とまとまと
3 件の小説言縛(ことばく)
“現在” ぼくがまた呼ばれた。 トモの部屋は、いつも通り散らかっている。窓際に積まれた段ボール箱。テーブルの上には冷めたコーヒーカップ。壁に立てかけられたアコースティックギター。棚の上の一眼レフカメラ。ソファの隅に丸められたヨガマット。どれも使われなくなって、どのくらい経つのだろう。ぼくにはよくわからない。時間というものが、ぼくにはまだよくわからない。 夕日が窓から差し込んで、テーブルの上の二枚の書類を照らしている。 一枚は、現在の会社からの打診。管理職への昇進。留まることを選ぶ道。 もう一枚は、小さな映像制作会社からのオファー。新しい場所。新しい挑戦。 トモは椅子に座って、じっとその二枚を見つめている。 トモは三十二歳になった。ぼくが生まれたとき、トモは二十歳だった。だから十二年。十二年、ぼくはずっとトモの中にいる。 「留まりたい」 トモが小さく呟いた。 「初めて、本当に留まりたいと思ってる」 ぼくは知っている。トモは今の会社が好きだ。四社目。これまでで一番長く勤めている。二年と八ヶ月。 でも。 「でも、それって......」 トモは首を振った。 「自分らしくないんじゃないか?」 ぼくが呼ばれる。 トモの顔が歪む。 窓の外では、街灯が灯り始めた。部屋はどんどん暗くなる。でも、トモは電気をつけない。 「サキは......」 トモが呟く。久しぶりに聞く名前。サキ。ぼくを生んだ人。 「サキは、なんて言うかな」 トモの目から、涙が一粒落ちた。 不思議だな、とぼくは思う。トモはまた泣いている。最近、よく泣く。ぼくが生まれたあの日、トモは笑っていたのに。 段ボール箱が、薄暗い部屋の隅で静かに積まれている。あれは引っ越しの準備なのか、前回の引っ越しの荷物なのか。ぼくにはわからない。でも、いつもある。トモの部屋には、いつも段ボール箱がある。 「どうして、こうなっちゃったんだろう」 トモが呟く。 ぼくは答えられない。ぼくは何も変わっていない。あの日、サキの口から生まれたとき、ぼくはこうだった。 ただこれだけ。 でも、トモの中で、ぼくは重くなった。どんどん、どんどん重く。 どうしてだろう? ぼくが最初にトモに出会ったのは、こんな風じゃなかった。あの日は、もっと......ああ、思い出した。あれは冬の日だった。笑い声があふれていた。暖かいカフェで。クリスマスのライトがキラキラ光っていて。 そう、あれは冬の日だった。 “大学2年・冬” ぼくが生まれたのは、笑い声の中だった。 冬の午後、カフェの窓際の席で。サキは笑っていた。トモも笑っていた。ぼくは、その笑顔の間から生まれた。 十二月。外はもう暗くて、街灯が灯り始めていた。でも店内は暖かくて、学生たちの話し声でいっぱいだった。窓にはクリスマスのライトが飾ってあって、キラキラ光っていた。 サキは窓際の席に座っていた。黒いタートルネックを着て、グレーのコートを椅子の背にかけていた。黒縁メガネの奥の目は真っ直ぐで、両手でコーヒーカップを丁寧に持っていた。背が高くて、ショートカットで、きちんとしていた。 トモはその向かいに座っていた。古着のデニムジャケット。バンドのTシャツ。ボロボロのスニーカー。髪は肩まで伸びていて、カップを片手で持って、もう片方の手で何かを描くみたいに空中で動かしていた。小柄で、華奢で、キラキラしていた。 二人は中学の美術部で出会った。高校は別々だったけれど、大学で再会した。サキはデザイン学科。トモは映像学科。また一緒に、美術を学んでいる。 「中学のときのこと、覚えてる?」トモが笑いながら言った。「サキ、いつも絵の具の蓋をきっちり閉めて、筆も綺麗に洗って」 「当たり前じゃない」サキも笑った。「トモは散らかし放題だったよね。先生に怒られてたし」 「懐かしいなあ」 二人は楽しそうだった。久しぶりに会えた友達。昔話をする時間。暖かいカフェ。冬の午後。 「そういえば」トモが目を輝かせて言った。「実は、スケートボード買ったんだ」 「え、スケートボード?」 「映像作品に使おうと思って。動きのある被写体が欲しくて」トモの声は弾んでいた。「まだ全然乗れないけど、練習してる。カメラ持って、友達に滑ってもらって撮影するの。すごく面白い画が撮れそうなんだ」 「いいね!」サキは微笑んだ。「トモって本当に色々やるよね」 トモの顔に、ほんの少しだけ影が差した。でもすぐに笑顔が戻る。 「でも」トモが自分から笑って言った。「これも続かないかもしれないけどね。いつものことだし」 軽い自嘲。でもまだ明るい。 サキは笑った。親しみを込めて。 「まあ、あなたらしいよね。飽き性だから」 その瞬間、ぼくは生まれた。 笑顔の中で。暖かいカフェで。クリスマスのライトの下で。 ぼくは、サキの口から出て、空気を渡って、トモの耳に届いた。 トモの表情が、ほんの一瞬だけ固まった。 笑顔が消えて、目が少しだけ見開かれて。 それから、すぐに笑顔が戻った。 「そうだね」トモは言った。「私、飽き性だもんね」 笑って。 サキは何も気づかなかった。 「でも、それもトモの魅力だよ。色んなことに興味を持てるって、才能だと思う」 「ありがとう」 会話は続いた。別の話題に移った。授業のこと、教授のこと、冬休みの予定。二人は笑い合った。楽しそうに。 でも、ぼくはトモの中に入っていた。 耳から入って、心に届いて。そこに留まった。 最初は小さくて、軽かった。羽みたいに。 トモは、カップを両手で包んだ。少しだけ力を込めて。サキの話を聞きながら、頷きながら、笑いながら。 でも、その手は少しだけ震えていた。 窓の外は寒そうだった。人々はコートを着て、急いで歩いていた。 店内は暖かかった。でも、その暖かさは一時的なもの。やがて出ていかなければならない。 クリスマスのライトがキラキラ光っていた。綺麗だった。でも、どこか儚かった。 ぼくはトモの中で、静かに息をしていた。 サキの口から生まれて、トモの心に届いて。 笑顔の中で生まれる言葉は、きっと幸せな言葉だ。ぼくはそう思った。 サキは笑っていた。トモも笑っていた。 だから、ぼくはいい言葉なんだ。きっと。 それから、カフェを出るとき、トモは少しだけ振り返った。 窓際の席。二つのコーヒーカップ。キラキラしたライト。 そして、ぼくはトモの中に留まった。 サキの口から出て、トモの耳に届いて、それで終わりだと思っていた。 でも、ぼくは留まった。 なぜかはわからない。 ただ、トモがぼくを呼び続けたから。 何かを始めるとき。 何かをやめるとき。 何かに迷うとき。 それから、ずっと。 ぼくはトモの中で、大きくなった。どんどん重くなった。 どうしてだろう?ぼくは何も変わっていないのに。 羽みたいに軽かったぼくが、石みたいに重くなった。 でも、それがわかったのは、もっと後のことだった。 あの冬の日、カフェの窓際で。 ぼくはただ、生まれたばかりだった。 笑い声の中で。 暖かい場所で。 クリスマスのライトの下で。 何も知らずに。 “27歳” それから、どのくらい経ったんだろう。 ぼくには時間がよくわからない。でも、トモはぼくを何度も呼んだ。 新しい仕事を始めるとき。 その仕事をやめるとき。 新しい趣味を始めるとき。 その趣味に飽きたとき。 そのたびに、ぼくは呼ばれた。 そして、ぼくは少しずつ重くなった。 ああ、あの時だ。 あの時、ぼくは初めて、自分が重いものになったと気づいた。 それは、冬が終わって春が来た夜のことだった。 --- 恋人のアパートのリビング。トモの部屋とは違って、きちんと片付いていた。テーブルの上には二人分の食器。一緒に夕食を食べた後。 ソファに並んで座る二人。窓の外には夜景が広がっている。 「ねえ」恋人が言った。嬉しそうに、でも少し緊張しながら。「ちょっと話があるんだけど」 トモは相手を見た。 「一緒に住まないかな?」 恋人の目は真剣だった。期待に満ちていた。 「もう一年半だし、そろそろいいかなって思って」 トモの顔に笑顔が浮かんだ。 「嬉しい」 でも、その笑顔はすぐに消えた。 トモは笑っていた。でも、すぐに笑わなくなった。 トモの手が、膝の上で握りしめられた。 「......どうかした?」恋人が心配そうに覗き込む。 「ううん」トモは首を振った。「ただ......」 沈黙。 テレビの音だけが流れていた。 トモの唇が震えた。何かを言おうとして、言えなくて。 「もう少し」トモが小さな声で言った。「考えさせて」 恋人の表情が変わった。驚き。戸惑い。 「え?時間がいるの?」 トモは目を伏せた。 「嫌なの?それとも、まだ早いと思う?」 恋人の声に責める響きはなかった。ただ、理解しようとしていた。 「嫌じゃない」トモは慌てて顔を上げた。「本当に」 「じゃあ......」 「ただ、急に言われて」トモの視線が泳ぐ。「ちょっとだけ、時間が欲しい」 恋人は静かに頷いた。 それから、二人は黙ってテレビを見た。 テレビの光だけが、二人の顔を青白く照らしていた。 窓の外の夜景。きらきら光る街。 ソファの端と端。 少しだけ、距離ができていた。 --- その夜、トモは自分の部屋に戻った。 ベッドに座り込む。 携帯を手に取った。また置いた。また手に取った。また置いた。 立ち上がって、鏡を見た。 映っているのは、疲れた顔。 トモは鏡の中の自分に向かって、小さく呟いた。 「一緒に住みたい」 鏡の中の自分は答えない。 「本当は、ずっと一緒にいたい」 トモの顔が歪む。 「でも......でも、それって」 目を閉じる。 ぼくが、そこにいた。 『飽き性だから』 『あなたらしいよね』 「らしく、ない」 トモが呟く。 「飽き性の私が、同じ場所に留まるなんて」 膝を抱える。 「自分らしくない選択を、していいの?」 声が震える。 「変化し続けるのが、私なのに」 「新しいことを始めるのが、私なのに」 トモは顔を膝に埋めた。 「でも......」 小さな声。 「留まりたい」 ぼくは、トモの中で大きく響いていた。 トモは、ぼくのことを何度も何度も思い出していた。 なぜだろう?ぼくは何も言っていないのに。 でも、トモの中で、ぼくはどんどん大きくなっていった。 トモが選ぼうとするたび。 トモが迷うたび。 ぼくは呼ばれた。 そして、重くなった。 --- 二週間が経った。 カフェの窓際の席。トモと恋人。 「ごめん」トモが言った。「やっぱり、無理だと思う」 恋人は驚いた顔をした。 「同棲が?それとも......」 「全部」 トモは目を伏せた。 「私、やっぱり......留まれない」 「留まれない?」 「飽き性だから」トモの声が小さくなる。「変化し続けるのが、私だから」 恋人は首を振った。 「そんなの、誰が決めたの?」 「私が」トモは答えた。「私が、そういう人間だから」 「でも、君は一年半、ここにいたじゃない」 「それが......」トモの手が震える。「それが、もう自分らしくないんじゃないかって」 恋人の目が見開かれた。 「自分らしくない?一緒にいることが?」 トモは答えられなかった。 恋人は静かに立ち上がった。 悲しそうに、でも怒らずに。 「じゃあね」 去っていく背中。 トモは一人、席に残された。 窓の外を見た。春の日差し。通り過ぎる人々。 トモの目から、涙が一筋落ちた。 声は出さなかった。 ただ、静かに泣いていた。 トモは泣いていた。 ぼくにはわからなかった。 なぜ? トモは自分で選んだのに。 でも、トモはこんなに悲しそうだった。 ぼくは何もしていない。 ただ、そこにいただけ。 トモが呼ぶから、そこにいただけなのに。 どうして、トモは泣いているんだろう? ぼくは、とても重くなった。 石みたいに。 鉛みたいに。 でも、それが何を意味するのか、まだわからなかった。 --- それから、もっと時間が経った。 トモは何度も仕事を変えた。 何度も新しいことを始めた。 何度も、やめた。 ぼくは、そのたびに呼ばれた。 そして、もっともっと重くなった。 トモの部屋には、いつも段ボール箱があった。 引っ越すために。 また引っ越すために。 恋人ができても、長くは続かなかった。 友達との約束も、途中で変更した。 習い事も、すぐにやめた。 「飽き性だから」 トモはいつもそう言った。 笑いながら。 でも、その笑顔は、だんだん疲れていった。 そして、今。 十二年が経って。 トモはまた、ぼくを呼んでいる。 夕暮れの部屋で。 二枚の書類の前で。 冷めたコーヒーカップの横で。 ぼくは、もう羽みたいに軽くない。 重い。とても重い。 でも、トモはぼくを手放せない。 なぜだろう? ぼくにはわからない。 ただ、トモが呼び続けるから。 ぼくはそこにいる。 ずっと。 “選択の瞬間” 部屋はすっかり暗くなっていた。夕日はもう沈んで、窓の外には街灯の光だけが見える。トモは、まだ電気をつけていない。 二枚の書類は、薄暗闇の中でほとんど見えない。 でも、トモはまだ見つめている。 「十年間、ずっとこうだった」 トモが呟く。 「新しい会社。新しい場所。新しい人」 「変わり続けることが、自分だって思ってた」 トモの手が、テーブルの上で握りしめられる。 「それが自分らしいって」 沈黙。 冷めたコーヒーカップが、テーブルの隅で忘れられている。 「でも......疲れた」 トモの声が震える。 「本当は、留まりたかった」 「あの人とも。あの仕事とも。あの場所とも」 「でも、留まれなかった」 ぼくが呼ばれる。 「飽き性だから」 「自分らしくないから」 トモは二枚の書類を交互に見る。 「でも、今は」 長い沈黙。 「何が、本当に自分らしいんだろう」 「変化し続けることが?」 「それとも......」 トモはスマホを手に取った。 SNSを開く。 スクロールする。 サキのアカウント。 最新の投稿。新しいプロジェクトの発表。デザイン事務所の仕事。充実した笑顔の写真。 トモは画面を見つめる。 「サキは......変わらない」 「ずっと同じ道を歩いてる」 「ブレない」 指が画面の上で止まる。 「羨ましい」 小さく呟く。 「でも、サキは私のこと、どう思ってるんだろう」 「あの時の言葉、覚えてるのかな」 スマホを置く。 トモは深く息を吸った。 「もう、いいかな」 立ち上がる。 電気をつける。 部屋が、急に明るくなった。 段ボール箱。ギター。カメラ。ヨガマット。 始めたけど続かなかったものたちが、光の中で浮かび上がる。 トモは二枚の書類の前に立つ。 そして、ゆっくりと、一枚の書類に手を伸ばした。 ぼくはトモの中で、今もとても重い。 でも、今夜は、何かが違う。 トモは迷っている。いつも通り。 でも、いつもと違う迷い方をしている。 ぼくにはわからない。 トモが何を考えているのか。 トモが何を選ぼうとしているのか。 ぼくはずっとトモと一緒だった。 十二年間。 でも、今、トモの心の全部はわからない。 言葉には、人の心の全部はわからないから。 トモは、サキのことを思い出していた。 ぼくを生んだ人。 サキは今、どこにいるんだろう。 何をしているんだろう。 ぼくを覚えているのかな。 ぼくにはわからない。 ぼくはトモの中にいるから。 サキのことは、知らない。 トモが書類を手に取る。 でも、ぼくにはわからない。 トモが何を選んだのか。 ぼくにわかるのは、ただ一つ。 トモが何を選んでも、ぼくはここにいる。 これからも、ずっと。 でも、ぼくが知らないことがある。 サキのことだ。 ぼくはサキから生まれたのに、サキのことを知らない。 サキは今、何をしているんだろう。 ぼくのことを、覚えているのかな。 “サキの現在” サキ。 ぼくを生んだ人。 ぼくはサキのことを知らない。 でも...... 同じ夜、サキもどこかにいたはずだ。 --- デザイン事務所。夜遅く。 サキは一人、デスクに座っている。 整理整頓された机。資料がきちんと並んでいる。黒縁メガネは、あの頃と同じ。髪は少し短くなった。 新しいプロジェクトが承認された。大きな仕事。 同僚たちは先に帰った。「お疲れ様、サキさん」と声をかけて。 サキは微笑んで答えた。「ありがとう」 今、オフィスには一人。 サキはパソコンの画面を見る。 デザインのファイル。完成したプロジェクト。 きれいに整理されたフォルダ。 計画通り。予定通り。 すべてが、完璧。 サキは椅子の背にもたれた。 窓の外を見る。 都会の夜景。高層ビルの光。 きらきらしている。 サキはスマホを取り出す。 SNSを開く。 自分の投稿。プロジェクトの発表。 いいね、がたくさんついている。 コメントも。「おめでとう」「すごい」「さすが」 サキは小さく笑う。 そして、ふと、スクロールする。 自分のアカウント。過去の投稿。 ずっと遡る。 大学時代の写真。 自分と、もう一人。 トモ。 二人でカフェにいる写真。笑顔。冬の日。 「懐かしい」 サキは呟く。 写真をじっと見る。 「トモ、元気にしてるかな」 画面を見つめる。 「あの子、色々なことに挑戦してて、面白かった」 指が写真の上で止まる。 「今も、何か新しいことやってるのかな」 微笑む。 「また会いたいな。でも......」 スマホを閉じる。 「忙しいし。向こうも忙しいだろうし」 サキは立ち上がる。 オフィスを出る準備。 コートを着る。バッグを持つ。 オフィスの照明を消す。 暗くなる。 窓の外の夜景だけが、光っている。 サキは一人、エレベーターを待つ。 静かなビル。 「これでよかったんだよね」 小さく呟く。 誰にともなく。 エレベーターが来る。 サキは乗り込む。 扉が閉まる。 --- ぼくにはわからない。 サキが何を考えていたのか。 サキが何を感じていたのか。 サキは、ぼくのことを覚えているのかな。 あの冬の日、カフェで。 サキは、あの言葉を覚えているのかな。 それとも、もう忘れてしまったのかな。 ぼくにはわからない。 ぼくはトモの中にいるから。 サキの中には、いない。 でも、それでいいのかもしれない。 ぼくはトモの中で生きている。 それだけが、ぼくの世界だから。 サキがぼくを覚えているかどうか。 それは、ぼくにはわからない。 サキの心の中は、見えないから。 でも、トモは覚えている。 トモが覚えている限り、ぼくは消えない。 そして、ぼくは今も、トモの中にいる。 トモがどんな選択をしても。 トモがどこに行っても。 ぼくは、ずっとそこにいる。 それが、言葉の運命なのかもしれない。 生まれて。 誰かの中に入って。 そして、消えない。 “言葉の独白” 翌朝。 部屋に光が差し込んだ。 朝の光。 窓の外では、鳥が鳴いている。 テーブルの上。 二枚の書類があった場所。 今は、一枚だけが残っている。 もう一枚は、どこかへ行った。 どちらが残ったのか。 ぼくにはわからない。 でも、それでいいのかもしれない。 --- ぼくは、ずっとトモの中にいる。 十二年間。 最初は軽かった。羽みたいに。 今はとても重い。石みたいに。 どうしてだろう? ぼくは何も変わっていないのに。 ただ、あの冬の日に生まれて。 笑顔の中で生まれて。 それだけなのに。 サキは、ぼくのことを覚えているのかな。 それとも忘れたのかな。 ぼくにはわからない。 サキの心の中は、見えないから。 でも、トモは覚えている。 ずっと。 ぼくは何も悪いことをしていない。 ただ、そこにいただけ。 それなのに、トモは苦しんだ。 不思議だな。 でも、そういうものなのかもしれない。 言葉って。 トモが何を選んでも、ぼくはここにいる。 これからも、ずっと。 それが、ぼくだから。 --- あなたにも、いるんじゃないかな? ぼくみたいな言葉が。 誰かが何気なく言った、たった一言。 笑いながら言われた。 優しく言われた。 でも、あなたの中で、重くなった。 あなたを縛っている。 その言葉を言った人は、覚えているかな? わからないよね。 でも、あなたは覚えている。 ぼくたちは、そこにいる。 言われた人の中で。 ずっと。 そして、今日も、どこかで。 新しい言葉が生まれている。 笑顔の中で。 何も知らずに。
光の記憶
その日、夕暮れ時に店を訪れた老婆を、遥は見たことがなかった。 商店街の突き当たりにある「クラタフォトスタジオ」は、秋の終わりの斜光を浴びて、どこか寂しげに佇んでいる。褪せた看板の文字は、父が筆で書いたものだ。両隣の店舗はすでにシャッターが下りたまま。通りを行く若者たちは、スマートフォンを片手に笑い合いながら、この古い店の前を素通りしていく。 ガラス戸の向こうで、倉田遥はカウンターを拭いていた。三十四歳。父から継いだこの店で、もう十年近く働いている。今日も証明写真の客が一人来ただけだった。あと半年もつだろうか——帳簿を閉じるたび、そんな計算をしている自分がいる。 「すみません、まだ開いてますか」 控えめな声に振り返ると、小柄な老婆が入口に立っていた。七十代、いや八十代だろうか。深い皺が刻まれた顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいる。手には古びた布の包みを抱えていた。 「はい、どうぞ」遥は慌てて応対する。 老婆はゆっくりとカウンターに近づき、大切そうに包みを開いた。中から現れたのは、黄ばんだ紙に包まれた古いネガフィルムだった。 「これを、焼き増ししていただけますか」 老婆の声は静かだったが、その瞳には何か深い想いが宿っているように見えた。遥は思わず、そのネガフィルムに目を落とした。紙は湿気を含んでしなやかに曲がり、長い年月を経た匂いがする。 「かなり古いフィルムですね」遥はネガを光にかざした。「戦前のものでしょうか」 「ええ」老婆は頷いた。「私の宝物なんです。もう一度、ちゃんと見たくて」 ネガには、着物姿の若い女性と、軍服姿の男性、そして幼い子供たちが写っている。誰もがカメラに向かって、少し緊張した面持ちで笑っていた。 「お時間いただきますが、丁寧に仕上げますね」 「ありがとうございます」老婆は安堵したように微笑んだ。「では、また伺います」 帰り際、老婆は振り返った。 「あなた、お父様に似ていらっしゃる」 遥は驚いて顔を上げたが、老婆はそのまま静かに店を出て行った。夕暮れの光の中に、その小さな背中が溶けていく。 “二” その夜、遥は暗室で老婆のネガフィルムと向き合っていた。 赤い照明だけが灯る狭い空間。壁には父の時代から使っている温度計と時計が掛かっている。現像液の独特な匂いが鼻をつく。遥はこの匂いを嗅ぐたび、父のことを思い出す。「写真はな、記録じゃないんだ」——父はよくそう言っていた。でも、その続きを聞く前に、父は逝ってしまった。 古いフィルムだ。丁寧に扱わないと、簡単に傷ついてしまう。遥は慎重にネガを現像液に浸した。液面が静かに揺れる。時計の秒針が、規則正しく時を刻んでいる。 ふと、指先に妙な温かさを感じた。 現像液は冷たいはずなのに。遥は首を傾げ、ネガを光にかざした。そこには先ほど見た家族写真が浮かび上がっている。着物の女性。軍服の男性。子供たち。誰もが、この一瞬を大切に思っているかのような表情で—— その時、遥は目を疑った。 家族の周りに、淡い光の輪が見えたのだ。いや、「光」と呼ぶべきかも分からない。それは揺らめくように、人物たちを包み込んでいた。まるで、撮影された瞬間の温度が、そこに残っているかのように。 遥は目を擦った。疲れているのだろうか。でも、もう一度見ても、その光は消えなかった。否、光というより、温かな何かが、そこに確かに存在している気がした。 心臓が早鐘を打つ。これは何だ。機材の不具合か。それとも、自分の目の錯覚か。 遥は深呼吸をして、作業を続けた。現像、停止、定着。父に教わった通りの手順を、機械的に繰り返す。でも、その間もずっと、あの光が頭から離れなかった。 乾燥させた写真を見る。そこには、確かに光が写り込んでいるように見えた。家族の周りを柔らかく包む、温かな光。でも、それが本当に写っているのか、それとも遥がそう見ているだけなのか、判断がつかない。 暗室を出ると、店内は静まり返っていた。壁には父が撮影した写真が並んでいる。結婚式、七五三、家族旅行——誰かの大切な一瞬を切り取った写真たち。遥は何気なく、それらの写真を見た。 そして、息を呑んだ。 父が撮った写真にも、同じような光が見えた。幸せそうに笑う新郎新婦の周りに。晴れ着姿の子供を抱く母親の周りに。温かな、優しい光が。 「何が起きているの」 遥は呟いた。でも、誰も答えてくれない。店内には、時計の音だけが響いていた。 “三” 数日後、老婆が写真を受け取りに来た。 「ありがとうございます」老婆は現像された写真を手に取り、じっと見つめた。 遥は言うべきか迷った。あの光のこと。でも、どう説明すればいいのか分からない。「写真に変なものが写ってます」なんて言えば、ただのクレームになってしまう。 「とても、温かい写真ですね」老婆は静かに言った。 遥は驚いて顔を上げた。 「この人たちの想いが、伝わってくるようです」老婆は写真を胸に抱いた。「あなた、ちゃんと写してくださったのね」 「私は、ただ現像しただけで...」 「いいえ」老婆は遥を見つめた。その瞳は、何かを見抜いているようだった。「あなたは、見えたんでしょう」 遥の息が止まった。 「この写真に写っているもの。姿だけじゃない、もっと大切な何かが」 老婆は代金を払うと、写真を大切に包んだ。 「また、来てもいいですか」 「え、ええ。もちろん」 「よかった」老婆は微笑んだ。「お話ししたいことがあるんです。写真のこと。それから、あなたのお父様のこと」 老婆は帰っていった。遥は呆然とカウンターに立ち尽くしていた。 見えた——その言葉が、頭の中で反響している。 自分は本当に、何かを見たのだろうか。それとも、疲れからくる幻覚なのか。でも、老婆の言葉は確信に満ちていた。まるで、それが当然のことであるかのように。 遥は父の写真を見上げた。大学の卒業式の日、父と並んで撮った写真。父は優しく笑っている。その笑顔の周りには—— やはり、光が見えた。温かな、優しい光が。 「お父さん...」 遥は小さく呟いた。胸の奥に、何かが静かに動き始めるのを感じていた。 “四” それから数日後、老婆は本当にまた訪れた。 「お茶をいただきに来ました」 老婆はそう言って、何も持たずに店に入ってきた。遥は戸惑いながらも、奥からお茶の用意をした。客用の椅子などない店だったが、父の時代から使っている古い木の椅子を二つ、カウンター越しに向かい合わせに置いた。 外は曇り空だった。冬の気配が、少しずつ近づいてきている。 「ありがとうございます」老婆は湯気の立つ湯呑みを両手で包んだ。「あなた、写真が見えるようになったのね」 遥は湯呑みを持つ手を止めた。 「私、おかしくなったんでしょうか」遥は思わず口にした。「最近、写真に変なものが見えるんです。光、というか、温かいもの、というか...」 老婆はゆっくりと首を横に振った。「おかしくなんてないわ。ただ、見えるようになっただけ」 「見える...?」 「写真はね」老婆は湯呑みから立ち上る湯気を見つめた。「その瞬間の想いを、そのまま閉じ込めるの。幸せな想い、愛おしい想い、切ない想い。それが、見える人には見えるのよ」 遥は言葉を失った。老婆の声は、まるで遠い昔の子守唄のように、心に染み入ってきた。 「でも、どうして私に...」 「あなたのお父様も、それを知っていたわ」老婆は遥を見つめた。「あの方の写真は、いつも温かかったもの。撮られた人の想いが、ちゃんと写っていた」 父——その名前を聞いた瞬間、遥の胸に熱いものが込み上げてきた。 「私には、父のような写真は撮れません」遥は俯いた。「私は、ただ機械的に撮っているだけで...」 「まだ、そう思っているのね」 老婆は微笑んだ。その微笑みには、何か深い意味が込められているようだった。 「でも、あなたはもう気づき始めている。そうでしょう?」 遥は答えられなかった。ただ、老婆の言葉が、胸の奥の何かに触れているのを感じていた。 老婆はお茶を飲み干すと、静かに立ち上がった。 「また来ますね。それまで、よく見ていてください。あなたの周りにある写真を。そして、あなた自身の心を」 帰り際、老婆は振り返った。 「大切なのは、見ることではなく、感じることなのよ」 その言葉を残して、老婆は去っていった。 “五” その夜、遥は店に残された写真を、一枚一枚見返していた。 壁に飾られた父の写真たち。結婚式、七五三、家族旅行。どれも幸せそうな笑顔が写っている。そして、その周りには——やはり、温かな光が満ちていた。 一方、遥が最近撮影した証明写真のネガを見る。真顔で正面を向いた人々。技術的には問題ない。ピントも露出も完璧だ。でも、そこには何も見えなかった。光も、影も、何も。 「私は、何を撮っていたんだろう」 遥は呟いた。ただシャッターを切るだけの作業。顔を記録するだけの写真。そこに、想いなど入り込む余地はなかった。 暗室に入り、古いネガを整理する。七年前、母の葬儀の日に撮った写真。父と親戚たちが並んでいる。誰もが悲しみに沈んだ表情で——その写真には、重く沈んだ影のようなものが見えた。でも、それは単なる暗さではない。人々の悲しみが、確かにそこに刻まれているような。 「想いが、写る...」 遥は目を閉じた。父の声が、遠くから聞こえてくる気がした。「写真はな、記録じゃないんだ」——その続きを、今なら理解できる気がする。 想いを、残すもの。 それが、写真なのだと。 “六” 週末の午後、若い母親が五歳ぐらいの男の子を連れて来店した。 「七五三の前撮りをお願いしたいんです」 母親は柔らかな笑みを浮かべた。息子の頭を優しく撫でながら、「この子の成長を、ちゃんと残してあげたくて」と続けた。 「大きくなったユウタに、この日のことを思い出してほしいの。お母さんがどんな気持ちで、この日を迎えたか」 母親の声には、深い愛情が込められていた。遥はその声を聞きながら、何かが胸に響くのを感じた。 「ねえ、お姉さん」ユウタが遥を見上げた。「写真って、何で撮るの?」 遥は一瞬、言葉に詰まった。 「...大切な瞬間を、忘れないためかな」 「ふうん」ユウタは首を傾げた。「じゃあ、お姉さんの大切な瞬間は何?」 その問いに、遥は答えられなかった。私の大切な瞬間——それは、いつだったろう。父と過ごした日々。この店を継いだ日。でも、その瞬間を、自分は本当に大切に思っていただろうか。 「ユウタ、お姉さん困らせちゃダメよ」母親が優しく言った。 「いえ、大丈夫です」遥は微笑んだ。「いい質問ですね。私も、考えてみます」 撮影の日取りを決め、二人を見送る。ガラス戸の向こうで、ユウタが母親の手を握って歩いていく。その姿を見ながら、遥は思った。 この親子の想いを、ちゃんと残したい。 それは、これまで感じたことのない衝動だった。 “七” 撮影当日は、よく晴れた日だった。 ユウタは袴姿で緊張した面持ちでやってきた。母親は着物姿で、息子の姿を見つめながら、何度も目頭を押さえていた。 「すみません、なんだか涙が出てきちゃって」母親は照れくさそうに笑った。「あっという間に、こんなに大きくなって」 遥はスタジオの照明を調整しながら、その言葉を反芻していた。五年という時間。その重み。その愛情。 「では、撮影を始めますね」 遥はカメラを構えた。でも、いつもとは違う心持ちだった。ただシャッターを切るのではない。この親子の、今この瞬間を、想いと共に残すのだ。 「はい、ユウタくん、お母さんの方を見てね」 ユウタは少し緊張した面持ちで母親を見上げた。母親は優しく微笑み、「大丈夫よ」と囁いた。 その瞬間だった。 遥はファインダーを覗きながら、息を呑んだ。二人の間に、淡い光が流れるのが見えた。母親の愛情が、ユウタを包み込むように。ユウタの信頼が、母親に向かって伸びるように。それは言葉にできない何かだったが、確かにそこにあった。 目に見えない絆。形のない温もり。でも、確かに存在している—— 遥の指が、静かにシャッターボタンに触れた。この瞬間を、逃してはいけない。この光を、この温かさを、この愛を—— カシャッ。 シャッター音が、スタジオに響いた。その音は、いつもより少しだけ、温かく聞こえた。 「もう一枚、いいですか」 遥は気づけば、そう言っていた。今度はユウタ一人の写真。でも、遥の目には、母親の想いが息子を包み込んでいるのが見えた。たとえ母親がフレームの外にいても、その愛情は確かにユウタと共にある。 何枚も、何枚も、遥はシャッターを切った。一枚一枚に心を込めて。ユウタの笑顔、母親の涙、二人が見つめ合う瞬間——全てを、想いと共に残していく。 「ありがとうございました」撮影を終え、母親が深く頭を下げた。「なんだか、とても温かい時間でした」 「こちらこそ」遥は心から言った。「素敵な時間を、ありがとうございました」 二人を見送った後、遥は暗室に駆け込んだ。現像を待つ間、心臓が高鳴っていた。撮れただろうか。あの光は、ちゃんと写っているだろうか。 現像液の中で、像が浮かび上がってくる。ユウタの笑顔。母親の優しい眼差し。そして—— やはり、光が写っていた。 親子を包み込む、温かく柔らかな光。それは老婆の写真で見たものと同じ。父の写真で見たものと同じ。想いが、形となって、そこに残されていた。 「これだ」 遥は震える手でネガを掲げた。赤い照明に透かされたネガの中で、親子の姿が優しく光っている。 「これが、私の撮りたかった写真だ」 涙が頬を伝った。でも、それは悲しみの涙ではなかった。何か大切なものを、取り戻した時の涙だった。 父が言いたかったこと。老婆が教えようとしてくれたこと。それが、今、ようやく理解できた気がした。 写真は記録ではない。 写真は、愛なのだ。 時計の秒針が、静かに時を刻んでいる。でも、この暗室の中だけは、時間が止まったように感じられた。遥はネガを抱きしめた。自分の中で、何かが確かに変わり始めていた。 “八” ユウタ親子の写真を渡した日、母親は涙を流した。 「温かいんです、この写真」母親は写真を胸に抱いた。「何か、言葉にできないけど、確かに伝わってくるものがあって」 遥は静かに微笑んだ。見える人には、見えるのだ。写真に込められた想いが。 それから数日、遥の日々は少しずつ変わり始めていた。証明写真の依頼も、以前とは違う気持ちで受けるようになった。たとえ機械的な撮影でも、その人の「今」を残すのだという意識を持って。カメラを構える手に、以前とは違う温かさがあった。 そんなある日の午後、老婆が再び訪れた。 「最後のお願いがあるの」 老婆はいつもより少し疲れた様子で、カウンターに古い写真を置いた。色褪せたセピア色の写真。若い女性と、軍服姿の若い男性が並んで立っている。桜の木の下で、二人は少し照れくさそうに微笑んでいた。 「これは...」 「私と、彼よ」老婆は写真を優しく撫でた。「七十年以上前。戦争が始まる前の春」 遥は息を呑んだ。写真の中の若い女性は、確かに老婆の面影を残していた。 「この場所で、もう一度、写真を撮ってほしいの」老婆は遥を見つめた。「さよならを言うために」 「どこへ行くんですか」 「思い出の場所。彼を見送った場所」 老婆の声は静かだったが、その奥に長い年月の重みが感じられた。遥は頷いた。 「分かりました。ご一緒します」 “九” 町外れの桜並木に着いたのは、夕暮れ時だった。 葉はすでに落ち、裸の枝が冬の空に伸びている。夕日が木々の間から差し込み、地面に長い影を落としていた。風が吹くたび、残った枯葉が舞い上がる。 老婆は一本の古い桜の木の前で立ち止まった。 「ここなの」 遥は黙って老婆の隣に立った。老婆は目を閉じ、木の幹に手を触れた。その手は、何か大切なものに触れるように、とても優しかった。 「ここで、彼に会ったの。私が十九の春」老婆は静かに語り始めた。「彼は写真が好きで、この桜を撮りに来ていた。私も偶然、散歩に来ていて」 老婆の声には、遠い日の温もりが宿っていた。 「それから毎週、ここで会うようになった。桜の季節が終わっても、夏になっても、秋になっても。彼はいつもカメラを持っていて、私の写真ばかり撮るの」 老婆は微笑んだ。でも、その笑みはどこか寂しげだった。 「でも、戦争が始まった。彼に召集令状が来て」老婆は木を見上げた。「最後に会ったのも、ここだった。冬の、寒い日」 風が吹いた。遥は何も言えず、ただ聞いていた。 「『また会おう』って、彼は言ったの」老婆の声が震えた。「『戦争が終わったら、またここで。そしたら、君の写真をたくさん撮るから』って」 「でも...」 「二度と、会えなかった」 沈黙が降りた。遠くで、鳥の鳴き声が聞こえる。夕日が、少しずつ沈んでいく。 「七十年、私は彼を待ち続けた」老婆は遥を見た。「でも、もう待つのはやめようと思うの。ちゃんと、さよならを言って。そして、前に進みたい」 老婆の瞳には、涙が光っていた。 「だから、撮ってほしいの。ここで、私たちの写真を」 遥は頷いた。喉が詰まって、言葉が出なかった。 “十” 遥はカメラを構えた。 手が震える。こんなに緊張したのは、いつ以来だろう。いや、これは緊張ではない。畏れに近い何かだ。今から自分が目撃するものへの。 「お願いします」老婆は桜の木の前に立った。 遥はファインダーを覗いた。そこには、老婆の姿が映っている。小さな背中。白い髪。深い皺が刻まれた横顔。でも、その表情は穏やかで—— 待って。 遥は目を凝らした。老婆の隣に、何かが見える。いや、「何か」ではない。誰かだ。 影が、形を持ち始めている。 最初はぼんやりとした輪郭だった。でも、次第に鮮明になっていく。軍服。若い男性。彼は老婆の隣に立っている。そして—— 手を、繋いでいる。 遥の呼吸が止まった。 若い兵士の姿が、はっきりと見えた。二十代前半だろうか。整った顔立ち。少し照れたような笑顔。そして、その隣には——老婆ではなく、若い女性が立っていた。着物姿の、美しい女性。古い写真で見たのと同じ姿。 二人は、手を繋いでいる。 時を超えて、七十年の時を超えて、再び並んで立っている。 二人の周りに、光が満ちていた。それは今まで見たどの光とも違う。切なく、美しく、痛いほどに眩しい光。別れの痛み、七十年の想い、それでも消えない愛——全てが、その光に込められていた。 若い二人は、互いを見つめ合っている。女性の瞳には涙が光り、男性は優しく微笑んでいる。まるで、「待っていてくれたんだね」と言っているかのように。 遥の目から、涙が溢れた。でも、ファインダーから目を離さない。この瞬間を、逃してはいけない。二人の、最後の再会を。 「さよなら」 老婆の声が、静かに響いた。 若い兵士が、何かを言っているように見えた。声は聞こえない。でも、遥には分かった。「さよなら」と。「愛していた」と。「ありがとう」と。 光が、一層強く輝いた。 遥の指が、シャッターボタンに触れる。震えている。でも、力を込める。今だ。今しかない—— カシャッ。 静かな音が、夕暮れの桜並木に響いた。 その瞬間、光が弾けるように広がった。そして、ゆっくりと薄れていく。若い二人の姿が、光の中に溶けていく。別れの時。本当の、最後の別れ。 遥は気づけば、泣いていた。涙が頬を伝い、カメラに落ちる。 老婆も、泣いていた。でも、その顔には微笑みが浮かんでいた。 「ありがとう」老婆は囁いた。「やっと、ちゃんとさよならが言えた」 “十一” 帰り道、二人はほとんど言葉を交わさなかった。 写真館に戻り、遥はすぐに現像を始めた。老婆は静かに待っていた。 暗室の赤い光の中で、像が浮かび上がってくる。老婆の姿。桜の木。そして—— 老婆の隣に、かすかに、男性の影が寄り添っていた。はっきりとは見えない。でも、確かにそこにいる。光に包まれて、優しく—— 「撮れました」 遥は震える手で、写真を老婆に渡した。 老婆は写真を見つめた。長い間、じっと。そして、静かに涙を流した。 「ちゃんと、写ってる」老婆は写真を胸に抱いた。「彼が、そばにいてくれる」 「あなたのおかげで、私は前に進めるわ」老婆は遥を見た。「本当に、ありがとう」 老婆は代金を払おうとしたが、遥は手を振った。 「いいんです。私の方こそ、大切なことを教えていただきました」 老婆は微笑み、写真を大切に包んだ。 「あなたも」老婆は帰り際、振り返った。「お父さんにさよならを言いなさい。ちゃんと、向き合って。そうすれば、あなたも前に進める」 その言葉を残して、老婆は去っていった。夕暮れの商店街に、その小さな背中が消えていく。遥は、それが最後になるような気がした。 “十二” その夜、遥は暗室で一人、父の写真と向き合っていた。 大学の卒業式の日。父と並んで笑っている写真。父の笑顔の周りには、いつものように温かな光が満ちている。遥への愛情が、そこに確かに刻まれている。 「お父さん」 遥は初めて、声に出して父に語りかけた。 「ごめんなさい。私、ずっと分かっていなかった」 涙が溢れる。でも、今度は止めなかった。 「写真は記録じゃなくて、愛だったんですね。お父さんが教えたかったこと、やっと分かった」 父の写真は、何も答えない。でも、その笑顔は優しく、遥を見守っているようだった。 「お父さんは、いつも想いを込めて写真を撮っていたんですね。撮られる人への愛情を、ちゃんと残していたんですね」 遥は写真を抱きしめた。 「私も、お父さんみたいな写真を撮りたい。想いを残せる写真を。人を幸せにできる写真を」 赤い照明の中で、遥は父の写真を見つめた。 「お父さん、見ててね。私、頑張るから」 そして、遥は初めて、父の死を本当の意味で受け入れた。父はもう、この世界にはいない。でも、父から受け継いだものは、確かに遥の中に残っている。 写真を撮る技術。想いを込める心。そして—— 人を愛する、その方法。 遥は涙を拭った。暗室を出る。店内には、相変わらず父が撮影した写真が並んでいる。でも、今はそれらを見ても、悲しみだけではなかった。 父は、ずっとここにいる。 写真の中に。遥の心の中に。そして、これから遥が撮る写真の中に。 窓の外では、最初の雪が降り始めていた。季節は、冬へと移り変わっていく。でも、遥の心には、温かな何かが灯り始めていた。 “十三” それから数週間が過ぎた。 冬は深まり、雪の日が増えていた。遥は以前とは違う心持ちで、毎日店を開けていた。証明写真の依頼にも、丁寧に応じる。一枚一枚に、その人の「今」を残すのだという意識を持って。 ある朝、新聞を広げていた遥の手が、止まった。 小さな訃報欄に、見覚えのある名前があった。 老婆は、あの桜並木での撮影から一週間後に、静かに息を引き取っていた。 遥は新聞を置き、窓の外を見た。雪が、音もなく降り続けている。 不思議と、激しい悲しみは込み上げてこなかった。代わりに、静かな納得があった。老婆は、役目を終えたのだ。大切な人にさよならを言い、そして自分も旅立った。七十年間待ち続けた人のもとへ。 「ありがとうございました」 遥は小さく呟いた。導いてくれて。教えてくれて。前を向く勇気をくれて。 カウンターの引き出しを開けると、半年前に見ていた帳簿が出てきた。赤い数字が並んでいる。あの頃は、店を閉めることばかり考えていた。 でも、今は違う。 遥は帳簿を閉じた。そして、新しいノートを開いた。最初のページに、丁寧な字で書く。 「想いを残す写真館として、新しく始めます」 “十四” 数週間後、写真館の前に新しい看板が掲げられた。 「クラタフォトスタジオ—想いを残す写真館」 父が書いた古い看板の隣に、遥が新しく作った小さな看板。完全予約制にして、一組ずつ、時間をかけて撮影する。料金は以前より高めに設定した。でも、丁寧に、心を込めて、その人たちの大切な瞬間を残す。 最初は不安だった。でも、ユウタの母親が口コミで広めてくれたのか、少しずつ予約が入るようになった。「あそこで撮ってもらうと、写真が温かいんだって」——そんな噂が、静かに広がっていた。 冬が終わり、春の気配が近づいてきた頃。 店内には、以前とは違う空気が流れていた。壁に飾られた父の写真は変わらずそこにある。でも、今はその隣に、遥が撮影した新しい写真も並んでいる。ユウタ親子の写真。結婚記念日を迎えた老夫婦の写真。生まれたばかりの赤ん坊を抱く若い両親の写真。 どの写真にも、温かな光が満ちていた。 “十五” ある春の午後、予約の電話が鳴った。 「もしもし、クラタフォトスタジオです」 遥は丁寧に応対する。家族写真の撮影依頼だった。来週の土曜日に予約を入れ、電話を切る。 カウンターには、父と遥が並んで笑っている写真が飾られている。遥はその写真に目をやった。 「お父さん、見てる? 私、続けてるよ」 写真の中の父は、変わらず優しく笑っている。その笑顔の周りには、今も温かな光が満ちていた。父の愛情が、時を超えて、そこに残されている。 窓の外では、商店街を歩く人々の姿が見える。若い母親が、スマートフォンで子供の写真を撮っている。カップルが、自撮りをして笑い合っている。 遥はそれを眺めながら、微笑んだ。 「みんな、大切な瞬間を残そうとしているんだ」 スマホでも、古いカメラでも、それは変わらない。大切なのは、その瞬間に込められた想い。それを忘れないこと。そして、次の誰かに伝えていくこと。 ふと、老婆のことを思い出す。あの人は今、どこにいるんだろう。きっと、大切な人のそばにいる。七十年越しの再会を、今も楽しんでいる。 そう思うと、不思議と心が温かくなった。 遥は立ち上がり、カメラを手に取った。来週の撮影の準備をしなければ。どんな家族だろうか。どんな想いを持って、この店を訪れるのだろうか。 父から受け継いだカメラは、長年の使用で少し傷んでいる。でも、その重みが、遥には心地よかった。このカメラで、父は何千枚もの写真を撮ってきた。想いを込めて。愛を込めて。 今度は、私の番。 窓から春の光が差し込んでいる。商店街の桜が、小さな蕾をつけ始めていた。もうすぐ、あの桜並木も花開くだろう。老婆が、大切な人と過ごした場所。 遥は窓辺に立ち、カメラを構えた。ファインダー越しに、桜の蕾を捉える。まだ固い蕾。でも、その中には確かに、春の命が宿っている。 見えないものは、失われたわけじゃない。 父も、老婆も、もうこの世界にはいない。でも、彼らが遺してくれたものは、確かに遥の中に残っている。そして、これから遥が撮る写真の中に、生き続ける。 予約表を見る。来週、再来週、その次の週も、予約が入っている。一組一組に、丁寧に向き合おう。その人たちの想いを、ちゃんと残そう。 遥はカメラを胸に抱いた。 カウンターの上で、父の写真が静かに微笑んでいる。その隣には、老婆と恋人が並んで立っている写真の小さなコピーが、そっと置かれていた。 「行ってきます」 遥は二枚の写真に向かって、小さく言った。そして、今日の撮影のために、カメラバッグを整え始めた。 見えないものは、失われたわけじゃない——遥はそう信じている。そして今日も、誰かの想いを写真に残すために、シャッターを切る。
月の雫
“プロローグ” 満月の夜でした。 空はどこまでも澄んで、星たちはまばたきをしながら、静かに輝いていました。月は高い高い空から、地上をそっと見下ろしていました。 森では、眠りにつく小鳥たちの羽音。湖では、水面を渡る風のささやき。遠くの丘では、ウサギの親子が月明かりの中を駆けていきます。月の光は、そのすべてを優しく照らしていました。 「私はいつも、ここから見ているだけ」 月は小さく息をつきました。 毎晩、同じ場所から地上を見守って、何百年、何千年。月の光は確かに地上に届いています。でも、それが本当に誰かの心に触れているのかは、月にはわかりませんでした。 「私の光は、誰かを温めているのかしら」 問いかけても、答えてくれる者はいません。星たちはただ、きらきらと瞬くばかり。 月は自分の光をじっと見つめました。銀色に輝く、柔らかな光。今夜はいつもより少し、丸く膨らんでいるような気がします。 「今夜は特に丸いわね、私」 月は少しだけ微笑みました。 そして、そっと思いました。 ——今夜は、私の光の一滴を、地上に贈ってみよう。 月は静かに両手を胸の前に持ってきました。自分の光を、そっと、そっと、指先に集めていきます。くすぐったいような、温かいような不思議な感覚。光が手のひらの中で小さく丸まって、やがて一粒の雫になりました。 それは小さな真珠のように、透き通って、きらきらと輝いていました。 「行っておいで」 月は囁きました。 「私の代わりに、誰かを照らしてあげて」 そして、そっと手を開きました。 光の雫は、星々の間をすり抜けるように、地上へと落ちていきました。きらきら、きらきら。まるで小さな流れ星のように。 月はその後ろ姿を、じっと見送りました。少しの不安と、大きな期待を胸に抱きながら。 光の雫は、静かな森の湖を目指して、夜空を舞い降りていきます。 “第一章:魚の輝き” 光の雫は、きらきら、きらきら。 夜空から湖へと近づいていきました。湖面は鏡のように静かで、月の姿をそっくりそのまま映していました。 そして——ぽちゃん。 小さな音と共に、光の雫は水の中へ。波紋が広がって、月の姿がゆらゆらと揺れました。雫は水面の下へ、下へ、下へ。銀色の光の筋を残しながら、湖の底へと沈んでいきます。 湖の底では、小さな魚のぴちこが、水草の間をすいすい泳いでいました。 「今夜はいい月だなあ。水面がきらきらしてる」 そう思った、その時です。 「わっ! 何か来る! 何か光るものが来る!」 ぴちこは目を丸くしました。上から、きらきらと光るものが落ちてきます。 「隕石!? いや、もしかして危ないやつ!?」 ぴちこは慌てて岩陰に隠れようとしました。尾びれをばたばたさせて、必死に泳ぎます。でも、好奇心には勝てません。岩の影から、そっと顔を出して見てみました。 光の雫は、ゆっくりと、まるで羽毛のように軽く、ぴちこの方へ近づいてきます。 「あれ? 全然怖くない...」 雫は、ふわりと、ぴちこの背中に触れました。 その瞬間——。 ぴちこの体が、内側から光り始めたのです。 「わあああ! な、何これ! 私、光ってる!」 ぴちこは自分の体を見て、びっくり仰天しました。銀色の光が、うろこ一枚一枚を照らしています。尾びれも、背びれも、きらきら輝いています。 「まるでホタルみたい! いや、ホタルより綺麗かも!」 ぴちこは嬉しくなって、湖の中を泳ぎ回りました。くるくる回ったり、水草の間をくぐったり。光の筋が、ぴちこの後ろをついてきます。 「見て見て! 私、光ってるよ!」 他の魚たちが集まってきました。 「わあ、ぴちこ、きれい!」 「どうやったの? 私たちも光りたい!」 「すごいすごい!」 みんなに囲まれて、ぴちこはますます嬉しくなりました。こんなに注目されるなんて、初めてです。こんなに特別な気持ちになるなんて。 でも、泳ぎながら、ぴちこは不思議な感覚を覚えました。 体の中が、温かい。とても温かい。まるで、誰かに抱きしめられているような。そして——何だろう、この気持ちは。 「この光、ずっと持っていたい。でも...」 ぴちこは水面の方を見上げました。 「誰かに見せたい。誰かと分けたい」 そんな気持ちが、胸の奥からふつふつと湧いてきたのです。 ぴちこは、そっと水面の方へ泳いでいきました。月明かりが、水面を銀色に染めています。水面に顔を出すと、岸辺が見えました。 そこに、一輪の花が咲いていました。 白い花びらを持った、優雅な花。でも、何だか元気がないように見えます。花びらは少し閉じていて、茎はうつむいています。 「あの花、寂しそう」 ぴちこは思いました。 「この光を見せてあげたら、元気になるかな?」 ぴちこは考えました。どうやって、この光を花に届けよう? 魚は陸に上がれません。でも——。 「そうだ! ジャンプすればいいんだ!」 ぴちこは少し潜ってから、勢いよく水面に向かって泳ぎました。 「えいっ!」 ざばーん! 水しぶきが上がります。ぴちこは空中で光を放ちました。でも、光は水面に落ちるだけ。花には届きません。 「あれ? もう一回!」 ざばーん! 「...届かない。もう一回!」 ざばーん! 「うーん、難しい...」 何度も何度も、ぴちこはジャンプしました。他の魚たちは、水中から応援しています。 「ぴちこ、頑張って!」 「もうちょっと!」 そして、七回目のジャンプ。 ぴちこが水面から飛び出した瞬間、ちょうど風が吹きました。水しぶきに反射した光が、風に乗って——岸辺の花を照らしたのです。 きらきら。 優しい銀色の光が、花びらを包みました。 花が、ゆっくりと顔を上げました。 「やった! 届いた!」 ぴちこは嬉しくて、また水の中へ。 その時、不思議なことが起こりました。光の雫が、ぴちこの背中から離れて、花の方へふわりと飛んでいったのです。まるで、「次はあなたの番よ」と言うように。 ぴちこの体は、少しずつ暗くなっていきました。 「あ...行っちゃった」 でも、不思議と悲しくありませんでした。むしろ、胸の奥がぽかぽかと温かい。こんな気持ちは、初めてです。 「なんだか、すごく嬉しい」 ぴちこは、岸辺の花をもう一度見ました。花は光に包まれて、とても美しく輝いています。 それを見届けてから、ぴちこはゆっくりと湖の底へ戻っていきました。体はもう光っていません。でも、心は今までで一番、明るく輝いていました。 “第二章:花の目覚め” 光が、花びらを包みました。 花の名前は、ルナリア。夜にしか咲かない、月を愛する花です。 「これは...なんて温かい光...」 ルナリアは驚きました。こんなに優しい光は、今まで感じたことがありません。月の光よりも近くて、太陽の光よりも柔らかい。 光が花びらに染み込んでいきます。一枚、また一枚。閉じかけていた花びらが、ゆっくりと開いていきました。 まるで、長い眠りから目覚めるように。 花びらの白が、より鮮やかになっていきます。茎の緑が、生き生きとした色を取り戻していきます。ルナリアは、静かな湖面に映る自分の姿を見ました。 「私...こんなに美しかったのね」 初めて、そう思いました。 ルナリアは、ずっと自分のことが好きではありませんでした。昼間の花たちは、太陽の下で蝶や蜂に囲まれて、賑やかに咲いています。でも、ルナリアは夜にしか咲けません。訪れる者もほとんどいません。 「私は誰にも見てもらえない花」 そう思っていました。 でも、今は違います。この光が、ルナリアに教えてくれました。 「あなたは美しい」と。「あなたには価値がある」と。 ルナリアは、光をくれた小さな魚を探しました。でも、魚はもう湖の底へ戻ってしまったようです。水面は静かに、月を映しているだけ。 「あの子は、私に光をくれて、何も求めずに去っていった...」 ルナリアの心が、静かに動きました。 今まで感じたことのない気持ち。誰かに何かをしてもらった時の、この温かさ。そして——。 「私も、誰かに何かを贈りたい」 そう思ったのです。 ルナリアは、自分にできることを考えました。魚のように泳げません。鳥のように空を飛べません。でも、花には花の、できることがあります。 ルナリアは、深く深く息を吸いました。 そして、今までで一番甘い香りを放ち始めたのです。 その香りは、蜂蜜とバニラと、そして月光を混ぜたような、不思議な甘さでした。香りは風に乗って、湖面を渡り、森の奥へと広がっていきます。 「この香り、私にできる精一杯の『ありがとう』」 ルナリアは思いました。 光をくれた魚には届かないかもしれない。でも、きっと誰かが、この香りを嗅いでくれる。誰かが、少しでも幸せな気持ちになってくれたら。 「光をもらったから、私も何かを与えたい」 この感覚が、こんなにも嬉しいものだとは知りませんでした。今まで、ルナリアはずっと、「もらうこと」だけを考えていました。太陽の光を、雨を、誰かの視線を。 でも今は違います。 「与えること」の喜びを、初めて知ったのです。 光の雫は、ルナリアの花びらの上で、きらきらと輝いていました。そして、甘い香りに混じって、風と共に森の奥へ。 ルナリアは、静かに微笑みました。 「行っておいで。次の誰かのところへ」 風が、優しく答えるように、ルナリアの花びらを揺らしました。 --- 森の奥では、一匹の蝶が、のんびりと飛んでいました。 蝶の名前は、ソラ。空色の羽を持った、哲学者のような蝶です。 「はて、家はどっちだったかなあ...」 ソラは首を傾げました。もう何度目かわからない迷子です。ソラは方向音痴なのです。 「あの木の右だったかな。いや、左だったかな。まあ、そのうち着くだろう」 そんなことを考えながら、ふわふわと飛んでいた時です。 甘い香りが漂ってきました。 「おや? この香りは...」 ソラは触角をぴくぴくと動かしました。 「ルナリアの香りだねえ。でも、いつもより甘い。いつもより...温かい」 香りに導かれるように、ソラは羽ばたきました。木々の間を抜けて、蔓草をくぐって、ついに湖の岸辺へ辿り着きました。 そこに、ルナリアが咲いていました。 今までで一番美しく、輝いて。 「ああ、ルナリア。こんばんは」 ソラが声をかけると、ルナリアは優雅に花びらを揺らしました。 「よくいらっしゃいました、ソラ」 「いい香りだねえ。なんだかとても優しい気持ちになる。それに...」 ソラは羽を休めるために、ルナリアの花びらに止まりました。その時、気づいたのです。 「君、光ってる?」 「ええ」ルナリアは静かに答えました。「誰かからもらった光なの。湖の小さな魚が、私に贈ってくれたの」 「へえ」 ソラは感心しました。 「光って、受け継がれるものなんだねえ」 「そうみたい」ルナリアは微笑みました。「もらったら、渡したくなるの。とても不思議」 その時、光の雫が、ルナリアの花びらからソラの羽へと移りました。ふわり、と。まるで風に乗る花びらのように。 ソラの羽が、内側から光り始めました。青い羽が、銀色の光と混じって、美しい水色に輝きます。 「おや、これは」 「あなたも、誰かを照らしてあげて」 ルナリアは優しく言いました。 「任せておいてよ」 ソラはのんびりとした口調で、でも、どこか頼もしく答えました。 そして、光る羽で、夜空へと飛び立っていきました。 ルナリアは、その後ろ姿を見送りました。体からは光が消えましたが、心は今も、温かく輝いています。 光の雫は、風に乗って。 次の誰かのもとへ、旅を続けます。 “第三章:蝶の旅” ソラは、夜空を飛んでいました。 光る羽が、闇の中できらきらと輝いています。青い羽と銀色の光が混じって、美しい水色になっていました。まるで、夜空に小さな虹が浮かんでいるよう。 「これは素敵だねえ」 ソラはのんびりと呟きました。 普段のソラは、どこへ行くにも迷子になります。右と左がわからなくなったり、来た道を忘れたり。でも、今夜は違いました。 「不思議だねえ。どこへ行けばいいか、なんとなくわかる気がする」 光が、ソラを導いているようでした。体の中から、「こっちだよ」と囁く声が聞こえる気がするのです。 ソラは、森の奥へと飛んでいきました。 月明かりが、木々の間から漏れています。葉っぱの影が、地面に模様を描いています。小川のせせらぎ、遠くで鳴くフクロウの声、風が枝を揺らす音。 夜の森は、静かで、美しい。 光る羽を持ったソラが通ると、眠っていた森が少しだけ目を覚ましました。 枝で眠っていたフクロウが、片目を開けます。 「おや? あれは蝶? こんな夜に?」 洞穴から出てきたコウモリが、ソラを見て驚きます。 「わあ、光ってる! 初めて見た!」 でも、ソラは気づきません。のんびりと、ふわふわと、森の中を飛んでいきます。 木々の間を抜けて。 小川を越えて。 苔むした岩場を通り過ぎて。 やがて、ソラは大きな木の根元に辿り着きました。そこに、小さな穴があります。 穴の中から、小さな声が聞こえました。 「寝なきゃ、寝なきゃ。明日も忙しいのに...」 ソラは、穴の入口にそっと止まりました。 中を覗いてみると、小さなネズミが丸くなっています。目をぎゅっと閉じて、眠ろうとしている様子。でも、尻尾はぴくぴく動いています。耳もぴくぴく。全然眠れていない様子でした。 「ああ、また心配事を考えちゃう」ネズミは独り言を言いました。「どんぐりの隠し場所、本当にあそこで良かったかな。誰かに見つかってないかな。それと、明日の天気は? 雨だったら困るな。傘、持ってないし。いや、そもそもネズミに傘なんてあったかな。ないよね。どうしよう。あ、でもその前に寝ないと。寝なきゃ寝なきゃ——」 早口で、くるくると心配事を巡らせています。 ソラの光る羽が、穴の中をほのかに照らしました。 「わっ! 誰!?」 ネズミが飛び上がりました。くるりと振り返って、ソラを見つめます。目は真ん丸、口は開いたまま。 「やあ。驚かせてごめんねえ」 ソラはのんびりと言いました。 「蝶? 夜の蝶? しかも光ってる!? 何これ、夢? 私、寝てた? いや、さっきまで起きてたはずだけど——」 ネズミは早口でまくし立てます。 「眠れないのかい?」 ソラが優しく聞くと、ネズミは少し落ち着きました。 「うん...いつも、夜になると心配事ばかり考えちゃって。それで眠れなくて、また明日のことが心配になって、それでまた眠れなくて...」 ネズミは小さくため息をつきました。 「僕の名前はチロ。君は?」 「ソラだよ」蝶は答えました。「ねえ、チロ。ちょっと外に出てみないかい?」 「外? 夜の外?」チロは不安そうに言いました。「怖いよ。暗いし、何がいるかわからないし...」 「夜はね、意外と優しいんだよ」 ソラはそう言って、羽をゆっくりと開いたり閉じたりしました。光が、柔らかく明滅します。 チロは迷いました。でも、ソラの光る羽を見ていると、不思議と安心する気持ちになってきます。この蝶は、悪い人じゃない。そんな気がしました。 「...ちょっとだけ、なら」 チロは恐る恐る、穴から出る決意をしました。 “第四章:ネズミの夢” チロは、小さな足で、ゆっくりと外へ出ました。 夜の森は、想像していたよりもずっと静かでした。風が優しく吹いて、葉っぱがさらさらと音を立てています。遠くで、小川が歌っています。 「わあ...」 チロは小さく息を呑みました。 「夜って、こんなに静かで...美しいんだ」 これまでチロは、夜をずっと恐れていました。眠れない時間。心配事が押し寄せる、辛い時間。でも今、初めて夜の良さに気づいたのです。 ソラの光る羽が、周りを優しく照らしています。チロの小さな影が、地面に映っています。 「ねえ、空を見上げてごらん」 ソラが言いました。 チロは、恐る恐る顔を上げました。 そこには、満月が輝いていました。 大きくて、明るくて、優しい光。木々の間から、チロをまっすぐ見下ろしているよう。 「すごく...大きくて、明るい」 チロは呟きました。 「月はね、毎晩ここにいるんだよ」ソラは静かに言いました。「君が眠れない夜も、心配事を抱えている夜も、ずっと見守ってくれている」 チロの心が、少しずつほどけていくのがわかりました。ぎゅっと握りしめていた何かが、そっと解けていく感じ。 「そうなんだ...月さん、いつも見てくれてたんだ」 ソラとチロは、苔むした石の上に並んで座りました。蝶と鼠。不思議な取り合わせです。 「ねえ、ソラ」チロは聞きました。「どうしてあなたは光ってるの?」 「これはね」ソラはのんびりと答えました。「今夜いろんな人からもらった光なんだ」 「いろんな人?」 「うん」 ソラは語り始めました。 湖に住む、小さな魚のこと。何度もジャンプして、岸辺の花に光を届けたこと。 岸辺に咲く、美しい花のこと。甘い香りを放って、自分に光をくれたこと。 「みんな...光をもらって、また誰かに渡したんだ」 チロは驚きました。 「そうなんだよねえ」ソラは言いました。「不思議だけど、光をもらうと、誰かに渡したくなるんだ。もらった時の温かさを、また誰かに感じてほしくなる」 チロは、じっとソラを見つめました。 「僕からも、何かあげられるといいんだけど」 ソラはそう言って、少し考えました。それから、小さな声で歌い始めました。 「心配事は 朝になれば 小さく見える 今夜は ただ 月の光に 身を任せて 温かい風に そっと包まれて おやすみ おやすみ 小さな友よ」 素朴な歌でした。難しいメロディじゃありません。でも、とても優しくて、心に染みる歌でした。 チロは目を閉じて、歌を聞きました。 「素敵な歌...心が、軽くなる」 「これはね」ソラは言いました。「今夜出会った花から教わった気持ちなんだ。誰かから受け取った優しさは、また誰かに渡せるってね」 その時、不思議なことが起こりました。 光の雫が、ソラの羽からチロの小さな体へと移ったのです。ふわり、と。まるで蒲公英の綿毛が風に乗るように。 チロの体が、内側から光り始めました。温かい、優しい光。 ソラの羽は、元の青色に戻りました。でも、ソラは少しも寂しそうではありません。むしろ、満足そうに微笑んでいます。 「じゃあ、おやすみ」 ソラは羽ばたきました。 「きっと眠れるよ」 「ソラ...ありがとう」 チロが言うと、ソラはのんびりと手を振って、夜空へと飛び去っていきました。光らない青い羽で、でも、心は今までで一番輝いて。 チロは、石の上にしばらく座っていました。 体の中に、温かい光を感じます。まるで、誰かに抱きしめられているような。 やがて、チロは穴に戻りました。 外はまだ暗いけれど、もう怖くありません。月が見守ってくれています。森が優しく包んでくれています。 「不思議...心配事が、まだそこにあるのに、怖くない」 チロは横になりました。 自然に、目が閉じていきます。 今度は、無理に閉じようとしなくても。すっと、すっと、瞼が降りていきます。 チロは深い眠りに落ちていきました。 そして、夢を見始めました。 --- 夢の中で、チロは湖を見ていました。 水の中を、小さな魚が泳いでいます。魚の体は、きらきら光っています。嬉しそうに、くるくる回っています。 光る魚は、何度もジャンプしました。水しぶきがきらきらして。最後に、光が岸辺の花を照らしました。 花が、ゆっくりと花びらを開きました。 白い、美しい花。光を受けて、とても幸せそうに輝いています。甘い香りが、風に乗って広がっていきます。 香りを辿って、蝶が飛んできました。 青い羽の蝶。のんびりと、ふわふわと。花びらに止まると、蝶の羽が光り始めました。虹色に輝く、美しい羽。 蝶は夜空を飛びました。森の中を抜けて、小さな穴の前に辿り着きました。 そこに、小さなネズミがいます。 ——あれは、私だ。 チロは夢の中で思いました。 光る蝶が、ネズミに歌を歌っています。ネズミは、安心したように微笑んでいます。 「みんな...この光を運んできてくれたんだ」 チロの心が、温かくなりました。 夢はさらに続きます。 湖が見えて、森が見えて、やがて空へ。 高く、高く、空へ。 そこに、大きな月がありました。 満月。優しく微笑んでいるような、穏やかな光。 月は何も言いませんでした。 ただ、チロを見つめています。 でも、その光に触れた瞬間、チロには伝わりました。 温かさが。繋がりが。そして、ずっと見守られていたこと。 言葉ではなく、光で。 チロは、夢の中で言いました。 「月さん...ありがとう」 月は、さらに優しく輝きました。 チロは深く、深く、安らかな眠りに落ちていきました。 --- 小さな穴の中で、チロは眠っています。 規則正しい寝息。口元には、小さな笑み。 体の中の光が、チロの夢を照らしています。 外では、森全体が静かに眠っています。 木々も、花も、川も、石も。 みんな、優しい夜に包まれて。 月が、空から全てを見守っています。 静かな、静かな夜でした。 “エピローグ:月への贈り物” チロの夢は、さらに深く、深く、続いていきました。 いつの間にか、チロは雲の上を歩いていました。 足元はふわふわで、柔らかい。まるで綿毛の上を歩いているよう。不思議と怖くありません。むしろ、心地よい。 前方に、大きな月が静かに浮かんでいます。 チロの手には、いつの間にか小さな光の雫がありました。きらきら、きらきら。手のひらの中で、優しく輝いています。 チロは月に向かって歩いていきました。 一歩、また一歩。 懐かしい感じがします。どこかで会ったことがあるような。ずっと前から知っていたような。 やがて、月の前に立ちました。 月は何も言いません。ただ、優しくチロを見ています。 チロは光の雫を、そっと差し出しました。 「これ...」 言葉が見つかりません。何を言えばいいのか、わかりません。 でも、伝わる気がしました。 月はゆっくりと、雫を受け取りました。 その瞬間、月が少し明るく輝きました。ほんの少し、温かく。 チロは微笑みました。 月も、微笑んだような気がしました。 言葉はありません。でも、何かが確かに交わされたのです。 --- 夜明け前の森は、静けさに包まれていました。 チロの小さな体から、光の雫がふわりと浮かび上がりました。 まるで、もう役目を終えたと知っているかのように。 雫はゆっくりと、空へ昇っていきます。 穴の外では、まだ星が瞬いています。夜と朝の間、世界が息を潜めている時間。 光の雫は、森の木々の間を抜けていきました。 眠る鳥たちの上を。 湖の上空を通り過ぎて。 星々の間をすり抜けて。 きらきら、きらきら。 雫は月へと向かいます。 月は、静かに待っていました。 雫が月に触れました。音もなく、光が溶け合います。 月の光が、ほんの少し、温かくなりました。 それだけでした。 でも、何かが変わった気がしました。空気が、少し優しくなったような。風が、少し柔らかくなったような。 --- 東の空が、薄く明るくなり始めました。 チロは穴の中で、深く眠っています。小さな寝息。口元には、穏やかな笑み。心配事は、まだそこにあるのかもしれません。でも、もう怖くありません。 穴の外では、最初の鳥が鳴き始めました。 湖では、ぴちこが朝の光の中を泳いでいます。今日も元気に、くるくると。昨夜の出来事を思い出して、嬉しそうに尾びれを振っています。 岸辺では、ルナリアが花びらをゆっくりと閉じていきます。夜の終わりを告げるように。「また、夜が来たら」と、囁くように。 木の葉の下では、ソラが目を覚ましました。「いい夢を見たねえ」と、誰にともなく呟きます。のんびりと羽を伸ばして、また新しい一日が始まります。 そして空では、月が地平線へと沈んでいきます。 月の姿は、いつもと同じです。 でも、どこか満ち足りているような気がしました。 朝日が、東の空から昇ってきました。 金色の光が、森を照らします。湖を照らします。眠るチロの穴も、優しく照らします。 新しい一日が始まりました。 鳥が歌い、風が吹き、世界は静かに、回り続けます。 小さな光は、見えなくても、そこにあります。