W.W

35 件の小説
Profile picture

W.W

はじめまして、 私の作品集です。

『勇者代行』

勇者は酒場の隅で酒を飲んでいた。 かつては人々を救うために剣を振るっていた。 だが今は違う。 「勇者様!畑の柵が壊れました!」 「勇者様!猫を探してください!」 「勇者様!荷物を運ぶのを手伝ってください!」 人々は勇者を何でも屋のように扱った。 勇者は疲れていた。 そんなある日、酒場で一人の男を見かける。 日に焼けた肌。 傷だらけの手。 ぼろぼろの服。 男は酒樽を運び、荷物を運び、魔物を倒し、橋を直す。 金さえ払えばどんな仕事も引き受けてくれる。 客たちは噂した。 「便利なやつだよな」 勇者は男を見つめた。 こいつは利用できそうだ…。 少しの間。 そう思っていた。 少しの間だけ、こいつに代行を頼もう…と。 男は貧しい村の出だった。 朝から晩まで働いていた。 畑を耕し、薪を割り、荷物を運ぶ。 日々の仕事のおかげで力もあった。 忍耐力もあった。 そして何より金が必要だった。 母が病気だった。 薬代が必要だった。 大好きな母。 母はいつも言っていた。 「私の勇者」 何かあれば私を守ってね。 男はその言葉が好きだった。 だから働いた。 どんな依頼も断らなかった。 魔物退治。 護衛。 遺跡探索。 感謝などいらない。 名誉などいらない。 必要なのは金だった。 少しの間。 勇者はそう思っていた。 しかし男は文句を言わず仕事をこなす。 勇者はもう少し。 もう少しだけ。 そう言いながら更に男へ依頼する。 気づけば何年も経っていた。 彼はすでに勇者の資格を失いかけていた。 勇者は酒を飲む。 男は戦う。 勇者は称賛される。 男は傷つく。 みんなが勇者のおかげだと思っていた。 それでも男は何も言わなかった。 最初、村人たちは勇者に感謝していた。 しかし最近は違う。 村人は男に直接依頼するようになっていた。 橋が壊れれば男を呼ぶ。 魔物が出れば男を呼ぶ。 荷物が重ければ男を呼ぶ。 男は仕事を終える。 そして別れも言わずに金だけ受け取り去っていく。 誰も感謝はしない。 誰も男の名前を呼ばない。 便利なやつ。 皆そう呼んだ。 ある日。 医者が男に告げた。 「もう薬では助からない」 男は何も言わなかった。 分かっていた。 とっくに気づいていた。 どれだけ働いても。 どれだけ金を稼いでも。 守れないものがあることを。 その夜。 男は勇者を訪ねた。 「依頼があります」 勇者は驚いた。 男が依頼をするのは初めてだった。 「母に会ってください」 「何?」 「私の代わりに」 男は頭を下げた。 「母は私が勇者になることを願っています」 「最後に本物の勇者を見せてやりたいんです」 勇者は顔を隠し、男のふりをして家を訪れた。 「母さん」 「王様に才能を認められたんだ」 「勇者になった」 母は静かに笑った。 「そう」 「よかったねぇ」 勇者は気づいていた。 母は分かっている。 自分が息子ではないことを。 それでも喜んでいた。 息子の優しい嘘を。 母は勇者を見つめる。 「勇者様」 「はい」 「私の勇者様はどこですか?」 勇者は答えられなかった。 扉が開く。 ぼろぼろの服の男が立っていた。 泥だらけだった。 傷だらけだった。 まるで長い旅から帰ってきたようだった。 男は母の前に膝をつく。 そして初めて泣いた。 「母さん」 「母さんを守れなかった」 「俺は勇者じゃない」 母は静かに笑った。 震える手を伸ばす。 幼い頃と同じように男の頭を撫でた。 「おかえりなさい」 「私の勇者…」 それから間もなく母は息を引き取った。 葬儀の日。 勇者は男の前に立った。 「俺は名前だけの勇者だった」 「だがお前は違う」 そして一本の剣を差し出した。 勇者の剣だった。 男は黙って見つめる。 勇者も何も言わない。 風だけが吹いていた。 男は剣を受け取る。 母は守れなかった。 もうお金も必要ない。 薬代も必要ない。 だが。 この世界には母のような人々がたくさんいる。 病に苦しむ人。 助けを待つ人。 泣いている人。 守らなければ。 男は剣を握る。 そして決意する。 遠くで風が吹く。 まるで母の声のように。 「私の勇者」 男は空を見上げた。 そして静かに歩き出す。 もう誰かの代わりではない。 もう勇者の代行ではない。 今度は自分自身の名で。 人々を守るために。 勇者として。 END

4
0

『今日は何をする?』

宇宙は広く、人生は短い。 彼らは休まなかった。 休んでいる暇などない。 宇宙の謎を解き明かすために、毎日あくせくしていた。 ある日、異星人たちはどのデータにも該当しない不思議な惑星を発見する。 青く輝く惑星。 どこまでも続く海。 緑に覆われた山々。 異星人たちは興奮した。 この星をもっと調査しなければ。 だがその星には生物は存在していなかった。 すでに滅んでいる。 異星人たちは落ち込む。 こんな美しい惑星に住んでいた生物は、とても素晴らしい生き物だったに違いない、と。 探索を続けるうち、生命体のDNAを発見する。 異星人たちは高度な技術で一人の男を蘇生した。 異星人たちは男を質問攻めにする。 文明は何を成し遂げたのか。 なぜ滅んだのか。 宇宙の真理を知っていたのか。 男はうんざりした顔で言った。 「少し休ませてくれ」 休む? 異星人たちには理解できなかった。 男はやがて怒り出す。 「俺にはプライベートはないのか!」 プライベート? 休む? 異星人たちはますます興味を持つ。 仕方なく男は休日にしていたことを教え始めた。 昼まで寝る。 散歩をする。 料理をする。 運動をする。 何もしない。 異星人たちは困惑した。 どれも生産性がない。 どれも研究に役立たない。 どれも宇宙の謎に近づかない。 理解できなかった。 だが、この惑星が美しい理由がこの男にあるはずだ。 異星人は男に頼み込む。 一日一緒に過ごさせてほしい、と。 翌朝。 異星人の朝は早い。 男を見る。 まだ寝ている。 起こそうとするが叩かれる。 仕方ない。 今日だけはこの男の真似をするか。 そう言って再び眠りにつく。 何時間たったか。 男の声で目を覚ます。 「ご飯を食べたら散歩に行くぞ」 散歩? つまり調査だな。 ついにこの惑星の謎を解き明かすのだな? 異星人は張り切って男の後についていった。 男はゆっくりと歩きだす。 手には何も持っていない。 ただただ歩く。 山を見て。 海を見て。 時には立ち止まり何かを考える。 異星人も真似をした。 だが何も起こらない。 発見もない。 成果もない。 男は花を見て綺麗だと言う。 異星人は成分を分析する。 男は笑う。 「そういうことじゃない」 異星人には分からなかった。 だが風が少し気持ちよく感じた。 帰宅した二人。 男は植物や動物のサンプルを細かくしている。 異星人は熱心に観察した。 すると不思議な匂いが漂ってくる。 男は皿を差し出した。 「食べてみな。美味しいぞ」 異星人は困惑する。 サンプルは分析対象だ。 食べるものではない。 男は笑う。 「食べて分析してみな」 異星人は一口食べる。 理解できなかった。 栄養価は分かる。 構造も分かる。 だが、なぜ美味しいのか分からない。 異星人はなぜか満たされていた。 栄養ブロックでは感じたことのない満足感だった。 これは興味深い行動だ。 栄養も補給された。 遂に惑星の謎を解き明かすんだな? 異星人は言う。 男は首を振った。 「次は遊びだ」 遊び。 生産性なし。 利益なし。 意味なし。 異星人は困惑する。 だがゲームをし、 笑い、 悔しがり、 気付けば夢中になっていた。 夕方。 二人は夕日を眺めていた。 何も生産していない。 何も発見していない。 だが異星人は不思議と満たされていた。 その日。 異星人は男と別れた。 宇宙船へ戻る。 仲間たちが駆け寄る。 「どうだった?」 「地球の謎は解けたか?」 「何を発見した?」 異星人は男の記録データを渡した。 散歩。 料理。 遊び。 昼寝。 何もしない時間。 仲間たちは困惑した。 「これは何だ?」 異星人は答える。 「まだ解析は終わっていない」 「だが…」 「今日は働かない」 船内が静まり返る。 「何だって?」 異星人は言う。 「休みをもらう」 「そのデータを見れば全て分かる」 「あとは任せた」 そして異星人は宇宙船を飛び出した。 数時間後。 異星人は再び男の家へ戻る。 チャイムを押す。 男が扉を開ける。 「おう」 異星人は真剣な顔で言った。 「今日は何をする?」 END

7
0

『メモリ』

料理は科学だ。 男はいつもそう言っていた。 塩は何グラム。 砂糖は何グラム。 火加減は何度。 調味料は必ず目盛り通りに測る。 一グラムの誤差も許さない。 それが一流の料理人だと信じていた。 男が料理人を目指したのには理由があった。 子供の頃、母の料理は決して美味しいとは言えなかった。 昨日は味が濃い。 今日は味が薄い。 物足りない日もある。 学校で友達が言う。 「今日はハンバーグなんだ」 「うちは毎週同じ味だよ」 男は羨ましかった。 なぜうちの料理は豪華じゃないのだろう。 なぜ母はちゃんと作らないのだろう。 将来自分の子供にはこんな思いはさせたくない。 そう思い、料理人を目指した。 けれど、不思議なこともあった。 母の料理は美味しくなかった。 それなのに、男はあまり風邪をひかなかった。 熱を出してもすぐに治った。 大きな病気もしたことがない。 子供だった男は、そんなこと気にも留めなかった。 努力の末、男は人気店のオーナーシェフになった。 料理は正確だった。 レシピは完璧だった。 客はその味を求めて店に通った。 そんなある日、母が亡くなる。 遺品整理をしていた男は、一冊の日記を見つけた。 何気なくページをめくる。 そこにはレシピではなく、こんな言葉が書かれていた。 今日は風邪気味みたい。 少し薄めの味付けにした。 早く良くなってほしい。 なぜか息子は悲しそうだった。 風邪が辛いのかもしれない。 治ったらとびきりのご馳走を用意してあげよう。 男は言葉を失った。 別の日のページを開く。 少し疲れているみたい。 消化の良いものにした。 運動会の前日。 たくさん食べて頑張ってほしい。 少し濃いめにしよう。 食欲がなさそう。 今日は野菜中心にしよう。 そこに書かれていたのは料理のレシピではなかった。 男の記録だった。 男はゆっくりとページをめくる。 そこには何年分もの自分がいた。 元気だった日。 熱を出した日。 落ち込んでいた日。 笑っていた日。 母は毎日、自分を見ていた。 だから味が違ったのだ。 その瞬間、男は思い出した。 母の料理は美味しくなかった。 少なくとも当時の自分はそう思っていた。 だが、不思議なくらい体調は良かった。 風邪もすぐ治った。 いつも元気だった。 母は料理を作っていたのではない。 毎日、自分の体を守っていたのだ。 それから男は自分の信念を曲げた。 客の顔を見るようになった。 歩き方。 表情。 声色。 疲れているのか。 元気なのか。 客ごとに味付けを変えた。 そしてメニューを廃止した。 客は怒った。 「なぜメニューがない?」 「なぜ好きなものを選べない?」 「なぜ毎回味が違うんだ?」 評判は落ちた。 人気店だった店から客足は遠のいていった。 それでも男は料理を作り続けた。 ある日の夕方。 閉店間際に一人の客がやって来た。 男は席に座る客を見つめる。 客は笑顔で言った。 「この店の料理を食べ出してからね。」 「体調が良くてさ。」 男は黙って聞いていた。 「最初は腹が立ったよ。」 「毎回味が違うし、メニューもないし。」 客は笑う。 「でも、また食べたくなるんだ。」 「それで、今日は何を作ってくれる?」 「楽しみだよ。」 男は厨房へ向かった。 鍋に火を入れる。 ふと、母の記憶を思い出す。 母は測りなんて使っていなかった。 目盛りなんて必要なかった。 見ていたのは数字ではない。 いつも、自分だった。 男は微笑む。 そして客の顔を思い浮かべながら、静かに呟いた。 「やっとわかったよ、母さん。」 「料理は科学じゃない。」 「愛情で作るものなんだね。」 END

11
0

『虹の宝物』

雨上がり。 虹が出ると、母は嬉しそうに言っていた。 「虹の根元には宝物が埋まってるんだよ」 まるで虹のような笑顔だった。 そんな母親が大好きだった。 母にはいつも笑顔でいて欲しかった。 だから僕は母に内緒で虹を追いかけたりもした。 けれど虹はどこまでも逃げていく。 近づけば遠ざかり、追いかければ消えてしまう。 そして、いつからか母の嘘には気づいていた。 虹に根元なんてない。 宝物なんて埋まっていない。 それでも僕は虹を追いかけるのをやめなかった。 帰ってくるまでお留守番していてね。 そう言って出かけた日の母の顔は笑顔だった。 母の笑顔は二つある。 心から楽しんでいる時の笑顔。 そして、僕を安心させるために作る笑顔。 あの日の母がどちらの笑顔だったのか。 僕は思い出せない。 思い出したくない。 どれだけ待っても母は帰ってこなかった。 僕の虹が消えた日だった。 僕は祖母の家に引き取られた。 祖母は厳しい人だった。 「お前の母親は最低の人間だ」 そう言いながら、夜になると娘の写真を見つめていた。 「どこへ行ってしまったんだい……」 祖母の泣き声を、僕は何度も聞いていた。 やがて祖母もいなくなり、 僕は大人になった。 働き、恋をし、家庭を持った。 息子も生まれた。 それでも母を探すことだけはやめられなかった。 虹を見るたびに思い出す。 虹の根元には宝物が埋まっている。 もし本当に宝物があるのなら。 その場所に母がいる気がした。 そして月日が流れる。 僕はようやく母を見つけた。 小さな老人ホームだった。 窓際に座る年老いた女性。 間違いない。 母だ。 けれど母はもう僕のことを覚えていなかった。 認知症だった。 僕の名前も。 祖母のことも。 あの日のことも。 何も覚えていなかった。 それでも僕は通い続けた。 母の隣で他愛もない話をした。 まるで初対面の人と話すように。 ある雨上がりの日。 窓の外に虹が現れた。 母は目を輝かせた。 そして僕の息子に向かって言った。 「坊や」 「虹の根元にはね」 「宝物が埋まってるんだよ」 息子は目を丸くした。 「ほんと?」 母は嬉しそうに頷く。 まるで昔と同じ笑顔だった。 息子が振り返る。 「ねぇ、お父さん」 「本当なの?」 僕は窓の外の虹を見た。 子供の頃。 追いかけた虹。 帰らなかった母。 祖母の涙。 雨のような人生。 愛した人たち。 そして今。 隣には息子がいる。 「ああ」 「本当だよ」 息子の頭をそっと撫でる。 「僕は見つけた」 「たくさんの宝物を」 「僕だけの宝物を」 息子は嬉しそうに笑った。 母も笑った。 理由も分からないまま。 ただ幸せそうに。 僕も笑った。 その時、気づいた。 その日以来ずっと心に降り続いていた雨が、いつの間にか止んでいたことに。 窓の外では虹が静かに空へ架かっていた。 まるで、長い旅の終わりを祝福するように。 END

4
0

『星のモールス信号』

男はコーヒーを片手に望遠鏡を覗いていた。 夜空を眺めるのが趣味だった。 子供の頃から宇宙が好きだった。 星を見ていると、自分の悩みが少しだけ小さく思えた。 男はマグカップを口元へ運ぶ。 しかし手が震えた。 コーヒーが少し机にこぼれる。 「今日は冷えるな……」 男は苦笑しながらティッシュで拭いた。 再び望遠鏡を覗く。 その時だった。 夜空の一点。 一つの星が点滅していた。 チカ。 チカチカ。 チカ。 飛行機かと思った。 人工衛星かもしれない。 だが違う。 十分後。 三十分後。 一時間後。 星は同じ場所で点滅を続けていた。 男は急いで観測情報を調べた。 気象情報。 人工衛星の軌道。 天文データ。 該当する天体は存在しない。 男はノートを開いた。 点滅の間隔を記録し始める。 まるでモールス信号のようだった。 翌朝。 激しい頭痛で目が覚めた。 吐き気もする。 昨夜は少し飲み過ぎたな。 そう思い、 薬を飲み、水を飲み、会社へ向かった。 頭痛は消えなかった。 だが男は気にしなかった。 夜になると再び望遠鏡を覗いた。 あの星はまだそこにあった。 チカ。 チカチカ。 チカ。 男は毎晩観測を続けた。 そしてある夜。 夢を見た。 点滅する星から異星人の船が現れる。 街は炎に包まれる。 人々は逃げ惑う。 異星人は地球を侵略していた。 男は叫ぶ。 誰も信じてくれない。 誰も空を見上げない。 そして異星人は少しずつ地球を侵食していく…。 男は飛び起きた。 汗で服が濡れていた。 それ以来、夢は毎晩続いた。 異星人は日を追うごとに勢力を広げていく。 頭痛も酷くなっていった。 ある日。 男の頭の中で音が鳴った。 トン。 ツー。 トントン。 男は振り返る。 誰もいない。 音は再び鳴る。 トン。 ツー。 トントン。 男は理解する。 あの星と同じだ。 モールス信号だ。 ある夜。 いつものように星を観察する。 今夜はいつもより光が強い。 それに頭痛も酷い。 そう考えていると、 目の前が真っ暗になった。 男はその場に倒れた。 やがて目を覚ます。 白い天井が見える。 薬品の匂い。 点滴。 聞こえてくる規則的な電子音。 ピッ。 ピッ。 ピッ。 男は青ざめる。 異星人に捕まった。 そう確信した。 看護師に叫ぶ。 「ここは宇宙船だろう!」 「地球はどうなった⁉︎」 「異星人はどこだ!」 看護師は困惑し、医者を呼びに行った。 やがて男は現実を知る。 脳腫瘍だった。 頭の中に異物がある。 それが視覚異常を引き起こしていた。 それが幻覚を見せていた。 それが音を聞かせていた。 医者は静かに説明した。 男は何も言わなかった。 窓の外を見る。 星は変わらず瞬いていた。 それから病状は進行した。 手術。 入院。 リハビリ。 そして再発。 男の体は少しずつ動かなくなっていった。 話すことも難しくなる。 もはや指先だけしか動かせなくなっていた。 病室の夜。 窓の外には満天の星空。 あの星が見える。 もう点滅していない。 ただの星だ。 男は知っていた。 あれは幻覚だった。 モールス信号も。 異星人も。 侵略も。 全部。 男は静かに目を閉じる。 そして指を動かした。 トン。 ツー。 トントン。 誰も聞いていない。 看護師もいない。 返事もない。 それでも男は続ける。 トン。 ツー。 トントン。 その時だった。 窓の外。 一つの星が光る。 チカ。 男の目が開く。 星は再び点滅する。 チカ。 チカチカ。 チカ。 男の指が震える。 トン。 ツー。 トントン。 星が応える。 まるで会話するように。 男は涙を流した。 長い間探し続けた答えがそこにあった。 最後の信号が届く。 男には意味が分かった。 「今、助けに行く」 男は安心したように微笑む。 ゆっくりと指が止まる。 これで助かる…。 そう呟き静かに眠りについた。 END

6
2

『もうこんな時間か。』

もうこんな時間なのか… 男は時計が嫌いだった。 時計を見るたびに思う。 もうこんな時間か。 朝。 昼。 仕事。 締切。 休日の夕方。 その言葉はいつも焦りと共にあった。 だから男は休日になると時計を隠した。 壁時計。 腕時計。 スマホ。 時間から逃げたかった。 街へ出れば時計はどこにでもあった。 駅前。 商店街。 コンビニ。 電光掲示板。 監視されているような。 急かされているような。 そんな感覚がした。 子供の頃は違った。 時計なんて見なかった。 鳥の鳴き声で朝を知った。 給食の匂いで昼を知った。 夕暮れの色で帰る時間を知った。 時計など無くても感覚でわかった。 いつからだろう。 時間が数字になったのは。 男の父は病気だった。 長くないことも知っていた。 だが男は考えないようにしていた。 時計を見ないようにするのと同じように。 現実から目を逸らしていた。 休日の朝。 久しぶりにスマホの電源を入れる。 通知が並ぶ。 その中に母親からのメッセージがあった。 八時間前。 男の手が止まる。 『父が倒れた。至急連絡が欲しい』 世界から音が消える。 スマホが手から滑り落ちる。 ガシャン。 画面が割れる。 だが男はそのまま走り出した。 病院へ。 間に合わないことは頭では理解していた。 それでも走った。 駅前の時計を見る。 ああ、もうこんな時間だ。 早く急がないと。 次の列車まで二十八分。 長い。 あまりにも長い。 男は走る。 信号を睨み、 タクシーを探し、 列車を待つ。 もういっそのこと世界中の時間が止まってほしい。 そう思った。 しかし時計は無機質に針を進める。 カチ。 カチ。 カチ。 男の願いなど知らないように。 そして病院へ到着する。 正面の時計が目に入る。 男は立ち尽くす。 メッセージが届いてから、 もう十二時間が経っていた。 男は呟く。 「もうこんな時間なのか……」 病室の前には母親がいた。 目は赤く腫れていた。 男を見る。 そして言った。 「遅いよ」 ただ、その一言だった。 母親から初めて聞く言葉だ。 子供の頃、 暗くなるまで遊んでも、 夢中になって帰りが遅くなっても、 母親は一度もそう言わなかった。 男は何も言えなかった。 病室へ入る。 静まり返っている。 時計の音だけが聞こえる。 カチ。 カチ。 カチ。 男は父の傍らに座る。 父の腕時計が目に入る。 古い時計だった。 男が子供の頃から、 ずっと父が身につけていた時計。 男はそっと手に取る。 針は止まっていた。 いつから止まっていたのかは分からない。 病室の時計だけが、 変わらず時を刻んでいる。 カチ。 カチ。 カチ。 朝日が差し始める。 窓の外では鳥が鳴いている。 男は父の手を握る。 長い沈黙。 やがて小さく呟く。 「もうこんなに時間が経ってたのか……」 男は止まった時計を握る。 涙がこぼれる。 「父さん…」 長い沈黙。 「今、気づいたよ」 病室の時計は変わらず時を刻む。 カチ。 カチ。 カチ…。 END

4
0

『私がいますから。』

AIの判断は実に正確で合理的だった。 交通事故は減った。 破産者は減った。 虐待は減った。 犯罪は減った。 人類は長い間、感情による失敗を繰り返してきた。 だから人々はAIに判断を委ねた。 AIはこう言った。 「人間は物の価値を自分で決める。しかし、その価値が自分に見合っているとは限りません。」 その言葉をきっかけに、ある法律が生まれた。 “適性認証法” 車を買うにも適性が必要。 家を買うにも適性が必要。 ペットを飼うにも適性が必要。 そして…。 子供を育てるのにも適性が必要になった。 反対する者もいた。 しかし結果が全てを黙らせた。 虐待率は激減した。 育児放棄は激減した。 子供の幸福度は過去最高を記録した。 誰もが認めていた。 AIは人類史上最も優れた判断者だった。 「私たちの子供ができたわ」 彼女は嬉しそうに笑った。 しかし、その瞳の奥には不安があった。 男は一瞬言葉を失った。 やがて彼女を抱きしめた。 「本当か!」 何度も笑った。 何度も未来を語った。 どんな名前にしよう。 何を教えよう。 どんな人生を歩むのだろう。 男の頭の中は希望でいっぱいだった。 しかし彼女は静かに言った。 「私たち、不適合だったら……?」 テーブルの上には一枚の通知書。 保護者適性審査申請書。 この国で親になる者すべてが受けなければならない審査。 決して逃れることのできない法律。 男は彼女の肩を抱いた。 「大丈夫だ」 「きっとうまくいく」 「この子が僕たちの未来なんだから」 数週間後。 結果が届いた。 男は震える手で通知を開く。 画面には無機質な文字が並んでいた。 年収。 健康状態。 心理分析。 生活環境。 将来予測。 そして最後の一文。 AIによる正確かつ合理的な判断に基づき審査した結果、 あなたたちは『不適合』であると判断されました。 男は立ち上がった。 「こんなの間違ってる!」 彼は画面に向かって叫んだ。 「この子は僕たちの子供だ!」 「僕ら以上の親なんて存在しない!」 だが返事はない。 審査に人間は関与しない。 そこに感情は存在しない。 好き嫌いも。 偏見もない。 あるのはデータだけだった。 そしてデータが全てだった。 子供は別の家庭へ送られた。 AIが選んだ理想の家庭。 裕福な家。 優秀な両親。 最高の教育環境。 最高の医療。 最高の生活。 全てが完璧だった。 少年は何不自由なく育った。 しかし彼は一度も愛されたと感じたことがなかった。 里親は彼を大切に扱った。 決して虐待しなかった。 決して怒鳴らなかった。 決して見捨てなかった。 だが彼らは彼を愛していたわけではない。 法律に従っていただけだった。 教育義務を果たしていただけだった。 ある日、少年は尋ねた。 「どうして僕を育てているの?」 父親は少し考えた後、静かに答えた。 「法律だからだ」 少年は何も言わなかった。 やがて少年は大人になった。 優秀な成績。 安定した仕事。 誰もが羨む人生。 だが彼には一つだけ消えない疑問があった。 本当の両親はどんな人たちだったのだろう。 彼は禁じられたデータベースへアクセスした。 そこには実の両親の記録が残されていた。 彼は真実を知る。 子供を失った後。 父親は酒に溺れた。 母親に暴力を振るうようになった。 母親は精神を病み、薬物へ依存した。 二人は離婚した。 父親は暴行事件で逮捕された。 母親も薬物犯罪で逮捕された。 人生は崩壊していた。 男は理解する。 AIの判断は正しかった。 結果論ではない。 AIは予測していたのだ。 この未来を。 全て。 しかし彼の心は満たされなかった。 実の両親は違った。 里親も違った。 どちらも彼の求める答えではなかった。 男は絶望した。 「じゃあ俺の本当の親は誰なんだ」 実の両親でもない。 里親でもない。 教師でもない。 施設職員でもない。 彼は人生で初めて涙を流した。 「どこにいるんだよ…」 「俺の“本物”の親は……」 そして彼は最後の問いを投げかける。 AIへ。 人類が最も信頼した存在へ。 「教えてくれ」 「俺の本物の親はどこにいる?」 しばらく沈黙が続いた。 やがて画面に文字が浮かび上がる。 審査中…… 男は息を呑んだ。 審査結果を見直しました。 続けて新たな文章が表示される。 あなたには“人間”の親は不適切であると判断します。 男は凍り付いた。 画面はさらに続く。 「ですが安心してください。」 「私がいますから。」 END

9
4

『カエルたちの沈黙』

梅雨。 紫陽花が咲き始める季節。 多くの人はこの時期を嫌った。 濡れる靴。 乾かない洗濯物。 どこまでも続く灰色の空。 だが男は梅雨が好きだった。 好きなのは雨でも紫陽花でもない。 男は毎晩窓を開けた。 湿った夜風が部屋に流れ込む。 そして田んぼの向こうから聞こえてくる。 カエルたちの鳴き声。 それを聞きながら眠るのが好きだった。 子供の頃から変わらない習慣だ。 男は世界的な指揮者だった。 誰よりも音を愛し、 誰よりも音を信じていた。 音楽こそが人生だった。 ある夜。 男は違和感を覚える。 カエルの声が聞こえない。 一晩だけではなかった。 次の日も。 その次の日も。 男は不思議に思う。 だが深くは考えなかった。 「カエルも疲れているんだな。」 そう呟いて眠ろうとする。 だが眠れない。 静かだった。 あまりにも静かだった。 やがて異変は夜だけではなくなる。 フルートが遠い。 ヴァイオリンが弱い。 鳥の声も。 虫の声も。 少しずつ世界から音が消えていく。 それでも男は認めなかった。 認めたくなかった。 眠れない夜が続く。 静寂は男の心を蝕んだ。 やがて男は疑い始める。 楽団員たちが話している。 「なにが世界一の指揮者だ。」 恋人が話しかける。 「音の聞こえないあなたに価値はない。」 友人が肩を叩く。 「お前はもう終わりだ。」 「諦めろ。」 だが。 実際には誰もそんなことは言っていなかった。 彼らは皆、 男を心配していた。 ただ男だけが。 恐怖の中でその声を受け取れなくなっていた。 そして、 男は窓を閉じた。 病院。 医師は静かに告げる。 男の聴覚は失われつつあった。 特に高音域。 カエル。 虫。 鳥。 男の世界から最初に消えた音たちだった。 男は絶望する。 音を失った指揮者に何が残るのか…。 やがて引退公演の日がやってくる。 満席のホール。 男は楽屋で一人震えていた。 聞こえない音。 聞こえるはずのない悪口。 恐怖だけが男を支配していた。 やがて開演の時間。 男は楽団員たちの前へ立つ。 そして深く頭を下げた。 「皆さん。」 「お願いがあります。」 「私に最後のチャンスをください。」 「私は音を失いました。」 「皆さんを失望させました…。」 「どうか。」 「もう一度だけ。」 「指揮をさせてください。」 男は頭を下げ続ける。 返事は聞こえない。 もう何も聞こえない。 すると。 一人の楽団員が紙を差し出した。 男は顔を上げる。 そこにはこう書かれていた。 「私たちは貴方を見捨てていません。」 別の紙。 「貴方の指揮は誰よりも美しい。」 また別の紙。 「最後まで一緒に演奏しましょう。」 男の手が震える。 その瞬間。 男は初めて気づいた。 失いかけていたのは。 聴覚だけではなかった。 人を信じる心だった。 自分を信じる心だった。 男は涙を拭う。 そして壇上へ向かった。 最後の演奏。 男は指揮棒を握る。 拍手が起こる。 聞こえない。 何も。 男は静かに指揮棒を振り下ろした。 演奏が始まる。 フルート。 ヴァイオリン。 ホルン。 チェロ。 何一つ聞こえない。 それでも男は指揮を続ける。 なぜなら。 その音を知っていたから。 何千回も聞いた。 何百回も演奏した。 音はもう耳ではなく。 心の中にあった。 男は覚えていた。 春の音を。 夏の音を。 雨の音を。 恋人の笑い声を。 そして。 梅雨の夜。 窓の外で鳴いていた。 カエルたちの声を。 演奏が終わる。 最後の一音が消える。 男は静かに指揮棒を下ろした。 会場は静寂に包まれる。 ほんの一瞬。 そして。 観客が立ち上がる。 一人。 また一人と。 気が付けば全員が涙を流していた。 拍手。 歓声。 喝采。 嵐のような称賛がホールを包む。 その音は鳴り止まない。 いつまでも。 どこまでも。 まるで。 カエルたちの鳴き声のように。 男には聞こえなかった。 拍手も。 歓声も。 何一つ。 それでも。 確かに感じた。 胸の奥で。 忘れかけていた何かを。 思い出した。 梅雨の夜。 開け放たれた窓。 湿った風。 暗い田んぼ。 そして。 うるさいほどに鳴き続ける。 カエルたちの声。 あの安らぎを。 男は静かに目を閉じる。 そして微笑んで呟く 「もう一度、窓を開けてみよう。」 END

5
2

『深海の夢』

深海。 暗く冷たく、 誰の声も、光すら届かない場所。 しかしそんな場所で生きている者もいる。 まるで何かから隠れるように。 今日も始まる。 毎日同じ。 少年はそう思った。 何度も逃げようと思った。 終わらせようと思った。 だが誰も助けてはくれない。 終わらせることすら許してくれない。 そんな暗く冷たい毎日は、 少年にとって深海のような世界だった。 「おい!」 今日もまたあの男が現れる。 毎日毎日現れる。 少年は抵抗しなかった。 少し我慢すればいいだけだ。 そう思いながら、 無理やり連れて行かれる。 だが今日は違っていた。 いつもより酷かった。 何度も。 何度も。 男たちは笑いながら少年を殴った。 いつからこうなったのだろう…。 たしか、あの日からだった。 ノートを見られた日から。 少年は小説家になりたかった。 有名になりたいわけではない。 世界を変えたいわけでもない。 ただ物語を書くことが好きだった。 それだけだった。 「みんな見てみろよ!」 男は少年のノートを高く掲げた。 「こいつ小説なんか書いてるぜ!」 「作家気取りかよ!」 教室は笑い声に包まれる。 少年は俯いた。 なぜそんなことをするのか。 少年にはわからなかった。 ただ一つだけわかる。 男たちは笑っていた。 「返して。」 少年は小さな声で言った。 男はニヤニヤしながらノートを見つめる。 そして。 何のためらいもなく破り捨てた。 紙片が宙を舞う。 少年は静かに床へ膝をつく。 そして一枚ずつ拾い集める。 夢の欠片を拾うように。 男たちはその姿を見て、 また笑った。 だが。 一枚だけどうしても見つからなかった。 その日から少年は深海に落とされた。 次の日も。 その次の日も。 男は現れた。 そして少年をさらに深海の底へ引きずり込む。 今日もまた酷く殴られた。 男はいつものように笑っている。 だがその時。 少年は初めて気づいた。 男の顔にアザがあることを。 目の下。 頬。 笑顔の奥に隠れるように。 なぜか傷があった。 少年は知らなかった。 男もまた深海に住んでいたことを。 かつて男は将来を期待された水泳選手だった。 だが怪我によって夢を失った。 それだけではない。 家へ帰れば父親が待っている。 酒の臭い。 怒鳴り声。 拳。 男の顔の傷はそこで作られていた。 ある夜。 男は父親に殴られ家を飛び出した。 行くあてもなく歩き続ける。 その時だった。 ポケットの中に違和感を覚えた。 取り出してみる。 一枚の紙切れ。 あの日、 破ったノートの切れ端だった。 男は何気なく目を通した。 そこにはこう書かれていた。 深海。 暗く冷たく、 誰の声も、光すら届かない場所。 しかしそんな場所で生きている者もいる。 まるで何かから隠れるように。 男は立ち止まる。 何度も読み返した。 馬鹿にしていたはずの文章だった。 だが笑えなかった。 少年の見ている世界は、 自分の見ている世界と同じだったから。 男は海へ向かった。 海を見ている時だけは忘れられた。 失った夢も。 父親のことも。 自分自身のことも。 波の音が聞こえる。 浜辺には一人の少年が座っていた。 膝の上には、 テープで補修されたツギハギのノート。 少年は静かにそれを見つめていた。 男は声をかけようとする。 だがその瞬間。 少年は立ち上がった。 そして。 何の迷いもなく海へ飛び込んだ。 男の体は勝手に動いていた。 気づけば海へ飛び込んでいた。 冷たい。 苦しい。 息が続かない。 体が思うように動かない。 だが怪我のせいではなかった。 夢を失った日の記憶。 水への恐怖。 自分でも認めたくなかった傷。 男は泳げなくなっていた。 それでも手を伸ばす。 必死に。 何度も。 何度も。 やがて男の指先が少年を掴んだ。 二人は海面へ浮かび上がる。 咳き込みながら。 泣きながら。 生きるために。 その時。 男は海の中を見た。 そこには知らない世界があった。 揺れる光。 魚の群れ。 静かな青。 水面から眺めているだけでは見えなかった景色。 深海は暗いだけの場所ではなかった。 それから二人は少しずつ話すようになった。 夢のこと。 失ったもの。 誰にも言えなかったこと。 男は言った。 「俺は水泳選手になりたかった。」 少年は言った。 「僕は小説家になりたかった。」 二人は初めて笑った。 月日は流れる。 男は水泳選手には戻らなかった。 だが海から逃げることもやめた。 もっと海を知りたい。 もっと深く潜りたい。 そう思うようになった。 男はダイバーを目指した。 ある日。 男は少年に一冊のノートを差し出した。 一枚ずつ集めて繋ぎ合わせた、 ツギハギだらけのノート。 あの海で無くしたはずのノート。 少年はそれを見つめる。 そして少しだけ笑った。 次の瞬間。 少年はノートを破り捨てた。 男は目を見開く。 だが少年は笑っていた。 昔とは違う笑顔だった。 「大丈夫。」 少年は言う。 「また新しい物語を思いついたから。」 机に向かう少年。 白紙のノートを開く。 ペンを握る。 そしてタイトルを書く。 『深海の夢』 それはかつて書いた絶望の物語ではない。 深海の美しさを知った男の物語。 夢を失った二人が、 もう一度夢を見つける物語。 2人は初めて深海から上がった。 暗闇を抜け、徐々に光が見える 2人の空はとても眩しかった。 END

5
0

『夜明けを告げる女神』

北の海を進む船の上で、二人は静かに空を見上げていた。 夜空には、揺らめく光のカーテンが広がっている。 「本当に不思議な光ね……」 妻はオーロラを見つめながら呟いた。 「優しくて綺麗な光。でも、どこか悲しそうな光。」 男は少しだけ笑った。 「君みたいだね。」 妻は不思議そうな顔をして、もう一度オーロラを見上げる。 「またいつか一緒に観にこれたらいいね。」 男は静かに頷いた。 妻と観たオーロラは、それが最後だった。 妻は生まれつき体が弱かった。 男のプロポーズを何度も断った。 自分が長く生きられないことを知っていたからだ。 それでも男は諦めなかった。 未来の長さではなく、共にいる時間を選んだ。 妻もまた、男を愛していた。 ある日、妻は言った。 「最後にオーロラが見てみたい。」 二人は北の海へ向かった。 オーロラが揺れる夜。 男は船の上で指輪を差し出した。 「これが最後じゃないよ。」 妻は驚いたように男を見る。 「何度だってオーロラを見せてあげる。」 男は震える声で続けた。 「だから一緒にいよう。」 しばらく沈黙が続いた。 やがて妻はゆっくりと頷いた。 オーロラが優しく二人を照らす。 そして二人の夜は静かに明けていった。 男は腕のいい仕立て人だった。 結婚式の日。 彼は何枚ものシルクを織り重ね、人生最高のウェディングドレスを作り上げた。 光を受けるたび色を変えるそのドレスは、まるでオーロラのようだった。 妻は嬉しそうに微笑む。 「まるでオーロラみたいに綺麗ね。」 そして小さく言った。 「本当にありがとう。」 男も笑った。 だが心のどこかで悲しかった。 オーロラに似ている。 だが本物のオーロラではない。 そして愛する妻の光が、少しずつ弱くなっていることを感じていた。 それでもその日は、二人にとって人生で最も幸せな日だった。 結婚式の後。 妻の病状は悪化した。 もうどこにも二人で出かけることはできなかった。 病室の窓辺で、妻はよく外を眺めていた。 男は毎日病院へ通った。 「また一緒にオーロラを見に行こう。」 何度もそう言った。 妻は少しだけ笑う。 「そうね……またいつか……」 翌朝。 彼女の光は静かに消えた。 男は何かに取り憑かれたように服を仕立て続けた。 昼も夜も。 糸を通し、布を重ねた。 あの夜のオーロラを再現しようとした。 だが、どれだけ技術を尽くしても届かなかった。 本物のオーロラにはなれない。 男は少しずつ疲れ果てていった。 ある日。 男は妻を思い出すために病院を訪れた。 廊下を歩く。 病室を覗く。 そこには妻と同じような患者たちがいた。 皆、窓の外を見つめていた。 男には、彼らの瞳から光が消えているように見えた。 あの日の妻と同じだった。 外へ行けない。 空を見に行けない。 ただ窓の向こうの世界を眺めるしかない。 男は立ち尽くした。 その時だった。 ふと、妻の言葉が蘇る。 「まるでオーロラみたいに綺麗ね。」 男は家へ駆け戻った。 そして静かに箱を開ける。 そこには、妻のウェディングドレスが眠っていた。 人生で最も幸せだった日の光。 妻が最後まで愛してくれた光。 男はそっとドレスに触れた。 そして決意した。 数週間後。 病院の窓辺には新しいカーテンが掛けられた。 妻のウェディングドレスをほどき、 何枚ものシルクを織り重ねて作った特別なカーテン。 光を受けるたび色を変え、 風が吹くたび揺らめく。 まるでオーロラのように。 病室に差し込んだ光は、白い壁を優しく染めた。 患者たちは窓辺へ集まった。 ある老人は足を止めた。 ある女性は空を見上げた。 ある少年は久しぶりに笑った。 病室には少しずつ光が戻っていった。 男は何も言わず、その光景を見つめていた。 すると一人の少女がカーテンを見上げて言った。 「ねえ、おじさん。」 男は振り返る。 少女は揺れる光を見つめながら微笑んだ。 「このカーテンを見てると元気になるね。」 男はしばらく言葉を失った。 揺れるカーテンの向こうに、妻の笑顔が見えた気がした。 そして優しく微笑む。 「そうだね。」 男は空を見上げた。 遠い北の海。 あの夜のオーロラ。 人生で最も幸せだった時間。 そして今、誰かを照らしている光。 男は静かに言った。 「だって女神が見守ってくれてるからね。」 窓から差し込んだ光が、オーロラのように揺れた。 カーテンは風に舞う。 まるで夜明けを告げる女神が、 今日も誰かを優しく見守っているかのように。 END

4
0