静寂
3 件の小説『明けない夜を_』
夕方六時、夏はいつも嘘をつく。 もうすぐ夜になる顔をしながら、全然暗くならない。 アスファルトは昼の熱を残したままで、サンダル越しにじんわり伝わってくる。 自販機の横で立ち止まって、私は炭酸を一本買った。 開けた瞬間の音がやけに大きくて、世界が一瞬だけ静かになる。 君は少し遅れてきた。 白いTシャツ、汗、いつもと同じなのに、なぜか今日だけ違って見えた。 「夏、終わりそうだね」 君がそう言って笑う。 終わりそう、じゃなくて、もう終わるって気づいてる目だった。 川沿いを歩いた。 言葉は少なくて、その代わりに風と蝉の声がうるさかった。 手が触れそうで、触れなくて、その距離が一番残酷だった。 花火の音が遠くで鳴った。 見えない花火ほど、胸に残る。 私は言えなかった。 この夏が好きだったことも、 君の横にいる時間が、来年はもうないかもしれないことも。 夜にならないまま、時間だけが進む。 夕焼けが薄れて、君の輪郭が少しずつ曖昧になる。 別れ際、君は振り返って言った。 「またね」 その言葉が、約束なのか、さよならなのか、 私は最後までわからなかった。 炭酸はとっくに抜けていて、 それでも喉の奥だけが、ずっと痛かった。 夏は、何も奪わない顔をして、 一番大切なものを連れていく。 そしてまた来年、 同じ暑さの中で、私は今日を思い出す。 まだ夜にならないで、って願いながら。
記憶の片隅
町の片隅に、毎晩同じ時間だけ灯る小さな喫茶店があった。 閉店間際、決まって彼女はそこに来る。 彼女は、少しずつ“忘れられていく人”だった。 家族にも、友達にも、過去の恋にも。 理由は誰にもわからない。ただ、時間と一緒に、存在の輪郭が薄れていくだけ。 ある夜、彼女は店員の青年に言う。 「ねえ、私のこと、まだ覚えてる?」 青年は少し困った顔で笑って、 「もちろん。君はいつも窓際に座って、ミルクを入れないコーヒーを頼む」 その言葉に、彼女はほっとする。 “まだ、ここにいていいんだ”と。 二人は特別な約束も、恋の言葉も交わさない。 ただ、同じ夜を静かに分け合うだけ。 それだけで、彼女の世界は少しだけ明るくなる。 でも、ある日。 彼女がいつもの時間に店を訪れても、青年は首をかしげた。 「…すみません、初めてですよね?」 その瞬間、彼女は悟る。 自分がこの世界から消え始めていることを。 彼女は微笑んで、最後の注文をする。 「じゃあ、今日も同じので」 青年は頷き、コーヒーを差し出す。 なぜか胸が苦しくなりながら。 店を出る前、彼女は振り返る。 「ねえ、あなたが誰かを忘れそうになったら、 その人は、きっとちゃんと生きてたって思ってあげて」 青年はその言葉の意味を、後から何度も思い出す。 もう二度と会えない“誰か”として。 翌日から、窓際の席はずっと空いたまま。 でも、青年は毎晩そこを拭く。 理由はわからない。ただ、忘れてはいけない気がして。 そして彼女は、誰の記憶にも残らない場所で、 「誰かに覚えてもらえた時間」を いちばん大切な思い出として抱きしめている。
生きる音
毎日ちゃんと起きて、 ちゃんと外に出て、 ちゃんと笑ってる。 だから誰にも、 「大丈夫?」なんて聞かれない。 別に不幸じゃない。 でも幸せかって聞かれると、 少し答えに困る。 夜、ひとりになると、 急に世界の音が大きくなる。 時計の針、冷蔵庫の音、 自分の呼吸。 「あ、今日も終わった」 それだけなのに、 胸が少し苦しくなる。 頑張れなかった日も、 頑張りすぎた日も、 同じ速さで朝は来る。 逃げたいわけじゃない。 やめたいわけでもない。 ただ、 一日くらい 「よく生きたね」って 言ってほしいだけ。 布団の中で、 誰にも見せない顔のまま、 少しだけ泣く。 それでも明日、 また同じように起きて、 同じように生きる。 そんな人が、 この世界には思ってるより多い。