桜良
4 件の小説誰かを守れる人になりたい
「桜良がいれば安心だね。」 そう言われるたびに、私は頑張らなければならないと思う。 医療を学び、救急法を学び 誰かが倒れた時、迷わず動けるように。 誰かが苦しんでいる時、手を差し伸べられるように。 知識を身につける。 技術を磨く。 判断力を養う。 そうして私は、「安心」を作れる人になろうとする。 本当は不安な日もある。 間違えるのが怖い日もある。 何もできない自分に落ち込む日もある。 それでも学び続ける。 誰かの『大丈夫』のために。 誰かのために。 いつか本当に、 「桜良がいれば安心だね。」 そう言われても恥ずかしくない自分になれるように。
私のいない未来
「ああ、また同じことの繰り返し。」 そう呟いた部屋には、誰もいなかった。 好きになった人はいつも他の誰かといる。 嫌われる訳でもない 傷つけられる訳でもない。 ただ、私のいない未来を歩いていくだけ。 だから私は笑う。 「頑張ってね」 「応援してる」 そう言えてしまう自分が大っ嫌いだった。 その一方で、望んでもない人達は何故か私を見つける。 世界はいつもそうだ。 「ああ、また同じことの繰り返し。」 そうして今日も、自分の気持ちを胸の奥へとしまう。 迷惑をかけたくない 困らせたくない 幸せになって欲しい その願いに嘘はない 本当に、その人に幸せになって欲しい。笑っていて欲しい。 そうやって誰かの幸せを願う度、私は私を少しずつ殺していく。 声を飲み込み 期待を飲み込み 『好き』という感情もこの胸にしまいこんで。 今日も私は、誰にも知られない恋を抱えている。 失望と諦めを瞳に浮かべながら。 それでも今日も生きる。
『まだ名前はない』
夢がないわけじゃなかった。 好きなものがないわけでもなかった。 ただ、自分の声よりも他人の声を優先してしまっていただけだった。 これは何者にもなれないと思っていた彼女が 「生きていた」という事実を取り戻していく物語 これは、何かを成し遂げた人の話ではない。 大きな夢を叶えた人でも、強い意志で未来を切り開いた人でもない。 毎日朝起きて 大学へ行って 講義を受け 帰って 眠る また朝が来て、同じ1日を繰り返す。 そんな毎日を繰り返す中で彼女はある日、ふと立ち止まった。 「私は何が好きなんだろう」 「私は何のために生きているんだろう」 答えられない 「趣味は?」 「好きなことは?」 きっとそれは何気ない質問なんだろう。 けれど彼女には答えられなかった。 本当にないのか、あるけど言葉にならないのか もう分からない。 何も好きじゃない人みたいで 何も持っていない人みたいで 気づけば「私は何者なんだろう」と そんな問だけが心の中で反芻した。 周りを見渡す。 みんな楽しそうだった。 夢があって 推しがいて 休日の予定を楽しそうに話す人。 笑いあって、何かを好きだと言える人達。 彼女はといえば、特別好きだと言えるものがなかった。 生きている。 それなのに、生きている実感だけがなかった。 ある日、ふと思った。 彼女は空っぽなんじゃない。 誰かの期待や願いを心に詰め込んでいただけなんだ。 嫌われないように 周りと同じいれるように 期待に応えられるように 『いい子』でいられるように。 そうして彼女は誰かの望む役を選び続けるうちに、本当の彼女は少しづつ薄れて行った。 自分の『好き』より、誰かの『正解』 自分の気持ちより、誰かの安心。 誰かを優先する度に彼女の輪郭は少しずつ薄れて行った。 だから、「好きなことは?」という問いに答えられなかった。 好きなものがなかったんじゃない。 ただ、「好き」と口にする前に誰かの顔色を伺うことが当たり前になってしまっていた。 「それ本当に好きなの?」 「変だと思われない?」 そんな声が、自分の声より先に聞こえてしまっていた。 誰かに合わせることが、息をするかのように自然になってしまっていて。 気がついた時には彼女は『どう生きたいか』 ではなく、『どう見られるか』で生きるようになっていた。 挨拶ひとつで救われる日 毎日が、全部暗かったわけじゃない。 彼女に話しかける人がいた。 「おはよう」 その一言だけで、その日は少し世界が明るく見えた。 一緒に授業を受けた日。 たわいもない会話を交わせた日。 それだけで「今日も大学へ来て良かった。」と思えた。 たったそれだけなのに。 きっと人は大きな愛より先に、小さな存在確認で生きている。 ここにいていい。 忘れられていない。 ちゃんと誰かの世界には彼女も存在している。 そんな小さな実感が、少しずつ彼女を生かしていた。 傷ついた出来事を思い返すと 相手が悪かったとか 彼女が悪かったとか 環境が悪かったとか 何度も考えた。 答えは見つからなかった。 ただ一つだけ、確かなことがあった。 彼女は 満たされたかった。 認められたかった。 見つけてほしかった。 苦しいと言えなかった時間 我慢してきた時間 平気なふりを続けてきた時間 その全部が心の奥で静かに積み重なっていた。 そしてある日、長く閉じ込めていた感情がとうとう封を切って溢れ出した。 彼女は相手を傷つけたかったんじゃない。 責めたかったわけでもない。 理解されたかったわけでもない。 『苦しかった。』 ただ、その一言を否定せずに聞いて欲しかった。 自分はここにいていいのだと、信じたかった。 まだ名前はない 彼女はまだ人生で何をしたいか分からない。 好きなものも。 夢も。 「これが私です。」と胸を張って言えるものもない。 それでも前より少しだけ知っている。 誰かに話しかけてもらえると、嬉しいこと。 ちゃんと眠れた朝は、少しだけ心が軽いこと。 本当はずっと満たされたかったこと。 何もなかったんじゃない。 ただ、彼女は少しだけ不器用だった。 自分の気持ちに気づくことも 言葉にすることも。 これから歩いているうちに、いつか彼女自身の言葉を見つける日が来るのだろう。 見つからない日があったとしても、それで彼女の人生に価値が無くなるのではない。 今日誰かと笑ったこと 誰かと話したこと 立ち止まったこと 迷ったこと 苦しかったこと 泣いてしまったこと その一つひとつは決して消えない。 全部、彼女が確かに生きていた証だから。 そしてきっとこれからの長い人生の中で 「何者かになる」ことよりも先に「ここにいていい」と思える日を迎える。 その日、彼女はようやく自分の人生を歩き始めるのだろう。 まだ見ぬ希望を胸に抱きながら 彼女は静かに眠りにつく。 明日もきっと 名前のない一日が始まる。 おわりに もし、未来の彼女がこの本を読むならこう伝えたい。 あの頃のあなたはちゃんと生きていたよ。 派手な毎日じゃなかった。 遠回りもした。 立ち止まる日もあった。 苦しくて、誰かに助けを求めた日もあった。 答えなんて、ほとんど見つからなかった。 それでもあなたはちゃんと歩いていた。 泣いた日も。 笑った日も。 何もできなかったと思った日も。 全部、あなたが生きてきた時間だった。 だから、安心して続きを生きて。 あなたの物語はまだこれからだから。 あとがき この物語には成功談はありません。 人生を変えるような言葉も 綺麗な結論もありません。 あるのは答えが出ないまま生きていた日々だけです。 何者にもなれないと思った日。 好きなものが分からなくなった日。 「ここにいていい理由」を探していた日。 その一日一日は決して無駄ではありませんでした。 答えがなくても 迷ったままでも 遠回りでも そのすべてが、生きるということだったのです。 もしこの本を読んで 「これは自分のことかもしれない」 そう思った人がいるなら あなたもきっと、ちゃんと生きています。 明日もまた生きていけます。
溢れてしまった日
きっと私は、 人の期待を裏切らないように生きていた。 笑っていなければいけない。 正しくなければならない。 迷惑をかけてはいけない。 辛くても、苦しくても平気なフリをしなければいけない。 弱音なんて 吐いてしまわないように。 いつの間にか、 笑顔は気持ちじゃなくて習慣になっていた。 誰かを安心させるための顔。 誰かを困らせないための言葉。 そうやって、少しずつ自分の気持ちを奥へ奥へ押し込んだ。 悲しいも 寂しいも 苦しいも あとでいい。 今じゃない。 そんなふうにして生きていた。 でも 心は箱じゃなかった。 しまい込んだものは、 なくなるわけじゃなかった。 静かに積もって、 重くなって、 見えない場所で膨らんでいた。 そしてある日 本当に小さなきっかけだったのに、 ずっと閉じ込めていたものが溢れてしまった。 止めようとしても止まらなかった。 どうしてこんなに苦しかったんだろう。 どうして今まで気づかなかったんだろう。 でもきっと、 あの日壊れたんじゃない。 ずっと置き去りにしていた自分が、 やっと追いついてきた日だった。 溢れたのは弱さじゃない。 長い間、 言えなかった「苦しい」の形だった。