にょ

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にょ

花盗人

また、入院することになった。 もう慣れているからなんとも思わない。ただ、またかという諦めにも似た感情が一瞬胸の内をよぎっただけ。別に死にそうなほど病状が重いというわけでもなくて、昔から喘息が少し、ひどいだけ。    見慣れた病院に帰ってきて、見慣れた同じようなベッドで眠り、見慣れた病室で味の薄い食べ慣れた食事を摂る。こうやって入退院を繰り返して、変わらぬローテーションを繰り返して、そうして死ぬのかと思うとつまらない人生だなと思う。  入院から何日か経つと、高校のクラスの人からお見舞いの言葉を連ねた色紙が届いた。ざっと一面を目でなぞって、ごみ箱に捨てた。 「あの…」 突然に、隣から声をかけられて心臓が跳ねる。 僕の部屋は個室ではない。当然他の人もいるわけで、カーテンを閉めなければこちらの行為など丸見えだ。 「それ、捨てちゃっていいんですか?」 「え…あ、はい」 予想外の質問に一瞬反応が遅れる。そして、関係ないだろうとも思う。 「でも、お見舞いの色紙でしょ?せっかく書いてくれたのに…」 ああ、と心の中で呟く。この人は恵まれている人なのだ。だからそんなことを無責任に言える。 「自分には不要だったので」 正直、色紙なんてくだらない。思ってもないことを上っ面だけ綺麗に整えて書かれた言葉たちはみんな似たり寄ったりだ。特別目立つわけでもない、休みがちなクラスメイトにかける言葉なんてそんなものだ。だから、僕も表面だけをなぞる。 (自分の保身のために?) そしてそんな色紙などいつかは捨てるのだから、今捨てようがただ捨てる時間が早まっただけのことだ。責められる筋合いはない。 「そうですか…」 その人は寂しそうな笑顔で「すみません、変なこと言っちゃって」と頭を下げた。  夜になって、消灯時間がやってくる。ベッドの中で目を閉じてみるが、すぐには眠れない。 (このまま死んだらどうしよう) 死は平等に訪れる。時期は不平等だが。 (目を瞑って、そのまま明日を迎えられなかったら?) どうせ死ぬのだから早かろうが遅かろうが関係ない。 (こわい) だから、怖くない。 急な発作が起きたって……たとえ死んだってこの嫌な世界と別れを告げることができるなら。 ……眠れない。  翌日。朝から大雨が降り続いていた。窓に暴力的な雨粒があたって激しい音をたてていた。そういえば、隣の人は高瀬さん、というらしい。看護師さんが名前を呼んでいてやっとわかった。 そんな高瀬さんに、お昼頃女性が訪ねてきた。 「…ありがとう、母さん」 ふときこえてきた高瀬さんの声に、女性が母親だったことを知る。それにしては、カーテン越しにきこえる会話はひどく事務的な内容だった。 女性が去ったあと、好奇心に駆られて少し高瀬さんのほうを見てみると、どこか虚ろな目で病室のドアを見つめていた。僕はいけないものを見てしまったような気になって目をそらす直前、高瀬さんの口がかすかに動いた。その声は、雨音にかき消された。  僕は退屈になると、ときどき絵を描いていたのだが、その絵を見た看護師さんが素晴らしい絵だと言って病院に飾ることになった。なんとなく思いついて桜の絵を描いてしまったが今では季節外れなこともあって少し気恥ずかしい。見舞いにきてくれた母が廊下でその絵を見てやや興奮気味に褒めてくれた。 「絵、すごいですね」 検査から帰ってきたらしい高瀬さんも見たらしい。 「あ、ありがとうございます。でも季節外れでなんか気恥ずかしいというか」 「逆にいつでも桜を楽しめるからとてもうれしいです」 高瀬さんがそう微笑んでくれた。 「…実は、もし、よくなったら、フランスに行きたいんです」 あまりにも話が唐突すぎて、言葉を理解するのに数秒かかった。 「……ふらんす。ああ、フランス」 高瀬さんは話が飛躍しやすい人なのだろうか。 「フランスにも桜はあるんですかね」 どうだろう。アメリカにはあるんだから、フランスにもあるんじゃないか。 「…どうして、フランスに行きたいんですか?」 「父がフランスにいるんです。本当は家族で移住する予定だったんですが」 高瀬さんは眉を下げて笑う。この人は記憶の中でいつも笑っている。 (絶やすまいとしている) 「……フランスに行くことになったら、桜の絵を描きましょうか」 高瀬さんの目が見開かれる。一瞬、笑みが途切れる。 「なくても、困らないように」 そうして、高瀬さんはやっと笑ってくれた。 「きっと大切にします」  しばらくして、僕の退院の日が決定した。もう少しでまたしばらくこの病院ともお別れである。そうしてまた学校に通い、また病院に戻ってきて、それらを繰り返し続けるのだろう。そうやって日常を繰り返して日常を守っている。  高瀬さんはここのところしばらく体調がよくないらしい。カーテンはずっと閉じられたままだし、前よりもさらに話すことはなくなった。  その日は、本当に久しぶりに高瀬さんと話した日だった。 「突然、変なことを言うようですが…」 「…はい?」 「君は、幸せですか?」 不意を突かれたような気持ちだった。幸せ。何をもって幸せといえばいいのだろう。多分、僕よりも辛くて大変な日々をおくっている人は世の中に溢れるほどいるのだろう。その人たちと比べれば僕はとても幸せなのだろう。  それでも、幸せを「今に満足しているか」で定義するなら僕は少なくとも幸せではないかもしれない。この日常に満足はできていない。 「私は幸せでした」 高瀬さんがどこか遠くを見つめながらそう言った。 「欲はとめどなく溢れて日々が不満ばかりで、いつも何かが足りなくて、もっと話してみたかった人がいて、それでも、私は幸せだったなと思います」 なんて答えるのが正解かわからなかった。僕には、高瀬さんをただ見つめることしかできなかった。  それから数日後だった。高瀬さんがこの世を去ったのは。  人が死ぬのはあっという間だった。ついこの前まで話していた人間がもうこの世には存在せず、肉体だけを置き去りにどこかへと消えてしまう。僕は何度か、高瀬さんが死ぬところを想像した。何があっても動いていた心臓が止まる。冷たい電子音が響く。常に上下していた胸が動かなくなる。幸せだったと言った口は、酸素を吸っていた口は冷たくなって、血の気はなくなって、温かみがあった体は触ると人間の体のような感触がしなくなっていて、どこかぶよぶよしている。高瀬さんという人格はいなくなって人間の形だけが、ただそこにある。  ひどく不思議な気分だった。悲しいかと言われると違う。高瀬さんはもう二度と同じ空気を吸うこともなく、この世界のどこを探しても見つからないと思うと現実から乖離したようなふわふわしたような、不思議な気分になる。    退院の日。高瀬さんがいなくなっても僕は変わらず過ごしていた。そして、これからも。    桜が、咲いていた。病院の敷地に植えられた桜はひっそりと花弁を散らせていた。風が花弁を揺らし、花弁が地に落ちて、僕はそっと、少しだけ桜の枝を手折った。やってしまってから、かすかな罪悪感を覚える。周りには誰もいなかったことを確認してから、桜の木になんとなく謝る。この桜の枝を僕は孤独にしてしまったのだ。この木は、これから枯れゆく枝を置いてけぼりにして、折れた断面からまた新しい命が芽吹くのだろう。  以前の病室に向かう。高瀬さんが横たえていたベッドはもう誰もいなかった。高瀬さんのものも、もう何もなかった。窓際の埃が舞い上がって、きらきらと柔らかな光を振り撒いている。固いベッドの上に先ほどの桜をそっと供える。  人には、二度「死」が訪れるという。一度目は肉体の死。二度目は忘れ去られる死。  それならば、僕はあなたを忘れない。そうしてあなたはいつかフランスへ行って、僕はあなたに絵を描こう。 (僕のことを、誰が覚えてくれるだろうか) 僕のことを覚えてくれる人がいなくても、これからも刺激のない退屈な日常を過ごすとしても、何も成すこともなく肉体が朽ちるとしても。    僕が忘れなければ、高瀬さんの人格は残り続けるとしたら。僕が忘れなければ、あなたの言葉の意味もいつかわかる日がくるのだろうか。つまらない人生に一滴でも、意味を見出してくれるだろうか。そうして幸せに、救われる日はいつか訪れるのだろうか。  

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