宮野浜

2 件の小説
Profile picture

宮野浜

牡羊教会

父が離婚をし、街を離れたころから、我が家の懐具合はみるみる心許なくなった。父は仕事に追われ、家に帰れない日が増えた。私を育てる余裕がなかったのだろう。ある日とうとう、私を教会に預けると告げた。  私は、そういうものなのだと、妙に素直に受け入れてしまった。  教会には六人の子供がいた。私が一番年下で六歳、一番上の子が十二歳。けれど神父は、私たちは「皆、同期なのだ」と語った。その言葉が、どうにも胡散くさく思えてならなかった。  食卓では、毎朝決まった儀式を行い、感謝を述べ、神の祝福などというものを唱えてから食事をする。もちろん、私は言われるまま、口を動かしていたが、神の救いとやらには毛ほどの関心も持てなかった。  その生活の中で、一人だけ親しくなった子がいる。メイという少女だ。彼女は、神様という存在を、心の底から信じ切っていた。  聞けば、彼女の父は早くに亡くなり、母は重い病で入院しているのだそうだ。それでもメイは、ほとんど明るく笑っていた。  「神様がお母さんを元気にしてくれるの」  そう言う彼女の声は、悲壮というより、むしろ幸福の予告のように響いた。私は、その無垢さに、何とも言えぬ眩しさを覚えた。  ある日、テレビのニュースで事件が報じられていた。被害者は死亡。加害者の動機は、「死にたかったが一人では死にたくなかったから」という、どうにもやりきれぬ理由だった。  その画面を見て、最年長の子がぽつりと言った。  「なんで死にたいやつが生きてて、関係ない人が死ぬんだろうね。神様なんていないじゃん」  するとメイが、まるで反射のように言い返した。  「神様はいるよ。信じていれば救われるもん」  最年長の子は苦い笑いを浮かべた。  「じゃあさ、被害者が死んだのは信じてなかったのが悪いって、そう言うわけ?」  メイは、驚くほどまっすぐに答えた。  「うん。そうだよ」  それで少し揉め事になった。子供同士の小さな争い。しかし、その後まもなく、最年長の子は教会から姿を消した。大人たちの判断なのか、本人の意思なのか、私は知らない。  そして、時を置かずして、メイの母が亡くなった。  メイが、どんな顔をしてその報せを受けたのか、私は知らない。考えるのが怖かった。  神様なんていないじゃん――  あの子のつぶやきが、今さらながら胸に落ちてくるようだった。  そのうち父の仕事が安定し、私は教会を出て、小学校へ通い始めた。  けれど、あの教会の朝の儀式も、メイの笑顔も、そして「信じていれば救われる」という言葉も、すべて、夢の中の出来事のように、薄く、遠く、そしてどこか痛ましく残っている。

0
0

良い子

 それでも、世の中には不思議な人がいるものです。 私がどれほど人間を斜めに見て、 「もう関わらないでください」 と冷たく突き放しても、変わらぬ調子で話しかけてくる女性の先輩がいました。 あの人は、なんというか、純粋という言葉すら曇らせてしまうほどまっすぐで、 元気で、素直で、 こちらが恥ずかしくなるくらい、曇りのない人でした。 私は、その方のおかげで「女」という大雑把な括りで世界を憎むような、 そんな浅ましい生き物にならずにすんだのです。 世の中には、まだこんなにも人を信じられる子がいるのかと、 私は胸を衝かれるような感動を覚えました。 やがて、先輩と遊ぶようになり、 私はようやく「信じてもいいのだ」と思えるようになりました。 いや、むしろ、この子がいなければ駄目だとさえ感じていました。 気がつけば、図書館に夜の二十時まで一緒にいてしまった。 帰り道、私はバスで、先輩は自転車でした。 灯りが揺れて、風が冷たかったのを覚えています。 翌日。 あれほど顔を合わせていた自習スペースに、先輩は来ませんでした。 その次の日も、一週間経っても、姿はありませんでした。 連絡をしても返事はなく、 一ヶ月ほど経ったころ、私の耳に届いた知らせは、 言葉にすればあまりに軽く、 胸に落とすとあまりに重い、そんな類のものでした。 私は先輩の家に行きました。 何度訪ねても追い返されました。 そりゃそうだ。 私はただの後輩で、何ひとつ支えられるような器でもなかったのです。 それでも、あの純粋さに救われた私には、 引き返すという芸当がどうしてもできませんでした。 何度目かの訪問で、ようやく部屋に通してもらえました。 返事が返ってきて、 会話ができて、 少しだけ、あの頃の空気が戻ってきた気がしました。 「散歩でも、してみませんか」 私がそう言うと、先輩は何も言いませんでした。 「今日は帰ります」と告げたとき、 静かに外へ出る支度をしはじめたのです。 ああ、この子は、本当に、いい子なのだと、私は胸の痛む思いで見つめました。 外には、もみじがたくさん落ちていました。 風が吹くたび、赤い葉がかすかに笑うように揺れて、 先輩も、ほんの少しだけ笑っていました。 私がすべての選択を誤っていたと気づいたのは、 前から男の人が歩いてきて、 その姿を見た瞬間、 先輩の笑みがまるで火が消えるように消えたときでした。 後日、先輩が他県へ引っ越したと聞きました。 散歩など誘うべきではなかったのです。 もし私にほんの少しでも恋情というものが芽生えていたのなら、 もう少し違う寄り添い方ができたのかもしれない。 しかし、私は男と女のあいだの深い境界を、あまりに甘く見ていた。 男である私が諭されることで心の均衡を得たように見えても、 女にとってはそうではないのだ。 普通なら部屋にあげるはずもなく、 あの日、私が中に入れたのは、私への好意ではなく、 彼女がただ、「信じる」という行為をやめられない子だったからだ。 その純粋さは、ひどく美しく、 そして、ひどく恐ろしいものでした。 運命というものは、どうしてこうも乱暴に、 こんな素直で、こんな信じることをやめられない子を、 容赦なくぐちゃぐちゃにしてしまうのでしょう。 ふと、小学生のころに読んだ『人間失格』の一節が、胸に浮かびました。 無垢の信頼心は罪なりや。 人間は信用できない。 いや、信用できる人がいたとしても、 その信頼を踏みにじるのも、また人間なのだと。 私はその日、ようやく、いや、遅すぎるほどに学んだのでした。

4
2
良い子