうだ。これらは全部、星だ。そしてこれらの全てに、名前があるんだ」  こんなに小さいたくさんの星に、一つ一つの名前がついてるかと思うと、蓮はなんとも不思議でならなかった。 「坂は辛かったか?」  蓮にそう尋ねる兄に、蓮は視線を向ける。  空を眺めていた兄も、蓮に視線を向け微笑んだ。 「辛かったけど、これがあるって思ったら、我慢できる」  その言葉に、兄はその綺麗な目元や鼻をくしゃくしゃにしながら笑った。 「お前はほんとに素直なやつだなぁ」  兄は蓮によくそう言った。  それは、何を考えてるのか分からない、と周りの大人や友人に言われる蓮にとって大好きな言葉だった。 「蓮、見えるか?あれが夏の大三角だ」  兄が指で目立つ星の三つをなぞると、さっきまでは無造作にバラバラだった星が、しっかり繋がれた三角形に見えるのだから、不思議で仕方ない。 「あれがこと座のベガ。で、あれがわし座のアルタイル。それからはくちょう座のデネブ。この3つを線で結ぶと、夏の大三角になるんだ」 「夏の大三角…」 「なんで三角形にしたんだろうな。他の星繋げたら、四角形とかもできるはずなのに」  蓮の気持ちがそのまま言葉に出たのかと思い、びっくりして兄の方を見る。 「色々な考えが出てくる。ピラミッドも三角形だし、なにか関係あるのかな、とか。そういうのを考えるのは面白くないか?」  そう言いながら、星をまっすぐに見つめる兄の横顔を、蓮は思い出す。  その横顔は、星空の中から病室へと変わっていった。  図鑑のページを巡る兄の腕が、細くなっていることに気づいたのは、兄が亡くなる1週間前だった。  お見舞いには、毎日来ているはずなのに。  蓮は自分がずっと兄から目を背けていたことに、その時初めて気づいたのだった。  兄が病気になったのは、兄が高校3年生の時で、その時蓮は小学5年生だった。  ランドセルを揺らしながら家に帰ると、いつもは学校に行ってていないはずの兄の靴が置いてあり、リビングには重い空気が漂っていた。 「蓮、話があるから、手を洗ってきなさい」  母親のいつにない真剣な声に、蓮は自分が何かしてしまったのだろうかと内心焦った。  テストはランドセルの奥底にくしゃくしゃのまま入れてあるはずだし、この前割れた小学校の窓は涼太のせいだし、サッカーボールもバスケットボールもちゃんと閉まっておいたはずだ。  思い当たる節がない、思いながらリビングに向かうと、父親が口を開いた。 「蓮、落ち着いて聞いてくれ。優翔が、……病気に、なったんだ。重い、病気で、余命が……余命があるんだ、一年だ。一年、一年だ……」  蓮の肩に手を置き泣きそうになりながら話す父親の言葉を聞きながら、蓮は、ゆっくりと兄を見た。  優翔?優翔って、誰だ、兄か、兄のことなのか。  誰のことを言っているのかわからなくて、蓮は思わず兄を見つめるが、そこにあるのはいつもと何も変わらない兄の笑顔だった。 「蓮、ひどい顔だぞ、俺は元気だ。一年は365日。8760時間。31536000秒。…秒にまですると、むしろ短く感じるな。蓮は一年で、何センチ身長が伸びたんだ?…要するに、一年は長い。蓮が思っているよりもな」  笑いながらそう答える兄に、何を言えばいいのかわからなくて、自分の口下手さを実感して、それが悔しくて、悲しくて、切なくて、訳がわからなくなった蓮はリビングから駆け出す。 「蓮!!」という母親の声を無視し、ドアを開けると、ちょうど遊ぶ約束をしていた涼太が「え?蓮、どうした?」と不思議そうな顔をした。  が、蓮のあまりにもひどい顔に、涼太の顔つきがふと真剣になる。 「蓮、ほんとにどうした――」「蓮!待ちなさい!!」  涼太の声は追いかけてきた母親の声で塞がれ、蓮は涼太の隣を思い切り駆け抜ける。 「千恵さん、俺が蓮を追いかけるよ」  そんな声が後ろから聞こえて、蓮は思い切り道路を走った。  走って、走って、少し遠い公園に着いた頃には、空も少し赤くなっていた。  公園のブランコに座りながらぼうっと公園の外の街並みを眺めていると、向こうから人が走ってくる気配がする。  その姿が涼太だと気づいた時には、もう、あっという間に公園の中に入ってきていた。 「蓮、どうしたんだよ。千恵さん、心配、してたぜ」  息を切らしながら親指で公園の外を指す涼太に視線をやり、何か話そうとして、話がまとまらず、蓮は視線を地面に戻した。 「蓮、黙っててもわかんねー。言いたいことがあンなら、諦めずに言葉にしろ、ちゃんと。最後まで聞いてやるから」  蓮を見下ろしながら、涼太がそう言う。 「兄ちゃんが、病気、病気で。重くて、治らない、から、一年しか、生きれないって、でも、元気だから心配するなって、兄ちゃん、笑ってて。俺、上手く、何も、上手く何も返せなくて、」  話していくうちに自分の話の内容が現実味を帯びてきて、蓮の足元にはどんどん涙が落ちていく。  今思えば涼太だって、相当驚いたはずだった。  兄は涼太のことを弟のように可愛がっていて、涼太も兄によく懐いていた。  蓮と涼太と兄との3人で遊びに出かけたことだって、何回もある。  けれども涼太は、蓮にゆっくりと話しかけた。 「…上手く返す必要なんてねーだろ。蓮が何を思ってんのかくらい、優翔は分かってるよ。帰ろうぜ、蓮のこと、みんな心配してるからさァ」  視線を上げると、涼太が片頬吊り上げた変な笑顔で笑っていた。  家に帰ると、母親と父親と、兄の3人に一気に抱きしめられ、なぜか涼太もそこに交わり、ぎゅうぎゅうで苦しかったのを覚えている。  兄の体は温かく、しっかりとしていて、蓮はそれにとても安心した。  その日から少しずつ、兄の体は弱くなっていった。  ほんの少しずつだったけれど入院まで割とあっさり進んで、蓮は兄が入院した時のことをあまり覚えていない。 「2人は本当に仲が良いな」  兄が亡くなる1週間前、蓮と涼太はいつもの通り学校帰りにそのまま病院に寄り、兄と話していた。  2人が学校の話をしたり、笑い合ったり、たまに喧嘩したりするのを、兄はいつも楽しそうに見ていた。 「優翔はさァ……死ぬの怖くないの?」  涼太がその日ポツリと呟いたのを、兄は怒りもせず、静かに聞いていた。 「涼太、何かあったのか?」  自分の方が細くて弱々しいのに、兄はいつも2人の心配をする。 「何にも、ないけど。……いや、なくはねーけど、なんとなく」  視線とともに言葉も濁した涼太に、兄は少し笑いながら返した。 「どっちだよ。…怖くないって言ったら、嘘だ。でも、大丈夫なんだ。大丈夫だって、思えるんだ」 「なんで?」 「2人がいるからだよ」  その言葉に、俯いていた蓮は顔を上げる。 「俺がいなくなっても、俺は2人にたくさんのことを伝えたつもりだ。2人がそれを忘れないで生きてくれたら、俺は別に死んだ訳じゃない。重荷を背負わせたい訳じゃないんだ、だけど、俺は2人が忘れないって信じてるから。だから大丈夫だって思える」  その横顔は、あの星空の下で見た横顔と一緒だった。  細くなっていく腕も、小さくなっていく声も、全部見ないようにしていた。  弱くなっていく兄の姿を、見たくなかったからだ。  でも、あの横顔は、決して弱々しい兄ではなかった。  体が弱ろうと、兄自身は弱くなんてなっていなかったのだ。  あの時と何も変わらない、力強くて凛々しい横顔。  兄はいつもかっこよかった。  頭が良くて、優しくて、考えが深くて。  そうだ、と蓮は思う。  兄は、こんな人だったのだ、と。  本当の意味で、強くて、優しくて、暖かい人だったのだ。  蓮は自分の夢の中に出てくるあの木の箱が、少しだけ開いたような気がした。  プラネタリウムから出ると、あとはもう自由時間らしく、女子とは近くのカフェに行くからと分かれることになった。  有眞は村松や他のサッカー部と遊ぶらしく、慌ただしく合流していった。  取り残された蓮と涼太で、湯川緑地に出る。  館内から出ると、木々や草の生えた広場が広がっていて、そこに一つ、ぽつんと、動かない電車が置いてある。  もう使わなくなった昔の機関車を、緑地に展示しているのだ。  中は当時のまま残されていて、向かい合わせの席や広めの窓がいかにも昔、と言った感じを催させる。  蓮と涼太は懐かしさから、なんとなくその電車に向かうことにした。  座席はワインレッドで、小さい頃みた景色と何も変わらない景色に懐かしくなる。  夏はこの車内はとにかく蒸し暑くて、今もジメジメとした暑さが蓮の汗を滲ませた。  向かい合うように座った蓮と涼太のうち、先に口を切ったのは涼太だった。  窓枠に肘をかけながら外を見つめたまま、口を開く。 「懐かしーな、ここでかくれんぼして、熱中症ンなって千恵さんに怒られたっけ」  蓮の母親である千恵は、容赦なく涼太の頭にもゲンコツを喰らわした。 「おっかねーよなァ、あの人。俺にも容赦しねーし」  そう言いながら笑う涼太に、蓮は少し考えてから、口を開いた。 「……さっきの話だけど」 「さっきィ?」 「臭い物に蓋をする、って話」 「ああ、あれ」 「俺、蓋、取ったよ、ちゃんと」  その言葉に、涼太の視線は窓外から蓮に移った。 「…どう?臭い物だった?」  涼太が片頬吊り上げながら尋ねてくる。 「そんなこともなかったな、案外。帰ったらまず、棚を元に戻そうと思う」 「図鑑とか?模型も?まだ取ってあんの」 「…兄さんが死んでからさ、俺、そんなの信じらんなくて。兄さんにもらったものとか、全部奥に閉まったんだよな。そンで、何も思い出さないようにしてたんだ」  一年間は、入院していた時間が長くて、蓮は自分自身の兄への印象は、入院していた時の兄だと決めつけていた。  そんなことはなかったのに。  兄の余命の一年間よりも前にだって、兄とたくさん遊んだじゃないか。話したじゃないか。時間を、ともに過ごしたじゃないか。  その時間すら、思い出さないようにしていた。  兄は蓮たちに忘れてほしくないと言っていたのに。  だから死を受け入れられるんだと言っていたのに。 「帰ったら、全部、元に戻すよ。兄さんに、悪いことをした、あの人、俺たちに覚えていてほしいって、言ってたのに」  気づいたら蓮は、話しながら泣き出していた。  高校生にもなって、しゃくりあげながら泣いていた。 「…お前、初めてだろ。優翔が死んでから、泣いたの」  顔を上げると、涼太が安心したような笑顔を、あの変な笑顔に浮かべて笑っていた。  昔から、涼太には敵わないのだ。 「ただいま」  家に帰ると、母親がいつものように声をかけてくる。  今日の夕飯はグラタンらしい。  蓮は自分の部屋に行き、襖から段ボールを取り出した。  それを一つ一つ開けて、中に入っている図鑑や模型を取り出す。  元の位置などあまり覚えていなかったので、蓮は適当にそれらを棚や机に並べた。 「ちょっと蓮、手はちゃんと洗った?そろそろご飯よ」  階段の下から母親の声が聞こえ、蓮は「今行くよ」と返事をする。  その日の夜、蓮はいつもの夢を見た。  庭園に置いてある木箱は、蓮が手をかけるとすんなり開いた。  最初からポールや金槌を使う必要などなかったのだ。  中には、何も入っていなかった。  拍子抜けだ。  それでも蓮は、すっきりとした気持ちで目覚めた。  怖がる必要はないのだ、と蓮は思う。  箱の中身がなんだとしても、思い出したくないことがあったとしても、器量なんかなくたって、案外大丈夫なものなのだ。  蓋を開けてみよう。  まずはやってみよう。  石橋なんて叩かなくていい。 「いってきます、兄さん」  机の上に飾られた、兄と蓮と涼太の3人の写真を見ながら、蓮は呟く。  過去と決別はしない。過去と未来を繋げていく、  自分たちは今、その中間にいるのだ。  蓮はドアを開ける。  行ってきます。  と、もう一度、心の中で呟いた。                                                

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短編②松浦蓮とプラネタリウム

短編①糸電話

空はとても暗かった。地球は、青かった。 「…ェー、こちら2組。聞こえますか?繰り返します。こちら2組」 「き……す…ざ、…る?……ィ、……ろ」  ところどころ聞こえてくる短音に、蓮は顔を顰めた。 「あ?なんだこれ、なんて言ってんだよ」   紙コップをしっかりと耳にあて、目を瞑りもう一度耳をすませて見せたが、何も聞こえない。 「貸してみ」  隣でしゃがんでいた涼太が蓮の手から紙コップを取り、自分の耳に当てた。  真剣な顔で目を瞑るその表情は、いかにもこれからの地球を左右するような、重要な何かについて考えているような顔だった。 「キスしてえ、早く来い?」  紙コップに口をつけ返す涼太の頭を、蓮は軽く小突く。 「んなわけねえだろ」 「これ、ダメだわ。失敗。聞こえねーもん」  紙コップと、繋がれた糸をプラプラいじりながら、涼太は溜息をついた。  涼太の手元の紙コップから繋がれた糸は、窓の外を通過し、隣のクラス―――3組の窓の中に着地しているはずだ。  蓮は何がおかしいのだろうかと思い、窓の外を確認するために、窓淵に身を乗り出す。  3組まで続く糸を目で追っていると、少し先の糸に、黒い何かがぶら下がってあった。  と、同時に、涼太が「ん?」と声を漏らす。 「なんかこの糸重たいな」  ぷらぷらと糸を揺らしながら、涼太も窓枠から身を乗り出した。 「おいなんかぶら下がってんじゃねえか!」  涼太はそう言うと、右側の窓淵に移り、身を乗り出して黒い何かに手を伸ばす。  一つだけかと思っていたのだが、その先にもいくつか続いてたらしい。  涼太はポイポイと糸にかかったなにかを教室に投げ入れ、怪訝な顔をした。 「なんだこれ」  蓮もかけ寄り、教室に投げ込まれた布を拾う。  ピラリと折り畳まれた長方形が正方形に近い形になる。 「パンツ?」 「靴下?」  2人で顔を見合わせ首を傾げていると、「おいまだ乾いてねーだろ」と後ろから声が聞こえた。 「サッカー部の洗濯物干す場所無くなったから、干してたんだよ」  振り向くと、サッカー部の鮎川有眞がたっていた。 「…じゃこれ、お前らのなわけ?」  パンツと靴下を指差しながら、蓮は尋ねる。 「うん。マネージャーが昼休みに洗濯してくれたから、干しにきた」 「別にこの糸物干し竿じゃねーのよ」  涼太が突っ込むと、有眞はキョトンとした顔になる。 「じゃ、なんだよこれ」 「糸電話だよ。3組と繋がってるから、これでいつでも細木とか村松とかと話せるだろ」 「スマホ使えば?」  黙ってしまった涼太の代わりに、蓮が口を開く。 「とにかくこれは物干し竿じゃねーの。洗濯物は自分らで引き取ってくれ」  まとめて拾った洗濯物を有眞に押し付けると、有眞は受け取りながら顔を顰めた。 「紛らわしいことすんなよな。あーあ、村松にも返さねーと…」  村松はたしか、この糸電話をつくる話をしていた時のファミレスに、いたはずだ。  と、思った蓮と涼太は呆れてしまう。 「あいつ何やってんだ」 「これが糸電話なの知ってんだろあいつ」  有眞が村松に洗濯物を返そうと歩き始めたので、蓮と涼太もついて行くことにした。  なぜ糸電話が通じなかったのか、細木に教えなくてはと思ったからだ。  村松はクラスの後ろの方で他の男子と戯れていたためすぐ見つかった。 「村松ー。これ、自分らで乾かせってさ」  すぐに村松が駆け寄ってくる。 「は?あの糸じゃダメなの?」  蓮と涼太は、そんな村松の頭を小突いた。 「あれは俺らと細木を繋げる、いわば生命線なんだよ!」 「スマホ使えば?」  黙ってしまった涼太に代わり、またもや蓮は口を開く。 「話した時村松もいただろバカ。つーか、細木は?」 「あそこ」  指をさした先には、窓際で手持ち無沙汰に紙コップをぶらぶらと揺らしている細木が見えた。  佇まいが落ち着いているので、紙コップを揺らしているだけなのに、なんだか趣を感じる。 「ケンケンなにやってんの?」  気づいた時には女子が群がっていて、細木は笑顔で「糸電話チャレンジ」と答えていた。 「えー、なにそれー」  ケスクスと笑う女子たちの中にいる細木を、蓮は呼び出しに行く。 「村松と鮎川のせいだ。アイツら、サッカー部の洗濯物を糸にぶら下げてやがった」  その言葉に、細木が「…は?」と目をぱちぱちさせる。 「え、あの時村松いたよな?」 「アイツはバカなんだ。どうしようもねーくらい」  参ったという顔で返事をする。  細木も、その一言で納得したらしい。 「おい村松鮎川ァ、お前らサッカー部の汚ねー服見せびらかしてんじゃねーぞ」  細木はそう言いながらガタリと立ち上がり、女子の間をすり抜けて笑顔で村松と鮎川の元へ向かう。 「汚ねーとはなんだ。洗濯してんだよ」 「そもそも糸は誰のモンでもねーだろ!」 「いや明らかに俺らのものでは有るだろ」  言い合いを始める三人を他所目に、涼太がポツリとつぶやいた。 「マネージャーって大変だな」 「正味サッカー部ってこいつらみたいなやつらの塊だよな」  3組入り口でやり取りをしていた蓮の視界に、こちらへ歩いてくる水島の姿が見えた。  一緒に昼を過ごした彼女を1組まで送ったあと、自身のクラスである3組に戻ってきている、と言ったような状況だと、蓮は予想した。 「お前ら何喧嘩してんの?」  そしてその先の予想通り、水島は蓮たちに話しかけにきた。 「あっちに聞け」  3人組に指をさすと、水島は同じことを3人に聞いた。 「洗濯が…」 「糸は…」 「サナさんが…」  一気に水島に話し始めた3人に、水島が蓮たちの方を見てくる。 「どういうこと?」 「さあ?」  2人でわからない顔をする。  本当にわからなかった。  どうやら3人でわちゃわちゃ話しているうちに、話がよくわからない方向に進んだらしい。  授業開始5分前のチャイムがなる。  蓮と涼太、それから水島は、顔を見合わせた。  いまだに言い合いを続ける3人を他所目に、こちらは解散とする。  あいつらは、いつまで言い合い続けるのだろう。  授業開始のチャイムと同時にドアの開く音共に鮎川が息を切らして戻ってきた。 「…おう、どうした鮎川」  チョークを手にして書き始めようとしていた科学の先生が、鮎川の方を見る。  鮎川は真剣な顔をして、口を開いた。 「水蒸気が…」  話は一体、どんな方向に進んだんだ。  涼太の吹き出す声が聞こえる。 「水蒸気?」 「今日の湿度的に、あの量の洗濯物は2時間後には乾くはずで…」 「………は?」  吹き出していた涼太の声は、完全なる笑い声に変わっていた。  蓮はもはや、そんな鮎川に呆れてしまう。  チラリと窓際に視線をやると、先ほどの糸電話が置いたままだった。  蓮は糸電話の紙コップに口を近づけ、キラキラと光る日差しの中に包まれた空を眺めながら、つぶやいた。 「空はとても青かった。俺らも、青かった」          

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短編①糸電話