蝋燭
「ねぇ貴方。近頃春の香りがするようになったと思わない。」
少し開いた障子から月明かりを慈しむように眺める彼女がそうぽつりと呟いた。
僕は大きく息を吸い込んだが、全くわからない。
「僕にはわからないなぁ。あぁ少し障子が開いていたね。寒かったかい。さっき部屋に入った時に閉め忘れたみたいだ。」
障子の隙間から漏れる月明かりを分厚い雲が流れては隠してゆく。
彼女は少し微笑んだ後小さく首を振った。
「ううん、ちっとも寒くないわ。貴方を責めたかったわけじゃないの。ただね、近頃貴方がこの部屋に春の香りを届けて下さるように感じるの。」
障子の向かいの布団で彼女は身を横たえている。
その華奢な指先が布団の端をそっと掴み肩に掛け直した。
「私にとって貴方は郵便屋さんなの。」
「郵便屋さん。それはまたどうしてそう思うんだい。」
「貴方が障子を開けるたびに外の空気が部屋いっぱいに広がって、私に外の世界を教えてくれる。貴方がいなきゃ私は部屋の外の世界を知る術はないのよ。」
彼女は依然として月光を眺めている。
心臓がコクンと震える音が僕の耳の奥でこだまする。僕は文机に置かれている蝋燭の光を頼りに湯呑みに水を注ぐ。そして、俯き気味にこう言った。
「えらく情熱的なことを言うね。僕はいつも君にドキドキさせられっぱなしだ。」
「ほんとのことよ。私、貴方と一緒にいられて幸せ。」
「君といると心臓がいくつあっても足りないよ。さあ、今日の分の薬を飲んでゆっくり休もう。」
彼女の身体を起こし、湯呑みと薬を差し出した。彼女は布団の端をきゅっと握ったまま、今日の分はもう飲んだのよ。と小さな声で呟いた。その顔が余りにも寂しそうで僕は思わず黙り込んでしまった。
「嘘はいけないよ。僕はちゃんと記録をつけているんだ。」
僕は立ち上がり文机の側の壁にかけてある日めくり歴をそっと外し彼女の手にそっと載せた。そして、先生が生徒へ手解きをするように日付欄を指さした。
「ご覧、今日の日付欄に丸が三つついていないだろ。まだ今晩は薬を飲んでいないと言うことだよ。」
彼女は暦と布団の間をただぼんやりと眺めていた。
「薬は朝昼晩欠かさず飲むようお医者様に言われているだろう。お医者様に言われた事は守らないといけないよ。」
「一日くらい飲まなくたって平気よ。お医者様はお医者様であって神様ではないわ。」
彼女は暦を布団の脇に置き、そっと目を閉じ布団の上に寝転んだ。
彼女の久しぶりの我儘に呆れる反面この上ない愛おしさを感じる。
「明日お医者様がいらっしゃった時に、一つ余った薬を見たら君は叱られてしまうかもしれないよ。」
「うーん。それは、困ったわ。」
彼女は天井をぼんやり眺めたまま少し黙り込んだ後、あっと声を上げた。
「貴方に薬を隠して欲しいの。庭の樫の下に埋めるなんてどうかしら。もう、何年も見ていないけど、きっと立派な木になっているのでしょうね。」
彼女の一言で頭が霧に覆われたようにぼーっとした。確かに裏庭に樫の木が生えていたが昨年の春、白黴に蝕まれてしまい切り倒した。
彼女はそれを知らない。
縁側に腰掛け、樫の四季折々の表情を楽しむのが彼女の日課だった。
体調が悪化して縁側に出られなくなってからも樫の木をずっと気にかけていた。
そんな様子の彼女に本当のことを伝えられるはずもなく僕は嘘をつく。
樫は彼女にとっての時計だ。
樫は彼女にとっての世界だ。
樫は彼女にとっての希望だった。
だから、本当のことなんて言えるはずがない。
「わかった、埋めておくよ。樫が君の代わりに薬を飲んでしまうかもね。」
彼女はくすりと笑って樫には長生きしてもらわなくちゃ。と呟いた。
僕がどういう意味だいっと問いかけると彼女は悪戯っ子のように内緒と呟いて布団に顔を隠してしまった。
「ねぇ、庭球倶楽部の皆さんは元気。」
「うん、みんな元気だよ。最近は仕事だとかで僕と遊んでくれないけどね。どうしたんだい。急にそんなとこ聞いて。」
彼女は布団からちらっと顔を覗かせ、再び布団の中に潜り込んでしまった。
「前は飲みによく行っていたからどうなのかしらと思って。」
「なるほど。まあ、庭球より酒を飲んで馬鹿をするための集まりみたいなものだからな。」
「私、貴方達の話聞くの好きだったのよ。一人で家に置いていかれる時間は寂しかったけど、泥酔して帰宅する貴方を迎えた時に聞けるどんちゃん騒ぎのお話が。」
僕は思わず吹き出してしまった。
彼女の目には庭球をする集まりというより、飲んで馬鹿騒ぎを楽しむ集まりに写っていた様だ。
「少年の心のまま身体だけ大人になってしまった悲しき男達がそんなに面白かったのかい。」
「ええ、とっても。”一生の友達”っていうのはきっと貴方達みたいな関係のことを言うのだと思ったわ。」
僕は暦に嘘の丸をつけながら彼女の次の言葉を待つ。
障子の外で木々の枝がぱちぱちとぶつかる音が聞こえる。
「不安になるの、私は貴方を殺してしまっているんじゃないかって。」
「どういう意味だい。」
彼女は黙り込んだまま布団から出てこない。
外の木々の音と鼓動だけが部屋の中に響き渡る。
暫くすると鼻を啜る音と共に小さな咳払いが聞こえてきた。
「最後に心の底から笑ったのはいつ。心の底から嬉しいと思ったのはいつ。私がこんな身体になってから貴方は仕事以外どこにも出かけなくなってしまった。」
ぽつりぽつりと呟く彼女の声は苦しいほどに震えていた。
文机の上の蝋燭が夜風に煽られ右へ左へゆらゆらと身体をくねらせていた。
「お医者様から伺ったのよ。貴方が私の座布団をお天気がいい日によく干しているって。私がまた座る時にフカフカにしておきたいから干してるんだって。こんなに献身的な旦那さんは他に見たことがない。奥さんは幸せ者ですねとおっしゃっていたの。」
「僕がやりたくてやっていることだよ。君は何も気にしなくていいんだ。」
「そういう問題じゃないのよ。私は貴方を精神的にも身体的にも拘束してしまっている。お友達と作るはずだった思い出を取り上げて、活発な貴方を社会から隔絶された空間に引き摺り込んでしまった。私は貴方を殺してしまっている。」
しゃくりあげながら必死に話す彼女の姿に胸が締め付けられる。
僕は今の生活になんの不満も感じていない。初めの頃は使命感に駆られて事務的に彼女の看病をしていた。
でも、次第にこの生活が当たり前になるにつれ彼女と過ごす時間が増え愛おしさと幸せを感じるようになった。
元気な彼女が1番好きだ。
しかし、咳が止まらず息苦しそうな背中をそっとさする朝。
関節痛に悩まされて寝付けない彼女の頭をそっと撫でる夜。
これは僕にしかできないことだ。
僕にしかできないことを毎日しているだけなのだ。
僕はやっとの思いで口を開いた。
「僕は君に殺されていない。君と過ごせる時間が増えて幸せだ。病気になってよかったという話ではないよ。僕は孤立なんかしていない。自由だ。好きな人の隣りで好きなように生きている。ただそれだけなんだよ。」
蝋燭の汗がその体の上を滑って、それから夜風に煽られそっと消えた。
僕は急いでマッチを擦り火をつけた。
指先の熱が蝋燭に移って、それからまた頼りない炎がそっと花弁を開いた。
頼む。生きてくれ。
「やっぱり薬を飲んでくれないか。」
膝の上で握られた拳が小刻みに震える。
「そうよね。貴方は、いえ、なんでもないわ。」
小さな返答が布団の中から返ってくる。
布が擦れ合う音が微かに響き、やがて貴方と声がする。
僕は弾かれた様に布団の方に向き直る。
「いつもありがとう。私は貴方がいたから今日まで生きてこられたのね。」
布団の上に座る彼女は柔らかい笑みを浮かべていた。
「急に起きあがっちゃ駄目じゃないか。まだ夜は冷えるんだから。」
そっと彼女の肩に触れる。
あの日よりも何倍も細くなってしまった肩越しに小さな息遣いを感じる。
「大丈夫。大丈夫よ。だって私には貴方がいるから。」
繊細な指が僕の指を絡め取ってそっと彼女の頬へ誘った。
「まんまるな頬が愛おしいねって貴方は言ってくれたけれど、痩けた頬では貴方の心を掴むのは難しいかしら。」
そう言って彼女は困った様に微笑んだ。
長いまつ毛から覗く瞳が僕の後ろの月明かりを静かに見つめている。
蝋燭の火がぐにゃりとのけ反った。
彼女はいつ見ても美しい。
頬が熱い。
胸が苦しい。
指先が冷たい。
「いいや、困ってしまうくらいに綺麗だよ。」
彼女が安心した様に笑った。
「泣いたり笑ったりしたから疲れちゃったみたい。今日はもう寝ることにするわ。」
「そうだね。久しぶりに沢山話したね。」
僕はそっと布団に身体を預ける彼女に布団を掛け直した。
彼女は小さく欠伸をしぼんやりと天井を眺めている。
「蝋燭の灯りを消して貰えるかしら。」
僕は息が詰まりそうになるのを必死に堪えて立ち上がり文机の前に移動した。
蝋燭の受け皿の細い取手に指をかける。
「ねえ、今日は月が綺麗だったよね。」
「そうね。久しぶりあんなに綺麗な満月を見たわ。」
息がうまくできない。
「消したよ。ゆっくりおやすみ。」
「ありがとう。私幸せよ。」
「ねぇ、君もしかして」
ぼんやりと天井を眺めたままの彼女越しに、頼りない蝋燭の火がゆらゆら揺れるのを僕はただ見つめることしかできなかった。