なつめぐすみれ

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なつめぐすみれ

ファンタジーBLを書いています。そのほかにもBLの話を書きます。

鬱病の俺から生まれた俺推しの俺

 鬱病の俺から生まれた  俺推しの俺    一日目   「死ななきゃ…」 坂道悠、二十五歳。男。絶賛鬱病治療中。効いているのかもよくわからない薬を毎日飲んで、だらだらと生きている。 仕事も辞めてしまってすることも特にない。ただ毎日「死ななければならないのに死ねていない自分」に愕然としながら生きている。 元々自分のことは大嫌いだった。顔もパッとしないし、勉強だってできるわけじゃない。かと言って努力もしない。なのに一丁前に承認欲求と自己顕示欲だけはあって生き辛いったらありゃしなかった。 「あー生まれ変わったら猫になりてえなぁ」   ぬくぬくとした日向で、何も考えずに暮らすんだ。そうと決まればはやく死ななければ! 思い立ったが吉日!今日は死ねる気がする!若干病気っぽいテンションの上がり方をしていることなんか気にも留めず、 [なんか山とか行って遭難しよう、誰にも迷惑かからないし、ナイスアイディア!]  そう思って玄関に向かって歩き出した時だった。  ポンッ!! ワインのコルクの栓が抜けるみたいな音がした。そしてなぜか煙が俺の前で上がっていた。 「え、火事?」 火事で死ぬのかぁ。苦しそうだなあ。とか思っていたら… 「げほげほげほ!あー煙たい。」 なんと誰か出てくるではないか⁈誰だよ!!まじで!驚いた俺は二、三歩後退りしつつも出てきたやつに目を凝らした。  ん?なんか俺に似てるな…  てか俺じゃね⁈ そうなんとそこにいたのは俺だったのだ。意味がわからないかもしれないが、俺だったのだ! 「やーどうも!あなたが僕をないがしろにするから居心地悪くて出てきちゃいましたよ〜」  そう言って「俺」は困ったように笑った。 「ごめん待ってどういうこと?」 「え、わかりません?僕ですよ僕!あなたの自尊心!」 「は?」  なんだそれ。俺の自尊心? 「意味わかんねえよ!怖え怖え!」 「えーなんてこと言うんですか!僕あなたのせいでとんでもない目にあったっていうのに!」 目の前の「俺」はぷくっと頬を膨らまして言った。やめろ。二十五歳男がやるのはきついって。 「俺が何したって言うんだよ」 「毎日僕に死ななきゃだめって言ってくるし、僕のこと否定しまくるしで僕もうボロボロなんですよ!もうあなたの中にいるのが耐えられなくなって出てきたんです!」 つまりなんだ?こいつは本当に俺の自尊心で、俺が毎日死ぬことばっかり考えたりしてるせいで出てきたってことか? 「しょうがないだろ。鬱病なんだよ。お前には申し訳ないけど。」 俺はそう言ってから自分を情けなく思った。なんでもかんでも鬱病のせいにしている気がして。なんの努力もせずに楽な方へ逃げている気がして。どうせ俺なんて。 「ほらまた自分を否定した!やめてくださいよ!痛いんですよーこれ」 目の前の「俺」は苦しそうにした。俺は素直に申し訳なくなってしまった。 「あ、悪い、ごめん」 俺が申し訳なさそうにしているのを見た「俺」はまた困ったような顔で笑いながら 「わかってますよ。しょうがないですよ。病気なんですから。」 と言った。それは俺の鬱病が発覚して幾度となく周りの人間に言われてきた言葉だった。俺はその言葉を聞くたびに、ばつが悪くなる。病気のせいにすることは、確かに楽だ。でも本当にそれでいいのだろうか。 俺が考え込んでいるのを「俺」は心配そうに見ていた。そして突然思い出したようにこう言った。 「あっそうです!今日から僕と一緒に自分を好きになれるよう努力してもらいますからね!」 「え?」  今なんて? 「無理」 「諦めるの早すぎますよ!」  だってそうだろう。今まで自分を好きになったことなんて一度もないのだから。 「でもあなたが自分を認めてあげられないと、僕もといたところに帰れないんですよ」 「俺」は困った顔をした。さっきから困った顔ばっかりしてるなこいつ。まあ俺のせいだけど。 そして突然自信満々な顔になって言った。 「まあ安心してください!僕、あなたのこと大好きですから!!」  突然言われた告白に俺は茫然とした。 「僕はあなたのいいところ、たくさん知ってますよ!」  でもまあ俺の自尊心なんだからそりゃそうか。俺は妙に納得してしまった。 「そうだ!あなたが自分を認められるように、僕があなたのいいところを教えてあげましょう!」  俺はなんかはじまったな〜と思った。 「まず!あなたはいつも電車やバスで優先的に座った方がいい人がいないか確認して気疲れしていますね!」 「そんなの当たり前だろ。誰だってそうだ。何言ってんだ。」  俺はぶっきらぼうに言った。 「意外とそんなことないんですよ!とにかく!あなたは周りをよく見ることができる人ってことです!」  違う。 「そして!あなたは仕事をしていた時セクハラをしていた上司にきちんと注意した。」 「それは…セクハラを受けていた子が好きな子だったからで…下心でしかない」 「でもそのせいでその上司からパワハラを受け鬱になったことをその女の子に伝えませんでしたよね?下心があったなら伝えるはずですよ。」  違う。  なんだか気持ち悪い。こいつの言うことを上手く受け止められない。 「あなたは周りによく気づく上に優しいんです。だから生き辛いんです。」 「うるさい!違う!俺は優しくなんかない!俺はただのだめなやつだ!」 俺は思わずそう叫んでいた。こいつは何も悪くない。ただ俺を肯定してくれているだけなのに…いっそ罵ってほしい。お前はだめなやつで生きてる価値なんかないと言ってほしい。そう思った。 「…そうやって自分と向き合うことから逃げていては、何も変わりませんよ。」 「俺」は俺にそう告げた。それは自分が一番わかっていた。その日はそれ以上「俺」と会話をしなかった。  

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鬱病の俺から生まれた俺推しの俺

餓狼の笛 第一章 交換

一  スーはその日、もう眠るところだった。いつものようにランタンに灯された家の灯りを一つずつ消して、木製の丈夫な扉に鍵をかけ、窓の鍵を全て閉めて二階へある寝室へ向かう。  この家は羅山という山の奥深くにあった。訪れる者もない、簡素だが丈夫な家で、スーは女一人で暮らしていた。  スーはこの家が好きだった。この家は激しい羅山の雨風からずっとスーを守ってくれていた。  スーは十五の時に親代わりだった祖母を亡くし、それから二十五の今までひとりぼっちだったが、不思議とこの家と二人で生きてきた気がしていた。  今夜はとても風が強く、雨もひどかった。今も風が窓枠を揺らしガタガタと音を立てている。灯りを消し、扉の鍵をかけ、あとはもう窓の鍵を閉めるだけだった。いそいそと窓へ向かう。  今日は下町へおりて野菜を売りに行っていたのでひどく疲れていた。羅山はとても山道が険しく、住み慣れているスーですら山を下るのは一苦労だった。  窓からはいつも通り高くそびえ立つ木の幹や、雨風に打たれる花が見える。今日のうちに野菜を売り払っておいて良かったとスーは思った。  スーはふと森の奥の方に目をやった。太い木々の間からチラチラと小さな明かりが見える。一体なんだろう。もしや、人だろうか。しかしこの家に来客が、しかもこんな夜更けにやってくるなんて考えられないことだ。  スーは窓は閉めたまま、じっとそれらに目を凝らした。明かりは間違いなくこちらへやってくる。いよいよそれらの姿がはっきり見える距離まで近づいた。スーは目が良かった。そのため、彼らの雨を弾く隊服に刻まれた、黒く塗り潰された太陽の紋章が見えた。それはここら一体を支配する影栄氏からの使いだった。 「こんな夜更けにすまんな。」  影栄氏の王、影栄鳳来は落ち着き払った口調でスーに話しかけた。その眼はどこか冷たく、スーをしっかりと捉えていた。スーは胃のあたりがすっと冷える心地になった。  あの後すぐに扉を叩く鈍い音が家中に響き、五人ほどの護衛となんと王が直々に訪ねてきた。しかし家の中に入ってきたのは王だけだった。今頃護衛達は、背筋をきちんと伸ばしながら、雨風に打たれているだろう。  鳳来は道中で冷えた体を温めるように、スーが慌てて灯した灯かりの側へ寄った。灯りに照らされて王の顔が橙色に光る。スーのような平民が王の顔をじろじろと見るのは気が引けてしまい、スーはずっと俯いていた。 「実はお前に頼みたいことがあって来たのだ。」  スーは思わず王の顔を見た。眼が合う。王は黒いマントに身を包み、帯刀していた。マントから雨粒がポタポタと床に落ちている。顎髭を少し生やした王はどこか震え、哀愁が漂っていた。王は三十代後半くらいで、最近やっと待望の第一子を授かったと聞いていた。  王はゆっくりと扉に向かい扉を開けると、外にいた護衛に何か言い、白い布に包まれた物を二つ抱えてきた。そしてすぐ近くにあった木製のテーブルにそれらをそっと置いた。そこには二人の赤ん坊が包まれて眠っていた。  スーは予想外の出来事に面食らってしまった。 「一人は私の息子、もう一人は川に捨てられていた捨て子だ。」  なんと一人は王子だという。どちらもただの赤ん坊で見分けはつかない。なのに二人の人生は全く違うことが既に決まっている。スーは形容し難い気持ちになった。 「簡潔に言おう。お前にこの二人の目を交換してもらいたい。」  スーは一瞬頭が真っ白になった。 「お前が火波事件の生き残りだということは既にわかっている。そして、お前が魔術を使えるということも。」  スーの顔から血の気が引いた。    火波事件とは何か。それを語るにはまずこの辺りの歴史を説明しなければならない。  ここら一帯の地形はかなり複雑である。険しい羅山と緩やかな霍山の二つの山に挟まれた平地があり、羅山から見て右手に大鳥川が、左手にはススキの原が広がっている。この地では古くから、山に挟まれた平地に択氏一族が、羅山に魔術を用いる扇氏一族が暮らしていた。この二つの一族は友好関係にあった。扇氏は魔術を用いて人助けをする温厚な一族であり、択氏はその見返りとして食糧や衣服を分け与え、互いに助け合って暮らしていた。  そしてこの地は他国にとって非常に攻めにくい地形だった。山から攻めるのも、川から攻めるのも、だだっ広い平地から攻めるのも困難だからだ。そこに目をつけたのが影栄氏一族である。  影栄氏はこの土地を手に入れるため扇氏の立場を乗っ取ろうと考えた。そこで、扇氏の特徴である黒い被り物をして、択氏の作物を荒らしたり、人を斬りつけたりしたのである。  当然択氏は扇氏の仕業だと考えた。その後被害はどんどん拡大したため、ついに扇氏と戦争をしようという結論に至ったのだ。しかし大した武力を持たない択氏は魔術を恐れ、泣く泣く隣国の軍事国家影栄氏に助けを求める事になる。それこそが影栄氏の狙いであった。影栄氏は霍山を軍事拠点とすることを条件に、扇氏に奇襲をかけ羅山を焼き払った。それが火波事件である。この事件で扇氏一族は皆滅んだ。スーと彼女の祖母を除いては。  羅山は魔力を秘めた山だったらしく、焼き払われて僅かひと月で元の姿に戻ったという。その事件以降羅山に入った者が次々と行方知れずとなるため、羅山は立ち入り禁忌の山と化した。スーはそんな場所で、祖母から魔術を教わりながらひっそりと生きてきたのだった。  鳳来が、スーが扇氏の生き残りだと知っているとすれば、それはスーを捕らえるのに十分過ぎる理由である。 「私は影栄氏の王として、扇氏の生き残りをみすみす見逃すわけにもいかん。」  スーの心臓が跳ねる。 「しかし、この二人の目を交換してくれるというのなら話は別だ。」  スーはおそるおそる何故そんなことをする必要があるのかを尋ねた。鳳来は少し口をつぐんだ後、静かな口調で話し出した。 「お前は虹色の眼の子の予言を知っているか。」  あまり外に出ないスーですら知っている有名な予言である。  数年前に非常に実力のある貫陽という占い師が大々的に表明した予言のことだろう。 『この地に虹色の眼の子が生まれ、十七になりし時、そのものの絶大なる力をもって、この国は終わりを迎えるだろう。』  スーはその予言を耳にしたとき、虹色の眼とはどれほど美しいのだろうと思ったのを覚えている。  貫陽の予言はいつも的中していたため、その予言がなされてからというもの、産まれた子供の眼の色を確認するのが一つの習わしとなった。  スーが予言を知っていると答えると、 「ここまで言えばもう分かるだろう・・・。  引き受けてくれるな。」  と懇願するように言った。  おそらく、息子の目が虹色であることが分かり、このままでは息子が殺されることになると予測したため、捨て子を身代わりにしようというのだろう。いささか身勝手な事情ではある。  この捨て子の人生は過酷なものになるだろう。  しかしここで要求を飲まなければ、スーは捕らえられ、最悪処刑されてしまう。  スーはまだ生きていたかった。  二    魔術を用いてできることは主に三つある。  材料から物質を生み出す”生成”、重力を操る”浮遊”、そして物体と物体を取り替える”交換”だ。今回用いるのは”交換”ということになる。スーは祖母がいつも言っていたことを思い出した。 『魔術は必ず等価交換だ。必ず何かが犠牲になる。  だからよく考えて使わなければいけないよ。』  スーはその教えを守ってきたつもりである。  例えば何かを生成するときは材料が犠牲になり、物体の重力を操るときは自分にかかる重力を変えて釣り合いをとり、交換するなら同じ価値のもの同士でなければならない、などである。  今回は目と目を取り替えるのだから等価交換と言えるだろう。しかし、もし予言のいう”絶大なる力”というものが虹色の眼によるものだとしたら、それは等価交換と言えるのだろうか。スーは不安になってきた。基本的に、魔術を用いる際、何を犠牲にするかは魔術師が決めることができる。しかし”交換”だけは交換する対象が犠牲になると決まっているのだ。二人の赤子のどちらの、何が犠牲になるかはスーにもわからない。初めて祖母の教えを破ることになる気がしてスーはなんだか叱られた幼子のような気持ちになった。  スーは戸棚から狐の血が入った瓶を取り出した。鳳来はスーが用意した椅子には座らず、赤子が眠っているテーブルの側に立ち、じっとスーの様子を見ていた。スーは今までにない緊張を覚えながら、瓶の蓋を開けて円形のテーブルの縁の少し内側に沿って狐の血で円を描いた。これは赤子を邪なものから守る結界のようなものだ。ここからはスー自身の血が必要になる。スーは引き出しからナイフを取り出すと、それで自分の腕に深く切り傷をつけた。鳳来が少し目を見開いた。スーも今では手慣れた作業だったが、幼いころは痛くて怖いと泣きついては、祖母に怒られていたものだった。スーは赤子の閉じた瞼の上に血を垂らした。赤子がぐずり出す。もう一人にも同じようにした。そうしてついに呪文を唱えた。狐の血で描かれた円の内側全体が鈍く光った。スーは集中のしすぎで軽く汗をかいていた。それから半刻ほどが経ち、光が消えた。スーは大きく息を吐いた。なんとか成功である。鳳来はずっと黙っていたが、スーが息を吐くと立ち上がり、ぐずっている赤子の瞳を確認した。 「まさか孫にまで世話になるとはな。」  鳳来は自嘲気味に笑いながら小さく呟いた。スーはその言葉に顔を上げた。祖母を知っているのかと尋ねると鳳来は口を噤んだ。そしてすっと冷酷な顔をして 「ご苦労だった。もちろんだがこのことは他言無用だ。良いな。」  とスーをしっかりと捉えて言った。スーは鳳来が殺気立ったのを感じた。鳳来はスーが腕を切りつけたナイフを手にとって軽く片手で遊んだあと、スーに言った。 「もし・・・誰かに話そうものなら・・・」  鳳来はスーを視線で捉えたままナイフで虹色の瞳の赤子の心臓を突き刺した。赤子が泣き叫ぶ。 「次こうなるのはお前だ。」  鳳来はそれだけ言い残すともう一人の赤子を抱えた。そして乱暴にドアを開け、マントを翻し土砂降りの中を護衛とともに帰っていった。  スーは呆然としていた。目の前で赤子が殺された。スーは鳳来の冷酷さに身震いした。  テーブルの上は血まみれだった。せめて弔ってやらねばなるまいと思ったスーは赤子に刺さったままのナイフを抜いた。さらに血があふれた。赤子はもう泣き声をあげなかった。  スーは墓を作ろうと外に出た。相変わらず土砂降りだったが、鳳来達はもういなかった。スーはスコップで墓を掘った。身体も服も長い髪もどんどん濡れていく。どっと疲れが出ていた。そのせいかうまく土が掘れなかった。このまま眠ってしまいたかった。全部夢であって欲しかった。  そんなことを思ってスーが大きくため息を吐いた時だった。家の中から赤子の泣声が聞こえる。スーははっとして家の中に駆け込んだ。血まみれの赤子は元気に手足をばたつかせ大きな声で泣いていた。スーは安堵するとともに動揺していた。なぜ生きているのだろう?  スーは赤子の刺された傷を見た。するとどうだろう。刺し傷は跡形もなく消えていた。スーは驚いた。そして虹色の眼のせいだろうかと思った。赤子は本当によく泣いていた。  この子の人生も、自分の人生も過酷なものになるだろうとスーは思った。それでも、この子が生きていて良かったと、心から思ったのだった。  三  十五年後影栄氏王宮にて  蒼来はとても早起きだ。日が昇る頃には精巧な造りの寝台から起き上り、紅色の掛け布を畳む。  蒼来は端整な顔立ちをしている。目はぱっちりとしていて髪はふわふわとしている。身長も高く、男らしくはないが所謂容姿端麗な少年だった。  蒼来は着替えを済ませながら何故か悲しい気持ちになっていた。どうしてか毎朝起きると悲しいのである。悲しい夢をみていたのだろうかと思案する。しかしどう頑張っても昨晩みた夢を思い出せなかった。 「蒼来は最近どうだ。弓をきちんとやっているか。」  鳳来は王子側近の唯威に問うた。 「はい。とてもお上手になられました。あまり弓はお好きではないようですが・・・」  唯威は少し困ったように笑った。唯威は王子専用の側近で、蒼来より十歳年上の青年である。蒼来のことは年の離れた弟のように思っていた。 「多少嫌いでも我慢させろ。弓は戦で必ず必要だ。剣ばかりではいかん。」 「承知致しました。」  唯威が鳳来に向き直り一礼する。 「そろそろ朝餉でございますね。蒼来様をお連れして参ります。」  唯威は階段を降り蒼来の寝室へと向かう。  蒼来はいつも起きているのになかなか部屋から出てこなかった。唯威は蒼来の部屋の前から声をかけた。 「蒼来様、朝餉の時間でございます。」  しばらくして部屋から蒼来が出てきた。青い装束を着て帯刀している。 「朝餉の時に帯刀する奴があるか!」  唯威は思わず蒼来に言い放った。唯威は蒼来と二人きりの時はこっそり敬語を辞めていた。これは蒼来から願い出たことだった。  蒼来はむっとして持っていた手帳にペンを走らせた。 (そんなことよりお腹空いた) 「そんなことじゃない。はやくしまってこい。先日鳳来様に注意されたばかりだろう。」  一昨日の夕餉の時、蒼来が食事が並べられたテーブルの上に剣も一緒に置いたため、鳳来は面食らっていた。蒼来は剣がとにかく好きでどこに行くにも持って行きたがった。蒼来が再びペンを走らせる。 (今日は椅子の上におくから) 「そういうことじゃないんだが・・・どうなっても知らんぞ。」  二人はともに食卓へと向かう。唯威は、歩きながら何か書いている蒼来を見つめた。蒼来は生まれながらに口がきけなかった。赤ん坊の頃は産声をあげたそうだが、それ以降全く話せない。声が出ないのだ。  だからこうして筆談という方法をとっている。蒼来が持っているペンは、蒼来が産まれて間もなく亡くなった女王の形見だった。女王は火事でなくなったのだ。  蒼来はとにかく筆談で何かを伝えたがった。主にその相手は側近である唯威だった。唯威は蒼来がもし話せたら、きっとよく話し、大きな声で笑う、表現豊かな子だったに違いないと思っていた。  食卓の間について唯威が蒼来のために扉を開く。蒼来はやっとペンと手帳をしまった。蒼来は食卓の一番奥に座っている鳳来に、朝の挨拶として一礼した。 「おはよう蒼来。また剣を持ってきたのか。」  鳳来は呆れたように言う。 「まあ良い。食事にしよう。」  蒼来は食卓につくと鳳来とともに食事を始めた。唯威は蒼来の後ろに控えた。側近は先に朝早くに食事を済ませてしまうのだ。  唯威は蒼来の食事に目をやった。艶々の白米がほかほかと湯気をあげている様子はなんとも美味しそうだ。隣の焼き魚には塩がたっぷりふられている。唯威は下町の民や自分たちの食事との差に苦笑した。現在影栄氏は、ここから少し離れた黄螺国との戦争のため、民から高い税金を巻き上げている。択氏の民も別の一族とはいえ、影栄氏に軍事力では頼りきりのため税金を払わざるを得ないのだ。おかげで択氏や影栄氏の平民は苦しい生活を強いられている。これからもこんな情勢が続くのかと思い、唯威はこっそりため息を漏らした。  霍山は急な斜面となだらかな斜面の両方を持ち合わせていた。影栄氏はなだらかな斜面を軍事訓練場として利用した。今日は主に弓の練習が行われた。護衛や側近はもちろん、蒼来も訓練に参加しなければならなかった。蒼来は剣は好きだったが、弓は嫌いだった。その場でじっとしている時間が長くて落ち着かないのだ。最近は黄螺国との戦争の戦略上、鳳来は弓に力を入れたがっていて、蒼来にとっては憂鬱な日々が続いていた。  蒼来は今日も変わらず弓の練習をしていたが、あまりに退屈なので下町に下りようと思い立った。王族は十八になるまで民に姿を見せてはならない決まりがあるため、蒼来はまだ下町に下りたことがなかった。  鳳来は基本的に王宮で会議や事務作業をしているので、鳳来に直接企みが露呈することはないだろうが、唯威を誤魔化さなければならない。唯威も蒼来の近くで弓の練習をしていた。  蒼来は狩りに行く事にしようと思い立った。山の下の方にも動物は多いため下りても怪しまれない。それに弓の練習の一環だと言い訳できる。蒼来は手帳にペンを走らせた。そして的に弓が命中して嬉しそうな唯威の肩を叩いた。 「どうした蒼来。」 (狩りにいってもいい?) 「狩り?なんでまた。」 (的に当るようになってきたし実践練習がしたい。) 「構わないが・・・一人で行く気か?」 (狩りは人数が多いと上手くいかないから) 「確かにそうだが・・・絶対山から出るなよ。俺が鳳来様から罰を受ける事になる。」  蒼来は唯威に申し訳なく思ったが、首を縦に振った。  蒼来は弓を持って歩き出した。そして山の中腹まで行くと、茂みに弓を隠した。蒼来は本当は唯威も一緒に行けたら良かったのになと思った。唯威は蒼来と違って下町に下りることができるのに、蒼来に気を遣ってかあまり下町に行こうとしなかった。蒼来はそれを申し訳なく思っていた。唯威は読書が好きだから本をお土産に持っていけば喜ぶかもしれない。そんなことを思いながら蒼来は山の麓に向かって歩き出した。  蒼来が着く頃には、町には人が溢れかえっていた。しかしその雰囲気はどこかギスギスとしていて、楽しい雰囲気ではないようだ。店は立ち並んでいるが、どこも薄汚れていて埃っぽく、蒼来の近くの店では、店の主人と客が言い争っているようだった。人々の服もあまり上質とは言えなかったため、蒼来はかなり目立ってしまっていた。  蒼来は町の様子を手帳に書き留めていった。蒼来は町とはもっと楽しいところだと思っていた。蒼来は民がこのような生活をしているのに自分は贅沢に暮らしていることを申し訳なく思った。  ➖今日は申し訳なく思ってばかりだ・・・➖  蒼来はとりあえず町を歩いてみることにした。町の構造は霍山からよく見えるので知っていた。霍山と羅山を橋渡しするように一本の長い道が通っていてその道に沿って店が並んでいる。人々の住まいは、店と、大鳥川やススキの原の間にあった。蒼来は店が立ち並ぶ長い一本道を歩いていった。蒼来は裕福そうな身なりのためかいろんな人に声をかけられた。その度に蒼来は(結構です)と書かれた手帳を見せなければならなかった。第一に、蒼来はお金を持ってきていなかった。そうこうしていると、どんどん羅山に近づいてきてしまった。羅山の近くはあまり人がいなかった。蒼来はやっと町の喧騒から抜け出せてほっとした。  するとどこからか笛の音が聞こえることに気づいた。珍しい曲調だった。 (聞いたことのない音色だ)  蒼来はどこから聞こえてくるのかと先を急いだ。とてもよく晴れていたため小走りすると少し汗をかいてしまった。すると羅山の方から男が笛を吹きながら歩いてくるのが見えた。蒼来は小走りをやめて男の方に恐る恐る近づいていった。男は心底楽しそうに笛を吹いていた。蒼来以外みんな通り過ぎていくのに、むしろ迷惑そうな顔までされてもそんなことはどうでもいいようだった。よくみると男はのっぽでひょろひょろとしていて髪の毛が茶色だった。この地の人間は黒髪だからこの土地の人間ではないらしい。蒼来は思い切って(なんという曲ですか)と書いた手帳を男に見せた。男は笛を吹くのをやめる。男は人が良さそうな顔をしていた。 「お、なんだ坊主。俺の笛が気に入ったか?嬉しいねえ。」  男は歯を見せて笑った。 「この曲はタラトウーゼだ。ここからかなり離れた土地の民謡だな」  蒼来は手帳に(タラトウーゼ)と書いた。 「それにしてもお前はなんだ?おしゃべりが苦手なのか?」 (生まれつき声が出ない) 「それはまた驚いたなあ!俺はいろんなところで笛を吹いてきたが、お前さんみたいなやつは初めてだ。呪いかなにかかもな!」  男は大きな声で笑った。 (違う曲も聴きたい)  そう書いてみせると男は気前よく何曲か演奏してくれた。蒼来は音楽の楽しさに初めて気づけた気がした。男が演奏を終えたので蒼来は拍手した。 「坊主、俺はお前が気に入った。俺の笛を一本やろう。」  男は提げ袋からさっきまで吹いていたのとは別の笛を取り出して蒼来に渡した。 (いいの?) 「いいさ。ここの人間は音楽を楽しむ余裕もないらしい。そんな中でお前さんに会えて嬉しかったよ。」  蒼来は何か返せるものがないかと自分の体を探った。するとお気に入りのブレスレットをつけていたのを思い出したので男に渡した。 「ほおーこいつは高く売れそうだ。これで今夜は酒が飲めるぜ。ありがとよ!」  男はまた歯を見せて笑った。 「それでお前さんどこにいくんだ?まさかあの山か?」  男は羅山を指差した。 (あの山は立ち入り禁忌の山) 「へー。なぜ?」  なぜ?なぜだろう。蒼来はそんなこと考えたこともなかった。ただ幼い頃から、羅山は民も立ち入らない恐ろしい禁忌の山だから行ってはいけないと、鳳来にきつく言われていたのを思い出した。蒼来が何も書けずにいると男は不思議そうに言った。 「理由もないのに立ち入れないのか?」 (わからないけど入ったら父上に叱られる) 「親の言うことも大事だけどな、わからないことを自分の目で確かめてみるのもいいもんだぜ。じゃあ俺はいく。じゃあな!」  男はそう言うとまた笛を吹きながら歩いていった。 (面白い笛吹きの男に会った。笛をもらった。)  蒼来はそう手帳にかくと羅山に向き直った。そして男の言葉を思い出した。まだ時間はある・・・そう思った蒼来は、あとで男の言葉を手帳に書こうと心に決めながら、羅山に向かって歩き出すのだった。 「おい唯威。蒼来はどうした。」  弓の練習の視察に来た鳳来が怪訝な様子で唯威に尋ねた。 「狩りに行くとおっしゃって出発されましたが・・・」 「狩りだと?」  鳳来は眉間にしわを寄せた。そして少し悲しげな表情を見せたあと、すぐに苦虫を噛み締めたような顔をした。 「どうせ下町にでも行ったのだろう。蒼来め、そんなに弓が嫌いか。」 「えっ。まさかそんな!」 「お前が気づかんのも無理はない。これは蘭陽がよく使っていた手だ。母親によく似たものだ。」  蒼来の母親である蘭陽は明るく自由奔放な人であった。鳳来に狩りに行くと嘘を吐いては下町に下りて遊んでいた。 「申し訳ございません。すぐに町に探しに行って参ります。」  唯威は深々と頭を下げた。 「構わん。放っておけ。蒼来ももう十五だ。少しくらい世間のことを知らねばなるまい。対面式までに下町に下りてはならないわけではないしな。」 「はあ。」  やはり、鳳来様は蒼来には甘い。  唯威はその事実を意外に思っていた。唯威からすれば鳳来は厳しく、冷酷な人だからだ。息子となるとさすがに話は別ということだろうか・・・好奇心旺盛な蒼来のことだ。きっと今日は手帳がより一層文字で埋まっていることだろう。下町は治安があまりよくないが、蒼来の剣の腕なら心配ないと唯威は思った。  鳳来は飛び交う弓を見ながらずっと思案していた。  ー下町に下りたとて蒼来は口がきけん。わざわざ身分を明かすこともないだろう。もし万が一羅山に入っても、あのことを知っているのはあの女だけだが・・・奴は利口だ。蒼来に干渉してくることはない。ー  鳳来はそう結論づけ、自らも弓を引いた。矢は的の真ん中を射抜いていた。   四  蒼来は羅山の麓の入り口までやってきた。そこには立ち入り禁忌と書いてあるわけではなかったが、山は異様な空気を纏っていた。あたりの空気は冷たく人を寄せ付けない雰囲気があった。蒼来はゴクリと生唾を飲み込み剣の柄をぎゅっと握りしめると、羅山の中へと歩みを進めた。  蒼来は最初こそ緊張して山道を進んでいたが、山が纏う雰囲気が少しずつ変わっていくのを感じて、安心感さえ抱いていた。雰囲気が温かいのだ。蒼来は山が自分を歓迎してくれているように感じた。木々はどれも高く、葉も生い茂っているためあまり明るくないが、木漏れ日がきらきらと輝いて地面を泳ぐのがとても綺麗だった。ひらけた霍山と違って鬱蒼とした羅山には本当に多くの花や草木があった。動物はなぜか蒼来をみると寄ってくる。蒼来は初めてみる光景に手帳に文字を書き込む手が止まらなかった。  しばらく夢中で山道を歩いていると、少しひらけた場所にでた。そこにはウサギの親子が陽に当たって気持ち良さそうにしていた。蒼来はその隣にゆっくりと腰を下ろした。ウサギは逃げなかった。蒼来は大きく深呼吸をした。小鳥のさえずりが心地いい。蒼来はふと貰った笛のことを思い出した。笛をよく見てみる。笛は横笛で、白っぽい色をしていた。試しに適当に吹いてみる。ぴいと変な音がでた。もう一度、指を少し押さえて吹いてみた。ぴいーと少し長い音が出るようになった。嬉しくなった蒼来はもっといろんな音を出そうと夢中で笛を吹いた。どれもひどい音だったが蒼来は楽しんでいた。ウサギは笛の音に驚いたのかいつの間にかいなくなっていた。山に蒼来の下手な笛が響く。 「びっくりするほど下手な笛だな」  蒼来は突然声をかけられたことに驚いてその場でひっくり返ってしまった。 「ははは!ひっくり返ってる!ごめんな、びっくりした?」  声の主は蒼来と同い年くらいの少年だった。真っ白な髪にぱっちりとした目はなんと淡い虹色をしている。白い装束に身を包んだ少年はまるで天からの使いのようだった。少年は蒼来の後ろから声をかけてきたようだった。蒼来は少年の奇抜で美しい姿に見惚れてしまっていた。 「おいおいなんか言ってくれよ、寂しいだろー」  少年がそういうので蒼来ははっとして、慌てて手帳にペンを走らせた。 (声が出ない) 「へー風邪?」 (生まれつき) 「それって下町の方じゃ普通にあることなのか?」 (多分珍しい) 「そっかあ。」  少年は蒼来の隣に座った。蒼来は少年に聞きたいことがたくさんあったので、質問を手帳に急いで書いた。 (なんで髪白いの?) 「え、わかんないなあ、生まれてからずっとこれだから」 (目すごく綺麗。いつからその色?) 「これも生まれつきだよ。理由は知らない。スーに聞いてもわかんないって言うし・・・」 (スーって誰?) 「スーは俺の母親代わりみたいな人。全然喋んないけど優しい人だよ。」  少年はとても楽しそうに喋った。 「なあ俺からも質問いい?」  蒼来は頷いた。 「お前名前は?どこから来たの?」  蒼来は目を輝かせて聞いてくる少年をくすくすと笑いながら、手帳に答えを書いていった。 (蒼来 そうらい) (どこから来たかは言えない ごめん)  どこから来たかを適当にごまかしても良かったが、この少年に嘘はつきたくなかった。影栄氏の王子だと知られて、距離を置かれてしまうのが怖かったのだ。 「いえないの?ふーん、まあいいや」  少年はさほど気にしてなさそうだった。蒼来はほっとした。 「俺はアヤメ。女みたいな名前だけど笑わないでくれよ。スーが一生懸命つけたんだ。」 (綺麗だと思う) 「何が?」 (アヤメという名も、君も)  アヤメは一度きょとんとした顔をした後少し恥ずかしそうにしながら 「お前って物好きな・・・」  と言った。  その後はお互い様々なことを話した。蒼来の手帳にアヤメ専用のページができてしまうほどだった。蒼来は笛の練習がしたいけど家だとできないと伝えると、 「じゃあ笛の練習がしたくなったらまた来いよ。下手な笛が聞こえたらすぐお前だってわかるしな。」  と笑った。帰りはアヤメが麓まで送ってくれた。お互いに会ったことは二人だけの秘密にした。すっかり夕方になった下町の大通りはもうあまり人がいなかった。蒼来は今日あった様々なことに思いを馳せながら、手帳にもう一度だけ(アヤメ)と書いた。  アヤメについて  アヤメ 同い年 虹色の眼 白い髪 生まれつき   スーと羅山で二人暮らし   山から出てはいけないと言われている 理由は知らない  好きなもの  スー 音楽 本 たぬき(食べる)  ずっと友達が欲しかった 僕がスー以外で初めて会った人    アヤメ  わからないことは自分の目で確かめること   五  蒼来が王宮に着いたのはもう夜になるというころだった。  山の中腹に弓を置いてきたのを忘れて取りに行くのに手間どったのだ。蒼来は帰りが遅すぎるし、獲物は一つも持ってないしで狩りをしていなかったことがばれるのではと不安になった。王宮の門の前に着くと、唯威が仁王立ちで立っているのが見えた。 「遅い!」  唯威は耳が痛くなるほど大きな声で怒鳴った。蒼来は唯威へのお土産を忘れたことを思い出した。蒼来は小走りして唯威の元へ走った。 「お前下町へ行ったらしいな。」  蒼来の心臓が跳ねる。驚いたような顔をした蒼来をみて唯威は言った。 「やっぱりな。鳳来様にお前が狩りに行ったと伝えたらすぐにお気づきになられたぞ。」  蒼来は鳳来にまでばれていると知って冷や汗が止まらなかった。 「安心しろ。鳳来様は黙認すると言っておられた。」  蒼来は唯威の意外な言葉に思わずペンを走らせた。 (なんで?) 「なんでも、もう十五にもなれば世間のことを知らなければならない、ということだそうだ。」  蒼来は鳳来が優しくて良かったと思った。その夜は何事もなかったかのように食事をし、寝床についた。蒼来はアヤメの、花が咲くような笑顔を思い出して、次はいつ羅山に行こうかと思いながら眠りについたのだった。 「羅山が立ち入り禁忌の理由?」  アヤメは家から持ってきたという難しそうな本のページを捲りながら言った。  蒼来はあれから一週間ほど経ってから再び羅山に来た。雨が続いて外出出来なかったのである。蒼来は雨の日必ずといっていいほど両目が痛んだ。そのせいであまり雨の日は活動できないのだ。  アヤメは本を閉じて蒼来に向き直って言った。 「この山はな、信じられないかもしれないけど生きているんだ。そして意志を持っている。」  蒼来は思ってもいない返答に驚いた。アヤメは大真面目に続けた。 「きっとどの山もそうなんだろうけど、羅山には性格があるんだ。羅山は人見知りでなかなか目新しい人間に気を許さないが、一度気に入ってしまうとなかなか帰そうとしないんだよ。」  そこで蒼来は山に入ってくる時のことを思い出した。あたりの空気は冷たく、人を寄せ付けない雰囲気が漂っていた気がする。でも、羅山に入ってしばらく経ったら、だんだん纏う雰囲気が柔らかくなったのだ。  それをアヤメに筆談で伝えた。 「そう。まさにそのまんまだよ。最初は蒼来を警戒していたけど、だんだん蒼来がいいやつだって気づいて、歓迎したのさ。俺は羅山が蒼来を帰したがっていないことに気づいたから、麓まで案内したんだ。じゃなきゃお前はまだこの山を彷徨ってるよ。運が良かったな。」  蒼来はアヤメが言いたいことを理解した。 (つまり、同じようにここにきた人間が、羅山に気に入られて山を彷徨い、そのまま命を落とすことが何度もあったから、人は羅山を恐れるようになって立ち入り禁忌となったということ?) 「そういうこと。まあ元々この山は火波事件があった不吉な山だってのもあるしな。」  アヤメは悲しそうな顔をした。火波事件は蒼来も歴史の授業で習ったから知っている。友好関係にあった択氏の作物を荒らしたり、人を斬りつけたりした扇氏を、軍事国家であった影栄氏が択氏に代わって一挙に討伐した事件である。  影栄氏の絶大なる軍事力を示す栄誉ある戦いとして教科書でとりあげられていた。扇氏はほとんどが滅んだと言われていたが、まさかアヤメは扇氏の生き残りなのだろうか。 「俺は扇氏とは関係ないよ。大鳥川に捨てられていたらしいからな。」  アヤメは蒼来の考えを見透かしたように言った。そしてアヤメはどこか遠くを見つめながら何かを思案しているようだった。蒼来は、そんなアヤメをとても綺麗だと思った。 「なぁ…火波事件が、すべて影栄氏による陰謀だって言ったら、信じるか?」  蒼来は思わずアヤメの顔をじっとみた。単なる思いつきで言ったようにも思えない。蒼来はアヤメが何を言いたいのか分からなかった。 (どういうこと?) 「…スーが言ってたんだ。火波事件の発端となった扇氏の悪行は、影栄氏が扇氏のふりをしてわざと戦争になるように仕向けたものだって。」 (根拠はあるの?) 「ないよ。ただ、スーがそう言ってたってだけ。でも俺はスーが好きだし、信用してる。スーが扇氏と関わりがあったかどうかは知らないけどね。そういうわけで俺は火波事件って言葉を口にすると、なにか胸の奥につっかえたような気持ちになるんだ。」  アヤメはそう言うとまた持っていた本を開いて読み始めてしまった。蒼来はまだ聞きたいことがあったがこれ以上聞かない方がいいような気がして笛の練習に戻った。蒼来は、自分がその影栄氏の王子だということをアヤメに話しておかなかったことを後悔していた。  その日の夜、蒼来の部屋に唯威がやってきた。今週の予定を伝えにきたらしい。 「今週はいつも通り授業を受けていただく他に、来客との食事の予定がありますね。」 (来客って誰?) 「貫陽様だよ。聞いたことあるだろ?」  貫陽といえば蒼来の中では、鳳来の古い友人で、とても有名な占い師という認識だった。どんな占いをするかまでは知らなかった。 「でも俺が十五歳くらいの頃までは熱心に占いをされていたが最近はあまり活動されていないからな…蒼来はぴんとこないかもな」  すると唯威は思い出したように言った。 「有名な予言にこんなのがあるんだ。  『この地に虹色の眼の子が生まれ、十七になりし時、そのものの絶大なる力をもって、この国は終わりを迎えるだろう。』  この国っていうのは影栄氏と択氏を合わせたここら一体のことらしい。」  蒼来は頭の中で予言を復唱した。そうしてようやくその意味を理解した時に思い浮かんだのはアヤメの顔だった。虹色の眼なんてそういるものではない。間違いなくアヤメのことだ。 「この予言が出されてからというもの、生まれた赤子の瞳の色を確認するのが慣わしとなったらしいぞ。…?どうした蒼来、顔色があまり良くないぞ。」  蒼来の心臓は強く脈打っていた。  ➖アヤメは絶大なる力とやらを持っているのだろうか?だとしてもそれを国を滅ぼすことに使うような子じゃないはずだ。そんな予言は嘘だ!嘘に決まってる!➖  蒼来の頭の中で様々なことが駆け巡った。  ➖もしアヤメの存在が世間に知られたら…アヤメは…殺されるのか?何もしていないのに?➖  蒼来は大丈夫だと唯威を自室へ帰し、一人窓の外を見つめた。羅山が見える。あそこから出ることのできないアヤメ。スーがアヤメを山から出さない理由が今はっきりした。でもアヤメはきっと、外に出たいだろう。蒼来はアヤメが一度も自分の境遇に文句を言わなかったことを思い出して苦しくなった。羅山はアヤメを気に入ってしまったのだろうか。  六 「笛、上手くなったな」  アヤメがなぜか残念そうに言った。  確かに蒼来の笛の技量は以前の一音鳴らすのがやっとの状態ではなかった。もうある程度のメロディーを奏でることができるようになっていた。 (なんで残念そうなの?) 「もう蒼来の下手な笛が聞けないのかと思うとちょっと寂しくてさー」  アヤメはふざけたように言った。蒼来は思わず笑みが溢れた。アヤメは前回とは違う、けど相変わらず難しそうな本を読み始めた。  結局のところ、蒼来は予言の話も自分が影栄氏の王子だという話もアヤメにしていなかった。そもそもアヤメが予言のことを知っているのかもわからなかった。なんとなく知らないのだろうという気はしていた。今はただこの時間が素直に楽しくて、それを壊したくなかったのだ。ずっとこの時間が続けばいい、蒼来はそんなことを本気で願っていた。 「徴兵令、ですか?」  唯威は怪訝そうな態度を隠すことができなかった。鳳来は対して気にしていないようだった。 「そうだ。黄螺国との戦争の長期化に伴い、影栄氏と択氏の二十歳以上の男達は、兵士として戦いに参加してもらうことになる。」  鳳来の声は非常に落ち着いていた。 「しかし、一般市民を戦争に駆り出すというのは…それにどのようにして訓練するのです?」 「訓練など必要ない。」 「?」 「…今度の戦いでは囮戦法を用いる。その際、作戦上死ぬことが前提の兵士が必要なのだ。」 「!その作戦を伝えずに何も知らない市民を利用しようというのですか!」  唯威は思わず声を荒げた。しかし鳳来は落ち着いた口調のままだった。 「捨て身の兵士に訓練した者を使うのはもったいないからな。」  鳳来はさも当たり前のように言った。 「お前はこのことをそのまま蒼来に伝えればよい。今度の戦いでは蒼来も作戦に加えるからな。しっかり伝えろ。お前の仕事はそれだけだ。」  鳳来はそう言うと颯爽と唯威の前から姿を消してしまった。唯威は怒りに体が震えていた。  ➖民は税で十分戦争に貢献しているのに…さらに徴兵令だなんて…しかも死ぬことが前提などと…➖  鳳来は間違いなく冷酷だ。蒼来もいずれあんな風になってしまうのだろうか。唯威は考えたくないことを頭に思い浮かべてしまってぶんぶんと頭を振った。  唯威は大きくため息をつき、蒼来を探しに歩き出した。  蒼来は部屋で教科書の火波事件のページを見ていた。何度読んでも新しい情報は見つからなかった。そこで火波事件について記述がありそうな他の本を調べてみた。するとそこにはこう書かれていた。  ー扇氏を皆殺しにした影栄氏に対して、他国からは批判の声が上がった。しかし影栄氏はそれは事実と異なるとして声明を発表した。  扇氏の多くは捕虜として捕らえたが、全ての捕虜が自身の舌を噛み切って自殺した。扇氏は魔術を用いる一族のため、その力を悪用されることを恐れての行動だと思われる。と。  その声明によって国際社会からの批判は免れたが、それが真実かどうかはわかっていない。ー  蒼来はそこまで読み終えると、その本をぱたんと閉じた。そしてアヤメの言っていたことを思い出した。  ➖もし本当に扇氏の捕虜が魔術の悪用を恐れて舌を噛み切って自殺したのだとしたら、扇氏は魔術を人を害するために使わない平和な一族だと推測できる。そんな一族がそもそも友好関係にあった択氏に攻撃を仕掛けるだろうか。しかも作物を荒らしたり人を斬りつけたりするのは、魔術を使わなくてもできることばかりだ。それなら…影栄氏にもできる。➖  蒼来の中で影栄氏に対する疑念は増すばかりだった。そして火波事件の時、鳳来は大体二十歳である。丁度政権を握り始めた頃だ。  ➖まさか…➖  トントントン  蒼来がそこまで考えた時、丁度扉を叩く音がした。 「蒼来。入るぞ。」  入ってきたのは唯威だった。唯威は深く考え込んだ顔をしていた。蒼来はどうしたのだろうかと思った。 「鳳来様が、徴兵令を出すから蒼来に報告せよ、と。」  蒼来はどうしてそんなことをする必要があるのかと疑問に思った。確かに黄螺国との戦争は長期化しているものの、そこまで追い詰められているわけではなかったからだ。  唯威は鳳来の考えていることを全て蒼来に話した。蒼来は全てを聞き終わった後驚きのあまり、持っていた本を床に落としてしまった。確かに鳳来は戦いのこととなると少し厳しくなると思っていたが、まさかここまで冷酷になれるとは蒼来も思わなかったのだ。 「・・・その囮作戦を用いた戦いには蒼来も参加させると言っていた。」  蒼来は生まれて初めて鳳来に対する不快感と怒りが湧いてくるのを感じた。  唯威が帰った後、蒼来は本を拾い上げ棚に戻した。蒼来はその日夢をみた。今まで信じていたものが全て崩れていく夢だった。絶望の淵に立たされたとき目の前に浮かんだのはアヤメと、ほとんど顔もしらない母の蘭陽の姿だった。  七  それから二日ほどが経った。蒼来の中にある鳳来に対する疑念は消えることはなかった。蒼来と鳳来は本日の来客である貫陽を出迎えるため、玄関の大広間にいた。 「貫陽は私の古い友人だ。お前は会うのは初めてだが、あまり無礼なことをするんじゃないぞ。」  鳳来は蒼来が自分に疑念を抱いていることに気づいていないようだった。蒼来は隣に立つ父親をじっと見つめた。鳳来の瞳の色は煮立った紅茶のような色をしていた。蒼来はアヤメの瞳を思い出した。アヤメの瞳は虹色で、キラキラとしている。陽の光を浴びて眩しそうに細まる。”生きている”瞳だと蒼来は思った。だが鳳来の瞳は違う。冷たく、輝きもない。まるで”死んでいる”ようだった。  その時扉が開いた。そこには紫の装束を纏った優しそうな男が立っていた。貫陽である。髪は長く、後ろで結い上げていた。 「鳳来。久しぶりだね。黄螺国との戦いはかなり順調だと聞いているよ。」  貫陽はそこまで言うと蒼来に気づいてにこっと笑った。 「蒼来だね。話は聞いているよ。剣の腕がたつそうだね。」  蒼来は軽くお辞儀をした。貫陽は本当に物腰が柔らかく蒼来は好感を覚えた。 「ここで話すのもなんだ。中へ入ろう。」  鳳来はそう言うと階段の方へ向かって歩き出した。貫陽も蒼来もそれに続いた。  貫陽と鳳来は楽しそうに談笑していた。蒼来は自分はなぜここにいなければならないのだろうかと思った。恐らく蒼来をこういった場に慣れさせるためなのだろうが、蒼来はとにかく退屈で心の中でため息をついた。  すると突然談話室の扉が開いて鳳来の側近がやってきた。 「鳳来様。突然申し訳ございません。急ぎの伝達が入りましたのでご報告に参りました。」  鳳来は少し眉を顰めた後立ち上がった。 「すまない貫陽。少し席を外す。  蒼来、貫陽をもてなしなさい。筆談で何か話をすればよいだろう。」  そう言って鳳来は談話室を出て行ってしまった。  蒼来は内心焦っていた。何を話せばいいかわからなかったからだ。貫陽はにこにことして蒼来を見ていた。 「そんなに緊張しないでいいよ。楽にしなさい。」  貫陽は優しい声でそう言った。蒼来はその声に少し安心して肩の力を抜いた。 「蒼来は剣以外に何か得意なものはあるのかい?それか好きなものとか。」  蒼来は少し考えた後、思い切って手帳に (笛を吹くのが好きです)  と書いた。 「笛?それはまた珍しい。でもいいですね。音楽も達者とは。ぜひ聞いてみたいものですね。」  貫陽は楽しそうに言った。蒼来は貫陽はいい人だと感じた。 (父上には内緒だから、王宮では演奏できないんです) 「そうなのかい。ではどこで練習を?」 (羅山です) 「羅山?」  一瞬貫陽の声色が変わった気がした。しかしすぐにさっきまでと同じ朗らかな声色に戻った。 「それはそれは。羅山でよく迷わなかったねえ。ほら、あそこに入っていったまま帰ってこなかった人間はたくさんいるだろう?」 (友達が道案内してくれるから大丈夫なんです) 「友達?」  蒼来はアヤメのことを話そうか少し迷ったが、アヤメの瞳の色が虹色であることさえ話さなければ大丈夫だろうと思った。 (僕と同い年くらいの男の子です。羅山に住んでいるんです。大鳥川に捨てられていたそうなので扇氏とは関係ありません。僕の笛の練習に付き合ってくれるんです。)  貫陽はアヤメが羅山に住んでいると聞いて少し驚いた様子だったが、そのまま続けた。 「そうなんだね。素敵なお友達だね。」  貫陽はにこりと笑って紅茶を啜った。そこで鳳来が戻ってきたので話は終わった。もう外は日が暮れようとしていた。  その後貫陽は一晩影栄氏の王宮に泊まっていくことになった。蒼来は三人で食事を終えた後鳳来にやっと部屋に戻っていいと言われた。蒼来は丁寧にお辞儀をして広間を出るとふーっとため息をついた。そして自室に向かって歩き出した。しばらく歩いてから、蒼来は母の形見の万年筆を広間に忘れたことを思い出した。取りに戻ろうと思い広間に向かった。廊下はとても暗かった。今日は召使いが貫陽が泊まる部屋の準備をしているため廊下に誰も控えていないのだ。広間の扉の前に立ち、ノックをしようとした瞬間のことだった。 「馬鹿な!!あれは私が殺したはずだ!!」  鳳来が声を張り上げるのが聞こえた。蒼来は驚いた。鳳来はあまり声を荒げたりしないからだ。しかもあれ?殺す?なんの話だろうかと蒼来は聞き耳をたてた。  続いて話出したのは貫陽だった。 「だが恐らく間違いない。羅山に住んでいて、捨て子でお前の息子と同い年となるとあれとしか考えられん。」  貫陽はそこまで言って付け加えた。 「正確にはお前の息子じゃなく、蘭陽と択氏当主との息子だがな。」  蒼来は頭を殴られたような衝撃を覚えた。貫陽が何を言っているのかわからなかった。いや、意味は理解していた。しかし信じられなかった。自分と鳳来の血が繋がっていないなどと。 「黙れ。今はそんなことはどうでもいい。問題はあれをどうするかだ。」  鳳来は再び声を荒げた。 「当然始末してもらわないと困る。あの予言がでっちあげだと知られたら俺の経歴に傷がつくからな。そしてあの魔術師も始末しろ。利用価値があるからといって生かしておくからこんなことになるんだ。どうせあれを生き返らせたのも魔術によるものだろうさ。」  蒼来はだんだんと、あれとはアヤメのことであり、アヤメが危機に晒されていることを理解した。 「そもそもあの蒼来とかいう子供がお前の子供じゃなかった時点で殺しておくべきだったんだ。わざわざ眼を捨て子と交換したからこんなことになる。」  ➖眼を交換?どういうことなんだ➖  蒼来は突然の大量の情報に混乱していた。 「はぁ。もういい。とにかく軍を動かして羅山に向かわせる。全て焼き払ってやる。貫陽、お前は念の為蒼来を見張れ。多分今日はもう部屋から出てこないと思うがな。もし蒼来が軍を動かしていることに気づいたら黄螺国からの奇襲攻撃だと言え。」 「はぁ。わかったよ。王子様を見張ればいいんだろ。」  蒼来はそこまで聞くと自室に向かって勢いよく走り出した。アヤメが危ない。ただそれだけが確かだった。もう何を信じたらいいのかわからなかった。父だと思っていた人も、母も、貫陽も、予言も全て、もう信じられない。ただ信じられるのはアヤメの凛とした声と優しい笑顔だけだった。  八    蒼来は自室に戻ると、適当なペンを取り出し手帳と一緒にポーチへ入れた。  母の形見の万年筆はもう使う気になれなかった。そして愛剣と笛を腰に差した。笛は羅山でアヤメを呼び出すために、剣はいざという時にアヤメを守れるように持っていくことにした。  ➖もうここには戻ってこられないかもしれない➖  蒼来はそれでもアヤメを守りたかった。  蒼来は窓から外に出ようと思い立った。部屋の扉から廊下に出たら、恐らく蒼来を見張っている貫陽と鉢合わせてしまうと思ったからだ。蒼来の部屋は二階にある。飛び降りても死にはしないだろうが、下手をすれば骨を折ってしまう。蒼来は窓を開けた。落ち着いた夜の匂いに混じって木の焼ける匂いがしていた。恐らく、兵士が羅山に向かう時に使う松明のものだろう。  急がなければならないと蒼来は思った。蒼来は覚悟を決めた。蒼来は部屋の窓枠に足をかけた。窓の下にはただ芝生が広がっているだけだった。蒼来は一度大きく深呼吸すると、窓枠にかけていた足に力を入れた。足が窓枠から離れる。蒼来の体は重力にしたがって真下に落ちていった。    ドサッ    蒼来はなんとか飛び降りることに成功した。着地した時に腕を着いてしまったせいか腕がずきりと痛んだ。しかし立ち止まっている暇はなかった。こうしている間にも影栄氏の軍は羅山へと向かう準備を進めているのだ。軍は大通りを通って羅山に向かうはずだ。山に登るのだから馬は使わないだろう。蒼来は馬を使いススキ野原を通って羅山へ向かおうと考えた。とにかく軍より先に羅山に着いてしまえば、羅山に何度も出入りしている蒼来の方が早くアヤメと合流できるだろう。そう考え、蒼来は馬小屋へと向かった。  馬小屋の前には誰も居なかった。蒼来が急いで愛馬の元へ駆け寄り、乗り上げようとした時だった。 「こんな夜遅くにどこへ行くんだい?」  蒼来は思わず手を止めた。蒼来の額から汗が一粒流れ落ちた。  蒼来の後ろで剣を構えているのは貫陽だった。蒼来も剣を構えて貫陽に向き直った。二人の間に緊張が走る。月明かりに照らされた貫陽の顔には笑みが浮かんでいた。 「どこから聞いていたのかな?」  貫陽は表情を崩さなかった。蒼来は答えない。というか、暗い夜闇の中では筆談もできない。 「まあ、どうでもいいことだ。なぜなら君は私に殺されるのだからね。」  蒼来は正門を見ていた。軍が羅山に向けて出発したのだ。 「しかし不思議でならないのだよ。何故鳳来は君をここまで大切に育てたんだろうね。実の子でないと知りながらだよ?」  蒼来は貫陽の言葉を聞いてももう動じなかった。とにかく貫陽を倒さないことにはアヤメの元へ行けない。蒼来は剣の柄をぎゅっと握りしめた。蒼来は貫陽の言葉には耳を貸さず、地を足で思い切り蹴って貫陽に向かって走り出した。    ガチンッ    二人の剣がぶつかり合う音が響く。貫陽は占い師であるが、剣の腕もなかなかだった。蒼来は腕の痛みが強くなっていくのを感じた。二人の剣は激しくぶつかった。実力はほぼ互角だった。しかし蒼来は腕の痛みに気を取られ足元の石に気づくことが出来なかった。蒼来が石につまずいてよろける。貫陽はそこをすかさず狙って思いきり剣を振り下ろした。蒼来はなんとか剣で受けることができたが手は震えていた。そして遂に貫陽の剣が蒼来の剣をはじいた。蒼来の剣は蒼来の手が届かないところへ落ちた。 「これで終わりだ。影栄蒼来。何か言い残すことはあるか。」  蒼来は思いっきり貫陽を睨みつけた。月が雲に隠れて月明かりが消えていく。貫陽はにやりと笑った。 「あぁ、口がきけないんだったなあ!!」  そう言って貫陽が剣を振り下ろすと同時に蒼来は貫陽に向かって飛びかかった。まるで追い詰められた小狐のように。予想外の行動に貫陽が一瞬怯んだのを蒼来は見逃さなかった。  蒼来は貫陽の喉元に思いっきり噛みついた。    ガブッ!!   「ぐああ!」  貫陽は喉を突き刺されたような痛みに悲鳴をあげた。貫陽の剣が手から落ちる。それが地面に落ちきる前に蒼来は貫陽の剣を掴んだ。そしてその剣で貫陽の両手を切り落とした。 「うわあああ!手が!手がぁ!!」  蒼来の心臓は強く脈打っていた。息も切れていた。口の周りは貫陽の血で塗れていた。はぁはぁと蒼来は呼吸を繰り返しながらやっと我に返ると、自分の剣を腰に差し、愛馬に乗ってアヤメのいる羅山へと向かったのだった。  九    蒼来が羅山に着く頃には、もう兵士達がアヤメとスーを探して羅山の中を歩き回っていた。蒼来は馬から降りると兵士の目をかいくぐって羅山の中へ入っていった。蒼来は鳳来が全て焼き払うと口にしていたことを思い出した。  ➖急がないと。父上が山に火をつけるのも時間の問題だ。➖  蒼来はアヤメに気づいてもらうために笛を吹き始めた。兵士達はアヤメ達を探すのに夢中で笛の音など気にしている暇はないようだった。美しい音色だった。蒼来はアヤメの無事だけを願っていた。その思いを乗せて、笛の音は切なく悲しく羅山に響いていた。  アヤメははっとして顔をあげた。まさかこんな時に蒼来の笛の音が聞こえるはずがない。しかし明らかに笛の美しい音色が山に響いていた。 「スー。大丈夫か。」  アヤメがおぶっているのは腹から血を流したスーだった。  突然影栄氏の軍が家にやってきて扉を開けたスーを剣で刺したのだ。アヤメは玄関の灯りを急いで消し、灯りが消えて一瞬兵士が怯んだ隙にスーをおぶって家の裏口から逃げ出してきたのだ。  スーは出血が酷く、急いで手当てをしなければならなかった。アヤメはスーを草陰に寝かせた。 「ちょっと待っててくれるか。友達が来てるみたいなんだ。」  アヤメは兵士に気付かれないように木に登って、木と木をつたって蒼来の元へ向かった。   「蒼来!」  蒼来はその声を聞いて泣きそうになった。アヤメが木の上から飛び降りたところで、蒼来は思いっきりアヤメを抱きしめた。  アヤメは目をぱちくりとさせながらも優しく抱きしめ返した。そして二人はお互いを見つめた。二人とも話したいことがたくさんあるという顔をしていた。 「蒼来。いろいろ話したいことはあるんだけどとにかくスーが危ないんだ。影栄氏の兵士に腹を刺されて出血が止まらない。」  蒼来はわずかな月明かりを頼りに手帳に伝えたいことを書いた。 (ここから三人で逃げよう。影栄氏は君達を殺そうとしている。最悪羅山を焼き払うつもりだ。)  アヤメはなんとかその文章を読み終えると青ざめた顔をした。  「そんな!俺たちは何もしていない!ただ静かにここで暮らしていただけだ!そもそもどうして蒼来はそんなことを知ってるんだ?」  アヤメは怒りと困惑とが混ざり合った表情をしていた。そんな顔すら美しいと蒼来は思った。蒼来は手帳に再びペンを走らせた。 (僕は影栄氏の王子なんだ)  アヤメは目を見開いた。そして何か言おうとしたが、近くに影栄氏の兵士がいることに気づいて声をひそめて言った。 「とにかく話は後だ。スーを連れて三人で逃げるんだろ?スーのところに案内するからついてこい。」  蒼来は頷くとアヤメに続いて走り出した。   「スー、友達を連れてきた。これがびっくり影栄氏の王子だとさ。」  アヤメは少し嫌味っぽく言った。無理もないと蒼来は思った。スーは蒼来が思っていたより重症だった。服はもう血の色で真っ赤に染まっていて何色だったのかわからない。スーは影栄氏の王子という言葉にゆっくりと顔を上げた。 「そう…あなたが…大きくなったわね…」  スーは苦しそうに言った。アヤメはスーを心配しながらも不思議そうに言った。 「スーどういうこと?蒼来を知ってるの?」  スーはアヤメの顔を見て微笑んだ。優しい微笑みだった。蒼来は何故か母親のことを思い出した。その時だった。煙の匂いがしたのだ。アヤメも蒼来もそれに気づいた。もう時間がないことを二人は悟った。 「はやく逃げなきゃ。火がついたなら大鳥川に逃げた方がいい。ススキ野原は火がうつるかもしれないから。」  アヤメがそこまで言った時スーが激しく咳き込んだ。そして大量の血反吐を吐いた。 「スー!」  アヤメは急いでスーに駆け寄った。蒼来もスーの前にかがんだ。  スーは息も絶え絶えに話し出した。 「私を置いて二人で逃げなさい。私はもう足手まといにしかならない。二人なら逃げ切れるわ。」 「嫌だ!」  アヤメが間髪いれずに叫んだ。  スーが懇願するように言った。 「アヤメ。これは私の最後のお願いよ。聞けるわね?」 「絶対聞かない。俺は今までスーのお願い全部聞いてきた。山から一度も下りてないし、難しい魔術の本も全部読んだ。一回くらい聞かなくったっていいだろ!」  スーは心底悲しそうに、そして愛おしそうにアヤメのことを見て、その白い髪に指を通した。 「そうね…あなたは本当にいい子だった。私の自慢の子よ。お願いごとばかりでごめんなさいね。」  アヤメは泣いていた。アヤメは賢かった。もうスーが助からないことをわかっていた。スーは蒼来に目をやった。 「最後に謝らなくてはならないことがあるの。あなたにもね。」  蒼来は必死に耳を傾けた。 「蒼来というのね。私は昔あなたのお父様に頼まれて、あなた達の瞳を魔術を用いて交換したの。虹色の眼の子はこの国を滅ぼすと言われていたから、お父様も必死だったんでしょうね。私も脅されてたとはいえあなた達の人生をめちゃくちゃにしてしまったことは確かよ。」  スーはそこまで言って大きく息を吸った。 「だからね、私がここで死ぬのは、天罰なのよ。」  スーはまた激しく咳き込んだ。血がスーの口から溢れる。 「そんなの知るか!俺はスーと生きていきたいんだ!絶対一緒に逃げる!」  アヤメはぼろぼろと泣いていた。どこか悔しそうだった。スーはアヤメの方に向き直って言った。 「アヤメ…ごめんなさい。愛してる。」  それがスーの最後の言葉だった。 「スー…?スー!」  スーはもう動かなかった。蒼来は何もできずに立ち尽くしていた。だが近くの木が既に燃えているのに気付き、アヤメの手を引いた。アヤメがスーの側から離れたがらなかったので、蒼来は無理矢理アヤメを引っ張って走り出した。気づかないうちに辺りは火の海になっていた。  ➖熱い…➖  蒼来の額からは汗が止まらなかった。アヤメも汗だくだった。二人は必死に走った。大鳥川まではあと少しだった。 「いたぞ!あそこだ!」  蒼来ははっとした。右斜め後方に一人の兵士がいた。蒼来達を見つけたようだった。  ➖まずい。急がないと…➖  蒼来はアヤメの手を強く握り直した。するとアヤメが前に出て蒼来の手を引く形で走り出した。 「近道を知ってる。」  アヤメは簡潔に言うと一見するとただの茂みに見える低木林の中へ飛び込んだ。蒼来も引っ張られて中に入った。すると中はトンネルのようになっていた。四つん這いでやっと通れるくらいの高さだったがここを通ればすぐには見つからないだろう。二人は四つん這いでその中を進んでいった。会話はなかった。アヤメも蒼来も突然いろんなことが起きすぎて混乱していたのだった。しばらく進むと開けた場所に出た。少し下の方に大鳥川が見えた。蒼来とアヤメは顔を見合わせて頷いた。そして大鳥川に向かって走り出した。  ➖大鳥川についたはいいが、これからどこに行こう…➖  蒼来は焦った。恐らくもうしばらくすれば大鳥川にも兵士がやってくるだろう。そうなれば、アヤメは殺されてしまう。蒼来が思案していると、アヤメが口を開いた。 「蒼来。俺はあれに乗る。」  蒼来はアヤメが指差した方向を見た。そこには元居た地から次の町へ移動する物売りが船を漕いでいた。物売りの中には夜に移動して朝市で商売をする者もいるので多分その類だろう。 「お前はどうする。」  アヤメは真剣な表情で蒼来に問うた。  「お前は、まだ戻れるぞ。」  アヤメは蒼来をじっと見つめた。蒼来は綺麗な瞳だと思った。暗がりでも美しく光る虹色の瞳。この国にとっては忌まわしい色の瞳。本当は自分が背負うはずだった瞳。蒼来はこの国のことを思った。戦争に苦しむ民。それをなんとも思わない王。血の繋がらない父親。愛する人を裏切った母親。くだらない予言に振り回される人々。  蒼来はもう信じれるものが思いつかなかったのだ。目の前にいるこの真っ直ぐな美しい少年以外は。この夜は蒼来にとって忘れられない夜になるだろう。今まで信じたものが崩れ去り、たった一つだけ残った夜だ。蒼来は手帳を開いた。そこに力強い字で記した。 (僕も行く)  今夜、二人の少年は手を取り合い、大鳥川へと姿を消した。

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餓狼の笛 第一章 交換