流星
今夜は流星群が観れると、朝のニュースで聞いたのを思い出す。
別段星に興味が有るわけではなかったが、ふと冬の寒空の下で静かな孤独に浸りたくなり、コートを羽織りつつ片手にはこれまた普段呑まない缶チューハイなんぞを持って外に出る。
幸い住んでる場所は住宅地でも外れの方で、少し歩けば河原に着く。そこに腰を下ろしてぼんやりと空を見上げた。
遠くに聞こえる電車や車の通る音以外、何も聞こえない。
流星群が観れるとはいえ深夜だったので、人通りもなかった。
澄んだ冬空に瞬く星が見え、ちょうど光の帯がすぅ、と現れて消えた。
プルタブを引っ張り、炭酸が効いたチューハイをちぴりと呑む。
これはなかなかに風流な事をしているかもしれない、と少しばかり楽しくなってきた。
数こそ多くはないものの、時折見せる流星に想いを馳せる。
—もしここに、先生が居たら。専門分野以外にも博識なあの人の事だ、講義にもならないちょっとした雑談と豆知識が聞けるだろうな。
孤独を求めた中で思い浮かべたのは、嘗ての恩師だった。
大学で英文科を専攻していた頃と卒業後も随分とお世話になっていた。
なるほど英国文化を愛する紳士然とした、穏やかだが時々ブラックジョークやユーモアを交えつつ講義を行えるので生徒の間でも人気があり、女子学生の中には熱烈なファンも居たほどだった。
当然私もその中の一人であった。が、不出来な学生だった私は何かと教授室の扉を叩いては教えを乞うていた。
先生はそんな私に嫌な顔一つせず、丁寧に教えと知識を与えてくれた。
教授ではなく先生と呼ぶのは、本人の希望だった。
教授だと堅苦しくて偉そうじゃないか。確かに私は君に教えを授ける立場だが、その前に同じ英国文化を愛する人間じゃないか。
君は成績が良いとは言えないが、提出された論文はどれも愛に溢れている。
どうかこのまま、愛を持って学んでいきたまえよ。
その言葉に、学生時代どれだけ励まされたか分からない。
卒業後も、長期休みの頃に英国文化の催しをやっていればお互い行ったかどうか、あれはどうだったかなどの他愛ない話を何通もメールで送り合った事もあった。
先生から旅先からの美しい風景が撮られたポストカードが送られた事もあった。
—ああ不思議だ。流星が流れるたびに、先生との想い出が思い起こされる。
卒業から約二十年、流石に積極的な交流こそなかったが、年賀状でのやり取りは続いている。
しかし数か月前、突然先生から我が家に来ないかと自宅に招かれ、数ある貴重な蔵書のなかから好きな本を持っていって良いと言われた。
流石に教壇に立つのは疲れてしまってね、悠々自適の生活をしようと思うのだよ。
そう言う先生は随分と小さくなり顔や手に刻まれた皺の深さも増えたが、あの頃と変わらずきちんと整えられた頭髪に三つ揃いのスーツ姿で、茶目っ気たっぷりに私にウィンクをする。
最初は遠慮こそしたものの、このまま書架に飾られるよりも大切に読んでくれる者の手に渡った方が私も本も喜ぶよと言われてしまえば、私は数冊の本を選んでバッグに仕舞う事にした。
そして奥様が用意して下さった茶菓子と秋の温かく穏やかな光のなかで、アフタヌーンティーを楽しんだ。
その時奥様に言われた言葉と感情は、今でもはっきりと思い出せる。
この人はよく貴女の事を話してくれるの。数ある学生の中でもこれだけ自分の話に目を輝かせてくれる人はそう居ない。
我が家は息子だけだから、娘が居たら貴女のような子が良いわねって。
たおやかに、まるで少女の様に微笑んでから先生と向き合う姿は正しくおしどり夫婦の様だった。
けれど私の心には、冬の嵐が吹き荒んだ。
その、娘のように思って下さる目の前の女は、貴女の夫をずっと一人の男として見ていたのですよ、と。
「……If love be blind,It best agrees with night. 」
恋が盲目と言うのなら、暗い夜こそ相応しい。
シェイクスピアはロミオとジュリエットの一説だ。
卒業後、社会に出てからそういう機会が無かった訳ではなかったが、どうにも私の心が動く事はなかった。
まったく想像力でいっぱいだったのだ。狂人と詩人と、恋をしている者は。
そう、私が先生に抱いていたのは、慕情だった。
親子ほどに年が離れた妻帯者。私より十は下であろう息子も居る人だ。
なんと不毛なものだろう。それでも惹かれてしまったのだ。ああ恋とは狂人の所業と言われても致し方ない。
元々英国文化が好きで先生の元で学び続けていたのもあるが、それ以上に先生と過ごせる芳醇なひと時が何より欲しくて、卒業後も何とか繋がりを切るまいと必死になっていた。
折角の流星鑑賞だったのに、嫌な気持ちまで思い出してしまった。
しかし、今はあの嵐のような激しさはない。改めてあのお二人だからこそ醸し出せる穏やかな時間と先生の小さな幸福を願うばかりだった。
改めて今度は大口で缶チューハイを呑んだ。
流星は変わらず降り続け、酔いが回ってきたのか、ふわふわと思考が溶けてゆく。
決して隣に並べる訳がない。共に歩める訳がない。
物理的に触れようと思えば触れられる距離にいたときもある。けれど指先、いや爪先でさえ触れてはならぬものだった。
それこそ今頭上を流れる流星の様に、現れては消えを繰り返す、そんな恋だった。
滔々と浸っていると、この場に全く似つかわしくない呼び出し音がポケットから鳴り響く。
スマホの着信画面には、交換したものの殆ど使う事はなかった先生の名前が表示されていた。
すわ何事かと電話に出るが、その声は先生でも奥様でもなく、聞いた事のない若い男のものだ。
しかしどこか先生の声のトーンと似ている。誰かと問えば先生の息子だと男は名乗った。
「……はい、そうですが。………そう、でしたか。こんな深夜にわざわざご連絡を頂き有難うございました。では、その日に。……心より、お悔やみ、申し上げます」
ぐっと、残りの缶チューハイを呷る。
未だに消えぬ炭酸と安いアルコールが喉を焼くようだ。慣れない飲酒はしないに限る。
けれど酔っている筈の頭は、外気温と同じかそれ以上に冷え込んだ。
クローゼットの奥に、喪服があったろうか。
職場へは朝一番に休みの連絡を入れよう。ああそうだ銀行でお金を下ろして、コンビニに香典袋を買いに行かなければ。
ぐしゃりと空き缶を握りつぶし、堪らず川に放り投げる。
微かな音を立てて、哀れな空き缶は墨を流したような川に沈んでいった。
本当は分かっていた事なのだ。突然の呼び出しに蔵書の寄与。あれは別れの挨拶だったのだと。
けれどどうしても考えたくなくて、見て見ぬふりをしていただけなのだ。
再び夜空を仰ぎ見れば、ひときわ強く輝く流星が流れて、消えた。
外に出る前に流星について少しばかり調べた。
あれは彗星に集まるチリの集団で、地球の大気とぶつかり発光するのだと。
チリなのにあんなに美しく最後を迎えるだなんて、少しばかり羨ましい。
流星の代わりに両頬を幾筋の涙が落ちて、夜の闇に消えた。