たけじゅん
2 件の小説苦手な上司
強い日差しの照りつける窓外の景色を眺めながら、僕は小さくため息をついた。 大学卒業後、僕は京都市内にある出版社で週刊誌の記者として働き始めた。希望の部署に就けたと喜んだのも束の間、その幸運とバランスを取るかのように、編集長は苦手な人だった。いわゆる「配属ガチャ」のはずれを引いたのである。 週刊〇〇編集長の榎本がカリスマと呼ぶにふさわしい人物であるというのは、認めざるを得ない事実である。二年前、彼は三十八歳で編集長に抜擢されると、その広範な人脈と先見の明を生かし、売り上げが低迷していた週刊〇〇を人気雑誌へと復活させた。社内には榎本派閥さえあるらしい。 ただ編集長は、僕にだけ異様な厳しさで接してきた。初めは働きぶりが悪いからだと考え我慢できたが、嫌われているのか夏に入っても一向に好転する気配がなく、次第に僕は心身ともに疲弊していった。 「鴨田くん大丈夫ー?元気ないように見えるけど」 声がして後ろを振り返ると、茉奈さんが心配そうに立っていた。 茉奈さんは一つ上の先輩で、同じ記者として働いている。大変明るく面倒見の良い人で、どんなに些細な相談にも乗ってくれる。二か月前、僕の初めて書いた原稿が編集長にゴミ同然だと言われたときも、茉奈さんは居酒屋で遅くまで話を聞いてくれた。そこで酒に飲まれた僕は、弱っていたのもあってどうやら愛の告白をしたらしい。そのことを翌日本人から聞かされた僕は顔から火が出る思いをしたが、返事はもらえなかった。その週の土曜日に、編集長と茉奈さんがお揃いのパーカーを着て歩く姿を目撃したが、見なかったことにしておいた。 「大丈夫です、何でもないです」 「そう?あまり頑張りすぎないようにね。ところでさ、明日午後に一件取材行くことになったから付いてきてくれる?ついでに記事書くのも任せちゃおうと思うんだけど」 「わかりました。どこ行くんですか?」 「『ルークの丘』。今年の三月にできた新興宗教団体で、今すごいスピードで信者を増やしてるらしいの」 「面白そうですね」 「でしょ?じゃ、明日よろしく!」 茉奈さんはそう言うと、僕の肩をポンと叩いて自分のデスクへ戻っていった。 翌日、茉奈さんと僕は午後一時二十八分烏丸御池駅発の地下鉄に乗り、北大路駅で降りた。『ルークの丘』の事務所は駅から歩いて十五分ほどであった。北大路通りから少し外れたわかりにくいところにあったが、茉奈さんは迷うことなく進んでいった。 エレベーターで事務所がある二階に出ると、三十代と思われる眼鏡の男性が僕たちを出迎えた。後の話でわかったことだが、彼は教団内で幹部と呼ばれるメンバーの一人で、教団の運営は基本的に彼ら幹部が行っているらしい。トップには教祖様と呼ばれる人がいて、普段はサラリーマンとして働いているが、幹部しか会うことは許されていないとのこと。 取材は滞りなく行われた。奥の応接間に通された僕たちは、予め用意した質問を投げかけると、幹部の男性は台本のようにスラスラ答えてくれた。一通り質問を終えたあと、最後に茉奈さんは今日の取材の核となる質問をした。 「では、『ルークの丘』はどのようにして信者を増やしているのでしょうか?」 それを聞くと、男性は待ってましたと言わんばかりに姿勢を直し、一呼吸おいてから話し始めた。 「はい。私たち『ルークの丘』は先ほど説明しました通り、教祖様のパワーを信じる者の集まりです。ですので、教団に少しでも興味がある方がいたらまずイベントなどに足を運んでもらい、教祖様のパワーを体験していただきます。まあ、教祖様は顔をお見せにならないので、パワーを行使するのはそれを分け与えられた私たち幹部なのですが。パワーを使えば、誰の悩みも解決法もすべて明らかになります。パワーをまずは体験していただき、引き続きその効果にあやかりたいという方々から、信者としてお布施をいただくという形です。例えば、鴨田さん」 「え、はい」 「あなた、編集長についていけなくて悩んでいるでしょう。力を使えばわかります。せっかく取材に来てくださったので、今回は特別に解決法もお教えしようと思うんですけど、いかがですか?」 急な展開だったので、僕はすぐに返事をできなかった。図星ではあったが、新人記者が編集長についていけないというのはよくあることである。悩んだ挙句、僕は「お願いします」と答えた。信じたわけではないが、強く断る理由もなかった。 「編集長は甘いものに目がありません。脈絡がなくてもかまいませんから、何か甘いお菓子をプレゼントしてみてください。あなたへの対応が変化するはずです」 翌日僕は、『ルークの丘』についての原稿をチェックしてもらうついでにコンビニで買ったバウムクーヘンを一つ編集長に渡した。内心意味がわからないと思いつつ、ダメならダメでどうせ怒られるのだからと半ば開き直っていた。 編集長はそれらを受け取ると、表情を一変させた。 「よく書けているじゃないか」 「…え?」 「よく書けている。この調子で頼むぞ」 僕は耳を疑った。褒められたのは入社して初めてのことであった。デスクに戻ったあともしばらくは信じることができず、五分ほど経ったあとにようやく事実を認識した。様子を見ていたらしい茉奈さんが近づいてきて、 「やったじゃん。教祖様のおかげ?」 と笑いながら耳打ちしてきた。初めて働いてきてよかったと思えた。 それからというもの僕は、見違えるように活き活きと働いた。甘いお菓子を渡す、たったこれだけのことで悩みが解決するなんて。翌日僕は勢いのままに新たな原稿を書き上げ、編集長に提出した。もちろん、バウムクーヘンと一緒に。 編集長はそれらを受け取ると、表情を一変させた。 「なんだこれは」 「…え?」 「なんだこれはと聞いている」 「バウムクーヘンです。以前編集長が気に入られていた様子なので、今回も」 次の瞬間、僕の視界は何かに覆い尽くされた。少ししてから、原稿を顔に投げつけられたのだとわかった。 「仕事をなめているのか。機嫌をとっている暇があったら、もう少しマシな原稿を書け!」 今までよりも強く怒られた気がした。 なんとかその日の仕事を片付けた僕は、肩を怒らせて地下鉄に乗り、『ルークの丘』事務所へと向かった。取材したときと同じ眼鏡の男性がいた。 「あら、鴨田さんではないですか。どうされましたか?効果は表れましたか?」 「話が違います!」 僕は事の顛末を説明した。幹部の男性は特に驚いた様子もなく聞いたあと、落ち着いて説明を始めた。 「申し訳ありません。教祖様のパワーを得られるのは一回限りなんです。引き続き編集長に褒められるには、再び教祖様のパワーを受けることが必要です」 僕はその言葉とは裏腹に男性が悠然としていたことに少し腹を立てたが、そもそもが特別にパワーを体験させてもらったのだから仕方がない。 「今ここで教祖のパワーを受けることってできますか」 「できますが、取材の際に説明した通り、二度目以降は信者としてお布施を納めていただかなくてはなりません。初めのお布施は百円になります。教団はいつでも脱退できますが、いかがいたしますか?」 「百円なら…教団は一度入ったら抜けられないんですか?」 「いいえ。いつでも脱退することができます」 「それなら…」 僕は百円を払った。 「ありがとうございます。では、次の解決法をお伝えします。編集長は…」 翌日言われたとおりにすると、編集長は再び僕を褒めてくれた。翌々日、編集長は再び僕を詰めた。またかつてない怒られ方のように感じた。 褒められると、怒られたときの苦しみはかえって倍増した。僕はそれに耐えられなくなっていった。一度のお布施に必要な金額は二百円、五百円、千円と増えていった。茉奈さんはいつからか僕のことを気にかけてくれなくなった。 それでも希望はあった。お布施が百回に達すると、幹部になれるというのである。幹部になれば、教祖様のパワーを分け与えてもらえるので、これ以上お布施を納める必要がなくなるどころか、お布施の一部を収入として受け取ることができるという。もはや引き返せなくなった僕は、百回を目指してお布施を納め続けた。 秋も深まる頃、僕はついに百回目のお布施を納めた。貯金は既に底をつき、借金をする。それでもよい。幹部となってお布施の収入から返済に充てればいいのだ。 「鴨田さん、百回目のお布施おめでとうございます。これから教祖様のもとへご案内いたします」 例の男性幹部はそう言うと、事務所の外に用意してあった車に私を乗せた。 「今から三十分ほどで教祖様の職場へ到着いたします。そこで色々説明しますね」 「ありがとうございます。そういえば、教祖様って普段は何の仕事をされてるんですか?」 「雑誌の編集長です。あ、詳しくは後で説明しますが、幹部にはいくつかルールがあって、そのうちの一つに『教祖様と同じアイテムを身に付ける』というのがあります。例えば私はこうして同じ眼鏡をかけさせていただいております。教祖様は普段はコンタクトですけどね。アイテムは何でもよくて、あなたと一緒に取材に来られた茉奈さんは同じパーカーを持っているそうです」
無口な彼女
仕事を終え、ワンルームの家に帰りドアを開けると、モワッとした匂いが鼻を突いた。ただでさえ夏本番、自分の体も汗臭いのに、追い打ちをかけられて堪える。 「早くゴミを捨てなくては」 そう言うと私は明かりをつけ、急いで窓を開け換気をする。 彼女はベッドに横になっていた。余程疲れていたのか、朝からずっとこの調子である。寝返りを打った形跡もない。人形のような白い肌が美しく、体は陶器のように冷えていた。私はブランケットをかけてあげる。改めて彼女を見ると、ふと彼女は絵なのではないかと錯覚した。このまま額縁にしまえそうとすら思えてくる。私も疲れているのだろうか。 無口な彼女は、滅多に口をきかない。昨晩も、車内にいるときも私の部屋に入ってからも何も話さなかった。だから私は実をいうと、彼女のことをまだよく知らないのである。そんな女といて何が楽しいのかなんて思われるかもしれないが、何も話さないからこそ、その人の魅力は永遠に続くのである。想像する自由を彼女は与えてくれる。 一向に起きる気配がないので、仕方なく私は一人で片づけを始める。匂いのもととなるゴミを、一刻も早く捨ててしまいたい。作業をはかどらせるために、ラジオをつける。夜のニュースが流れている。 「…続いてのニュースです。昨日の夜10時ごろ、○○県△△市に住む女子大学生の井田優香さんが、自宅を出たきり行方が分からなくなっています。警察は、事件に巻き込まれた可能性もあると見て捜査を進めています…」 「お前、優香っていうのか」 そう言うと私は、彼女とベッドを縛り付けている縄を解き、練炭の燃え滓と一緒にゴミ袋に入れて持ち、家を出た。スタンガンは机の引き出しにしまっておいた。 彼女は返事をしなかった。