行木しずく
26 件の小説悪夢とくろねこ
柔らかい月の光が僕を穏やかに照らしている。 手が届きそうなくらいに大きくて、僕を溶かしてしまいそうなくらいに暖かな光だ。僕がどうしても欲しくて仕方なかった暖かさの。 それをぼんやりと眺めていたら突然、ごぽりと音を立てて月が大きく歪み崩れていく。 どうして、 問う声は響かず、ただ水泡がごぽごぽと溢れ続けて視界が揺らぐのを見てようやく、僕は自身が水中にいることに気付く。 月が揺れる、光が揺れる、伸ばした僕の両手が冷たく揺れる。 まるで黒猫の瞳のようにまんまるな月がどんどんと遠ざかっていく。……いや、僕が沈んでいっているのだ。 ついに最後の空気が僕の肺から出て行って、大きな水泡が天に向かって登っていく、それに邪魔されて月も見えなくなった。 息が、苦しい。 けれど静けさが、好ましい。 このまま、独りで。 眼前が真っ黒に塗り潰されて、薄い獣の匂いがした。 「……ちょっと」 ぱちぱちと瞬きすると、真っ黒で柔らかな壁のようなものがもぞもぞと動いた。 「くるしい、んですけど!」 胸の上で丸くなっていた黒い物体がくるりと向きを変えた。緑がかった真ん丸い金の目が僕を覗き込んで、そのまま満足気にぽふっと寝そべった。細いヒゲが僕の鼻先を擽る。 「いやちょっとどいて!」 若干痺れている腕で黒猫をむに、と押し退けてベッドに転がすと、黒猫は不満そうにむーと鳴いてから、僕の二の腕を枕にしてまた寝始めた。……動けない。 はふ、とひとまず呼吸が楽になってなるほど先程の夢はこいつのせいか、と頭をぐしぐしと撫でてやる。 「お前のせいで悪夢を見たじゃないかこのー。起きろー撫でまくってやる!」 わっしゃわっしゃと全身を揉んでやれば、邪魔すんなとばかりに尻尾でバシバシ叩かれる。うるさい、お前も起きろ。 枕元のスマホを見れば起きるには余りにも早く、二度寝するには心許ない時間だった。 「くっそー……今日残業確定してるんだからせめてもうちょい寝かせてほしかった……」 そんなことを黒猫に言ったところで伝わるわけもない。 枕にされている腕をそっと引き抜いて代わりに丸めたタオルを顎下に差し込んでやる。黒猫はもぞもぞと収まりのいいところを探るように身動ぎして、そのまままたぷぅぷぅと寝息を立て始めていた。
先輩後輩の胡乱な会話 #17
「節分ですねー」 「一年始まって一ヶ月が一瞬で過ぎ去ったな……」 「あー、やだやだそういうことは聞きたくない」 「豆まきとかすんの?」 「いやぁ、掃除が大変なのでやらないですね」 「確かに」 「せっかく節分なので、長いロールケーキの菓子パンをお昼ご飯として買ってきました!」 「恵方巻きじゃねーのか」 「食べきれないもん……これだってロールされてるからほぼほぼ恵方巻きじゃないですか」 「いいのかそれで……」 「いいんですよこういうのは雰囲気で! えーと、今年の恵方はどっちなんだろ」 「んー……北北西微北? だってさ」 「ほくほくせーびほく」 「北北西のやや北」 「……毎回なんですけど、恵方結局どっち向きやねんって思いません?」 「まぁね……ちなみに願い事は?」 「うーん、無病息災?」 「お、普通じゃんお前にしては」 「本音としてはガチャ運向上なんですけど、取り敢えず無病息災なら通院諸々にかかる費用をガチャに回せて結果ヨシ! かなって」 「お前、年神様にめちゃくちゃ怒られろ」
先輩後輩の胡乱な会話 #16
「うぅ……寒い……」 「全くだ……なんで大晦日にお前と一緒に初詣の列に並んでるんだろうな、俺は」 「姐さんの思い付きに乗っかったら案の定姐さんが酔い潰れて来ないというある意味想定内の結果ですよ寒い」 「お互い暇だよなぁ寒い」 「ほんとですよ……あ、でも参拝列に並んで年越すのって初めてです、私」 「マジかよ。学生の頃に一回くらいはやるだろ」 「基本引きこもりの私にそんなアクティブな友達がいるとでも思ってんすか?」 「ごめん、いないよな」 「あっさり発言翻されても腹立つな」 「事実を述べられたくらいで腹立てんなよ、大人だろお前も。……あ、甘酒の移動販売が来た」 「マジすかすごいですね」 「商魂逞しいなぁ……甘酒2つでー。ほれ」 「いいんすか?」 「優しい先輩の奢りであることをありがたぁーく噛み締めながら飲め」 「私小さい頃甘酒飲めなくてですねぇ」 「お前本当に最近スルースキル上げ過ぎじゃない? ねぇ?」 「なんかよくわかんない味するじゃないですか。でも年取ってから改めて飲むと美味しいなぁって思うようになったんですよねー」 「……アレだよ、舌が老化して鈍るおかげでガキの頃苦手だったもんが食えるようになるのと同じ理屈だろ」 「悲しすぎる」 「現実はそんなもんだろ」 「ごもっともです。にしても、一年って早いですねぇ」 「全くだよ。お、鐘が鳴り始めたな」 「あ、ほんとだ。……もうすぐ、年が変わりますね」 「そうだなぁ……まさかお前と初詣行くほど仲良くなるとは思わなかったよ」 「あはは。でも、おかげで楽しかったです」 「…………まぁね、なんやかんや、俺も楽しかったよ。来年もよろしくな、後輩」 「はい、先輩!」
先輩後輩の胡乱な会話 #15
「もうすぐクリスマスだな」 「そうですね! いやー、美味しそうなケーキが多くて目移りしますよ!」 「……」 「なんですかその表情は」 「いや、後輩ちゃんだなぁと思って」 「? まぁ流石にもういい歳なんでケーキワンホールとかは買えないですけど、クリスマスに美味しいケーキを楽しまないなんて損でしょ!? 昔からの夢なんですよね、ケーキワンホール食いに一人バケツプリン、ケ○タのパーティバー○ル……うぅ、若い頃は食べれてもお金がなく、今は金銭的に余裕があっても胃の余裕がない。嗚呼、まさに諸行無常!」 「そうか?」 「そうです」 「諸行無常かどうかは知らんが、お前の夢を一個叶えてやろう。クリスマス宅飲みするぞー! パーティバー○ルも予約してるからな!」 「…………私が言うことではないと思うんですけど、クリスマス誰も捕まらなかったらどうするつもりだったんですかそれ」 「クリスマスを美味いケーキの食べられる日呼ばわりするお前を筆頭にクリスマスだろうがなんだろうがぜっっったいに捕まる面子に声掛けてるから安心していいぞ」 「ぐぬぬ……なんでしょうねこの無性に腹立つ感じ」 「来るだろ?」 「行きますけど!!」
先輩後輩の胡乱な会話 #14
「ゔー、寒いな……」 「ついこの間まで暑い暑い言ってたのに、気が付いたらもう冬ですもんねぇ……夏よりはいいですが」 「マジで? 俺は夏の方がまだ好き」 「秋が一番いいです」 「それはそう。いやマジで寒い。後輩ちゃん、マフラーちょうだい」 「嫌に決まってるでしょ。先輩、もっと厚手のコート着れば?」 「そしたら真冬耐えられないもん」 「気持ちはわかりますけど」 「そろそろ手袋もいるな、あーやだやだ……そういえば、お前去年も手袋はしてなかったよな? なんで?」 「手袋サイズ合わないんですよ。なんかどんなやつでも指先がブカブカで」 「……お前手ぇ小さいなぁ」 「先輩と比べられたらそりゃそうでしょ!」 「つーかお前冷え症? すげー手冷たいけど」 「そうですか? 先輩の手が暖かいだけでは?」 「絶対違うわ。手袋とかちゃんとしたほうがいいんじゃね?」 「後輩からマフラーがめろうとする人に言われたくねぇ! うーん、手袋ねぇ……スマホ触れないからなぁ」 「外でスマホ操作するの諦めるっていう選択肢はないのか」 「電車待ちとか暇なんですもん。ソシャゲ十個も抱えてると一分一秒が惜しい」 「何個か整理しろ」 「整理してこれなんですぅー!」 「マジかよ……」 「まぁ趣味のために働いてますからね!」 「自分にも多少お金かけなさいよ、お前は。身体壊したら意味ないぞ」 「それはまぁごもっともなんですけど先輩に言われると解せぬって感じ」
月夜とくろねこ
家に帰ってたらまず一番に僕のベッドに視線をやって、そこで色々と開けっぴろげにしている黒猫の腹をわしゃわしゃするのがお約束なのだが、今日はそこに黒猫がいなかった。 「……あれ?」 慌ててキョロキョロと部屋の中を見渡すと、出窓に置いたカラーボックスの上に香箱座りをして外を眺める後ろ姿が目に入って、少し安心する。 黒猫はどこにでも潜り込んでしまって、しかも真っ黒なせいで何処にいるのか分かりにくいのだ。心臓に悪い。 外を眺めるその姿で、そういえば今日は満月だったな、と思い出した。 「ただいまー」 声を掛けたらはたりと長い尻尾が気怠げに返事をよこす。その横着さは一体誰に似たんだろうか。 ぽふぽふと尻を軽く叩くように撫でると、ようやくこちらを向いてふにゃ、と微かな声で鳴いた。 「どうだ? 月はよく見えてるか?」 「んにゃ」 黒猫は実に満足そうに一声鳴いてまた窓の外に顔を向ける。そんなにほっぽかれたら僕はつまらないんだが。 しかしまぁ、満月の夜に月見をするのは黒猫の趣味なのだ。誰だって自身の趣味を邪魔されたら不愉快になるだろう。僕はあくまでも黒猫とは仲良くしていきたいので、黙って僕と黒猫の夕食の準備に注力することにした。 僕らが出会ったばかりの頃、ようはお互いの趣味がまだあまり分かっていなかった頃、外で月見をしたい黒猫と外は危ないから出したくない僕との間で大戦争が勃発した。あの頃はお互い若かったから、引っかかれつつも無理やり抱っこで部屋の奥に連行してまた引っかかれて、なんてことを繰り返して、どうにかそれぞれの主張をそれぞれ譲り合った妥協点に落とし込んだのだっけ。 どうしても外出だけは諦めてほしかった僕は、居心地良く整えていた出窓スペースを全面的に黒猫に明け渡し、どうしても月見だけはやりたかった黒猫は、外に出ない代わりにカラーボックスを置くことで高さを出した一番上のところにお気に入りのブランケットを置いた寝床で月見をすることで妥協した。 あの頃から、なんとなくお互いの譲れないところとか意外と気にしないところとか、そういうのが分かり合いやすくなった気がする。 やはり、河原で殴り合ったあとには仲良くなれると古来より決まっているのだ。いや、河原で殴り合ってはないけど。 「ご飯できたぞー」 黒猫の足元に餌を置いてやると、一声鳴いてこちらを向く。 僕は出窓の辛うじて空いてるスペースに自分の夕食を置いて、黒猫の顔を見る。 「いただきます」 「んにゃにゃにゃぁーん」 一緒に食べながら、僕もふと窓の外に目をやる。見事に大きな満月で、こう見てるとなんだか日本酒が飲みたくなってきてしまう。 「……ちょっとだけ、飲んじゃう?」 「ふにゃん!」 ダメなやつだなー、なんて視線をよこしつつも黒猫の尻尾がぱたぱたと振られていて、お前も大概分かりやすい奴だな、なんて笑ってしまった。 「じゃあ片付けたら、な」 黒猫の分はまたたび水、僕の分はこの間買ったひやおろし。 寝る前の楽しみができたな、なんて思いつつ、僕らは満月を見ていた。
先輩後輩の胡乱な会話 #13
「ゔーん、これどの道なんだろ……」 「……もう諦めてその辺入ろうぜ、俺は喉が渇いてしょうがないんだが」 「諦めんでくださいよ先輩! 今日は『無事リリース終わって良かったおめでとうもう二度とこんな思いしたくねぇわクソが』会なんですよ! 会費も払いましたし!」 「口が悪いんだよなぁうちのチーム全員」 「うぅ……あのタイミングで捕まらなければみんなと一緒に行けたのにぃ……て言うか、なんで先輩まで方向音痴なんですか! 車乗るくせに!」 「あのな、後輩。この世にはカーナビという神器があるんじゃよ」 「それはそうなんですけど!」 「もうアレだ、先に行った面子に連絡してくれ。お前からならみんな普通にナビしてくれる」 「なんで私なら? 先輩でもいいのでは?」 「俺だと『ビールの泡が消えるぞ頑張れ!』ってみんなから熱く応援されるから」 「……先輩、ほんとチーム全員に愛されてますよね」 「全くだよ。俺はもっと優しく愛されたい」 「あ、向こうから掛かってきた! ……はい、えっと○○交差点のとこにいます……はい、はい、あー、はい見えます見えますはいはい、はい、あ、わかりました、はい!」 「……行けそう?」 「大丈夫です! あ、伝言が」 「何?」 「『ビールの泡が消えかかってるから早く来い』」 「もっと優しく愛されたいんだがなぁ!!」
先輩後輩の胡乱な会話 #12
「テスト環境復旧待ちほど悲しい時間もないよな」 「全くですね」 「…………しりとり」 「はい? どうしました先輩?」 「しーりーとーりー」 「……じゃあ、りす」 「すずめ」 「メス」 「すいか」 「カラス」 「スーパー」 「パーソナルスペース」 「……酢みそ」 「ソース」 「酢醤油」 「ユークレース」 「…………水筒」 「うぐいす」 「す、スクロール」 「ルース」 「……す、硯」 「リリース」 「す、す、ストロンチウム」 「ムース」 「す、すぅ? す、……! スイス!!」 「ステータス! あ、環境復旧したっぽいですよ先輩! ……先輩? どうしました机に突っ伏して」 「……お前性格悪くない?」 「失礼な。しりとりなんですから特定の文字で攻めるのは定石では?」 「そうだけどさぁ! 普通『る』とかでやんない!?」 「『る』だとみんなすぐ警戒するじゃないですか。余裕だと思わせといて、だんだんあれおかしいな? からの、うわ全然思いつかねぇ! ってなるのが面白いんですから。今の先輩みたいな」 「お前性格悪くない?」 「ソンナコトナイデスヨー」
先輩後輩の胡乱な会話 #11
「先輩、ハロウィンですね!」 「めちゃくちゃいい笑顔……お前、ほんとに食いもんの絡むイベント好きだよな」 「そんなことないですよ! ハロウィンは全体的に色味が可愛いくて好きなんですよ。黒とオレンジと紫、かぼちゃにさつまいものお菓子」 「やっぱ食いもんじゃねーか」 「さて先輩、とりっくおあとりーと!」 「堂々とスルーした……いや、用意してないぞ」 「は?」 「用意してない。そもそもお前子どもじゃねぇだろ」 「ぐぬぬ……それはそう……でもお菓子をタカりたい……!」 「素直に言えばいいってもんでもないから」 「いーじゃないですか! じゃあイタズラですね、イタズラ、イタズラ……?」 「何も考えてなかったな、その感じは……」 「い、いやちゃんと考えてましたよ、えーと、じゃあ五分で私の好きそうなお菓子買ってきてください!!」 「それはイタズラじゃなくてパシりって言うんだよなぁ……しかも結局お菓子まで手に入れようという強欲さ!」 「イタズラですよー」 「しょうがないなぁ、ほれ」 「……お菓子あんじゃん!? あんな素の顔で『ない』って言っといて!?」 「いや、どんな反応すんのかなーと思って。いらねーなら返せ」 「ありがたくいただきます!」
先輩後輩の胡乱な会話 #10
「……先輩、今の広告見ました?」 「いや? 何の広告?」 「『おせち予約受付中!』ですって。意味分かんなくないですか? まだクリスマスどころかハロウィンも来てないのに!」 「うへぇ……マジかよ、ここ最近の一年って絶対一年ないよな」 「ほんとですよ」 「ところでお前、おせちだったら何が好き?」 「んー……くわい」 「は? 何それ知らん」 「むかーし親戚の家でおせち出されたときにくわい煮食べたんですよね。すごい美味しいって思ったんですよ、どんな味付けだったかとかはあんまり覚えてないんですけど」 「え、そんなふわふわした記憶のもの好きだって言ってんのかお前は」 「いや他にも好きなものありますよ、栗きんとんとか伊達巻とか」 「良かった、想定してたメニューだ」 「そう言う先輩は?」 「俺おせちとして出てくるものあんま好きじゃない」 「人に聞いといて……数の子とかは? 好きそうですけど」 「数の子は好きだけど魚卵は俺の天敵だからなー」 「あー……あ、でも魚卵はダメなイメージがあるだけでそこまでプリン体多くないらしいですよ?」 「マジで!? なんだよー、そういうことは早く言ってくれよー」 「ビールはよろしくないままですからね。先輩、マジでそろそろビール飲むの止めたら?」 「大丈夫、俺とヤツは共存できてるから。膝がそわそわしてきたタイミングで飲むのストップすればオッケーだから」 「どう考えても何一つオッケーじゃねぇんですよね。ほんと身体気を付けてくださいよ?」 「わかってるわかってる」 「絶対わかってないよこの人……」