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初心者ですがよろしくお願いします、コスプレしてるのでもしよければ TikTok →@mako05102 旧Twitter→@Mako073129831309

私の趣味

私の趣味は 絵を描くこと 本を読むこと 歌を歌うこと そして コスプレをすること 最後の趣味は去年から始めた アイコンは自分の写真 最初はウィッグを買って少し化粧をしただけ それでも景色が違って見えた 初めて旧Twitterを使った 沢山の友達ができた 衣装を着て メイクをして ウィッグをかぶってイベントに出る この時間だけは人とまっすぐ話せる 自分を表現できる でも 受け入れられないことも多い 「気持ち悪い」そう言われることがある 言い返す事はできない でも続けたい 推しの姿になって、推しを見て…それができるのが楽しい まだ始めてから1年も経っていないけど 私は誰かの「好き」「尊い」を実現したい

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私の趣味

春が怖い訳

新しいクラス 新しい先生 新しい友達 そんな沢山の新しいものに 期待していた小3の時に 裏切られた 新しく赴任してきた女の先生 その先生は優しそうな雰囲気をしていてクラス担任になった でも1ヶ月もせずに 先生が嫌いになった 成績順の差別、運動神経の悪い生徒をわざと手本にする 自分の娘との比較、100点を取るまで終わらないテスト 体型による差別、アレルギー食品を無理に食べさせようとする これを親に相談して、先生に伝えても 次の日に自分が責められて嘘をつくなと言われる 二者面談が全員分終わった後 私の机と椅子が廊下に出されていた 「嘘をつくような生徒はクラスにいらない」 と言われた 教室に入れてもらえず、クラスメイトは見て見ぬふり 隣のクラスの先生には 「クラスの子に危害を加えたから廊下で反省させている」 と目の前で嘘をついていた 小4になっても担任は変わらなかった 差別も変わらなかった 夏休み前、学校の前で足が動かなくなった 「行かないとけない」そう思っても 足が動かなかった 事務の先生が様子を見に来て保健室に連れて行ってくれた 保健室に担任が来た、その日はもう早退することになった 担任と2人になった時 「甘えてるからだ、もう2度と恥をかかせるな」 そう言ってきた 目の前から色が消えるような感覚が走った その後、私は学校に行けなくなった 定期的に家に来る担任が怖くてたまらなかった 親は何かを察して担任には会わせないようにしていた 進級して担任が変わった後、少しずつ学校に行き始めた 担任の先生は新採用だったけど 親が前の担任のこと、私の不登校の原因を話したら証拠集めを手伝ってくれた クラス替えがあったからその前のクラスの子と親 みんなが自分が受けたことを紙に書き込んで、 自分の子どもがどんな状態になったかを書き込んだ。 そして校長に提出しようとしたら新しい担任に言われた 「(自分)が受けた事は書かなくていいの?」と 誰にも言えなかった、怖くて両親にも言えなかった 新しい担任は匿名にする事、また危害を受けるようなら相応の措置を取る事 この二つを約束してくれた そして私が受けたことも書き足した100枚以上の文書を校長に提出した そして、校長はその文書を教育委員会に提出して前の担任は解雇処分になった すごく安心した。でも1年後 親と買い物をして会計を待つのに離れていた時に会ってしまった こう言われた 「立ち直れないようにしておけばよかったですね」と 会計を終えた母が駆けつけて来て私を兄に預けた後何かを言い争っていた そして、周りの誰かが呼んだのか警察が来た その後母が法的措置を取ることを決めた 署名と証拠を集めて弁護士の人と裁判をした 私は証言を求められた 怖かった、でも言わないと 初めて全てを包み隠さず言えた。 気づいたら嗚咽を漏らしながら泣いていて 落ち着くようにと別室に案内してもらった 結果は0:10でこちらが勝訴となった 母は慰謝料を求めなかった、代わりに求めたのは 「接触禁止命令」 それから私はあの人に会っていない、でもあの店には今も行けていない あの言葉が蘇るようで駐車場にいるだけで過呼吸になる。 もう2度とこんなことがないことを願っている。

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あの日、あの時

いつも通りの朝 いつも通りのお昼 いつも通りの日常 いつも通りの下校時間 になるはずだった 学校では卒業式 幼稚園では帰る準備 家ではもうすぐですおやつの時間 赤ちゃんはお昼寝中 お母さんもお父さんもいつも通りの仕事をしてた 3月11日午後2時46分 突然いつも通りが壊れた マグニチュード⒐0、最大震度7の大きな地震 縦揺れと横揺れが混ざった大きな揺れが襲った 卒業式が緊急事態になり 幼稚園では泣き声が響き 家ではみんな机の下に 赤ちゃんは突然泣き出して お母さんは一生懸命子どもを守って お父さんは急いでお客さんを避難させた 6分間以上揺れ続けた 揺れが収まって皆んなが外に出た 電柱が折れて 木が倒れて 道路に、地面に亀裂が入って ついさっきまでの景色がすっかり変わった 福島県、宮城県沖では大きな音が響いた 『大津波警報』だ 皆んな高いところに避難した 大人も子どもも皆んな 一生懸命走った でも 揺れてから20分後 午後3時18分最大⒐3メートルの津波が襲いかかった 木を薙ぎ倒して、家を壊して、大きな船を運びながら… たくさんの人が巻き込まれた 逃げてる途中の人、安全だと思った場所にいた人 そして、108人の小学生を呑み込んだ そして『福島市第一原発事故』 大量の放射能が撒きちった 目では見えない存在に皆んな怖がった そして、遠くの人たちに、なにも知らない人たちにこう言われた 「放射能がうつる」「福島に帰れ」 そう言って車を傷つけたり、いじめたりした あれから14年 私の住んでいるのははそんな震災の影響が大きかった地域だ ここで産まれて、ここで育ってる 大切な家族も友だちもいる 幸せだ……でも インターネットを見ると心無い言葉が胸を刺す 『放射能』『汚染水』『汚染された魚』 そんな言葉に胸が締め付けられる 「安全なんだよ」「私たちはそれを食べて、その空気を吸って健康に生きてるよ」 そう返しても 『体が慣れてるら』『検査をしていないから』 こう返ってくる 私の住んでいるところに引っ越してきた大阪の子は 「星が綺麗に見えて、自然がたくさんあっていい場所」 そう言ってくれる でも、わかってくれる人はまだ少ない 外国の偉い人、それに賛同する人 そう言う人たちの間違った知識と言葉が 私たちを傷つける 学校の先生に教え子を失った人がいる 今まで沢山の先生に出会ってきたが、そういう先生は沢山いる 先生はこの時期になると私たちが登校してくると安心した顔をしてた 昨日、やっとその理由がわかった 丁度私たちと同じ歳の子たちだった 「家が近いから家族を迎えに行って帰ってこなかった」 泣きながら話してくれた その後、昼休みにスマホで見て絶句した 『教師が子どもを守れなかったのはおかしい』 そう書いている人がいた じゃあ君は、訳もわからないうちに避難した 多くの子を確実に数えて、安心させることができるの? できないよね、私にもできない その先生が言った 「人は選択しないといけない、災害が襲ってきた時は特に、皆んなには正しい知識を身につけてほしい」 こう言っていた 『正しい知識』は頭の中にあるんじゃない 本や実際の話の中にある 私の学校の子は小さな地震でも身構える癖がある いつでも机の下に行けるように椅子を引いたり 真剣な表情で揺れを感じとる子もいる 皆んなそれぐらい怖がっている、怖がらないといけなくなってる 先生はすぐに扉を開けて周りの先生と連携をとる そんな環境に、まだ文句をつけるなら、貴方達もこっちにきてみて きっとびっくりする できるだけ…一年、一カ月でも早く 正しい情報が回ってくれることを願っています

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あの日、あの時

交差点

いつも待ち合わせする交差点 「お待たせ!行こう!」 友達が来る 「行こ行こ!」 いつも通り学校に行く 「ばいばい!」 そしていつもここで分かれる また明日、明後日…ずっと続くと思ってた… (いつもより遅いな…) 「あ、〇〇ちゃん!ごめんね、あの子今日休みなの」 (あ、〇〇のお母さんだ) 「風邪ですか?お大事にしてください」 「じゃあ行ってきます」 偶然、そう思った でも 今日も、昨日もその前も…いつのまにか私も交差点で待たなくなった いつも通り学校に行く 先生たちが何か騒いでいる 「緊急で今日はもう下校になります、親御さんには学校から連絡がいってるので気をつけて帰るように」 みんなが喜んで下校する (不審者でも出たのかな?) 「ただいま〜」 …忘れてた、お母さんは仕事の時間だ 「△△!先生から何か聞いた!?」 「え!お母さん仕事は!?」 朝一緒に出たはずの母がいる 「……〇〇ちゃんがーーーーーーーー。」 「え?」 嘘だと思った、少し前まで一緒に学校に行ってた 嘘だと思い込んだ、〇〇はいつもニコニコしてたから でも…………… 〇〇が箱の中にいた (…現実なんだ) 「……ごめん、ごめんね」 自分が憎かった、あの日早く下校するように言われた日 少しでも喜んでしまった自分が…… 「いってきます」 いつも待ち合わせしている交差点 〇〇はもういない……でも きっとここで毎朝待ってて、下校のときここで分かれてる そう信じてる 私の部屋にある三面の写真立てに 今までは好きなアイドルの写真を入れてた でも 今は〇〇とよく下校途中に摘んでた花の写真と… 私と〇〇が初めて遊んだ時の写真が入ってる いつも私は親友に言う 「また明日ね」

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「おはよう」窓の外を見る いつもと同じ自分がいる 「おやすみ」カーテンを見る 自分の姿は見えないけれど確かにそこにいる 「おはよう」カーテンを閉める 自分の姿を見たくない 「おやすみ」疲れきってベットに入る とても眠いのに寝られない 「おはよう」ドアの外から母の声がする 私はなにも返さない 「おやすみ」暗くなって夜に気づく ベットに入っても寝られない 「こんにちは」先生の声がする 寄せ書きをもらった 「おやすみ」寄せ書きを見つめる 寄せ書きをゴミ箱にいれる 「おはよう」今日が最後の日 久しぶりに外に出る 「おやすみ」やっと眠れる 手紙を机に置いて眠りにつく 「おはよう」母がドアを開ける 「おやすみ」私は箱の中にいる 「おはよう」いろんな人が私を見てる 「ごめんね」家族の声がする 「ありがとう」友達の嗚咽が聞こえる 「頑張ったね」先生が言う 「おやすみ」私は火の中に入る 「家に帰ろう」母の声がする 私は小さい壺の中にいる 「おはよう」家族の声がする 今日も一日が始まった 「ただいま」妹が落ち込んでいる 大丈夫、そばにいるからね 「おやすみ」母の声がする 「ごめんね」母が泣いている 私はここにいる ゴミ箱に入れた寄せ書きに親友の言葉があった 「ずっとまってるよ」 「まってるよ、ゆっくり来てね」 私は親友にこう返す事にした 「ごめん」あの時親友が言った 悪いのは私だよ これからは私がみんなを守るからね

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ありがとう

じいちゃんへ お元気ですか? じいちゃんが亡くなってもう2週間が経とうとしています。私は今でもじいちゃんの声と言葉、そして笑顔を覚えています。 じいちゃんの最期に立ち会った時、みんな泣いてたよ、皆んなじいちゃんが大好きだったんだね。 ちゃんと挨拶できなくてごめんね、「ありがとう」しか言えなかった。もっとたくさん言わないといけないことあったよね。 じいちゃんなら大丈夫だと思ってたんだ。手術のことを聞いた時はびっくりしたけど、成功したって聞いたからもう大丈夫なんだって思い込んでた。だから次の日心臓止まっちゃったって連絡入った時嘘だと思った。 小2の時、癌の手術の時に「じいちゃんは元気だから大丈夫だよ」って言ってくれたのを今でも覚えてるよ。 お通夜もお葬式もたくさんの人が来てくれたね、じいちゃんは凄いなって思ったよ。 お葬式ではたっちゃんが孫代表で喋ってくれたんだよ、聞こえてたかな? じいちゃん家に行くとまたひょっこりじいちゃんが出て来るんじゃないかなって思うんだ。でも祭壇にじいちゃんの写真とお骨があるから、本当にいっちゃったんだなって、、、寂しくなるんだ。 じいちゃん、私が行くのはまだまだ先になっちゃうけどそれまで天国のじいちゃんの兄妹とお父さんお母さんといっぱい話していっぱい好きなもの食べてまっててね。 今まで15年間面倒を見てくれて、優しくしてくれて、可愛がってくれてありがとう。 83年間、本当にお疲れ様でした。ゆっくり休んでね。 またいつか会ったらいっぱい話を聞かせてね。 また会う日まで、、、バイバイ、またね。                                          こっちゃんより

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あの日のきみへ

私のせいだったね きみを傷つけていたかな… それでも裏切らないで欲しかった 友達でいて欲しかった あの日きみを助けたけれど きみは怖くて私をいじめた きみをいじめていたあの子達と一緒に 怖くて、辛かった でもきみはあの日の私みたいに 私を助けてはくれなかったね 悲しかったな あれ以来、私は泣くのが苦手になったよ だってきみたちは泣いている私を見て笑っていたから だからもう泣かないよ 泣けないんだよ。 最近きみが失恋して泣いているのを見かけたよ よかったね 私みたいにならなくて でも、大人になったら少しは責任をとってもらうからね あれからもう4年 ずっと消えない手首の傷も 心の傷も 大人になっても消えないから 消せないから、消えてくれないから “”ごめん“”なんかじゃ済まないから きみたちにも背をってもらうから 楽しみにしていてね

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貴方への秘密

 私の好きな人、その子は女性。  私も女性。釣り合いことのない関係。  大好きな貴方へのたった一つの秘密。  貴女に会うたび胸が焦がれる。  もっと一緒にいられたらと願う。  これが恋と気づいた時には、貴女と会う機会は減ってしまった。  今までそばにいることが普通だった。    貴女に会いたい。ただ会いたい。  そばにいて欲しい。  そんな思いを、いつも胸にしまって“”友達“”を装う。  いつか貴女にこの思いを伝える勇気が出ますように。

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出会ったことのないあなたへ

 あの日、、、2011年3月11日、私がまだ2歳の時それは突然襲い掛かり日常を壊した。  私が住んでいたのは内陸部、幸いにも津波も無く、私の家族の被害は家の中が荒れた程度だった、、、そうあの日まで思っていた。  幼稚園の頃から何度も聞き、写真を見て育った。どんなに酷い被害を受け、どれだけの命が奪われたのか。しかし、私はどこか他人事に思っていた。私の家族も親戚も震災で命を落とした人がいなかったからだ。そんな考えが覆される出来事が起こった。  2年前、私は不登校になり自傷行為をしていた。そして、自殺未遂をした私は一時的に入院をした。父は私をただ責め立てた。兄は珍しく泣いていた。妹はずっと私に泣きついていた。そんな中、母は何も言わずに立ち尽くしていた。私は“もう愛想なんて尽かされたんだろう“そう思った。そして母が口を開いた時にこう言った。「少し2人で話をしたいから、みんなは出てて」と。家族は母の言った通り病室から出た。そして2人きりになった時、母がベットの横の椅子に座って話し始めた。それが、東日本大震災の時のことだった。  母はあの頃に妊娠していた。しかしまだあまりお腹は大きくなってなく、兄には最近になって話したばかりのことだった。そんな中、あの大地震が襲いかかった。震度7、幼かった私と兄を守るため激しく動いた母。震災後、産婦人科に行ったところ、お腹の子は死んでしまっていた。恐らく激しく動いた事と極度のストレスが原因だと。  一通り話すと、母は私の目をまっすぐ見つめていった。「マコは赤ちゃんの頃から大人しくて聞き分けのいい子で、あまり手がかからなかった。その分お兄ちゃん達に気を取られてたけど、ずっと我慢してたんだよね、ごめんね」と。私はその時久しぶりに泣いた、いや、気がついたら涙が出ていた。  それから退院して平日に母と2人でお墓参りに行った。墓石の横に刻まれた文字に、2011年3月という文字が彫ってあった。名前はなく、日にちも無かった。  あの日から、ふと思うことがある。あのお墓に入っている子が無事に産まれていたら、今の妹はいなかったのではないかと。母は子どもは3人までと決めていたらしい。すでに兄と私がいた以上、今隣にいる妹は生まれなかったはずだ。ただ、ふと思うのが妹はあの日生まれてくることができなかった子なのではないかと。妹はあの日お腹にもいなかったはずなのにたまに震災の事を話していることがあった。「急に大きく揺れて怖かったな」というような軽い内容だが、動画などで恐怖心まで話すことができるのだろうかと思うのだ。しかも、この話をするのは決まって3月の間だけでその後に聞いても「知らない」「写真では見たことある」というようなことしか言わないのだ。    私は今学校に通い、毎日をすごいている。同じように過ぎて行く日々を噛み締めながら、あの日の私のような子を救えるような人になりたいと願って。あの子の分まで必死に生きていこうと思う。

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