『思い出を吸い込む』
思い出を吸い込む
『止まれ』の路面表示が見えてきた。いつもはここで止まらないと、竹刀を持った体育の先生にしかられるけれど、今日は止まらなくてもいい。あいさつ運動の生徒たちもいない。背の高い木々がゆらゆらと枝葉を鳴らしているのが、いつもより鮮明に聞こえた。
わたしの影がわたしを追い抜かそうとしている。わたしはそれを許さない。
今日は学校が休みだ。だけどわたしは学校に行く。部活もない。補習もない。先生に呼び出されたわけでも、忘れものを取りにきたわけでもない。
来週、この学校は取り壊される。
青空とひび割れたコンクリートに挟まれたクリーム色の四角い校舎は、今日で見納めだ。
学校は数年の工事を経てサッカースタジアムに生まれ変わるらしい。
改めて校舎を見ると、いろいろな記憶がよみがえってくる。教室の後ろにあった、やけに小さいロッカー。社会で使う資料集と国語辞典を入れたら、それだけでいっぱいになった。雨の日は雨漏りするから、何かの儀式かと思うくらいそこら中にバケツが置いてあった。エアコンなんて近代的な発明品はなかったから夏は暑いし、冬は寒かった。
でも、それが楽しかったのかもしれない。
わたしはやっぱり、『止まれ』の路面表示で止まった。三年間止まってきたのだから、もう体に染み付いてしまっている。
クレーン車が校舎の骨組みをえぐっている姿を想像すると、わたしの胸も深く削りとられるような気分になった。
わたしは胸を押さえながら校門をくぐる。昇降口で靴を脱ぎ、かたかたと音を鳴らす、すのこに足を乗せた。
この靴箱を使うのも最後か。
卒業式が終わった後も、あえて持って帰らなかった上履きを取り出し、足を突っ込む。
四角い影を落とす廊下を歩き、つい先月まで授業を受けていた三階の教室に入った
机の間を縫うように進み、窓を開ける。春のエキスを含んだ清々しい風が、今やコスプレと化してしまったセーラー服の襟をはためかせた。
この空間に凝り固まった感動や邪念は、来週になると、ひとまとまりになって崩れ落ちてしまう。
また胸が痛んだ。
わたしは初めて教室というものに、愛しさを感じた。
木の匂い。チョークの匂い。人がいた匂い。全部が愛しい。そして寂しい。
この世にある青春をかき集めたみたいなこの教室の中で、わたしは深く深く息を吸った。
二度と来ることのないこの教室の空気を逃さないよう、わたしは頬を目一杯に膨らませた。