光輝-kouki-
9 件の小説魔女の黒猫 (読み切り短編小説)
森の奥に、一軒の小さな家がありました。 そこには、ひとりの魔女と、一匹の黒猫が暮らしていました。 黒猫の名前は、ノクス。 艶のある真っ黒な毛に、月のような金色とサファイアの宝石のような青い目を持つ猫です。 ノクスは、普通の猫ではありませんでした。 人間の言葉を理解し、魔女の作る薬草の名前を覚え、夜になると屋根の上から村を眺めていました。 けれど、ノクスは決して自分から人間に近づこうとはしません。 「ノクス、今日は村へ行かないの?」 魔女が尋ねても、 「……ニャ」 と一言鳴くだけ。 魔女は苦笑しました。 「あなた、本当に人間が嫌いね」 ノクスはしっぽを一度だけ振りました。 嫌いなのではありません。 ただ、信用するまでに時間がかかるのです。 ある秋の夜。 森に冷たい風が吹き始めました。 魔女は暖炉の前で、古い本を読んでいました。 すると、ノクスが突然、本棚の前で立ち止まりました。 「……?」 魔女が顔を上げます。 ノクスは一冊の本をじっと見つめています。 それは、何十年も前に亡くなった魔女の師匠が残した魔法書でした。 「それがどうしたの?」 ノクスは答えません。 ただ、本棚の下に落ちていた小さな紙切れを前足で引き寄せました。 そこには、こう書かれていました。 ――冬の最初の満月の夜、森の泉に月の花が咲く。 その花は、ひとつだけ願いを叶える。 魔女は目を輝かせました。 「月の花……」 それは、何十年も探していた幻の花でした。 「ノクス。明日の夜、探しに行きましょう!」 けれどノクスは、窓の外を見つめています。 森は静かでした。 静かすぎました。 翌晩。 満月が昇りました。 魔女とノクスは森へ向かいました。 ところが、泉へ近づくにつれて、ノクスの足取りが重くなっていきます。 「どうしたの?」 魔女が振り返りました。 ノクスは泉のほうを見つめています。 そして、低く唸りました。 「……シャア」 その瞬間。 森の奥から、大きな音がしました。 バキッ。 枝が折れたのです。 魔女は杖を構えました。 「誰?」 返事はありません。 ノクスは魔女の前に立ちました。 いつもの気まぐれな猫とは違う顔をしていました。 月の光のような金色とサファイアのような目が、鋭く光っています。 やがて木陰から現れたのは、一頭の大きな狼でした。 魔女は息をのみました。 しかしノクスは逃げませんでした。 ただ、狼を見つめています。 狼もノクスを見つめました。 長い沈黙。 そして―― 狼はゆっくりと頭を下げました。 ノクスも、ほんの少し頭を下げました。 「……知り合いなの?」 魔女が尋ねると、ノクスは振り返りました。 「ニャ。」 まるで、 「まあね」 とでも言うように。 狼が去ったあと、泉のほとりに月の花が咲きました。 銀色の花びら。 魔女はそっと手を伸ばしました。 けれど、ノクスがその手を前足で止めました。 「え?」 ノクスは花を見て、それから魔女を見ました。 魔女はしばらく考えました。 そして、小さく笑いました。 「……願いを叶えるっていうけれど」 ノクスは黙っています。 「私には、もう願いがあるわ」 魔女は花から手を離しました。 「あなたと、こうしてまた明日を迎えられますように」 ノクスの耳が、ぴくっと動きました。 「それだけでいい」 魔女がそう言うと、ノクスはそっぽを向きました。 けれど、そのしっぽは嬉しそうに揺れていました。 家へ戻る道。 魔女は歩きながら尋ねました。 「ねえ、ノクス」 「ニャ」 「あなた、私のこと好き?」 ノクスは答えません。 「……嫌い?」 答えません。 「じゃあ、どっち?」 ノクスはしばらく歩き続けました。 そして、魔女の足元に身体をすり寄せました。 ほんの一瞬だけ。 魔女が笑います。 「ふふ。素直じゃないのね」 ノクスは振り返りました。 月明かりの中で、金色の目がきらりと光ります。 そして―― 「ニャ」 その声は、まるでこう言っているようでした。 ――私は猫ですもの。 ――大切なことは、いちいち言葉にしないの。 魔女は笑って、ノクスの頭をそっと撫でました。 森の上には、大きな満月。 二人の影が、静かな道に並んで伸びていました。 その夜から何年経っても、 村人たちは森の奥の魔女の家を見るたび、不思議に思ったそうです。 魔女はいつも一人で暮らしているはずなのに、 窓辺には、いつも二つの影がある。 ひとつは、魔女。 もうひとつは―― 月明かりよりも黒い、 一匹の黒猫でした。
嫌われた理由を、人生の武器に変えた彼女(短編小説)
彼女はその職場に収まりきらなかった人だった。 その職場には、長く働いている人たちの間に、目には見えないルールがあった。 誰が何を言い、誰が誰と仲がよく、誰に何を相談すればいいのか。 明文化されているわけではない。 けれど、みんな何となく分かっている。 「これは、あの人には言わないほうがいいよ」 「その話なら、まず主任に相談したほうがいいかも」 そんな小さな会話の積み重ねで、職場の空気はできていた。 そこへ、一人の女性職員が入ってきた。 彼女は、仕事を覚えたかった。 分からないことがあれば質問した。 「すみません、これってどうすればいいですか?」 「今のうちに確認しておきたいんです」 子どものことで気になることがあれば考えた。 「この子、今日はいつもより静かじゃないですか?」 「これって、このままで大丈夫なのかな?」 そう思ったら、そのままにしておけなかった。 ある日、職員の一人が、子どもたちを連れて徒歩で迎えに行くことになった。 片道、およそ20分。 その職員は治療のため薬を飲んでいて、身体にしびれが出ることがあった。 女性職員は考えた。 「もし途中で体調が悪くなったら?」 「誰が救急車を呼ぶんだろう?」 「その間、子どもたちは誰が引率するんだろう?」 「これは、本人の問題じゃなくて、クラブ全体の安全管理の問題じゃないのかな」 彼女は主任に相談した。 「責めたいわけではありません」 「ただ、もしものときのことを、先に決めておいたほうが安心だと思います」 誰かを仕事から外したかったわけでもない。 ただ、万が一のことが起きる前に、決めておいた方がいいと思った。 ところが、数日後。 職場の空気が変わった。 以前は普通に話していた人たちが、目を合わせなくなった。 「おはようございます」 そう挨拶しても、返事がない。 LINEを送っても、以前のような返事はない。 「了解です」 「また確認します」 そんな短い言葉だけが返ってくる。 それまで一緒に出かけることもあった人からも、距離を置かれるようになった。 彼女には理由が分からなかった。 「私、何かしたのかな」 「言い方が悪かったのかな」 考えても考えても、答えが出ない。 それでも彼女は仕事を続けた。 ある日、祭りの準備をしていた。 周囲には保護者達もいて、子どもたちもいた。 彼女は何か役に立ちたかった。 だから、何度か尋ねた。 「何かお手伝いすることはありませんか?」 「できることがあれば言ってください」 その言葉に、ある職員が突然、声を荒らげた。 「仕事は自分で探してください!!」 周囲に保護者達もいる。 空気が凍った。 彼女は傷ついた。 「そんな言い方をしなくても……」 そう思った。 でも、その職員の様子を見ると、怒りより先に別のことを考えた。 「……どうしたんだろう?」 「何か、すごく困っているのかな」 彼女はその人の手を取った。 「どしたん?」 「何かあった?」 相手は驚いたように彼女を見た。 「え……?」 「少し座ろう。ここだと話しにくいから」 彼女は近くの椅子に座らせた。 「無理に話さなくてもいいよ。でも、しんどいなら聞くから」 話を聞くと、その人が治療中であること、身体にしびれがあることを知った。 彼女は思った。 「この人にも、この人の苦しさがあるんだ」 自分を傷つけた相手でさえ、理解しようとした。 それが、彼女の長所でもあり、弱点でもあった。 彼女は、人を簡単に切り捨てることができなかった。 しかし職場では、問題は解決しなかった。 主任に相談しても、十分な調整は行われない。 「この件について、今後の対応を決めませんか?」 そう言っても、 「まあ、様子を見ましょう」 と流されてしまう。 会議で質問しても、話が途中で遮られる。 「すみません、最後まで聞いてもいいですか?」 そう尋ねても、 「今はその話じゃないから」 と止められる。 説明を求めても、明確な答えは返ってこない。 やがて彼女は気づき始めた。 「もしかすると、私はこの職場で、仕事そのものよりも、人間関係のルールに適応することを求められているのかもしれない」 さらに、彼女には別の希望があった。 「私も常勤になれませんか?」 勇気を出して、そう尋ねた。 しかし、その希望は受け入れられなかった。 彼女にはパソコンのスキルがあった。 だから、 「他の職員にパソコンを教えてほしい」 と頼まれた。 「この資料、作り方を教えてくれる?」 「この表、もう少し見やすくできるかな?」 彼女は頼まれれば教えた。 けれど彼女が望んでいたのは、 「便利な人として使われること」ではなかった。 「職員として認められること」だった。 二つは、似ているようで違った。 そして、決定的な出来事が起きる。 退職を促す言葉。 「もう、ここでは続けにくいんじゃない?」 夜中の連絡。 「今からでも確認できますか?」 職場での孤立。 「私だけ、何も知らされていない……」 そして、彼女はその場所を去ることになった。 まるで、最初からそこに必要ではなかった人間だったかのように。 それから時間が経った。 彼女は別の場所で働くようになった。 ある日、以前の職場の人たちと顔を合わせた。 「こんにちは」 彼女が挨拶しても、返事はなかった。 過去のことも、なかったことになっている。 彼女は、昔なら胸が痛くなっただろう。 「どうして無視されるんだろう」 「私が悪かったのかな」 そんなふうに、何度も考えたかもしれない。 でも、その日は違った。 「ああ……」 彼女は静かに思った。 「私は、あの場所に収まりきらなかったんだ」 それは、自分を大きく見せるための言葉ではなかった。 自分を慰めるための言葉でもなかった。 少しずつ、自分が分かってきたのだ。 彼女は、言われたことだけをする人ではなかった。 「なぜ?」と考える人だった。 人の行動の裏側を知りたがる人だった。 子どもの困りごとを、その子だけの問題にしたくない人だった。 職場の問題を見つけたら、 「どうすれば仕組みとして改善できるだろう」 と考える人だった。 そして、傷ついた経験さえ、 「なぜ、こんなことが起きたんだろう」 と研究しようとする人だった。 そこで彼女は、ひとつのことに気づいた。 自分に必要だったのは、 「みんなに好かれる能力」 ではなかった。 必要だったのは、 「自分の考える力を持ったまま、人と協働する力」 だった。 正しいと思ったことを、ただ正面からぶつけるのではない。 「あなたが悪い」と言うのではなく、 「この仕組みだと、困る人が出るかもしれません」 と伝える。 人を責めずに問題を伝える。 個人ではなく仕組みを主語にする。 相手の事情を理解する。 でも、自分の境界線も守る。 「分かろうとすること」と、「何でも我慢すること」は違う。 そして、職員が孤立しそうになったら、管理する側が間に入る。 「一人で抱えなくていいですよ」 「話し合う場をつくりましょう」 そんな言葉が必要なのだ。 彼女は思った。 「だったら、私がそんな職場を作ればいい」 かつて自分が欲しかった職場を。 相談した人が損をしない職場。 質問した人が馬鹿にされない職場。 「分からない」と言っても、笑われない職場。 意見の違いが、敵味方の違いにならない職場。 子どもだけではなく、働く人も安心できる職場。 彼女は、まだ完成していない。 失敗もする。 言い方を間違えることもある。 熱くなりすぎることもある。 あとから、 「もう少し落ち着いて話せばよかったな」 と思う日もある。 でも、もう昔とは違う。 彼女は、自分が何者なのかを少しずつ知り始めている。 人を観察する。 仕組みを考える。 学び続ける。 そして、未来を設計する。 かつて「収まりきらなかった人」は、 今度は自分で、 自分が力を発揮できる場所をつくろうとしている。 物語は、まだ終わっていない。 むしろ、 ここからが本編なのだ。 終
メモリ
『蜜の檻』アナザーエピソード 水の記憶(メモリ) 「水には意志と記憶(メモリ)があるって知ってた?」 その声はぽたぽた園で働くパート補助員の柏木知香だった。 彼女は六十二歳。 もうすぐ年金生活が始まるので、それまでに少しでもお金を稼いでおきたくてこのクラブに応募してきた。 支援職はほぼ素人だったが、主婦歴は長く料理だけは驚くほど上手かった。 現在は、ぽたぽた園で働く傍ら、隣町で小さな料理教室も開いている。 平日は学童補助員。 土曜は料理教室の先生。 それが知香の生活だった。 時々職員用の差し入れで持ってくる肉じゃがは、家庭的であったがとても美味しかった。 「柏木先生が作った肉じゃが、食べてみたいなぁ!」 子どもたちがそう言うたび、知香は嬉しそうに笑う。 だが、ぽたぽた園では衛生管理の都合から、手作りのおやつや料理を子どもへ提供することは禁止されていた。 配られるのは、業者から仕入れた既製品のお菓子がほとんどで、たまに季節の行事で買ってきたお団子をみんなで食べる程度だ。 知香は時折、その袋菓子を並べながら、不満そうに呟く。 「こんなのより、作った方が絶対おいしいのにねぇ」 三田主任は苦笑しながら、 「柏木さん、今はそういう時代じゃないの」 と軽く流す。 川崎園長も、 「まあまあ、事故でも起きたら大変だからね」 と適当にそれっぽく話をまとめる。 知香は納得していない顔をするが、それ以上は言わなかった。 年金受給まであと数年。 「ここもあと少しだけよ」 が口癖だった。 若い頃は、今とはまるで違ったらしい。 アマチュア無線に夢中で、車へ無線機を積み、仲間たちと遠くまでドライブへ出掛けていたという。 「昔はね、山の上まで行って電波飛ばしたのよ」 と、突然話し出すことがある。 「夜中に知らない県の人と繋がったりしてね。面白かったわぁ」 だが会話は時々妙に噛み合わず、急に話題が飛ぶ。 昔話を始めたかと思えば、次の瞬間には料理の話になり、水道水の話になり、ワイドショーで流行りの芸能人の話になる。 そのため職員たちからは、少し浮いた存在として扱われていた。 だがみつこは、知香に対して時折、言いようのない不安を覚えていた。 * 最近の知香は、妙なことを言うようになっていた。 「水ってね、言葉を覚えたり、記憶するのよ」 「ありがとうって言うと結晶体が綺麗になるし」 「人の気持ちは波動になるの」 最初は、年配者によくあるスピリチュアル趣味だと思われていた。 だが次第に、その言動は奇妙さを増していく。 給湯室で水に話しかける。 児童の水筒を並べ替える。 蛇口へ向かって独り言を言う。 大川圭介などは、それを見て笑っていた。 「柏木さん、昔はアマチュア無線が趣味だったから、変な電波拾っちゃってるんじゃないすか」 三田主任も苦笑するだけで止めない。 だがみつこだけは、笑えなかった。 知香の目の奥に、時折、妙な空白を感じるからだった。 * その日。 夕方の執務室で、みつこは児童記録を入力していた。 コンコン。 弱いノック音。 「はい」 ドアの隙間から、知香が顔を出す。 両手にはコップの水。 「……どうしました?」 「みつこ先生」 知香は真剣な顔で言った。 「この水、泣いてるの」 みつこの指が止まった。 「……は?」 「職員室が怖いって言ってる」 窓の外では、子どもたちの笑い声が遠く聞こえる。 みつこはゆっくり息を吐いた。 「柏木さん。疲れていませんか?」 「水は全部覚えてるのよ」 知香は執務室へ入ってくる。 「ありがとうって言うと結晶体が綺麗になるの。テレビでもやってたでしょう?」 みつこは頭痛を覚えた。 こういう“根拠の曖昧な話”が、一番苦手だった。 感覚。 空気。 波動。 それは川崎園長の「フレドリア心理学」を思い出させる。 「柏木さん、あの〜‥今は業務時間ですよ」 できるだけ穏やかに言う。 「あ、そうだ!明日の活動の準備をお願いします」 だが知香は動かなかった。 ゆっくり、みつこの椅子の後ろへ回る。 「今は座っちゃだめ」 次の瞬間。 着ていたトレーナーの服の裾を掴まれた。 ギリ、と布が引っ張られる。 「……っ!」 みつこは息を呑んだ。 初老とは思えないほどに力が強い。 「この椅子の下、水が怒ってる」 知香が囁く。 「みつこ先生、冷たすぎるから」 みつこは反射的に、その手を振り払った。 「やめてください!」 声が強くなる。 知香はよろめいた。 だが怒るでもなく、ぼんやり笑う。 「ほら、水が嫌がってる」 その瞬間。 給湯室の方から、 ポタリ。 と、水滴の音がした。 みつこの背筋に、妙な寒気が走る。 * 翌朝。 玄関で靴を履こうとして、みつこは足を止めた。 片方の靴が無い。 「あれ……?」 代わりに。 古びた運動靴が片方だけ置かれていた。 知香が履いていたものだ。 まるで脱皮した皮のように、ぽつんと転がっている。 みつこは無言で見下ろした。 昨日の知香の様子を思い出す。 焦点の合わない目。 支離滅裂な言葉。 不自然な力。 ――疲労か。 それとも? その時だった。 職員室から三田主任の声が響く。 「本多さーん! 大川君がまた連絡帳書いてないんだけど〜!」 現実が戻ってくる。 みつこは小さく息を吐き、 ロッカーから予備の靴を取り出した。 * 数日後。 みつこは、福祉支援学校の飯坂先生を訪ねていた。 以前、発達支援研修で知り合った先生だった。 小さな相談室で、みつこは柏木知香の様子を説明した。 水の話。 会話のズレ。 突然服を掴んできたこと。 そして、靴の件。 飯坂先生は静かに話を聞いていた。 「……それは、少し気になりますね」 湯気の立つコーヒーへ視線を落としながら、飯坂先生は続けた。 「六十代以降から急に始まる“奇妙なこだわり”や“不可解な言動”は、発達特性というより、認知症の初期症状として扱われることが多いんです」 みつこは黙って聞いていた。 「もちろん断定はできません。でも……」 飯坂先生は慎重に言葉を選ぶ。 「本人の中では、ちゃんと繋がっているんですよ。水の話も、波動の話も。不安や混乱を、自分なりに説明しようとしているのかもしれません」 窓の外では、雨が降っていた。 みつこの脳裏に、知香の姿が浮かぶ。 袋菓子を不満そうに並べる顔。 肉じゃがを嬉しそうに配る顔。 そして。 『この水、泣いてるの』 あの真剣な目。 みつこはゆっくり息を吐いた。 あれは狂気だったのだろうか。 それとも。 壊れ始めた世界を、必死で理解しようとしていたのだろうか。 「……なんだか、少しだけ怖いですね」 みつこが呟くと、飯坂先生は小さく頷いた。 「ええ。人は、“壊れる”というより、“少しずつズレていく”んですよ」 * その帰り道。 みつこはスーパーで肉じゃがの材料を買った。 じゃがいも。 にんじん。 玉ねぎ。 牛肉。 知香の味を、少し思い出しながら。 アパートへ帰ると、息子の優心(ゆうしん)が顔を出した。 「今日は肉じゃが?」 「うん」 みつこは小さく笑った。 「ちょっと、美味しいの作りたくなって」 鍋へ水を注ぐ。 その瞬間。 シンクの蛇口から、 ポタリ。 と、水滴が落ちた。 みつこは一瞬だけ手を止める。 だがすぐに、小さく首を振った。 「……気のせいよね」 そう呟きながら、 彼女は静かに火をつけた。 * その夜だった。 スマートフォンが震えた。 画面には、 《柏木知香》 の文字。 みつこは少し迷ってから通話を取る。 「……もしもし?」 『あっ、みつこ先生?』 知香の明るい声が聞こえる。 昼間の不穏さなど、まるで無かったかのような声だった。 『ねえ、来週のお休みの日、空いてる?』 「来週ですか?」 『滝を見に行かない?』 みつこは黙った。 『山の方に、すごく綺麗な滝があるのよ』 電話の向こうで、知香が楽しそうに続ける。 『その滝の水を汲んで帰って、玄関に飾っておくとね! 運気が舞い込んでくるんだって!』 みつこは思わず目を閉じた。 疲労なのか。 老いなのか。 それとも、本当にただの“趣味”なのか。 もう、よく分からなかった。 だが不思議と、以前ほど嫌悪感は無かった。 シンクでは、肉じゃがの鍋が静かに煮えている。 優心がテレビを見ながら笑っている。 そんな生活音を聞きながら、みつこは小さく息を吐いた。 「……、考えておきますね」 『ほんと?』 知香の声が、少し嬉しそうに弾む。 『あそこの水、すごく綺麗なのよ』 通話が切れた後も、 みつこはしばらくスマートフォンを見つめていた。 その時。 キッチンの蛇口からまた、 ポタリ。 と、水滴が落ちた。 みつこはその音を聞きながら、 小さく苦笑した。 「……本当に、水が好きなのね」 終
小説「蜜の檻」 後日談 「卒所式の雨」
「卒所式の雨」 ぽたぽた園を辞めて、一年が過ぎていた。 新しい職場には慣れた。 子供たちも穏やかだった。 職員同士で情報共有ができる。 事故報告を書いても嫌な顔をされない。 「ありがとうございます」と言われる。 そんな当たり前に、みつこは時々泣きそうになる。 それでも。 心のどこかに、小さな棘が残っていた。 ――あの子たちに、ちゃんとお別れを言えなかった。 * 三月。 冷たい雨の日だった。 みつこは迷った末、ぽたぽた園の卒所式へ向かった。 職員用玄関は、一年前と何も変わっていない。 古い傘立て。 湿った床。 薄暗い廊下。 胸の奥が少しだけ重くなる。 職員室へ顔を出すと、三田主任が一瞬だけ眉を動かした。 「あら……本多さん」 歓迎の響きはなかった。 「今日、卒所式ですよね。少しだけ、参加してもよろしいでしょうか」 三田は露骨に困った顔をした。 だが奥から川崎園長が出てくる。 「おお、本多君!」 以前より少し痩せたように見えた。 「もちろん構わないよ。せっかくだ、見ていきなさい」 三田は口元を引きつらせたが、何も言わなかった。 * 式が始まる直前。 みつこが後方の席へ座ろうとした、その時だった。 「ちょっとアンタ!」 鋭い声が飛んだ。 振り向くと、老年の女性パート職員が立っていた。 「そこはアンタの座る席じゃないよ!」 乱暴に腕を掴まれる。 みつこの服がぐいっと引かれた。 一瞬、何が起きたか分からなかった。 「え……」 「辞めた人間が図々しいんだよ!」 周囲の空気が凍る。 誰も止めない。 みつこはゆっくり我に返った。 「あ……すみません、別の椅子を出します」 倉庫へ向かおうとした、その時。 「いや、その席でいい」 川崎園長だった。 老年パートは不満そうに舌打ちしたが、手を離した。 みつこは小さく頭を下げ、静かに座った。 心の奥が、じわりと冷えていく。 * 卒所式は、どこか薄暗かった。 飾り付けは雑で、壁紙も剥がれている。 子供たちの歌声だけが、妙に痛いほど真っ直ぐだった。 みつこがいた頃は、もっと笑顔があった気がした。 もっと温かかった気がした。 ――いや。 そう思いたいだけなのかもしれない。 三田主任は終始、みつこと目を合わせなかった。 早く帰ってほしい。 そんな空気が露骨に伝わってくる。 * 式が終わった後だった。 「みつこ先生!」 振り向くと、卒所する子供たちが駆け寄ってきた。 「来てくれたん!?」 「先生、なんで辞めたん?」 「残ってほしかった……」 その一言で。 みつこの胸の奥に、熱いものが込み上げた。 ああ。 ちゃんと届いていたんだ。 自分が必死で守ろうとしていたものは、無駄じゃなかった。 「……ありがとう」 声が震えた。 「みんな、元気でね」 子供たちは何度も手を振っていた。 * 外へ出ると、雨が降っていた。 冷たい雨だった。 みつこは傘を差し、一人で歩き出す。 頬を流れるのが雨なのか涙なのか、自分でも分からなかった。 悔しかった。 悲しかった。 情けなかった。 それでも。 不思議と、前より少しだけ軽かった。 子供たちの言葉が、胸に残っている。 ――残ってほしかった。 みつこは空を見上げた。 灰色の雲の向こうに、うっすら光が見えた気がした。 「……次は、もっとちゃんと守れる場所へ行こう」 小さく呟く。 そして彼女は、もう振り返らなかった。 終
小説『蜜の檻(みつのおり)』第五章 完結編
第五章 蜜の檻を壊す日 退職を決めた日から、みつこは静かだった。 怒らない。 反論しない。 ただ淡々と働き、淡々と記録を残した。 三田はそれを「ようやく従順になった」と勘違いした。 川崎園長も安心したように笑っていた。 「やっぱり本多君は賢いねぇ。組織では“柔らかさ”が大事なんだよ」 みつこは微笑みさえ浮かべた。 「ええ。本当にそう思います」 その返事に、川崎は満足そうにフレンチトーストを頬張った。 誰も気づいていなかった。 みつこの中で、すでに勝負が終わっていることに。 * 退職日の一週間前。 ぽたぽた園に一本の電話が入った。 県の福祉指導課からだった。 「来週、定期監査に入ります」 職員室がざわつく。 三田の顔色が変わった。 「急すぎません……?」 電話を切った川崎は、額の汗を拭った。 「まあ、適当にやれば大丈夫だ」 しかし、その声は少し震えていた。 * 監査当日。 県職員が三名やって来た。 書類確認。 安全管理体制。 勤務実態。 経費処理。 淡々と確認が進む。 そして。 「ヒヤリハット報告書を確認したいのですが」 職員室が静まり返った。 三田が慌てて棚を開ける。 「え、ええと……」 書類が揃っていない。 日付が飛んでいる。 記載漏れだらけ。 県職員の眉が動いた。 「事故対応記録は?」 「そ、それは……」 その時だった。 「こちらです」 静かな声。 みつこだった。 全員の視線が集まる。 みつこはUSBメモリを机へ置いた。 「私個人でも記録を保管していました」 三田の顔が凍る。 「本多さん……!?」 みつこは穏やかに続けた。 「勤務配置表、児童見守り記録、事故寸前事例、音声ログ、備品管理履歴、経費精算データです」 川崎が立ち上がった。 「き、君、何を――」 「園長先生」 みつこは初めて、真正面から川崎を見た。 「フレドリア心理学では、“自分の課題は自分で引き受ける”のでしたよね」 職員室が静まり返る。 みつこは続けた。 「ですので、私は私の課題として、子供の安全を記録しました」 県職員がUSBを確認していく。 そして次第に、空気が変わった。 「……これは」 「未報告案件が複数ありますね」 「経費処理も不自然です」 川崎の顔から血の気が消える。 三田が慌てて叫んだ。 「ち、違うんです! 本多さんが勝手に――」 「勝手?」 みつこは静かに笑った。 「児童が行方不明になりかけた件も、“無かったこと”にするつもりでしたか?」 大川が舌打ちした。 「は? 大げさなんすよ」 県職員が鋭く振り向く。 「あなたが担当者ですか?」 大川は黙った。 「あと」 みつこはさらに資料を出した。 「園長先生の経費記録です」 川崎が青ざめる。 「会議費として処理された飲食代ですが、実際には個人的飲食利用が多く見られました」 フレンチトースト店のレシート。 高級カフェ。 頻繁な私的飲食。 県職員の目が険しくなる。 「これは説明が必要ですね」 川崎の口が震えた。 「ち、違……これは交流で……」 「児童とですか?」 みつこの一言で、完全に空気が止まった。 * 三田は、わなわな震えていた。 「本多さん……こんなことして、職場を壊したいの!?」 その瞬間。 みつこの中で、何かが静かにほどけた。 「違います」 穏やかな声だった。 「もう壊れていたんです」 三田が言葉を失う。 「私は、子供たちが安心できる場所だと思いたかった」 みつこは職員室を見渡した。 古い机。 乱雑な書類。 見て見ぬふりをする大人たち。 「でもここは、“子供を守る場所”じゃなかった」 そして。 みつこは最後に頭を下げた。 「お世話になりました」 * 一ヶ月後。 ぽたぽた園には行政指導が入り、運営改善命令が出された。 川崎園長は責任を取る形で退任。 三田は休職。 大川は自主退職したという。 その噂を、みつこは新しい職場の休憩室で聞いた。 「へぇ、大変だったんですね」 新しい主任が苦笑する。 今度の職場は、小規模の民間学童だった。 だが。 職員同士で情報共有し、 事故記録を残し、 子供の特性を理解し、 支援を学び合っている。 当たり前のことを、当たり前にしていた。 みつこは、それだけで少し泣きそうになった。 * 帰り道。 優心が自転車の後ろで言った。 「母さん、最近、顔違うね」 「そう?」 「うん。ちゃんと笑ってる」 夕暮れの空は青く澄んでいた。 みつこは、自転車をゆっくり漕ぐ。 頬に風が当たる。 軽かった。 何年ぶりか分からないほど、身体が軽かった。 「今日は何食べる?」 「味噌汁!」 「また?」 「母さんの味噌汁好きなんだよ」 みつこは笑った。 「じゃあ今日は、具をいっぱい入れようか」 蜜のように甘い言葉で人を縛る場所ではなく。 ちゃんと温かい場所で、生きていく。 それでいい。 それだけで、十分だった。
小説『蜜の檻(みつのおり)』第四章
第四章 記録する女 その夜。 みつこは眠れなかった。 隣の部屋では、優心が寝返りを打つ音がする。 時計は午前二時を回っていた。 暗い台所で、一人ノートパソコンを開く。 画面には、ぽたぽた園の勤務表。 事故記録。 児童対応記録。 未提出のヒヤリハット。 そして、自分だけが密かに残していたメモ。 みつこは静かに、新しいフォルダを作った。 『記録』 その名前を入力した瞬間、不思議と心が落ち着いた。 感情では駄目だ。 怒りでも駄目。 必要なのは、証拠。 夫は、証拠を残さなかった。 「頑張れば分かってもらえる」と信じていた。 だが組織は、善意など守らない。 記録だけが、自分を守る。 * 翌日から、みつこは変わった。 感情を表に出さなくなった。 三田に嫌味を言われても、 「承知しました」 とだけ答える。 大川に無視されても反応しない。 その代わり。 すべて記録した。 日時。 発言。 児童の様子。 配置人数。 事故寸前の状況。 園長の指示。 私物購入の領収書。 勤務実態。 スマホの録音アプリも使った。 そして気づいた。 ぽたぽた園は、“感覚”で回っているのではない。 単に、誰も管理していないだけだった。 * 数日後。 みつこは園長室へ呼ばれた。 部屋に入ると、甘ったるい蜂蜜の匂いがした。 川崎園長は、高級そうなフレンチトーストを切り分けている。 「まあ座って」 みつこは無言で座った。 「最近、少し空気が硬いね。本多君」 「……そうでしょうか」 「うん。周りを緊張させてる」 川崎は蜂蜜をたっぷりかけながら言った。 「組織っていうのはね、“正しさ”だけじゃ回らないんだよ」 また始まった。 フレドリア心理学。 「君は優秀だ。でも優秀な人ほど、自分の価値観を他人へ押し付けてしまう」 「押し付けているつもりはありません」 「いや、してる」 川崎は笑った。 「大川君なんて、完全に萎縮してるじゃないか」 みつこは呆れた。 児童を見失った人間が、被害者扱いされている。 「彼はまだ若いんだ。育てなきゃいけない」 「子供の安全よりですか?」 一瞬。 川崎の顔から笑みが消えた。 だがすぐ戻る。 「極論だねぇ」 その言い方で、みつこは確信した。 この男は。 子供にも職員にも興味がない。 自分の支配が崩れることだけを恐れている。 * その帰り際だった。 園長室の机に、一枚のレシートが見えた。 『カフェ・蜜月亭』 『特製ハニーフレンチセット 4,800円』 みつこは目を止めた。 領収名義。 『児童交流会議費』 ――会議? 今日、会議などなかった。 川崎は慌ててレシートを裏返した。 「どうしたの?」 「……いえ」 みつこは頭を下げた。 だが、その瞬間から。 彼女の中で何かが完全に切り替わった。 * 翌週。 職員会議で、川崎園長が発表した。 「来年度の正規職員登用についてですが」 みつこは静かに資料を見ていた。 胸騒ぎはしていた。 「大川圭介君を、正規職員候補として推薦します」 職員たちが拍手する。 三田は満足そうに頷いている。 みつこの名前は呼ばれなかった。 「なお、本多さんについては」 川崎が視線を向ける。 「現場との協調性に課題が見られるため、今回は見送ります」 静まり返る職員室。 みつこは、不思議なくらい冷静だった。 悔しさより。 むしろ納得していた。 ああ、やっぱり。 この組織は。 子供を守る人間ではなく。 組織に従う人間を残すのだ。 * 会議後。 大川がわざとらしく近づいてきた。 「いやー、すんません」 ニヤついている。 「俺、正規なっちゃうみたいで」 みつこは黙っていた。 「まあ、本多さんって真面目すぎるんすよ」 大川は笑う。 「この仕事、適当なくらいがちょうどいいっすって」 その時だった。 廊下の向こうで。 女児が転んだ。 泣き声が響く。 だが大川は動かなかった。 スマホを見たまま。 みつこは無言で走った。 女児を抱き起こす。 「大丈夫?」 小さな手が、みつこの服をぎゅっと掴んだ。 その瞬間。 みつこの中で、答えが出た。 ――辞めよう。 ここは、もう沈み始めている。 ならば。 沈む前に降りるだけだ。
小説『蜜の檻(みつのおり)』第三章
第三章 沈む園 優心の言葉は、みつこの胸に深く残った。 ――前の父さんみたいな顔してる。 夫もそうだった。 最初は「頑張れば変えられる」と言っていた。 理不尽な上司。 責任逃れ。 現場へのしわ寄せ。 疲弊する同僚。 それでも真面目に働き続け、最後は壊れた。 みつこは、味噌汁の湯気を見つめながら思った。 同じ場所へ、自分も向かっている。 * 翌週。 ぽたぽた園では「お泊まり会」の準備が始まっていた。 夏休み恒例の行事で、子供たちは楽しみにしている。 だが、現場は混乱していた。 食材発注は二重。 アレルギー表は未更新。 緊急連絡先リストも古い。 みつこが確認すると、すでに転居済みの番号まで混ざっていた。 「これ、かなり危険です。整理し直した方が……」 「細かいなぁ、本多さんは」 三田は露骨に嫌そうな顔をした。 「毎年これでやってるから大丈夫」 「でも、もしアレルギー事故が起きたら――」 「起きてないでしょ?」 会話にならなかった。 そして。 問題は、大川だった。 「えー、俺、泊まり夜勤とか無理っす」 会議中にもかかわらず、椅子へだらしなく座ったままスマホをいじっている。 「寝れないじゃないですか」 三田は困ったように笑った。 「まあまあ、大川君も若いからねぇ」 「いや、若いとか関係ないっしょ。てか、俺こんな給料で責任だけ重いの納得いかないんすよ」 みつこは唖然とした。 子供の安全管理を前にして、責任から逃げる発言。 だが川崎園長は笑っていた。 「圭介君は素直でいいなぁ」 圭介。 いつの間にか名前呼びになっている。 「本音を言える若者は貴重だよ」 みつこは気づいた。 この組織では。 無責任な人間ほど愛される。 * お泊まり会当日。 地獄は夕食後に起きた。 子供たちが体育館で自由遊びをしていた時だった。 「せんせー! ゆうと君がいない!」 みつこの背筋が凍った。 「何分前!?」 「わかんない!」 人数確認。 一人足りない。 小学二年の男児・ゆうと。 自閉傾向があり、突然飛び出す癖がある。 「大川先生! 最後に見たのいつですか!?」 「あー……」 大川は壁にもたれていた。 「外いた気がします」 「気がする!?」 みつこの声が裏返る。 「一人で外へ出したんですか!?」 「いや、ちょっとくらい大丈夫かなって」 血の気が引いた。 施設裏には用水路がある。 夜道も暗い。 みつこは懐中電灯を掴み、飛び出した。 * 「ゆうと君!!」 夜道を走る。 汗が流れる。 息が切れる。 頭の中では最悪の映像ばかり浮かんでいた。 もし用水路に落ちていたら。 もし車道へ出ていたら。 もし――。 「ゆうと君!!」 すると。 かすかに泣き声が聞こえた。 空き地の奥。 しゃがみ込む小さな影。 「……っ!」 みつこは駆け寄り、強く抱き締めた。 「よかった……!」 ゆうとは震えていた。 「せんせぇ……くらかったぁ……」 「大丈夫、大丈夫だから」 みつこは涙を堪えた。 その時だった。 「見つかりましたー?」 後ろから呑気な声。 大川だった。 ポケットに手を突っ込みながら歩いてくる。 「いやー、焦りました?」 みつこの中で、何かが完全に壊れた。 「……あなた」 低い声が出た。 「子供がいなくなったんですよ」 「だから見つかったじゃないですか」 「結果論です!!」 みつこは叫んでいた。 「もし死んでいたらどうするつもりだったんですか!!」 大川の顔が歪む。 「は? なんすか、その言い方」 「責任感がなさすぎます!」 「うざ……」 その一言だった。 みつこの頭が真っ白になる。 「うざい……?」 大川は吐き捨てるように言った。 「本多さんって、いっつも正論ばっかっすよね。だから空気悪くなるんすよ」 みつこは言葉を失った。 そこへ。 「何やってるの!」 三田が駆けてきた。 だが彼女は、真っ先に大川の前へ立った。 「大川君、大丈夫?」 みつこは、自分の耳を疑った。 「……主任?」 「本多さん、感情的になりすぎ」 「行方不明になっていたんですよ!?」 「でも見つかったでしょう?」 三田は苛立った顔で言った。 「あなた、問題を大きくしすぎなのよ」 その瞬間。 みつこの中で、何かが静かに決壊した。 ああ。 もう駄目だ。 この場所は。 子供を守る場所ではない。
小説『蜜の檻(みつのおり)』第二章
第二章 フレドリアの甘い支配 ぽたぽた園では、不思議なことに「問題」はいつも存在しないことになっていた。 子供同士の暴力。 保護者からの苦情。 職員の長時間労働。 大川の勤務態度。 すべてが、 「まあまあ」 「気にしすぎ」 「悪気はない」 で処理される。 そして最後には、必ず園長の“フレドリア心理学”が持ち出された。 「人はね、自分の見たいものしか見ないんだよ」 川崎園長はソファに深く腰掛け、蜂蜜のかかったフレンチトーストをナイフで切り分けた。 「だから、他人の欠点ばかり気になる人は、自分自身に問題を抱えている」 職員たちは曖昧に笑った。 誰も反論しない。 反論した者が、どうなるか知っているからだ。 * みつこは徐々に孤立していった。 挨拶しても返事がない。 共有フォルダは誰も更新しない。 みつこが作ったシフト表は印刷された後、わざわざ手書きで修正されていた。 ある日、若いパート職員が申し訳なさそうに声を掛けてきた。 「あの……本多先生」 「はい?」 「三田主任が、“本多さんは現場を混乱させるタイプだから気をつけて”って……」 みつこは一瞬、息が止まった。 「……そうですか」 「すみません、私、余計なこと……」 「いいえ。教えてくれてありがとう」 パート職員は怯えたように周囲を見回し、小走りで去っていった。 その背中を見ながら、みつこは静かに理解した。 三田は、先回りして“敵”を作っている。 自分が孤立するように。 * さらに数週間後。 事件は起きた。 土曜日だった。 職員不足で、児童三十人を三人で見ていた。 みつこは工作コーナーにいたが、外から突然悲鳴が聞こえた。 「きゃあああ!!」 みつこは飛び出した。 遊具の近くで、男児が泣き叫んでいる。 大型遊具のロープが首に絡まりかけていた。 「危ない!!」 みつこは駆け寄り、ロープを外した。 あと数秒遅れていたら危なかった。 男児は震えていた。 「大丈夫!? 苦しくない!?」 みつこが抱き寄せる。 その時。 「あー……すみません」 背後から気の抜けた声がした。 大川だった。 スマホを片手に、面倒そうに立っている。 「見てなかったっす」 みつこの中で、何かが切れた。 「見てなかったで済む問題じゃありません!」 思わず声が大きくなる。 「もし首が締まっていたらどうするんですか!? 支援員でしょう!?」 すると。 「本多さん」 冷たい声。 三田だった。 「大声出すのやめてもらえる?」 「でも――」 「大川君だって反省してるでしょ?」 見ると、大川はまるで反省していなかった。 むしろ不機嫌そうだった。 「つーか、一人で全員見れるわけないじゃないですか」 吐き捨てるように言う。 「俺ばっか責められても困るんすけど」 「大川君!」 三田が庇うように前へ出る。 「本多さん、若い人を潰すような言い方はやめなさい」 みつこは信じられなかった。 危険だったのは事実だ。 しかし問題になっているのは事故ではなく、“空気を悪くした自分”だった。 * その日の夕方。 みつこは一人で残業していた。 誰も触らない連絡帳。 散乱したプリント。 未記入の事故報告。 気づけば夜八時を回っていた。 パソコンへ入力していると、背後で声がした。 「真面目だねぇ、本多君」 川崎園長だった。 また蜂蜜の匂いがした。 「……事故報告書をまとめています」 「そんなもの、簡単でいいんだよ」 川崎は笑う。 「大事なのは“現場が回っている感覚”だからね」 「ですが、記録は必要です」 「君は頭が良すぎるんだ」 川崎はねっとりした声で言った。 「修士号を持ってる人間は、どうしても正解を求める。でもね、この世界は“人間力”なんだよ」 みつこは黙っていた。 川崎は続ける。 「大川君みたいな若者には未来がある。多少未熟でも、伸びしろがあるんだ」 そして。 川崎はゆっくり笑った。 「でも君は、完成されすぎてる」 その言葉を聞いた瞬間。 みつこは悟った。 ああ。 この人たちは。 “有能な人間”が嫌いなのだ。 正確には。 自分たちの無能さを照らす存在が、怖いのだ。 * 家に帰ると、優心が夕飯を温め直していた。 「おかえり」 「……ただいま」 「また遅かったね」 みつこは笑おうとした。 だが上手く笑えなかった。 優心は黙って味噌汁を差し出した。 一口飲んだ瞬間、涙が出そうになった。 「母さん」 優心が静かに言った。 「あの職場、なんか変だよ」 みつこは箸を止めた。 「前の父さんみたいな顔してる」 その言葉が、胸に刺さった。
小説『蜜の檻(みつのおり)』
第一章 希望という名の罠 本多(ほんだ)みつこ、三十九歳。 夫を職場の過労で亡くして、はや三年が過ぎようとしていた。 中学一年生になった息子・優心(ゆうしん)を育てながら、みつこはようやく「人生を立て直す入口」に立っていた。 父の介護のため大学を一度中退し、その後は結婚、出産、夫の激務、そして死。 何度も人生に置き去りにされながら、それでも彼女は諦めなかった。 介護を終えた後、地元の教育大学へと編入し、夜中までレポートを書き、働きながら修士号と教員免許を取得した。 努力だけで這い上がってきた女だった。 そんなみつこが新たな職場として選んだのは、近所の児童養護施設に併設されている 『平和ほのぼの放課後学童保育クラブ ぽたぽた園』 名前だけは、優しかった。 * 「山岡さん……じゃなかった、今は本多さんね」 主任の三田美和子は、柔らかい笑みを浮かべた。 「ほほえみ教育大学の後輩が来てくれるなんて、本当に嬉しいわ」 四十二歳、独身。 細い眉と淡い口紅。常に穏やかな声を出す女だった。 だが、その目だけは笑っていない。 「こちらこそ、よろしくお願いします」 みつこは頭を下げた。 職員室には古い書類棚と、黄ばんだコピー機、手書きの出勤簿が並んでいる。 時間が止まったような空間だった。 みつこはすぐに違和感を覚えた。 シフト表はすべて手書き。 備品管理もノート。 連絡事項は口頭。 誰が何を把握しているのか分からない。 しかし彼女は否定しなかった。 まずは馴染もうと思った。 だから最初の一週間、黙って観察した。 そして八日目。 みつこはExcelでシフト管理表を作成し、共有フォルダを導入した。 「これで事務作業、かなり短縮できます。備品の在庫も一覧で見られるので」 職員たちは目を丸くした。 「えっ、すご……」 「これ便利ですね」 若いパート職員が素直に感嘆する。 その瞬間だった。 三田の笑顔が、わずかに固まった。 「……本多さん」 「はい?」 「そんなに効率化して、余った時間で何をするつもり?」 職員室が静まった。 「え……?」 「子供を見る仕事って、データじゃないのよ。母親の勘とか、空気感とか、そういう積み重ねなの」 三田は穏やかな声で言った。 だが、言葉の奥に棘が混じっていた。 「仕事を早く終わらせればいいってものじゃないわ」 みつこは、返答に困った。 その時だった。 「お疲れっすー」 だるそうな声と共に、一人の青年が職員室へ入ってきた。 大川圭介。 二十一歳。 高卒、未経験、無資格。 高校の頃から勉強は嫌いで、転々と職場を変えながら生活をしていたが、母親と園長が知り合いだった事からここを勧められて来た。 子どものお世話係というよりも、自身もまだ中身が幼いようで、子ども達とは同じ目線で遊べるから自分でもできる仕事だと自信を持ったらしい。 茶色く染めた髪に、だらしないネックレス。 だが三田は、途端に顔を緩めた。 「あ、大川君おかえり〜」 「今日マジ疲れたっす。週六日の手取り十七万でこれとか、割に合わなすぎ」 大川は椅子にふんぞり返りながらスマホをいじる。 「土曜も出てるのに手当ショボいし」 三田は苦笑した。 「若いんだから頑張りなさいよ」 しかしその声音は甘かった。 大川はみつこを見ると、一瞬だけ表情を変えた。 そして露骨に視線を逸らした。 「……どうも」 挨拶ですらなかった。 * 数日後。 下校引率中の出来事だった。 「やだー! あるきたくないー!」 発達障害のある女児・結菜が、突然道路脇へ寝転がった。 スカートがめくれ、下着が見える。 「結菜ちゃん!」 みつこが駆け寄ろうとした瞬間、大川が先にしゃがみ込んだ。 しかし。 彼は声を掛けない。 ただ、じっと見下ろしていた。 異様な沈黙。 みつこの足が止まる。 大川の目線は、子供の顔ではなかった。 スカートの奥に向いている。 ――え? 背筋が冷えた。 「……大川先生?」 みつこの声で、大川が顔を上げた。 「あ、いや、起きないんで」 乾いた笑み。 その瞬間、結菜が泣き出した。 みつこは急いで上着で隠し、抱き起こした。 大川は何もしなかった。 * 違和感は、それだけでは終わらなかった。 クラブ内でも、大川は妙に女児へ触れたがった。 「せんせぇ〜」 女児が甘えると、すぐ膝へ乗せる。 抱き上げる。 髪を撫でる。 腰へ手を回す。 必要以上に近い。 ある日、みつこはついに口を開いた。 「大川先生、身体接触はもう少し距離を取った方が……」 すると。 「本多さん」 三田の低い声が飛んだ。 「あなた、少し過敏じゃない?」 職員室の空気が凍る。 「でも、子供との距離感としては――」 「大川君は子供に懐かれてるの。それに、あの子は いいの、いいの。園長先生のお気に入りなのよ」 三田は腕を組み、顔を横に振った。 「あなたみたいに“正しさ”ばかり振りかざす人には分からないかもしれないけど」 「私はそういう意味で言ったわけでは」 「じゃあ何?」 三田の目が細くなる。 「男性職員が子供に触れたら全部疑うの?」 みつこは絶句した。 違う。 そういう話ではない。 だが三田は、周囲へ聞かせるようにため息をついた。 「そういう決めつけ、今の時代まずいわよ」 その時。 「まあまあ」 蜂蜜の甘い匂いが漂った。 園長・川崎次郎だった。 手には、分厚いフレンチトーストの箱。 「人を裁くのは良くない。本多君」 川崎は蜂蜜で光る指を舐めた。 「フレドリア心理学ではね、“他人の課題に踏み込まない”ことが重要なんだ」 三田がうっとりと頷く。 「大川君には大川君の課題がある。君が不快になるのは、君自身の課題だ」 フレンチトーストにかかった甘い蜜の香りが部屋に漂う。 フレドリア心理学という、怒りは他者の課題であると説くこの心理学は園長の十八番だった。 みつこは理解した。 この組織は。 壊れている。 そして。 自分だけが、それに気づいている。