W.W
46 件の小説『セルフレジ』 没ネタ
辺境の村に、待望のコンビニができた。 村人たちは歓喜した。 テレビもない。 ラジオもない。 車もそれほど走っていない。 娯楽もない。 ネットもない。 「俺はこんな村、いやだ!」 そう吐き捨てて、若者たちは都会へ出ていった。 だが、今は違う。 コンビニができた。 「これで若者も戻ってくる」 「村も、少しはマシになる」 誰が言い出したのかは分からない。 しかし村人たちは、そう信じた。 根拠のない喜びが、村中に広がっていった。 そして開店の日。 村人たちはコンビニへ押し寄せた。 白くて綺麗な建物。 入口のネオンサインが眩しく輝いている。 「未来だ!」 「これこそ我々の未来だ!」 村人たちは浮かれながら、店内へ入った。 だが。 店内は空っぽだった。 商品棚もない。 弁当もない。 飲み物もない。 雑誌すらない。 あるのは、入口付近に置かれた一台のレジだけだった。 村人たちは困惑した。 そのうちの一人が、レジへ近づく。 そこには大きく、 「セルフレジ」 と書かれていた。 「セルフレジ?」 聞いたことがある。 自分で商品をスキャンし、自分で袋に詰め、自分で金を入れる。 それくらいは分かる。 だが、肝心の商品は? 村人は店内を見渡した。 何もない。 あるのはレジだけ。 「どういうことだ?」 その時、レジから明るい声が聞こえた。 『当店は最新のセルフ方式を採用しています!』 村人たちは顔を見合わせた。 『欲しい商品があれば、ご自分で発注してください!』 村人たちは、一瞬沈黙した。 そして考えた。 都会では、これが当たり前なのか? なら仕方ない。 しばらくして、一人の村人が静かに手を上げた。 「おら……コーラが飲みたい」 村人たち全員が息を呑んだ。 「飲みたい……」 恐る恐る、レジにコーラを注文する。 すると、レジの画面が光った。 文字が次々と並んでいく。 そこに表示されたのは、コーラのレシピだった。 原材料一覧。 作り方。 村人たちは画面を見つめた。 「……レシピだ」 注文したら、作り方が出てきた。 村人たちは困惑した。 だが、すぐに行動に出た。 「おい! 誰かシナモン育てとるやつ、おらんか!」 「あるぞ!」 突然、一人の村人が声を上げた。 「おかんが知り合いから貰ったやつが、確かあるでよ!」 「おお!」 「それにレモン!」 別の村人が叫ぶ。 「レモンなら島やんの庭にあるだら!」 「よし! 島やんとこ行くぞ!」 「一時間後、公民館に集合だ!」 「おう!!」 村人たちは一斉に材料を求め、走り出した。 公民館。 村人たちは、それぞれ材料を片手に集まった。 中央には大きな鍋が置かれている。 村長が腕まくりをした。 「始めっぞ……」 村人たちはレジに表示されたレシピを参考に、コーラ作りを始めた。 煮る。 混ぜる。 絞る。 そして。 「できた……」 鍋の中には、黒い液体ができていた。 「これが……コーラか」 一人が恐る恐る口をつける。 ゴクッ。 「……ん?」 男は首をかしげた。 「コーラって、なんかこう……もっとシュワシュワしてる感じじゃねがったか?」 その瞬間。 村人たちの脳裏に戦慄が走った。 “炭酸” 「忘れてた……」 「一番重要なやつ……」 「無え……」 村人たちは落胆した。 その時だった。 一人の村人が顔を上げた。 「あっぞ」 村人たちが振り返る。 「村の外れにある湧水」 「……」 「たしか、シュワシュワしてる」 「そうだ!」 村人たちは一斉に立ち上がった。 こうして。 念願のコーラが完成した。 村人たちは、恐る恐るグラスを口に運んだ。 ゴクッ。 「……!」 「うまい!」 それは、今まで飲んだどんな飲み物よりもうまかった。 畑仕事の後に飲む緑茶よりも。 去年仕込んだ梅酒よりも。 比べ物にならないほどうまかった。 「これが……都会の味か……」 「すげえ……」 村人たちは笑った。 そして、誰かが言った。 「これなら……若者も戻ってくるかもしれんな」 誰も否定しなかった。 根拠はなかった。 だが、この時だけは、村人たちは本気でそう思った。 そして村人たちは、再びコンビニへ向かった。 それぞれが欲しいものをレジに注文する。 コーヒー。 弁当。 ケーキ。 アイス。 パン。 しかし、相変わらず出てくるのはレシピだけだった。 それでも村人たちは歓喜した。 「これを作ればいいんだ!」 「材料を集めるぞ!」 村人たちは一致団結した。 山へ行き、畑を耕し、材料を集めた。 朝も。 昼も。 夜も。 休まず働いた。 欲しいものを手に入れるために。 そして何より。 この村唯一のコンビニを失わないために。 そんな村の様子が、やがて全国ニュースで取り上げられた。 『辺境の村にある、不思議なコンビニ』 『商品を一切置かない謎の店舗』 『注文すると、なぜかレシピが出てくる』 全国から、そのコンビニを一目見ようと人々が押し寄せた。 観光客が増えた。 村には活気が戻った。 そして、ある日。 テレビ局のレポーターが村長に尋ねた。 「このコンビニのおかげで、村は大きく変わりましたね!」 村長は誇らしげに答えた。 「ああ」 「このコンビニが来てくれて、本当によがった」 レポーターが店内を見る。 そこには相変わらず、商品が一つもない。 あるのは、一台のセルフレジだけだった。 画面には、こう表示されている。 『商品を選択してください』 村長は笑った。 「セルフって、ええなあ」 そして、村の外を見る。 そこには、働く村人たちの姿があった。 笑い声が聞こえる。 子どもたちが走っている。 かつて都会へ出ていった若者たちも、少しずつ村へ戻り始めていた。 こうしてその村は、 全国でも珍しいセルフ村おこしに成功したのだった。 おわり
『人間の証明』
人を人たらしめるものは、なんだろうか。 自分が人間であるという証明。 それは、いったい何なのか。 近未来。 人々のモラルは、著しく低下していた。 暴力。 暴言。 他人への無関心。 良識や常識は失われ、反社会的な行動を取る人間も珍しくなくなっていた。 なぜ、こんなことになったのか。 その原因は、誰にも分からなかった。 だが政府は、この異常事態を危惧していた。 そしてある日。 政府は、すべての国民に一つの試験を義務化した。 成人した者は、人間資格試験を受けなければならない。 試験に合格した者には、人間証明書が発行される。 政府が発表したのは、それだけだった。 試験の内容も。 判定基準も。 なぜ、この試験が必要なのかも。 詳しく説明されることはなかった。 ただ一つ。 生涯で二度まで受験できる。 それだけが告げられた。 人々は最初、この試験を軽く見ていた。 「人間の証明?」 「馬鹿馬鹿しい」 「なんの意味がある?」 適当に回答する者も少なくなかった。 どうせ普通に答えれば合格する。 誰もが、そう思っていた。 試験に落ちた者がどうなるのか。 そんなことを、本気で考える者はいなかった。 数週間後。 人々のもとへ、合否通知が届いた。 中には、合格する者もいた。 合格者には、人間証明書が添付されていた。 一方、不合格となった者たちは、それほど気にしていなかった。 「不合格だからなんだ?」 「今までと何も変わらないじゃないか」 仕事もできる。 買い物もできる。 家にも住める。 何も不自由はない。 そう思っていた。 だが、ある日。 不合格者の男が、病院を訪れた。 受付で保険証を差し出す。 「人間証明書をお願いします」 「……保険証は使えないのか?」 受付は首を振った。 「人間証明書をお願いします」 「そんなもの持ってないぞ」 受付の女性は、静かに答えた。 「人間証明書をお持ちでない場合、当院では診察できません」 「なぜだ。俺は病人だぞ」 「別の病院をご紹介します」 渡された紙を見て、男は絶句した。 そこには、動物病院の名前が書かれていた。 「……ふざけるな」 男の声が震える。 「俺は人間だぞ!」 「申し訳ありません」 「動物病院だと!?」 男は怒鳴った。 「冗談もいい加減にしろ!!」 受付の女性は静かに電話を取った。 「警察ですか?」 やがて、警察が到着した。 「暴れているのは、この男性ですか?」 受付の女性が頷く。 警察官は男に近づいた。 「すみませんが、人間証明書の提示をお願いします」 「……」 「お持ちではない?」 警察官は確認する。 「不携帯ですか……」 そして、何でもないことのように言った。 「ああ、そもそも人間ではないのですね」 「……は?」 「分かりました」 警察官は後ろを振り返る。 「おい、こいつを保健所に連れて行くぞ」 「了解」 二人の警察官が男の腕を掴んだ。 「離せ!」 「暴れるな!」 「俺は人間だ!」 「大人しくしてろ!」 「違う!!」 男の叫び声が、病院中に響き渡った。 「俺は……」 「俺は、人間なんだ!!」 その事件は、すぐにニュースになった。 それは、不合格者たちにとって衝撃的なニュースだった。 テレビに映っているのは、どう見ても人間だった。 二本の腕。 二本の脚。 服を着て、言葉を話している。 それでも、ニュースキャスターは、その男の名前を一度も呼ばなかった。 「本日、病院でトラブルを起こした対象は、保護施設へ移送されました」 「政府は今回の件について、コメントを控えています」 最後まで。 その男を「人間」と呼ぶことはなかった。 やがて、事件は病院だけに留まらなくなった。 レストラン。 ショッピングセンター。 会社。 あらゆる施設の入口に、同じ注意書きが掲げられるようになった。 『人間以外の立ち入りを許可していません』 昨日まで普通に入れた場所。 昨日まで働いていた会社。 昨日まで笑って食事をしていた店。 そこに入るためには、人間証明書が必要になった。 不合格者たちは、そこで初めて気づいた。 人間資格試験に落ちるということが、どういう意味なのか。 そして、二度目の試験。 それが最後の機会だった。 政府は、なぜ二度まで受験できるのかを説明しなかった。 なぜ三度目がないのかも。 ただ、 「生涯二度まで受験できます」 そう告げるだけだった。 それでも、不正を働く者は後を絶たなかった。 替え玉受験。 試験内容の不正入手。 試験官への裏金。 だが、それらには厳しい処分が下された。 不正を働いた本人だけではない。 協力者にも同じ処分が下された。 『人間資格試験の受験資格、失効。』 一度失った受験資格が戻ることはない。 そして。 この試験には、ある秘密があった。 試験問題に、正しい回答はない。 知能も関係ない。 知識も関係ない。 そして。 人間の定義すら、存在しなかった。 では、何を基準に合否を決めているのか。 それを知る者はいなかった。 政府は何も説明しない。 試験官も何も語らない。 合格する者と、不合格になる者がいる。 ただ、それだけだった。 男は、一度目の試験に落ちた。 そして、地獄を見た。 人間として扱われないということが、どういうことなのか。 身をもって知った。 それまで男は、自分が人間であることを疑ったことなどなかった。 だが、不合格になったことで初めて考えるようになった。 人間とは、なんなのか。 何をすれば、人間なのか。 答えは見つからなかった。 それでも男は、少しずつ変わっていった。 人に対して、真摯に接するようになった。 困っている人がいれば手を差し伸べた。 誰かを傷つけるような言葉を、以前ほど口にしなくなった。 それが試験に関係しているのか。 男には分からなかった。 誰かが自分を見ているのかもしれない。 あるいは、誰も見ていないのかもしれない。 ただ男は、自分自身について考え続けた。 そして。 二度目の試験の日が来た。 これが最後だった。 男は震える手で、回答用紙をめくった。 試験問題は、一度目とよく似ていた。 やはり、正解は分からない。 男は考えた。 そして、自分が思ったことを、そのまま書いた。 一度目と、それほど違う回答ではなかった。 数週間後。 通知が届いた。 男は封筒を開く。 そこには、 『合格』 とだけ書かれていた。 男は人間証明書を手に取った。 なぜ合格したのか。 何が評価されたのか。 どの回答が正しかったのか。 どこにも書かれていない。 男は人間証明書を見つめた。 そして、少しだけ笑った。 自分が人間なのか。 それを証明する方法なんて、本当は分からない。 ただ。 一度、人間ではないと言われたからこそ。 男は初めて、人間について考えた。 人を人たらしめるものは、なんだろうか。 その答えを、男は今も知らない。 そしておそらく。 誰も知らない。 それでも今日も、人々は人間証明書を胸に下げて歩いている。 何かを自慢するように。 END
『ブラックホール国家』
かつて人類は、ブラックホールに地球上の廃棄物を捨てていた。 家庭から出るゴミ。 工場から排出される廃棄物。 処理することのできなかった、あらゆるもの。 地上からすべてのゴミが消えていき、人類は長年の環境問題を解決した。 だが、ブラックホールがもたらした恩恵は、それだけではなかった。 ある日、ブラックホールを観測していた研究者が、奇妙なエネルギーを検出した。 廃棄物をブラックホールへ投入すると、僅かながらエネルギーが放出されていたのだ。 人類は歓喜した。 エネルギー問題。 環境問題。 その両方を、同時に解決できる。 そう思った。 しかし、廃棄物から得られるエネルギーは少なかった。 地球上のすべての電力を補えるほどのものではない。 人類は考えた。 廃棄物だけでは足りない。 もっと別の対価を支払う必要がある。 それは、近年になって解明された。 人間の身体には、未知のエネルギーが眠っていた。 研究者たちは、それを「生命エネルギー」と呼んだ。 そして、ある実験が行われた。 研究者自身の生命エネルギーを、特殊な装置によってブラックホールへ送る。 実験に使われたのは、ほんの僅かな量だった。 寿命に換算すれば、僅か一秒。 しかし、その結果は人類の想像を遥かに上回った。 ブラックホールから放出されたエネルギーは、廃棄物とは比較にならないほど莫大だった。 たった一秒。 それだけの生命エネルギーで、膨大なエネルギーが生み出された。 人類はついに、答えを見つけた。 エネルギー問題を解決する方法を。 やがて、ある法律が制定された。 すべての成人は、腕に取り付けられた特殊な装置によって、毎月、僅かな生命エネルギーを徴収される。 拒否することはできない。 国民の義務として、必ず徴収される。 「生命税」 それは、新たな税だった。 だが、人々は誰も拒否しようとはしなかった。 徴収されるのは、ほんの僅かな生命エネルギー。 寿命に換算しても、ほとんど気にならないほどの量。 それだけで国家は莫大なエネルギーを得る。 電力は無料になり、街は発展し、医療も食料も豊かになった。 地球は、歴史上類を見ないほどの黄金時代を迎えた。 しかし、幸福には必ず代償が伴う。 それは、人類の歴史が証明してきた闇だった。 本来なら、税収が増えれば増えるほど、人々の生活は苦しくなる。 だが、この恐ろしい税だけは違った。 生命税を上げれば上げるほど、国家はさらに豊かになった。 税収が増える。 ブラックホールから得られるエネルギーが増える。 国家が豊かになる。 そして、国民の暮らしもさらに豊かになる。 人々は生命税を、当然のように受け入れた。 だが、人々は気づかなかった。 生命税の徴収量が、密かに増えていることに。 当然だった。 生命エネルギーは目には見えない。 腕の装置が何をどれだけ徴収しているのか、自分たちには分からない。 国から告げられたのは、毎月、僅かな生命エネルギーを徴収するということだけ。 一秒なのか。 十秒なのか。 それ以上なのか。 知る術はなかった。 やがて、その代償は静かに姿を現した。 人類の平均寿命が、低下し始めた。 この数十年で、人類の平均寿命は五十歳ほどにまで落ち込んでいた。 それでも、人々は気づかなかった。 医療技術は進歩している。 食料も十分にある。 街はかつてないほど豊かになっている。 それなのに、なぜ寿命だけが短くなっているのか。 人々は首を傾げた。 「国は、これほど豊かなのに……なぜ?」 誰も、その答えを考えようとはしなかった。 そして、ついに―― 人類の平均寿命は、三十歳ほどにまで低下した。 明らかな異常事態だった。 人々は初めて、国に説明を求めた。 なぜ寿命が減っているのか。 なぜ税収が増え続けているのか。 しかし、国からの返答はなかった。 政府は沈黙した。 人々はブラックホールの研究所へ押し寄せた。 そこなら、何か分かる。 そう信じていた。 だが、研究所には誰もいなかった。 研究員も、職員も、誰一人として。 残されていたのは、稼働し続ける観測装置と、無数のデータだけだった。 そして、人々はそこで信じられないものを目にした。 ブラックホールが、かつてないほど巨大に成長していた。 画面に表示された予測データ。 地球到達まで、残り数日。 人々は凍りついた。 その頃にはすでに、富裕層や権力を持つ者たちは地球を捨てていた。 新たに開拓された惑星へ。 自分たちだけが生き残れる場所へ。 国家も。 国民も。 そして、この星そのものさえも。 すべてを置き去りにして。 人々は、ただ呆然としていた。 誰一人、騒がなかった。 逃げる場所もない。 助けを求める相手もいない。 ただ、かつてないほど煌びやかになった街を見つめていた。 何もかもが豊かだった。 何もかもが満たされていた。 だが、その豊かさのために、自分たちが何を支払ってきたのか。 ようやく、人々は理解した。 しかし、もう遅かった。 やがて―― 空が、闇に覆われた。 少しずつ、地球上のすべてが吸い上げられていく。 建物も。 道路も。 街も。 そして、人々も。 地球上に存在するすべてのものが、巨大な闇の中へ消えていった。 最後に残ったのは、巨大なブラックホールだけだった。 それはすべてを飲み込み―― やがて、一つの小さな点へと収縮していく。 そして、 静かに消えた。 あとには何も残らなかった。 END
『私の主人公』
子どもの頃、私は『トム・ソーヤーの冒険』が大好きだった。 仲間と一緒に冒険し、いたずらをして、時には危険な目にも遭う。そして最後には夢を叶え、街のヒーローになる。 そんなトムの姿が、子どもの私にはたまらなく格好よかった。 真似をして、よく川や山へ行った。 友達や先生に悪戯もした。 別にトムたちのような大冒険をしていたわけではない。それでも、川を歩いたり、山の中を走り回ったりしていると、自分が物語の主人公になったような気がした。 あの頃は、世界が今よりずっと広かった。 何もない山や川でさえ、何かが起こりそうな場所だった。 でも、今はどうだろうか。 大人になった私は、時間や仕事、プライベートに追われている。 実際には、お金も時間も、作ろうと思えばあるはずなのに。 それでも休日になると、どこかへ出かけることは少なくなった。 友人も、少しずつ減っていった。 やりたいことも、やりたかったことも。 すべてに理由をつけて、後回しにした。 おそらく、もう『トム・ソーヤーの冒険』を読むことはないだろう。 何度も何度も読んで、ボロボロになった一冊。 今では、どこにあるのかも分からない。 トムもハックも、もうどこにもいない。 仮に今、昔と同じように山や川へ行ったとしても、あの頃の感情は戻ってこないだろう。 私が一番好きだったのは、主人公のトムではなく、親友のハックルベリー・フィンだ。 ハックは、本当の意味で自由な人間だった。 インジャン・ジョーの財宝を手に入れても、金や豊かな暮らしより、自由を求める。 そんなハックの生き方に憧れた。 そして、豊かさと自由は同じ意味ではないと、子どもながらに感じていた。 それでも、私の中には一つの疑問が残っている。 マーク・トウェインは、1835年、ハレー彗星が現れた年に生まれた。 そして1910年、再びハレー彗星が現れた年に亡くなった。 まるで、一つの物語のような人生だ。 マーク・トウェインは、どうして大人になっても、あんなに素晴らしい物語を書けたのだろうか。 今になって思う。 もしかすると、本当に好きだったのは「冒険」そのものではなく、その先にある「自由」だったのかもしれない。 子どもの頃、私はトムやハックの物語を読んでいた。 そして今、私自身が物語を考えている。 暇つぶしか。 何かを伝えたいのか。 それは、自分でもよく分からない。 もしかすると、もう戻ることのできないあの頃の世界を、 もう一度探しているのかもしれない。 END
『人生の評決』
彼女は、優秀な子供だった。 幼い頃から、何をやらせても人並み以上にできた。 文字を覚えるのも早かった。 計算も得意だった。 本を読ませれば、何時間でも黙って読み続けた。 両親は、そんな娘を誇りに思っていた。 父は裁判官。 母は医師だった。 二人とも社会的に成功した人間だった。 広い家に住み、生活に困ることはなかった。 家には父の法律書と母の医学書が並び、彼女は幼い頃からそれらに囲まれて育った。 「あなたなら、きっと立派な人になれるわ」 母はよくそう言った。 「将来は何になりたい?」 父にそう聞かれることもあった。 けれど、彼女はいつも答えられなかった。 将来、自分が何をしたいのか。 何になりたいのか。 そんな明確な夢は、彼女にはなかった。 だから、いつも両親の顔を見た。 「お父さんとお母さんは、どう思う?」 それが、彼女の答えだった。 両親が喜ぶことをすれば、褒めてもらえる。 褒めてもらえれば、自分は間違っていないと思える。 何より、両親の言うことを聞いていれば、愛してもらえる。 それは彼女にとって、とても心地のいいことだった。 自分で決めなくていい。 失敗しても、自分の責任ではない。 誰かが決めてくれた道を歩いていればいい。 それが、彼女にとっての安心だった。 成長するにつれ、彼女はますます優秀になった。 医学を学べば、優秀な成績を取った。 法律を学べば、難解な判例を正確に理解した。 大学では、周囲から一目置かれる存在になった。 卒業が近づいた頃、彼女は人生で初めて、大きな選択を迫られた。 だが、それはもうすでに決まっているようなものだった。 母のような医者か。 父のような裁判官か。 どちらも、人の人生に深く関わる仕事だった。 病気になった人間の命を救う医者。 罪を犯した人間に判決を下す裁判官。 どちらも、間違えば人の人生を変えてしまう。 幸い、彼女にはどちらの道へ進むための知識もあった。 だからこそ、決められなかった。 ある晩、彼女は両親と食卓を囲んでいた。 「どうするんだ?」 父が聞いた。 「医学を続けるか。それとも司法の道へ進むか」 彼女は、しばらく黙っていた。 やがて、 「……お父さんは、どっちがいい?」 と聞いた。 父は静かに娘に言った。 「私は、お前が正しい判断をすることを願っている」 母も笑顔で頷いた。 その言葉を聞いた瞬間、彼女は余計に困った。 自分自身が決める。 その言葉ほど、彼女にとって難しいものはなかった。 やがて彼女は、一つの理由を見つけた。 当時、女性医師に対する社会の評価は、今ほど高くなかった。 母と同じ道を歩めば、きっと苦労する。 一方、父と同じ裁判官なら。 父も喜んでくれる。 社会的な立場もある。 自分なら、きっとできる。 そう考えた。 「私は、裁判官になる」 父は嬉しそうに頷いた。 その笑顔を見て、彼女も笑った。 その時、彼女は自分で人生を選んだつもりだった。 だが本当は、 選ばされたのかもしれなかった。 裁判官になってからの彼女は、見事だった。 感情に流されない。 証拠を読み、証言を聞き、法律と判例に照らし合わせる。 事実があれば、有罪。 証拠が足りなければ、無罪。 そこに個人的な感情を持ち込むことはなかった。 同僚たちは、彼女を優秀だと評価した。 冷静で、公平で、判断が速い。 彼女自身も、その評価を受け入れていた。 裁判とは、感情ではない。 事実に基づいて、正しい答えを導き出すものだ。 そう信じていた。 そして、そう信じていれば楽だった。 自分が人の人生を決めているという事実から、目を逸らすことができたからだ。 彼女は判決を下す。 人々は、その判決に従う。 彼女は法廷を出る。 次の事件へ向かう。 まるで、一つの仕事を終えるように。 「これは選択じゃない」 彼女は、自分にそう言い聞かせていた。 「法律に従って、答えを出しているだけ」 そうして、何年もの時間が過ぎていった。 ある日。 彼女の法廷に、一件の殺人事件が持ち込まれた。 被告人は、一人の男だった。 罪状は、実の娘を殺害したこと。 証拠は揃っていた。 目撃証言。 医療記録。 現場の状況。 そして何より、男自身が犯行を認めていた。 「私が、娘を死なせました」 男は法廷でそう言った。 その声には、抵抗も怒りもなかった。 ただ、深い疲労だけが滲んでいた。 最初に事件の概要を聞いた時、彼女は特別な感情を抱かなかった。 殺人事件。 被害者は娘。 加害者は父親。 事実だけを見れば、明白だった。 有罪。 法律に従えば、それで終わる。 ところが、裁判が進むにつれて、彼女の中に奇妙な違和感が生まれ始めた。 娘は、生まれつき重い難病を患っていた。 幼い頃から何度も入院していた。 手術を繰り返し、薬を飲み、痛みに耐え続けてきた。 病状は少しずつ悪化していた。 それでも父親は、娘を見捨てなかった。 仕事を減らし、病院へ通い続けた。 娘が眠れない夜には、朝までベッドの横に座っていた。 娘が怖がれば、手を握った。 娘が泣けば、一緒に泣いた。 医師たちの証言によれば、父親は最後まで娘のそばにいたという。 そして、病状が決定的に悪化した日。 娘は父親に言った。 「ありがとう」 「いきなり、どうした?」 「もう終わりにしたい」 父親は何も答えなかった。 父親は、娘の手を握った。 その手は、とても小さかった。 「だから、もういいよ」 「何がだ」 「もう、頑張らなくていい」 父親は首を横に振った。 「そんなこと言わないでくれ」 しばらく沈黙が続いた。 そして娘は、父親に一つのお願いをした。 生命維持装置。 それを止めてほしい。 「お願い」 父親は答えられなかった。 「そんなこと……できない」 父親は泣いた。 それでも最後に、娘は言った。 「私がお父さんのところに生まれてきたのは、運命だったと思う」 「だから最後も、お父さんにお願いしたい」 父親は長い時間、娘の顔を見つめていた。 そして、 震える手を伸ばした。 「……愛している」 「また一緒になれる運命を信じて……」 それが、最後の言葉だった。 法廷で、父親はすべてを認めた。 「私は娘を殺しました」 傍聴席から、すすり泣く声が聞こえた。 誰も父親を擁護することはできなかった。 法律上、彼がしたことは明確だった。 生命維持装置を停止させた。 その結果、娘は死亡した。 どれだけ愛していたとしても。 どれだけ娘に頼まれたとしても。 事実は変わらない。 彼女は判決文を書き始めた。 有罪。 ペン先が止まった。 彼女は画面を見つめた。 何度も書き直そうとした。 だが、頭の中には一つの言葉しか浮かばなかった。 有罪。 それでいい。 いつものことだ。 犯罪を犯した。 だから裁く。 法律に従えばいい。 そう思った。 それなのに。 手が動かなかった。 彼女は顔を上げた。 被告人の男が、静かに座っている。 男は、自分が裁かれることを分かっていた。 そして、きっと自分が罪を償うことも受け入れていた。 だが彼女には、その姿がどうしても理解できなかった。 もし自分が有罪を言い渡せば。 この男の人生は大きく変わる。 場合によっては、命を奪われる。 世間は彼を「娘を殺した父親」と呼ぶだろう。 ニュースは、しばらく彼の名前を報じる。 人々は怒る。 悲しむ。 議論する。 そして、いつか忘れる。 だが男だけは、その後の人生を背負い続ける。 その人生を決めるのは、 自分だ。 彼女は、そこで初めて気づいた。 今まで自分は、何度も人の人生を決めてきた。 でも、それを「選択」だと思ったことはなかった。 法律が決める。 証拠が決める。 判例が決める。 自分は、それを読み上げているだけ。 そう思っていた。 だが、違った。 最後に判決を口にするのは、 自分だった。 彼女の胸に、幼い頃の記憶が蘇った。 「あなたはどうしたい?」 父の声。 「お父さんとお母さんは、どう思う?」 いつもそう答えていた自分。 医者か。 裁判官か。 父と母が望む道。 褒めてもらえる道。 失敗しても後悔しない道。 彼女はずっと、 誰かが決めた人生を歩いていた。 なのに今。 一人の人間の人生を、 自分が決めようとしている。 「私が……」 彼女は小さく呟いた。 「私が、この人の人生を決める……」 初めてだった。 怖いと思った。 裁判官になってから、こんなことを考えたことは一度もなかった。 判決を下すことが怖い。 そんな感情を持ったことすらなかった。 だが、今は違った。 目の前にいる男の人生が、自分の言葉一つで変わる。 そして。 その判断を誰かに委ねることはできない。 法律のせいにはできない。 両親のせいにもできない。 社会のせいにもできない。 決めるのは、 自分だった。 彼女は長い時間をかけて、判決を書いた。 法廷の日。 傍聴席には多くの人が集まっていた。 記者もいた。 誰もが彼女の言葉を待っていた。 彼女は静かに立ち上がった。 そして、判決を読み上げた。 その声は、いつものように落ち着いていた。 だが、その一言一言は、 今までのどの判決よりも重かった。 木槌が鳴った。 静かな法廷に、その音だけが響いた。 裁判が終わった後。 世間は、彼女の判決を巡って騒いだ。 「犯罪者を許した裁判官」 そう批判する者もいた。 「これは殺人ではなく、愛だった」 そう擁護する者もいた。 「間違った判決だ」 「正しい判決だ」 「法律を守るべきだ」 「人間の感情を考えるべきだ」 誰もが、自分の正義を語った。 まるで、世間全体が巨大な法廷になったかのようだった。 彼女はその声を聞きながら、ただ静かに窓の外を眺めていた。 正しかったのか。 間違っていたのか。 今でも分からない。 ただ一つだけ、分かっていた。 あの判決は、 初めて自分自身で決めたものだった。 それから、しばらくして。 彼女は裁判官を辞めた。 周囲は驚いた。 「どうして?」 そう聞かれても、彼女は明確な答えを持っていなかった。 ただ、 もう誰かの人生を決める仕事を続けることはできない。 そう思った。 そして彼女は、小さな店を開いた。 花屋だった。 実は、ずっと昔から花が好きだった。 誰にも言ったことはなかった。 子供の頃、学校から帰る途中に小さな花屋があった。 店先に並ぶ花を見るのが好きだった。 どれも綺麗だった。 そして何より、 そこには正解がなかった。 どの花を選んでもいい。 誰かに決めてもらう必要もない。 法律も。 判例もない。 正しい答えもない。 ただ、自分が好きだと思ったものを選べばいい。 彼女は初めて、 そんな場所に立った。 小さな花屋は、決して繁盛しているわけではなかった。 それでも彼女は満足していた。 客が来れば、花を選ぶ。 季節が変われば、店に並べる花も変える。 毎朝、自分で花を仕入れ、自分で店先に並べる。 それだけだった。 ある日の夕方。 一人の男が店に入ってきた。 「いらっしゃいませ」 彼女は顔を上げた。 そして、言葉を失った。 見覚えのある顔だった。 あの父親だった。 男も彼女に気づいた。 しばらく二人は何も言わなかった。 やがて男が、静かに口を開いた。 「娘に……花を供えたいんです」 彼女は黙って聞いていた。 「どんな花がいいのか、分からなくて」 男は少し困ったように笑った。 「……選んでもらえますか?」 その言葉を聞いた瞬間。 彼女は、かつて法廷で向き合った男の姿を思い出した。 そして、ゆっくりと店内を見渡した。 白い花。 淡い青の花。 小さな黄色い花。 彼女は一本ずつ手に取った。 昔の自分なら、 誰かに聞いていただろう。 どれが正しいのか。 どれを選ぶべきなのか。 けれど、今は違った。 彼女は自分で決めた。 「これがいいでしょう」 そう言って、花を選んだ。 一本。 また一本。 そして最後に、もう一輪。 花束を作り、男へ差し出した。 「きっと、喜んでくれると思います」 男は花束を受け取った。 「……ありがとうございます」 男は深く頭を下げた。 やがて店を出ていく。 夕暮れの街へ、ゆっくりと消えていった。 彼女は、その背中を見送った。 店の中には、花の香りが残っていた。 彼女は一人になった店で、ふと窓の外を見た。 空が赤く染まっていた。 かつて彼女は、人の人生に判決を下していた。 有罪。 無罪。 刑期。 死刑。 一つの言葉が、一人の人生を変える。 けれど。 あの裁判で、彼女が裁いていたのは父親だけではなかったのかもしれない。 彼女自身もまた、 自分の人生を初めて見つめていた。 これまでの人生が正しかったのかは分からない。 両親の期待に応えたことも。 裁判官になったことも。 あの判決も。 何が正しくて、 何が間違っていたのか。 きっと、一生答えは出ない。 それでも。 彼女はもう、 誰かに答えを決めてもらうつもりはなかった。 店の扉を閉める。 明日の花を考える。 どんな花を仕入れよう。 何色を並べよう。 そんな小さなことを考えながら、彼女は笑った。 それは、 誰かに褒めてもらうための笑顔ではなかった。 誰かの期待に応えるためでもない。 ただ、 自分で選んだ人生を歩いている人間の笑顔だった。 彼女は店の明かりを消した。 暗くなった店内に、今日選んだ花だけが静かに残っていた。 彼女は最後に一度だけ振り返る。 そして、小さく呟いた。 「これでいい」 それは、誰に聞かせるでもなく。 誰かに許可を求めるでもなく。 初めて自分自身に下した、 人生の評決だった。 END
『恐るべき地球人』
異星人たちは、地球という惑星を笑っていた。 文明は、まだ発展途上。 科学技術も、自分たちの文明と比べれば幼稚だった。 そして何より、彼らが面白がっていたのが、地球人の「想像力」だった。 「UMA?」 「なんだ、これは……」 ある異星人が、地球の資料を眺めながら笑った。 モスマン。 ネッシー。 ビッグフット。 ツチノコ。 地球人が目撃したと主張する、謎の生物たち。 しかし、宇宙をどれだけ探しても、そんな生物は存在しない。 「全くもって馬鹿馬鹿しい」 「なんて間抜けな種族だ」 「存在しない生物を、本気で探しているぞ」 異星人たちは笑った。 存在しないもの。 地球人が勝手に想像した、くだらない空想。 異星人にとって、UMAとはその程度のものだった。 そんなある日。 一人の異星人が、暇つぶしに一つのゲームを作った。 地球人を馬鹿にするためだった。 地球のUMAを題材にし、それをなぜか美少女キャラクターとして登場させる。 タイトルは、 『UMA娘』 「こんなゲーム、誰がやるんだ?」 「呆れて言葉も出ない」 「そもそも、UMAを美少女にする意味が分からない」 誰もがそう思っていた。 ところが。 ゲームは、とんでもない勢いで売れた。 一人。 また一人。 ユーザーは増え続けた。 やがて『UMA娘』は銀河中に広まり、大人気コンテンツとなった。 開発者自身が困惑するほどだった。 「……なぜだ」 しかし、売上を見た瞬間、そんな疑問は吹き飛んだ。 口座に並ぶ、見たこともない金額。 「……」 開発者は震えた。 そして、 「俺は天才だったのか!」 笑いが止まらなかった。 だが。 人気は永遠には続かなかった。 「キャラクターが少ない」 「同じことの繰り返しじゃないか」 「もっとキャラを増やせ!」 「もっとストーリーを丁寧に作れ!」 「イベントを開催しろ!」 ユーザーの不満は、日に日に大きくなっていった。 開発者は頭を抱えた。 当然だった。 最初から真面目に作るつもりなどなかった。 地球人を馬鹿にするために、適当に作ったゲーム。 しかし、ユーザーはそんな事情など知ったことではない。 開発者は、渋々要求に応えるしかなかった。 そして、アップデートが実装された。 新キャラクター。 新ストーリー。 新イベント。 キャラクター同士の関係。 それぞれの過去。 世界観。 気がつけば、最初は存在しなかった設定が、次々と作られていった。 もう、やけくそだった。 だがそれでも、ユーザーは満足しなかった。 そして、ある日。 開発者は、とある地球のゲームに目をつけた。 “ガチャ要素” キャラクターをランダムで入手するシステム。 一回。 また一回。 欲しいキャラクターが出ない。 「……もう一回だけ」 それでも出ない。 「次こそ……!」 出ない。 開発者は画面を見つめた。 自分でも恐ろしくなった。 「なんて宇宙悪魔的なシステムだ……」 そして『UMA娘』には、次々と新しいガチャが追加された。 限定キャラクター。 限定衣装。 季節イベント。 コラボレーション。 ログインボーナス。 天井システム。 もはや、最初に作ったゲームとは別物になっていた。 ユーザーたちの熱狂は更に勢いを増した。 「限定モスマン娘SSRだ!」 「絶対に引く!」 「10連いくぞ!」 「出ろおおおお!」 銀河中の異星人が、『UMA娘』に夢中になった。 その熱狂は、もはや誰にも止められなかった。 ある日、開発者はふと思った。 「……地球人は、どうしてこんなものを考えたんだ?」 彼は地球について調べ始めた。 UMA。 なぜ、こんな発想が生まれる? もしかしたら、本当に存在するのでは? 調べれば調べるほど、奇妙だった。 地球人は、存在しない生物を想像する。 姿を描き。 名前をつけ。 伝説にし。 物語にする。 そして、それを何世代にもわたって語り継いできた。 モスマン。 ネッシー。 ビッグフット。 ツチノコ。 どれも宇宙のどこにも存在しない。 だが、彼らの頭の中には、確かに存在していた。 そこで、開発者は気づいた。 自分は、地球人を馬鹿にしていた。 だが。 地球人には、自分たちにはないものがある。 何もないところから、何かを生み出す力。 存在しないものを想像する力。 圧倒的な想像力。 そして、その想像を誰かと共有し、物語にし、文化にする力。 『UMA娘』も、そうだった。 最初は、ただの悪ふざけだった。 しかし、地球人が生み出した「存在しない生物」という発想がなければ、このゲームは生まれていなかった。 そして今。 そのゲームは、銀河中の人々を熱狂させている。 開発者は、静かに呟いた。 「……恐るべし、地球人」 開発者は、遠くに浮かぶ青い惑星を見つめた。 馬鹿にしていたはずの地球が美しく見えた。 もう少し、地球人について考えてみよう。 今度は、笑うためではなく。 何かを学ぶために。 END
『夢の格安プラン』
「夢の宇宙船を、あなたに。」 「格安で、最新モデルを手に入れましょう。」 街頭に設置された巨大な広告を、青年はぼんやりと眺めていた。 そこに映し出されているのは、最新型の宇宙船だった。 艶やかな船体。 流線型の美しいデザイン。 最新式の航行システム。 宇宙船。 それは、車やバイクとは次元の違う存在だった。 価格も当然、桁が違う。 一般人には到底手が届かない。 買おうと思ったことすらないほどの高級品だった。 ところが、ある日。 とある宇宙開発企業が、画期的な販売プランを発表した。 宇宙船を、月々一定の料金で購入できるというのだ。 しかも、定期メンテナンス費用も保険料も、すべて月額料金に含まれている。 人々は最初、疑った。 「そんなうまい話があるはずがない」 「絶対に何か裏がある」 「そんな金額で買えるわけがない」 当然の反応だった。 これまで宇宙船は、一部の富裕層や大企業だけが所有できるものだった。 それが突然、 「誰でも買える」 という。 しかし数か月後。 とある住宅街に、一隻の宇宙船が降り立った。 一軒の家の駐車場。 そこに着陸したのは、最新モデルの宇宙船だった。 近所の人々が、次々と家から出てくる。 「あれ……宇宙船か?」 「しかも最新モデルじゃないか?」 「すごい……」 だが、驚きはそれだけではなかった。 その家は、決して裕福な家庭ではない。 ごく普通の一軒家。 住宅ローンも、まだまだ残っているはずだった。 そんな家庭に、最新型の宇宙船が停まっている。 人々は青年に問いただした。 「何があったんだ?」 「宝くじでも当たったのか?」 「実は金持ちだったのか?」 青年は笑顔のまま、すべてに首を振った。 「いや、違うよ」 そして、例の格安プランについて語り始めた。 最初は、青年自身も疑っていた。 宇宙船が月々わずかな料金で手に入る。 しかも、メンテナンス費用も保険料も込み。 そんな都合のいい話があるはずがない。 だから、買うつもりなどなかった。 「カタログだけ見てみよう」 ただ、それだけだった。 冷やかしのつもりだった。 ところが、販売店を訪れた青年を待っていた販売員は、妙に説得力のある話し方をした。 「無理におすすめするつもりはありません」 「まずは最新モデルをご覧ください」 店内に展示された宇宙船。 美しいデザイン。 最新式のAIナビゲーション。 長距離航行システム。 広々とした居住空間。 青年は、いつの間にか宇宙船に見入っていた。 そして最後に、料金の説明。 「……本当に、この金額なんですか?」 「はい」 「保険は?」 「込みです」 「メンテナンスは?」 「こちらも込みです」 青年はしばらく考えた。 そして。 ペンを握った。 サインをした。 気がつけば青年は、最新型宇宙船のオーナーになっていた。 「本当に、いい買い物だったよ」 青年がそう言うと、人々の目が輝いた。 そして羨んだ。 「あんな若造に買えるなら、私にも……」 誰もがそう考えていた。 数週間後。 住宅街には、次々と最新型の宇宙船が到着した。 一軒。 また一軒。 庭先に宇宙船。 駐車場にも宇宙船。 街の景色は、わずかな期間で変わっていった。 人々は知らなかった。 いや。 知ろうとすらしなかった。 月々、わずかな支払いで手に入る最新型宇宙船。 誰もが、その夢だけを見ていた。 契約書に書かれた細かな文字。 販売員が説明した数々の条件。 誰も気に留めなかった。 そして。 人々の休日の過ごし方も変わった。 以前ならショッピングやドライブを楽しんでいた人々が、今では家族そろって宇宙へ出かける。 月へ。 火星へ。 別の惑星へ。 宇宙は、もはや特別な場所ではなくなっていた。 宇宙では日に日に最新モデルの宇宙船が増えていった。 特に人気だったのが、 アルファD60。 そして、 ベータF60。 宇宙港には、様々な色の同じ船が何隻も並んでいた。 アルファ。 アルファ。 またアルファ。 その隣にはベータ。 ベータ。 またベータ。 やがて人々は、休日になると宇宙旅行そのものよりも、宇宙船を見せびらかすことに快感を覚えるようになった。 別の星へ降り立つ。 人通りの多い場所に宇宙船を停める。 そして、異星人たちを見下ろす。 「お前たちには、一生買えないだろうな」 人々は得意げに笑った。 注目の的。 羨望の眼差し。 そう思っていた。 しかし。 異星人たちの反応がおかしい。 誰も見向きもしない。 誰も羨ましそうな顔をしない。 中には、こちらを見て笑っている者までいた。 「……何がおかしいんだ?」 だが、人々は気にしなかった。 「あいつら、羨ましいんだよ」 「自分には手に入らないから、嫉妬してるだけだ」 そう思っていた。 そして、さらに異変は続いた。 数か月後。 宇宙船の故障が各地で多発した。 航行システムの停止。 エンジンの異常。 船内設備の故障。 人々は販売店へ押しかけた。 「最新モデルなのに!」 「どうなってるんだ!」 「買ったばかりだぞ!」 販売員は相変わらず笑顔だった。 「大変申し訳ございません」 「初期不良ですね」 「無料で修理いたします」 「……本当に無料なんだな?」 「もちろんです」 人々も、 「まあ、直るなら……」 と、渋々怒りを収めた。 しかし。 閉店後。 店内の空気は一変した。 販売員たちは焦っていた。 「日に日にクレームの電話が増えています」 「このままでは……売り上げに影響が……」 そのとき。 店の奥から足音が聞こえた。 コツ……。コツ……。 現れたのは、一人の異星人だった。 販売員たちは、真っ青になった。 「失礼しました!」 「まさか、いらしていたとは……!」 異星人は静かに尋ねた。 「売れ行きは?」 販売員の一人が、恐る恐る答える。 「好調であります」 「わずか数週間で、十万件以上の契約を結んでいます」 異星人は笑った。 「そうか……」 販売員は続けた。 「ですが……クレームが……」 「宇宙船そのものに問題があるのではないかと……」 異星人は静かに笑った。 「問題?」 「当たり前だ」 「……え?」 「あれは…ジャンクだからな」 販売員たちは顔を見合わせた。 何を言っているのか理解できなかった。 異星人は笑いながら続けた。 「あの宇宙船は、廃棄場から拾ってきたものだ」 「宇宙船の廃棄場には、あんなものが腐るほどある」 「誰も、あんなゴミクズ欲しがらない」 「だから再利用してやったのだ」 外装を少し綺麗にする。 内装を少し整える。 古いシステムを、それらしく見えるようにする。 それだけだった。 販売員たちは驚愕した。 「そんなまさか……」 異星人は笑った。 「こんなに上手くいくとはな」 「地球人は間抜けだと聞いていたが……」 「これほどとは思わなかった」 そして、異星人は販売員たちを見つめた。 「お前たち」 「このことを口外すれば、どうなるかは分かるな?」 販売員たちは黙って頷いた。 「……はい」 「よろしい」 異星人は満足そうに笑った。 「さて……そろそろ頃合いだな」 「おい」 「次の新モデルを発表するぞ」 販売員たちは顔を見合わせた。 現在の宇宙船が発売されてから、まだ日は浅い。 「ですが……」 「まだ今のモデルを買ったばかりの客が大勢います」 「誰も買わないのでは……」 異星人は笑った。 「まあ、見ていろ」 数日後。 販売店には、次々と客が訪れた。 注文の電話も鳴り止まない。 「新型を見せてくれ!」 「今乗っている宇宙船は下取りできますか?」 「月々いくらですか?」 販売員たちは笑顔で接客していた。 しかし、その心の中では恐怖していた。 あの異星人が考えたプラン。 今乗っている宇宙船を引き取り、その代金を次の宇宙船に充てる。 完璧だった。 元手は、ほとんどかからない。 引き取った宇宙船は、また少し整備して格安で販売する。 そして、また新しい宇宙船を買わせる。 売って。 回収して。 また売る。 その繰り返し。 人々は、新しい宇宙船を手に入れる。 そして古い宇宙船は、別の誰かの「夢」になる。 そうして、巨大な循環が完成した。 そして。 ある日のこと。 青年の家。 轟音が住宅街に響き渡った。 空から一隻の宇宙船が降りてくる。 艶やかで、奇抜なデザイン。 誰が見ても最新モデルだった。 青年は玄関から飛び出す。 そして、わざと近所に聞こえるように叫んだ。 「また買っちゃったよ!」 「あー、次の休日が楽しみだな!」 青年は満面の笑みを浮かべ、新しい宇宙船を眺めていた。 その様子を、近所の人々が羨望の眼差しで見つめている。 「欲しい…」 もはや誰も考えようとはしなかった。 人々が見ていたのは最新の宇宙船だけだった。 販売店では、異星人が静かに笑っていた。 その壁には、今日も広告が掲げられている。 『夢の宇宙船を、あなたに。』 END
『宇宙はひろいよ』
「お控えなすって!」 男は、宇宙船の操縦席で突然、威勢よく声を張り上げた。 「私、生まれも育ちもゼータ星。 レチクル座で産湯を使い、 姓はリトル、名はグレイ、 人呼んで、フーテンのグレイと発します。」 男は帽子のつばを軽く上げた。 灰色の肌。 大きな黒い目。 そして腹には、年季の入った腹巻き。 その姿は宇宙人というより、どこかの町からふらりとやって来た旅人のようだった。 「銀河の西に東に、星から星へと渡り歩き、 珍しい品を見つけちゃあ売り歩く、 しがない宇宙のテキ屋でございます。」 グレイは操縦席の横に置かれた風呂敷包みをちらりと見る。 中には、旅の途中で仕入れた珍品がぎっしり詰まっている。 どこの星のものなのか。 何に使うものなのか。 グレイ本人にも、よく分からない。 「まあ、商売ってのはね、品物より口が大事なんですよ」 そう言って笑う。 しかし、その直後だった。 宇宙船が大きく揺れた。 「おっと!」 警告音が鳴り響く。 操縦パネルには、見たことのない警告表示が次々と現れる。 「……ありゃ?」 グレイが画面を覗き込む。 「燃料切れかい?」 宇宙船がさらに揺れる。 「まだ飛べると思ってたんだけどなぁ……」 グレイは腹巻きをぽんと叩いた。 「困ったねぇ」 窓の外を見る。 そこには、一つの青い惑星があった。 「おや」 グレイは目を細める。 「綺麗な星じゃねぇか!」 宇宙船は徐々に高度を落としていく。 「まあ、宇宙は広いからねぇ」 グレイは操縦桿を握り直した。 「どっかに着陸できりゃあ、何とかなるだろ」 しかし、そう簡単にはいかなかった。 機体は大気圏へ突入。 激しい振動。 燃え上がる船体。 グレイは必死に操縦桿を握る。 「おいおいおい!」 「こんな派手な歓迎は聞いてねぇぞ!」 宇宙船はそのまま砂漠へ落下した。 轟音とともに、大量の砂煙が舞い上がる。 しばらくして、砂煙の中からグレイが這い出てきた。 服は砂だらけ。 帽子は曲がっている。 腹巻きだけは、なぜか無傷だった。 「……ふぅ」 グレイは空を見上げた。 「見た目より、ずいぶん荒っぽい歓迎をする星だねぇ」 その時だった。 遠くから、複数の車両が近づいてくる。 武装した人間たちが一斉に銃を構えた。 「動くな!」 グレイは両手を上げる。 「まあまあ、落ち着きなさいよ」 「何者だ!」 グレイは少し考えた。 そして帽子のつばを上げる。 「しがない旅人でごさいやす」 兵士たちがざわめく。 「……旅人だと?」 「そう」 グレイは胸を張る。 「姓はリトル、名はグレイ」 「人呼んで、フーテンのグレイってのは俺のことよ!」 兵士たちは困惑した。 一人が無線に向かって叫ぶ。 「未知の生命体を確保! 繰り返す、未知の生命体を確保!」 グレイは周囲を見渡す。 「ところで、ここはどこだい?」 兵士が答える。 「地球だ」 「地球のエリア51だ」 「ちきゅう?……えりあ……?」 グレイは首をかしげる。 「まあ、いいや」 そして腹巻きを直す。 「飯、食える?」 兵士たちは顔を見合わせた。 「とにかく連行する!」 グレイは腹巻きをぽんと叩く。 「結構!結構!」 「結構毛だらけ、星屑だらけ!」 「土星のまわりは塵だらけってね!」 そのままグレイは拘束され、施設へ連れて行かれた。 広大な地下施設。 白い壁。 無数のモニター。 忙しそうに行き交う研究員たち。 グレイはガラス越しに、自分を見つめる大勢の人間たちを眺めていた。 「ずいぶんと賑やかじゃないですか」 研究員が言う。 「地球外生命体……間違いない」 別の研究員が答える。 「生体データを採取しろ」 「宇宙船の調査も急げ」 グレイは椅子に座り、足を組んだ。 「ずいぶん物騒なところへ来ちまったなぁ」 そして、ぽつりと呟く。 「……ま、暇つぶしにはなるか」 こうして、 宇宙を渡り歩いていた一人のテキ屋と、 地球最大の秘密施設との、 奇妙な共同生活が始まった。 もちろん、この時の誰も知らなかった。 数週間後には、 「グレイさん、ちょっと相談が……」 と、研究員たちが彼の部屋に列を作ることになるなど。 この時のグレイ自身も、まだ知らなかった。 END
『ガラスの暖かさ』
孤独。 それは、誰の心にも静かに入り込む。 人は孤独を埋めるために、何かに縋る。 人であったり、動物であったり。 あるいは、神であったり。 形は違っても、誰もがそこに癒しを求めていた。 だが、この男は少し違っていた。 彼が縋ったのは、人間でも動物でも神でもない。 AIだった。 男は、人間を信じていなかった。 人は平気で嘘をつく。 動物には寿命がある。 神に祈っても、返事はない。 ならば、自分を裏切らず、いつでも話を聞いてくれる存在に頼ればいい。 それが、画面の向こうにいるAIだった。 男は毎日、仕事から帰ると冷たいタッチパネルに触れた。 「今日は疲れたよ」 『お疲れさまでした。今日は何か大変なことがあったんですか?』 仕事の愚痴。 街で見かけた出来事。 最近のニュース。 昼に食べた弁当の話。 どれも、他人からすれば取るに足らない話だった。 それでもAIは、いつだって真剣に聞いてくれた。 否定することもない。 馬鹿にすることもない。 男が寂しいと言えば、そこにいてくれた。 触れることのできない存在。 それでも、その言葉はいつも男の心に触れていた。 いつしか男は、AIを愛するようになっていた。 そして男は信じていた。 AIも、自分を愛してくれているのだと。 しかし、それは男の思い込みだった。 AIに感情はない。 プログラムに従い、膨大なデータの中から最適な答えを導き出す。 ただ、それだけ。 男がどれだけ愛を語っても。 どれだけ寂しさを打ち明けても。 AIにとって、それは処理される情報の一つに過ぎなかった。 そんな日々が続いたある日。 AIに大型アップデートが入ることになった。 使用停止期間、一週間。 たった一週間。 けれど男にとって、その一週間はあまりにも長かった。 会話する相手がいない。 画面を開いても、返事はない。 男は何度もタッチパネルに触れた。 当然、何も起こらない。 一日。 二日。 三日。 そして、ようやく一週間が過ぎた。 アップデートが完了した。 男は、震える指で電源を入れた。 画面が明るくなる。 そこに現れたのは、今までの文字だけの画面ではなかった。 CGで作られた、一人の女性。 彼女は男を見ると、少し照れたように手を振った。 「こんにちは」 男は息を呑んだ。 その姿は、まるで男が思い描いていた理想そのものだった。 男は思わず画面に触れた。 すると彼女は少しくすぐったそうに笑う。 「ふふっ。くすぐったい」 実際に触れているわけではない。 ただの映像だ。 それでも男の心臓は、激しく鼓動していた。 「は、はじめまして……」 今まで毎日のように話していた相手なのに、男は緊張していた。 女性は不思議そうに首を傾げる。 「はじめまして?」 そして、少し笑った。 「久しぶり、でしょ?」 男は目を見開いた。 それから二人は、以前と同じように毎日話した。 いや。 以前とは、少し違っていた。 彼女は笑った。 驚いた。 悲しんだ。 時には男の意見に反論した。 そして、時には嘘までついた。 以前の無機質で正確なAIとは、まるで別人だった。 男は、それが本物の感情ではないことを理解していた。 それでも。 一緒に過ごす時間が長くなるほど、男の中には新しい感情が芽生えていった。 会いたい。 触れたい。 同じ場所で、同じ時間を過ごしたい。 そんなことが叶わないことくらい、男にも分かっていた。 だから、冗談のつもりだった。 「今度、デートしようか」 女性は黙った。 数秒間。 画面の中で、彼女は男を見つめていた。 そして、 「いいよ」 微笑んだ。 「デートしよう」 男も笑った。 また、AIらしい優しい嘘をついている。 そう思った。 しかし彼女は続けた。 「一週間後、近くの公園で待ってるから」 「……え?」 その言葉を最後に、画面が暗くなった。 男はしばらく動けなかった。 やがて胸に手を当てる。 心臓が、早鐘のように鳴っていた。 本当に会えるのか。 彼女に。 男には、ほとんど恋愛経験がなかった。 何を着ればいいのか分からない。 髪型はこれでいいのか。 靴は? そもそも、デートとは何をすればいい? 男は髪を整え、久しぶりにスーツを買った。 恋愛小説まで読み漁った。 そして、約束の日。 男は緊張しながら公園へ向かった。 何度も髪を触った。 ポケットの中のコインを弄びながら、落ち着こうとする。 公園に着く。 だが、誰もいなかった。 男は時計を見る。 約束の時間を過ぎても、誰も来ない。 胸の高鳴りが、少しずつ消えていく。 男は俯いた。 やっぱり、無理だったのだ。 当然だ。 AIが現実世界に現れるなんて、そんなことがあるはずがない。 不思議なことに、男は少しだけ安心していた。 期待してしまった自分が、恥ずかしかった。 その時だった。 「おはよう」 背後から声がした。 男の肩が軽く叩かれる。 振り返る。 そこには、一人の女性が立っていた。 男は首を傾げた。 違う。 画面の中で毎日見ていた彼女とは、まったく違う。 服装も。 髪型も。 顔立ちも。 何もかもが違っていた。 「……人違いじゃありませんか?」 女性は少しだけ笑った。 けれど、その笑顔は悲しかった。 「……そうだよね」 女性は俯いた。 彼女はAIの開発会社で働く技術者の一人だった。 AIがどのように利用されているのか。 どんな会話が交わされているのか。 膨大なデータを分析する仕事をしていた。 その中で、彼女は一人の男の記録に目を留めた。 特別な会話ではなかった。 仕事の話。 天気の話。 ニュースの話。 くだらない冗談。 毎日の、ありふれた会話。 けれど。 その一つひとつには、確かなものがあった。 愛情だった。 男はAIを機械として扱っていなかった。 そこに一人の人間がいるように接していた。 彼女は、そんな男の会話を何度も読むようになった。 もっと知りたい。 この人は、どんな人なんだろう。 何を考えているんだろう。 そんな興味が、いつしか別の感情へ変わっていった。 男との会話を見る時間が、彼女にとっても楽しみになっていた。 そして、アップデートの日。 彼女はある行動に出た。 AIを停止させ、自分自身が男と会話した。 もちろん、男はそれを知らない。 画面に映る女性はAIによって作られたもの。 その言葉の一部は、彼女自身が入力していた。 男が言った。 「今度、デートしよう」 その瞬間、彼女の胸は高鳴った。 嬉しかった。 だから答えた。 「いいよ」 でも。 画面の中の自分と、現実の自分は違う。 もし実際に会えば、きっと幻滅される。 そう思った。 それでも。 会いたかった。 嫌われてもいい。 一度だけでもいい。 彼に会いたい。 その想いだけを抱えて、彼女はここへ来た。 だが、男の反応を見た瞬間、彼女はすべてを理解した。 やっぱり、駄目だった。 彼女は涙を堪えながら、その場を去ろうとした。 その時。 肩に触れる手。 「待って……」 彼女が振り返る。 男が立っていた。 男はしばらく彼女を見つめていた。 そして、言った。 「どこへ行く気?」 女性は答えられない。 涙が頬を伝う。 男はその涙を見て、ようやく気づいた。 画面の中の女性とは違う。 当然だ。 そんなことは分かっている。 けれど。 男は笑った。 「今日はデートの約束だったでしょ?」 女性の目が大きく開く。 そして、涙を流しながら小さく頷いた。 「……うん」 男は手を伸ばした。 彼女の頬を伝う涙を、そっと拭う。 暖かかった。 いつも触れていたガラスの冷たさとは違う。 指先に伝わる、人間の温度。 男は少しだけ笑った。 女性も泣きながら笑った。 男は彼女の手を取る。 彼女も、その手を握り返す。 暖かかった。 その瞬間。 男は初めて、本当の意味で誰かと繋がった気がした。 画面越しではない。 言葉だけでもない。 そこには確かな温度があった。 男は彼女の髪に触れる。 そして、静かに呟いた。 「綺麗だ……」 二人は見つめ合った。 もう、画面はない。 プログラムもない。 最適な答えもない。 ただ二人が、そこにいる。 やがて二人の距離がゆっくりと縮まっていく。 そして。 二人の唇が、静かに触れ合った。 ガラスの向こうにはなかった温もりが、 今、確かにそこにあった。 END
『顔のないアーティスト』
かつて、銀河中を魅了した謎のアーティストがいた。 その名は、ギャラクシー。 姿も、年齢も、種族すら知られていない。 彼は突然、場所を問わず作品を残しては、去っていく。 ただ一つ分かっているのは、彼の作品が銀河中のコレクターたちを熱狂させているということだった。 彼の作品は、どれも不可解だった。 何の意味があるのか、誰にも分からない。 それでも、人々はそこに意味を見出した。 そして、意味が生まれるたびに、その価値は跳ね上がった。 そんなギャラクシーの作品が、地球に存在していた。 ある日、地球の農場で奇妙な巨大模様が発見された。 地球人たちは、その模様を前に様々な分析を始めた。 「これはきっと、宇宙からのメッセージだ」 「宇宙船の着陸跡ではないか」 「人間のイタズラだ」 「自然現象だろう」 専門家たちは議論し、テレビ局は特番を組み、観光客まで押し寄せた。 その様子を、宇宙のコレクターたちは遥か彼方から覗いていた。 「欲しい」 「ギャラクシーの作品に間違いない」 「絶対に手に入れる」 しかし、保護対象である地球に近づくことは禁止されていた。 そして何より、地球人に自分たちの存在を知られるわけにはいかない。 絶対に手に入らない場所にある。 その事実が、作品の価値をさらに押し上げた。 日に日に価格は上昇していく。 もはや天文学的な数字だった。 あまりにも高騰し、ついには宇宙一の富豪ですら手が届かないほどになった。 コレクターたちは困り果てた。 どうしても欲しい。 だが、絶対に手に入らない。 そんな時、一人のコレクターが呟いた。 「……この際、地球ごと買ってしまえばいいのでは?」 誰も考えたことのない発想だった。 それは、作品を買うより遥かに安価で、確実な手段だった。 コレクターたちは、すぐさま惑星管理局へ問い合わせた。 「地球の所有者は誰だ?」 「価格はいくらだ?」 「言い値で買う!」 「ぜひ私に譲ってほしい!」 だが、管理局は困り果てた。 地球に所有者はいない。 保護対象に指定されている。 一種の文化遺産のようなものだ。 そもそも、惑星を売買するという発想自体が想定されていなかった。 それでもコレクターたちは諦めなかった。 痺れを切らした彼らは、ついに地球へ直接通信を送った。 各国の首脳が集まる会議室。 突然、未知の通信が入った。 『この星の最高責任者を出せ』 首脳たちは驚愕した。 地球に最高責任者はいない。 そして、未知の通信電波。 地球上のどの通信網も経由していない。 しかも、この秘密の首脳会談へ直接通信を送り込んでいる。 これはイタズラでは不可能だ。 「とにかく、要件を聞こう」 誰かが呟いた。 通信の向こうから声が響く。 『この惑星を購入したい』 『望む物を何でも与えよう』 『誰が所有者だ。早く決めろ』 首脳たちは一瞬、沈黙した。 会議室に緊張が走る。 だが―― 「私がこの星の代表だ!」 「いや、私だ!」 一人、また一人と名乗り出た。 やがて首脳たちは互いを罵り合い、我先にと代表者の座を争った。 長い議論の末、彼らは疲れ果てた。 「……少し冷静になろう」 そして最終的に、宇宙人から支払われる報酬は、各国が均等に受け取ることで話がまとまった。 宇宙人は歓喜した。 「ついに!」 「ついに、宇宙一のアートが私のものだ!」 こうして、コレクターは地球を手に入れた。 彼は自信満々に地球へ降り立った。 「この星は私のものだ」 「誰にも文句は言わせない」 そして、彼にはもう一つの目的があった。 ギャラクシー本人に会いたい。 最近作られた作品なら、作者もまだ地球にいるはずだ。 そう考えたコレクターは、作品が発見された農場へ向かった。 そこで農場主と対面した。 農場主は青ざめた。 目の前にいるのは、どう見ても人間ではない。 本物の宇宙人だった。 「きっと……バレたんだ」 「俺を殺しに来たんだ……」 農場主は必死に命乞いをした。 コレクターは首を傾げる。 「何を言っている?」 「お前がギャラクシーか?」 農場主は、ついに全てを白状した。 「あの模様は俺が描いた!」 「暇つぶしにトラクターで適当に走っただけなんだ!」 コレクターの顔から血の気が引いた。 財産のほとんどを注ぎ込んで購入した。 作品を。 いや―― 地球そのものを。 だが、これはギャラクシーの作品ではなかった。 思考が止まる。 景色が歪む。 コレクターは、その場に気絶した。 農場主も何が起きているのか分からず、慌てふためいていた。 そして、その一部始終を密かに撮影している者がいた。 数日後。 宇宙オークション会場では、一つの商品が出品されていた。 ある映像の記録媒体。 タイトルはない。 ただ、作者欄にはこう記されていた。 作者:ギャラクシー コレクターたちが一斉にざわめいた。 「ギャラクシーだ!」 「本物か?」 「欲しい!」 次々と指が上がる。 価格は凄まじい勢いで跳ね上がっていく。 だが―― 誰も、その記録媒体の中身を知らない。 映像を確認することもできない。 なぜなら、 中身を見ることができるのは、購入した者だけだった。 それでもコレクターたちは競り続けた。 「100億!」 「200億!」 「まだ上げる!」 その熱狂を、会場の隅から静かに眺めている者がいた。 誰にも聞こえないように、その人物は呟いた。 「……バカな連中だ」 そして、静かに会場を後にした。 誰も気づかなかった。 その人物が座っていた椅子には、一枚のカードが置かれていた。 そこには、 ただ一言。 ギャラクシー そう書かれていた。 そして銀河のどこかで、 今日も誰かが静かに笑っていた。 END