moon
3 件の小説綺麗ですね
僕の世界は、切ないほどに優しい色をしていた。 白瀬先輩、綺麗ですねー。 パタンー。生徒会室の茶色い扉が、優しい音を立てながら開く。生徒会室に入ってきたのは、副会長の白瀬先輩だった。透き通った肌、さらさらと揺れる綺麗な黒髪、真っ直ぐな瞳、整った顔立ち。 「あ、香月くん。九条くん、知らないかしら?」 「…知りません」 「そう。ありがとう」 また、優しい音を立てながらドアがパタンと閉じる。白瀬先輩は、九条先輩の彼女だ。そして、僕の好きな人。叶うはずのない恋を、僕、香月玲はしている。 九条先輩は生徒会長で、白瀬先輩は副会長を務めている。そして、二人より一つ年下の僕は書記をしている。二人はいつも、周りに人だかりができるほど人気だし、信頼されていて、人望も厚い。九条先輩は、サッカー部のキャプテンでエース。活発で頼りにもなる九条先輩は、みんなの憧れの存在だ。白瀬先輩は、学年トップの学力を持ち、美術部として活動していく中でいくつもの賞を受賞している。優しくて穏やかで、とても綺麗な白瀬先輩。白瀬先輩には『かわいい』よりも『綺麗』という言葉がぴったりだと、学校中の誰もが思っている。そんな二人は、本当にお似合いだ。僕なんかが出る幕はない。そうー僕は、人望もないし無口で、信頼なんてものはない。ただ、書道九段を獲得しており、字の才能が認められて生徒会メンバーに推薦されただけだ。でも、ほんの少しでも僕にできることがあるならば、と思って生徒会メンバーに入っている。今の僕にできることは、綺麗な字で行事黒板の記入をすること、生徒総会のための書類作成、その他雑用。そして、白瀬先輩と九条先輩の幸せを祈ることだ。 生徒会室の窓から、夕焼け空が広がっている。窓からは、光のカーテンが差し込み、この部屋を温かく包み込んでいる。僕は、生徒会室の窓から見える景色の中で、この時間帯のものが一番好きだ。儚くて切なげな夕日が、この生徒会室を優しく照らす。 僕が、白瀬先輩と初めて出会ったのも、儚くて切なげな夕日の真下だった。その日、僕は下校中に家の鍵を落とした。泥だらけになりながら、必死に溝の下に手を伸ばす。行き交う人たちからは、「きたない」と言われ、嘲笑われた。落とした鍵を諦めかけていたとき、ふっ、と僕の上に優しい影が被さる。さらさらと揺れる黒髪が印象的だった。僕の隣にしゃがみこんで、色白で細い、その綺麗な手を泥の中に入れた。 「え…汚れますよ!?」 「だって、不器用くんには取れなさそうだもの」 そう言って、少しいたずらっぽく笑いながら掲げた手には、僕の鍵があった。 「鍵、あったんですか…!?ありがとうございます!」 「どういたしまして」 「えっと、副会長の白瀬先輩ですよね?」 「そうよ。あなたは、香月玲くんね」 「え、なんで知って…?」 「副会長だから。全校生徒の名前を覚えてるの」 その瞬間、僕は恋に落ちたんだ。ただ一人だけ、白瀬先輩だけは、こんなにもみすぼらしい僕でも、立ち止まってくれる。制服の袖や手、髪の毛にも少し泥がついているはずなのなのに、白瀬先輩は綺麗だった。 資料をまとめ終わり、下校するための準備をする。重たい茶色の扉を開けながら、生徒会室を後にする。階段を降り、靴を履き替え、校門前にたどり着いたら人影が現れた。どきり、と僕の心臓が飛び跳ねる。そこにいたのは、白瀬先輩だった。 「白瀬先輩。九条先輩には会えました?」 「会えなかったわ」 「そう、ですか」 白瀬先輩は、目を細くして寂しそうに微笑んだ。赤とオレンジがかった空は、あと数分で真っ黒な闇に包まれる。白瀬先輩は、確か僕の家よりも遠かったはず。 「一緒に帰りませんか」 気がついたら、声にしていた。白瀬先輩は少し驚いてから、また笑みを含んで口を開く。 「いいけど」 白瀬先輩と僕は、二つの影を彩りながら住宅街を進んだ。 「初めて会ったときも、これくらいの時間帯だったわね」 「覚えててくれたんですか」 赤と、オレンジと、黄色のグラデーションの夕焼け空をバックにした白瀬先輩は、切ないほどに綺麗だ。夕日が綺麗なんじゃない、白瀬先輩が綺麗だ。僕の胸はこれ以上にないくらい、早鐘を打っていた。 僕は、その真っ直ぐな瞳が、さらさらと揺れる黒髪が、穏やかな声が、優しさが好きだ。この想いを口にしたかった。振られてもいい、だからせめて伝えたかった。でも、白瀬先輩には白瀬先輩が好きになった人と、その綺麗な笑顔でいてほしい。 『月が綺麗ですね』は、『私はあなたのことが好きです』という意味を持つと、多くの人が知っているだろう。でも、『夕日が綺麗ですね』は、『あなたは私の気持ちを知らないでしょうね』という意味を持つらしい。もう、月が出かかっているのに、僕は夕日を選んだ。好き、だなんて言わない。言ったらいけない。僕は、白瀬先輩のことが本当に好きだから。こんなにも好きだから、言えない。でも、もしも、この気持ちに気づいてくれたならば、と強く願い、僕は今にも消えそうな声で呟いた。 「白瀬先輩、夕日が綺麗ですね」 「そうね」 白瀬先輩は、生き生きとする真っ赤な夕日を眺める。そして、夕日なんかに負けない綺麗な笑顔を、僕に見せてくれた。
永遠のない世界で、私は君と。
世界はいつだって理不尽で非常だ。まだ、十六年しか生きていない私にだって、この永遠のない世界のことを理解できる。 ーねぇ、神様。もしも神様が本当にいるならば。 もう、これ以上何もいらない。もう、何も与えなくてもいい。でも、もうこれ以上、私から何も奪わないで。私の大切なものを奪っていかないで。 雨。ポツポツとした雫は、私の中に入ってくる。頭も体もぐしょぐしょなはずなのに、何も感じない。遊具も何もない公園に、私、二宮朱音(にのみや あかね)はいる。自分の肩が震えていることに気づき、私は寒いのか、なんて今更ながらに思った。ぼーっと空を眺めていたとき、頭上に一つの影が被さった。 「…傘は?」 「え…?」 肩の震えが止まっていた。それは、彼が私に、傘を差しかけてくれてくれているからだとわかった。綺麗な瞳、色素の薄い髪、整った顔立ちの幼馴染の彼は小林蒼(こばやし あおい)。 「蒼…」 「お前、何してんの?」 「別に」 わざと、そっけない返事をした。そしたら、彼は立ち去ってくれるだろうと考えたから。でも、その考えは浅はかだったようだ。 「俺は、この公園に走りに来た」 「…雨なのに?」 「それはお前こそな。俺、次の野球の試合で絶対に勝ちたいから」 「そう…なんだ」 「俺はプロ野球選手になりたい。朱音は…?夢とかある?」 夢…?そんなものは。 「あるわけない」 私の世界に希望なんてものはない。夢も将来も、何もいらない。空気中に舞う雫は、苦しいほどに悲しい水の香りがした。 「じゃあ、私は帰るから」 「あぁ、じゃあな。風邪引くなよ」 感情ってなんだっけ。幸せってなんだっけ。幸せの反対ってなんだっけ。自分って誰だったっけ。 まるで、日々重くなる荷物に耐えきれなくて潰されたような、刺され続けてきた傷が大きく開いたような、糸がぷちんと切れたような、そんな感覚に陥る。 私は、確かに幸せだった。お母さんがいて、友達がいて、ご飯が食べられて、居場所があったはずなのに。去年、お母さんが事故で亡くなってから、私の世界は劇的に変動した。お父さんとの生活は、とても苦しい。お母さんがいなくなった寂しさを、お酒でうめるようになったお父さん。優しくて穏やかだったお父さんは、私に暴力を振るうようになった。友達からは「お母さんがいなくて可愛そう」と言われ、いじめられるようになった。家にも学校にも、自分の居場所がなくなった。あんなにも明るい性格だった私は、一瞬で消えた。 でも、それだけならまだ耐えられた。元気で面白くて大好きなお母さんに会えなくなっても、大切な親友や友達からいじめられても、最後の何かが崩れ落ちることはなかったはずなのに。神様は最後、私に陸上を残した。ただひたすらに、大地を駆け巡る。走っている間だけは、風になった気分でいられる。陸上だけは、いなくなったりしないから。裏切られることも、傷つけられることもない。練習を重ねれば、必ず結果が出る陸上は、私を裏切らないのだと信じていた。でもある日、ついに陸上までも私を裏切った。友達に階段から突き落とされて右足を複雑骨折した私は、走れなくなった。この、生きていても意味のない世界から、明日私はさよならをする。そう、自殺するのだ。天井を見つめながら、「眠いってなんだっけ」と呟き、目を閉じる。だんだんと、意識が薄れていくのがわかった。 朝、目が覚めた。私の最後の朝は、憎々しいほどに真っ青とした快晴の空。あんなにも苦しい夜でも、必ず朝がやってくるなんて理不尽だと思う。別に、朝なんかやって来なくてもいいのに。夜のうちに、私なんか、ぱっと消えちゃっていいのに。私は、複雑骨折して完治しない右足を庇いながら、海に駆け出した。青い空と白い雲を眺めていると、海風の香りが徐々に近づいてくる。 崖の上。真下に打ち寄せる波。死を覚悟したというのに、心は不思議なほど落ち着いていた。何も怖くない。むしろ、この苦しみから開放されるのかと思うと、喜びに震えそうだ。苛立ちさえも覚える快晴の空を映す海に向かって、ゆっくりと足を踏み出す。私は、大空に向かって思いきり地面を蹴った。水の塊が私を包む。大量の気泡が全身に絡みついてくる。身体が、海底へと沈んでいくのがわかる。呼吸ができない。私は苦しんでいるのか、なんてことを考える。 次の瞬間、水中を埋め尽くす泡を引き裂くように、蒼が飛び込んできた。全てがスローモーションの世界で、彼が私のもとへ泳いでくる。苦しい呼吸の中で私の唇が、あおい、と勝手に動いた。 私と蒼の唇が重なる。優しく、私の中に空気の泡が入ってくる。そのあと、繋いだ手をものすごい勢いでつかまれ、水中から引き上げられた。 水面から顔が出た瞬間、本能的に空気を吸い込んだ。水を吸って重たくなった服と格闘しながらも、なんとか二人で砂浜に寝転んだ。何度も肩を震わせながら空気を吸い込み、呼吸が落ち着いてきた頃、蒼が口を開いた。 「…朱音、何してるんだよ」 苦しげな声が耳元で囁く。 「なんで…」 なんで、私を助けたの。なんで、死なせてくれないの。なんで、私の居場所がわかったの。なんで…なんで、なんで。言葉にならない疑問が喉の奥にたまっていく。 「お前、死にたいの…?」 「そうだよ。いつも明るくて、何でも持ってる蒼には、死にたい私の気もちなんかわかりっこない」 そうーお母さんがいて、友達がいて、ポジティブで明るく生きられる環境と居場所がある蒼には、私の気持ちなんかわかるはずがない。 「そうだな、お前の気持ちなんかわかんねーよ」 「じゃあ、私を死なせてよ…!」 私の叫び声が青空に吸い込まれていく。蒼の中に吸い込まれていく。 「朱音の気持ちは朱音にしかわからない。俺は、悔しいけど…朱音の全てを理解することはできない。でも、俺だって…生きるのが辛い」 「どういう…こと?」 いつもの元気や笑顔が消え、今にも泣き出してしまいそうな蒼の姿がそこにあった。 「俺には、母さんも父さんもいない」 「え?いるじゃない…」 「違う。今、住まわせてもらってる家の人たちとは、誰とも血が繋がってない」 「え…」 いつも綺麗な蒼の瞳が、今日は曇りがかっている。ぽつりぽつりと、蒼が口を開いた。 蒼は、お母さんとお父さんから捨てられたこと。今住んでる家の人たちに、拾われたこと。うわべ上の友達はいても、裏で蒼は陰口を言われていること。親からも友達からも必要とされなくて、死のうとしたこと。全部、全部、私に教えてくれた。 「俺…傷つくのが怖いんじゃなくて、嘘つかれるのが許せないんじゃなくて、捨てられるのが嫌なんじゃなくて、自分は相手にとってその程度なんだって思い知らされることが酷く悲しい…」 「それでも…表面上、明るく生きていけるのはどうして…」 「俺、気づいたんだ。死にたいわけじゃないって…生きるのが辛いんだって」 ”死にたい”わけじゃなくて”生きるのが辛い”。 「私も…そうかもしれない」 「…だろ?」 力ない笑みを浮かべた蒼は、切なげな表情で青空を眺めた。 「俺が野球選手になりたいのも、うわべ上だけでも友達と仲良くするのも、生徒会長をするのも、全部自分のためなんだ」 「え…でも、蒼はいつも人のために頑張って…」 「違う。全部、自分のためだ。生きる理由を必死で探してるだけ。誰かから認められたい、必要とされたい。そしたら、自分の存在価値が上がるような気がして…。だから…全部、自己満足なんだ」 蒼の話を聞いていたら、なぜか涙が溢れ落ちていた。泣くことを忘れていた私が、なぜか泣いている。 「私も…生きたい」 震える声で必死に、想いを声にする。 「うん。朱音は…本当に綺麗な色をしてる…」 「え?」 「俺の”蒼”は”青”じゃない…汚い緑に近い色。だけど、”朱音”の”朱”は、明るい黄色を帯びた鮮やかな赤色のことだから」 確かに、見た目上はそんな色かもしれない、朱色のほうが鮮やかに見えるかもしれない…だけど。 「蒼は知ってる?朱色は、赤と黄色の混合色。蒼色は、青と黄色の混合色なんだよ」 「え…?」 「だから、蒼にも鮮やかな黄色があるの。汚い色なんかじゃない、深い色なんだと思う」 「深い…色」 曇りが晴れた、その綺麗な瞳で蒼が笑った。 「俺、朱音のそういうところが好き」 「え…、好き?」 「うん。俺は、ずっと朱音のことが好きだった」 まるで、全身が熱を帯びたように熱い。心臓は早鐘を打ち始めた。この永遠のない世界のことを、私はよく知っているのに。いつかきっと、傷つけて傷ついてしまうのに。 「俺と付き合ってください」 この真剣な眼差しに、気がついたら「はい」と答えていた。永遠のない世界で、私は君と生きてみるのも悪くないかもしれないと思ってしまった。気づけば、青色だった空に朱色が加わっていた。
メリーゴーランド
気がつけば、いつだって私の隣にはこうくんがいた。 「こうくん」 それは、ずっと変わらない存在だと思っていた。 でも、変わらないものなんてない。 メリーゴーランドのように、いくら回っても追いつけないものがあるー。 物心ついた頃から、家が隣のこうくんとは兄弟のように育ってきた。一番鮮明に残っている記憶は、暗くなるまで裏山で遊んだあの日の出来事。あの日、こうくんは裏山に作った秘密基地へと案内してくれた。こうくんは、私の手を優しく引きながら、急な斜面を一生懸命登ってくれた。 突然、木々の視界がパッと開けたとき、世界が一変したんだ。そう、それはまるでー。色彩で散りばめられた、パレットのよう。赤とオレンジと黄色の水彩絵の具を混ぜ合わせたかのような、美しい空だった。まだ少し残っている青空が、夕日に照らされて存在をアピールしている。山のあちこちには、百合が一面に広がっていてとても優しい香りがした。 「ひーちゃんに、ずっとこの景色を見せたかったんだ」 そう言って、いたずらっぽく笑ったこうくんはブランコに乗った。木材とロープでできたブランコは、キシキシと音を立てながらグラデーションになった大空へと飛び、百合の花が咲き誇る大地へと着地する。 「そのブランコも、こうくんが作ったの?」 「うん!」 あの日に見た景色は、きっと一生忘れないと思う。私より二つ年上のこうくんは、同じクラスの男の子とは少し違った大人びた笑顔をする。その優しい笑顔が向けられると、どうしてか心がぽかぽかした。これが初恋だと知ったのは、もう少し先のこと。 お風呂に入りながら、布団に潜りながら、こうくんの笑顔を思い出してはぽかぽかとした優しい気持ちに包まれる。 「お母さん!あのね、ひーちゃんね、こうくんと結婚する!」 あのときは、何を根拠に言っていたのかわからないけど、気づけばいつもお母さんに語っていた。こうくんと話したこと、遊んだこと、行った場所、私はずっとこうくんのことばかりを考えていた。 晴れの日も雨の日も、毎日真っ暗になるまでこうくんと遊んだ。門限を過ぎても、叱られるまでは二人で部屋に隠れてずっと一緒にいた。 「だって、ひーちゃんたち兄弟だよ!だから、門限を過ぎてもお家で遊んでもいいもん!」 私はそんな屁理屈を言っては、いつもお母さんを困らせていた。こうくんとは、一度も喧嘩することなく、毎日飽きずに会っていた。 こうくんは、私より二年先に中学生になった。テニス部に入ったこうくんは、毎日遅い時間に帰ってきて、とても忙しそうだった。それでも、部活が休みの水曜日だけは、私のために時間を空けてくれる。でも、何度か私との約束の水曜日に、こうくんの友達がやって来た。 「抗生、遊ぼーぜ!」 そんなとき、こうくんは困ったような表情を浮かべて、申し訳なさそうに私を見る。 「大丈夫!また今度、遊んでね」 「うん…ごめんね」 こうくんと遊べないのは寂しかったけど、仕方がないことだからいつだって「大丈夫!」と強がった。 私とこうくんの遊ぶ回数は、徐々に減っていった。こうくんは、中学生の男の子たちとよく出掛けるようになった。悲しかったけど、私とこうくんは性別も違うし、歳だって違う。だから、仕方がないこと。でも、できることなら、私もこうくんと同じ年に生まれたかった。そしたら、今よりもっと近づけたかもしれない。同じクラスになって、隣の席になれたかもしれない。それに、妹だなんて思われなかったかもしれない。好き、って伝えられたかもしれない。たった二年の差でも、私にとってはとても大きくて絶対に追いつくことのできないものだった。 やっとの思いで二年が過ぎ、私もこうくんと同じ中学生になった。慣れない紺色のセーラー服に身を包まれて、中学校に通い始めた。 メリーゴーランドが一周したときに、中学生になったこうくん。二周目を向かえた今、私はやっと中学生のこうくんに追いついたー。 一番に、こうくんのいるテニス部に見学に行った。被っている燃えるような真っ赤な帽子は、こうくんのお気に入り。汗を垂らしながらも、テニスラケットを振るこうくんに、私は見とれていた。私は、このとき決めたんだ。私も、こうくんと同じテニス部に入ってキャプテンになることを。こうくんを必死で追いかけることをー。 「こうくん!」 呼び慣れた名前を、私は声にした。でも、そう呼んだ直後に後悔することになる。 「…“こうくん”って、抗生先輩のこと?」 「え、ありえなくない?」 周りからの激しい批判を受けた。 そうー。そこにいたのは、私のよく知る“こうくん”ではなかった。テニス部のキャプテンで、先生や後輩、同級生からも慕われる“抗生先輩”。 今まで何万回も呼んできた名前を、口にすることもままらない“中学校”という世界が、私は嫌いになりそうだ。 この記憶がフラッシュバックすると、まるでミサイルのように私を撃ち抜く。恥ずかしさと哀れさが、私の中に刺さってチクチク痛む。 よく考えてみたら、メリーゴーランドが二周目で追いつけるはずもなかった。だって、二周目に入ったとき、やっと中学一年生になった私と、中学三年生になったこうくんは全く違うから。私が一周目を過ごすとき、こうくんは二周目にいる。私が二周目を過ごすとき、こうくんは三周目にいる。どうあがいても、この差を縮めることできないんだ。 部活の見学期間も終わり、私はこうくんと同じテニス部に入部した。最近、こうくんに顔を会わせずらい。校内で会ったときも、テニスコートで会ったときも、家の前で会ったときも、どうしてもこうくんを避けてしまう。 「抗生先輩、お疲れ様です」 大好きなこうくんに、それだけを言い残して走り去ってしまう。背が伸びて、声も大人の男の人になって、テニス部のキャプテンの“抗生先輩”。こうくんは、十歩で行き来できるほど近くに住んでいるのに、とても遠い存在に思えてくる。 それでも、こうくんのことをずっと見ていた。日が沈んでも暗くなっても、家の前でラケットを振っているこうくん。そんなこうくんを、カーテン越しにずっと眺めていた。 「こうくん…」 ピコンー…。スマホの着信音だ。誰からだろう、そう思ってロック画面を解除した矢先、“抗生”という文字が現れた。 『今から少し、出て来れる…?』 また、あのぽかぽかした気持ちが私を覆う。猛スピードで靴を履いて、玄関のドアを開いた。 「ひーちゃんだ」 こうくんは、私のよく知っている優しい笑顔を向けてくれた。こうくんの笑顔は、まるで陽だまりのようだ。 「中学校、慣れた?」 「うん」 「誰先生が好きー?」 「あの理科の先生、テニス部の」 「あー、怒ると雨が降るっていう、あの先生か!」 「うん!」 昔のように、たくさん二人で笑い合った。他の男の子には誰にもドキドキしない。でも、こうくんとの会話だけは心臓が早鐘を打つんだ。こうくんが好き、大好き。こうくんは、昔と同じように“ひーちゃん”って、呼んでくれた。私もー。 「こ、こうくん…!」 思いきって大好きなその名前を呼んだら、声が裏返って情けなく空に消えていった。もう一度、精一杯の思いで声にする。 「こうくんって、前みたいに呼びたい…」 「俺も“こうくん”がいい」 こうくんは、テストで満点を取った小学生みたいに嬉しそうに答えた。 「部活とか学校では…こうくん先輩って呼んだらいいかな?」 「ふっ…!こうくん先輩って…!まぁ、別にいいけどさ」 こうくんの優しさは、何も変わっていなかった。背が伸びて、声も大人の男の人になって、テニス部のキャプテンになっても、こうくんは“こうくん”のままだった。私がこうくんを大好きな気持ちも、ずっとそのままだった。 「こうくん」 こうくん、こうくん。私が何度も確かめるように“こうくん”と呼ぶと、こうくんは照れ臭そうに「なんだよ」と笑った。いつかの日と同じ、赤とオレンジと黄色の色彩豊かなパレットのような夕焼け空をバックにしたこうくんの笑顔は、いつかの日と同じように、ただひたすらに綺麗だった。 歳の差は埋められない。いくら回ろうが追いつけない、メリーゴーランドのように。でも、変わらない何かが私たちの中に確かにあったのだ。 気がつけば、いつだって私の隣にはこうくんがいた。 「こうくん」 それは、ずっと変わらない存在だと思っていた。 でも、変わらないものなんてない。 メリーゴーランドのように、いくら回っても追いつけないものがあるー。 物心ついた頃から、家が隣のこうくんとは兄弟のように育ってきた。一番鮮明に残っている記憶は、暗くなるまで裏山で遊んだあの日の出来事。あの日、こうくんは裏山に作った秘密基地へと案内してくれた。こうくんは、私の手を優しく引きながら、急な斜面を一生懸命登ってくれた。 突然、木々の視界がパッと開けたとき、世界が一変したんだ。そう、それはまるでー。色彩で散りばめられた、パレットのよう。赤とオレンジと黄色の水彩絵の具を混ぜ合わせたかのような、美しい空だった。まだ少し残っている青空が、夕日に照らされて存在をアピールしている。山のあちこちには、百合が一面に広がっていてとても優しい香りがした。 「ひーちゃんに、ずっとこの景色を見せたかったんだ」 そう言って、いたずらっぽく笑ったこうくんはブランコに乗った。木材とロープでできたブランコは、キシキシと音を立てながらグラデーションになった大空へと飛び、百合の花が咲き誇る大地へと着地する。 「そのブランコも、こうくんが作ったの?」 「うん!」 あの日に見た景色は、きっと一生忘れないと思う。私より二つ年上のこうくんは、同じクラスの男の子とは少し違った大人びた笑顔をする。その優しい笑顔が向けられると、どうしてか心がぽかぽかした。これが初恋だと知ったのは、もう少し先のこと。 お風呂に入りながら、布団に潜りながら、こうくんの笑顔を思い出してはぽかぽかとした優しい気持ちに包まれる。 「お母さん!あのね、ひーちゃんね、こうくんと結婚する!」 あのときは、何を根拠に言っていたのかわからないけど、気づけばいつもお母さんに語っていた。こうくんと話したこと、遊んだこと、行った場所、私はずっとこうくんのことばかりを考えていた。 晴れの日も雨の日も、毎日真っ暗になるまでこうくんと遊んだ。門限を過ぎても、叱られるまでは二人で部屋に隠れてずっと一緒にいた。 「だって、ひーちゃんたち兄弟だよ!だから、門限を過ぎてもお家で遊んでもいいもん!」 私はそんな屁理屈を言っては、いつもお母さんを困らせていた。こうくんとは、一度も喧嘩することなく、毎日飽きずに会っていた。 こうくんは、私より二年先に中学生になった。テニス部に入ったこうくんは、毎日遅い時間に帰ってきて、とても忙しそうだった。それでも、部活が休みの水曜日だけは、私のために時間を空けてくれる。でも、何度か私との約束の水曜日に、こうくんの友達がやって来た。 「抗生、遊ぼーぜ!」 そんなとき、こうくんは困ったような表情を浮かべて、申し訳なさそうに私を見る。 「大丈夫!また今度、遊んでね」 「うん…ごめんね」 こうくんと遊べないのは寂しかったけど、仕方がないことだからいつだって「大丈夫!」と強がった。 私とこうくんの遊ぶ回数は、徐々に減っていった。こうくんは、中学生の男の子たちとよく出掛けるようになった。悲しかったけど、私とこうくんは性別も違うし、歳だって違う。だから、仕方がないこと。でも、できることなら、私もこうくんと同じ年に生まれたかった。そしたら、今よりもっと近づけたかもしれない。同じクラスになって、隣の席になれたかもしれない。それに、妹だなんて思われなかったかもしれない。好き、って伝えられたかもしれない。たった二年の差でも、私にとってはとても大きくて絶対に追いつくことのできないものだった。 やっとの思いで二年が過ぎ、私もこうくんと同じ中学生になった。慣れない紺色のセーラー服に身を包まれて、中学校に通い始めた。 メリーゴーランドが一周したときに、中学生になったこうくん。二周目を向かえた今、私はやっと中学生のこうくんに追いついたー。 一番に、こうくんのいるテニス部に見学に行った。被っている燃えるような真っ赤な帽子は、こうくんのお気に入り。汗を垂らしながらも、テニスラケットを振るこうくんに、私は見とれていた。私は、このとき決めたんだ。私も、こうくんと同じテニス部に入ってキャプテンになることを。こうくんを必死で追いかけることをー。 「こうくん!」 呼び慣れた名前を、私は声にした。でも、そう呼んだ直後に後悔することになる。 「…“こうくん”って、抗生先輩のこと?」 「え、ありえなくない?」 周りからの激しい批判を受けた。 そうー。そこにいたのは、私のよく知る“こうくん”ではなかった。テニス部のキャプテンで、先生や後輩、同級生からも慕われる“抗生先輩”。 今まで何万回も呼んできた名前を、口にすることもままらない“中学校”という世界が、私は嫌いになりそうだ。 この記憶がフラッシュバックすると、まるでミサイルのように私を撃ち抜く。恥ずかしさと哀れさが、私の中に刺さってチクチク痛む。 よく考えてみたら、メリーゴーランドが二周目で追いつけるはずもなかった。だって、二周目に入ったとき、やっと中学一年生になった私と、中学三年生になったこうくんは全く違うから。私が一周目を過ごすとき、こうくんは二周目にいる。私が二周目を過ごすとき、こうくんは三周目にいる。どうあがいても、この差を縮めることできないんだ。 部活の見学期間も終わり、私はこうくんと同じテニス部に入部した。最近、こうくんに顔を会わせずらい。校内で会ったときも、テニスコートで会ったときも、家の前で会ったときも、どうしてもこうくんを避けてしまう。 「抗生先輩、お疲れ様です」 大好きなこうくんに、それだけを言い残して走り去ってしまう。背が伸びて、声も大人の男の人になって、テニス部のキャプテンの“抗生先輩”。こうくんは、十歩で行き来できるほど近くに住んでいるのに、とても遠い存在に思えてくる。 それでも、こうくんのことをずっと見ていた。日が沈んでも暗くなっても、家の前でラケットを振っているこうくん。そんなこうくんを、カーテン越しにずっと眺めていた。 「こうくん…」 ピコンー…。スマホの着信音だ。誰からだろう、そう思ってロック画面を解除した矢先、“抗生”という文字が現れた。 『今から少し、出て来れる…?』 また、あのぽかぽかした気持ちが私を覆う。猛スピードで靴を履いて、玄関のドアを開いた。 「ひーちゃんだ」 こうくんは、私のよく知っている優しい笑顔を向けてくれた。こうくんの笑顔は、まるで陽だまりのようだ。 「中学校、慣れた?」 「うん」 「誰先生が好きー?」 「あの理科の先生、テニス部の」 「あー、怒ると雨が降るっていう、あの先生か!」 「うん!」 昔のように、たくさん二人で笑い合った。他の男の子には誰にもドキドキしない。でも、こうくんとの会話だけは心臓が早鐘を打つんだ。こうくんが好き、大好き。こうくんは、昔と同じように“ひーちゃん”って、呼んでくれた。私もー。 「こ、こうくん…!」 思いきって大好きなその名前を呼んだら、声が裏返って情けなく空に消えていった。もう一度、精一杯の思いで声にする。 「こうくんって、前みたいに呼びたい…」 「俺も“こうくん”がいい」 こうくんは、テストで満点を取った小学生みたいに嬉しそうに答えた。 「部活とか学校では…こうくん先輩って呼んだらいいかな?」 「ふっ…!こうくん先輩って…!まぁ、別にいいけどさ」 こうくんの優しさは、何も変わっていなかった。背が伸びて、声も大人の男の人になって、テニス部のキャプテンになっても、こうくんは“こうくん”のままだった。私がこうくんを大好きな気持ちも、ずっとそのままだった。 「こうくん」 こうくん、こうくん。私が何度も確かめるように“こうくん”と呼ぶと、こうくんは照れ臭そうに「なんだよ」と笑った。いつかの日と同じ、赤とオレンジと黄色の色彩豊かなパレットのような夕焼け空をバックにしたこうくんの笑顔は、いつかの日と同じように、ただひたすらに綺麗だった。 歳の差は埋められない。いくら回ろうが追いつけない、メリーゴーランドのように。でも、変わらない何かが私たちの中に確かにあったのだ。