よはなば
2 件の小説おきて
あの日、母は神ではなくなった。 酷く寒い、骨まで染み込んでくるほど寒い日のこと。 私と彼は、寒くて寒くて、暖まれる場所を探していた。 祖母の部屋に入り込んだ。 バレやしない。祖母はその時間帯はお参りをしているから。 祖母は病を患っていて、ベッドは角度が変えられるものだった。 その頃、私たちはまだ小さく冒険の毎日で、 少し立てられたベッドの隙間にお宝があるのではないかと、 バレるかな、大丈だよと言い合って色々と探した。 小さな手帳を見つけた。 ただのカレンダーだったが、文字を覚えたての私たちは、 こともあろうことか、カレンダーに付け加えられている祖母の日記を読み始めていた。 初めは私が読んだ。 わたしの方が二ヶ月だけ年上だったのだ。 「ーーのチックが止まらない。あの子は周りを見過ぎている。優しすぎる」 「〇〇と私の墓は同じにしてもらおうか。言うことを聞かないあの子を怒鳴りつけてしまった。本当にごめんなさいね。こんなおばあちゃんで」 大人の心の内を知った。 彼は早く読ませて、と無邪気にこちらに手を差し出す。 彼のチックは止まっていなかった。 どうしよう。これを彼に読ませていいものか。 分からなかった。私は分からなかった。 咄嗟にその手帳を閉め、適当に指を挟んで彼に渡した。 開いた跡がよく残っていて、きっと折り目だったのだろう。 私は考えるべきだった。なぜ、よく開かれていたのか。 気づいたときには、彼がポタポタと涙を溢していた。 「おばあちゃん、死んじゃうの?」 見せられたページの冒頭は、 「遺書」 そう綴られていた。 「私の財産は平等に分かち合いなさい」と。 私と彼は恐怖に縛られた。 あぁ、見てはいけないモノだ。 いけなかったんだ。 「私たちは罪を、犯した」 転げるようにその部屋を出た。 早く、早く、誰かに伝えなきゃ。 悪いことをしちゃったんだ。 叱られたくないけれど、これはイケナイ!!! だから、私は神様に告白した。 「おばあちゃんの遺書を見てしまいました」、と。 母は眉を顰めて、「人のモノを勝手に読んではいけません」 そう言った。 なぜ、祖母が遺書を書くのか、と聞いた。 それほど具合が悪いのか、と。 大人になったら、いつ死ぬか分からないから書くものなの。 母はこちらも見ずに私を諭した。 母は伝道者だった。 「ーちゃんね、見ちゃったの?」 祖母に次の日に聞かれた。とても困ったような顔をして。 私は頷いた。 祖母に教えられたのだ。 「嘘をついてはいけません」 人に信じてもらえなくなるから。 私は祖母に信じてほしかった。 「あの子も。あの子も見たのーー」 きっと日記のことを言っているのだ、と思った。 私は首を、横に振った。 「見てない」 見ていないよ。 大人はもっとずっと、不安定なゆらゆら橋にいた。 母は私の罪を祖母に話した。 ーー神は人の罪を口外したりしない。 その御力を持って、裁かれるであろう。 ガラガラ、と何かが崩れて母の背が見えなくなる。 ねぇ、お母さん。話さないって約束したじゃない。 「人の心の内は話すものじゃないの」 私。私、ちゃんと自分で言うつもりって言ったのよ。 なんで、なんで。 なんでよお母さん。 私の心は貴方に属しますか。 私を心配してくれる。 傷ついたら、抱きしめてくれる。 でも、その心はお母さんの掌の上にのって、 抱擁されているの。 お母さん。お母さんは、神様じゃないのね。 ごめんなさい。 ふと、足に触れるあの時の畳の冷たさを思い出す。 家族にも、心の内があること。 話したくないということ。 その掟があるとということ。 神と引き換えに私は秩序を知った。
彫刻
目を覚ませば、いつもその音があった。ザッ、ザッとヤスリで削り、何かを彫る音がする。アパートの一室には、不釣り合いな木の香りと、とても神聖な雰囲気がある。まだ朝の五時で、窓から少しずつ光が漏れてくるころ。私を起こさないようにと照明をつけず、音を抑えるように彫っている。 ほんの少しの光を手元にあてて、ずっと何かを削る男の背中。それを見るのが好きで、そこだけは、私の侵されない王国。その王はあのひと。国土なんて持っていない、王さま。大好きなあのひと。身動きひとつでもすれば、「……起こしたか」と止めてしまう儀式。動いてはいけない。見つめるだけ。そうすれば、もっと長く、彼がずっと彫る理由を見つけられるはず。 そうして、見つめているうちに時々妙な気持ちになる。私が裸で、彼に彫られている夢だ。大きくゴツゴツした掌の上で、優しく、撫でるように私が削られていく。少しの欲も、悲しみも、全て。喜びだけを残して、美しく彫っていく。 その彫り方が、ふと夜に目が覚めたとき、彼が私を自身の胸の中におさめて、触れていたその仕草に似ていた。その儚い愛おしさで、私は狂ってしまいそうになる。私はきっと、彼に確かめてほしかった。対象があるわけではない。けれど、確かめてほしい焦燥にかられて、どうしようもなくなるときがあるのだ。服を脱げば、私の裸を彼に示せる。けれど、私の心臓は見せられない。心を伝える術は、言葉でも表情でもなんでもある。けれど、近似値であって私の心そのものじゃない。歯痒いのだ。私は歯痒い。 あのひとに何をしたいのか、してほしいのか。 漠然としか分からない。 「ガユール」 美しい男は無造作に私の名を呼ぶ。 起きているだろう、と。 背をこちらに向けたまま、動かす手は止めず、静寂を保って。彼は「わざと」私を起こすような真似をした。それがどれほどタブーに近いかくらい彼も分かっているはずなのに。 「なに」 うまく声が出なくて、掠れた。 「俺は今日、ここを出ていく」 手を止めて、振り返ったそのひとの目はとても強く、悲しくて泣いてしまうほど強かった。澄んだブルーは、日本の「凪」というものを思い出させる。「セトウチ」と友人が言っていた気がする。 「オーケー。荷物は揃ってる?」 平常心を。平常心を保たないと、王は王冠を投げ捨てしまう。 「ない。そんなものは」 捨てた、と言う彼の言葉に、ひどく心をかき乱された。 「相変わらず」 そう言えば俯いて布団の皺を伸ばすのも許してくれると思っていた。だから、彼が微笑うなんて予想もできなかった。ぐっと口角を上げて、彼はしっかりと「微笑っている」。 「どうして……」 「お前が聞きたいのは、どっちだ」 誤魔化すことも、何一つ赦してはくれない。気がつけば、もう私の前に立っていた。 「どうして、微笑っているの」 見上げた先に、美しい微笑みがあった。あらゆるギリシャ像よりも精巧な美しい彫り。 「それは、悲しいからだ。ガユール」 ひどく、人間味のあるギリシャ像。 「悲しくて堪らないんだ」 もう一度確かめるように彼は言い募る。 「そう…。貴方は、悲しいのね」 だから、泣いているのね。 彼をかがませて、頬に触れる。 私の指先が濡れたことに、彼は少し目を開け、 綻ぶように笑った。 「嬉しいのね」 嬉しいの。 誰がーーーーー。私が。貴方が。 「貴方に幸在らんことを」 小さな想いを秘めて。 眉を下げた貴方をひっしと掴んで、そして離した。 きっと、彼は私を彫ってくれる。 私の顔も、胸も、腹も、足も全て。 心だけ、彼の指先で彫って。 そのまま、あなたの胸の中におさまる形で生きていく。