やぁぎ

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やぁぎ

記録のようなものです。 色んな書き方をします。

私が矛を手に取るまで

表紙のくすんだアルバムに見慣れた顔がひとつあった。そして、少しばかり視線をずらした先に、見慣れた笑顔がまたひとつあった。それを勿体ぶることなく満開に咲かせ、並びのいい白い歯を覗かせて、幼気な女の子のように無邪気な、それでもどこか大人びた目をして此方を見ている。今思えば彼女はきっと道化者だった。 20年前、まだ私が小さかった頃の話。私は母親の影響もあって人の仕草一つ一つに敏感で臆病な子供だった。机を指で叩く音、食器を持って振りかぶる動作、視線を交わした際の溜息。その全てが悪夢の始まりを知らせる合図だった。若くして母の非情さを悟り、諦めた私は敏感で臆病な自身の存在を、人生への期待を心の押し入れに閉じ込めて頑丈に封をした。しかし母には好都合だったようで、鬱憤晴らしのために存在する人形の如く私を扱った。私の服の下には青紫の模様がいつも描かれていた。言うまでもなく母親によって描かれたものだった。 今から17年前の春。両親が命を絶った。当時の記憶は幾重にも霞み、残っている記憶は川に流されるように叔母の元へと身を預けられたことだけで、そして何より私の生活は以前と「変わらないもの」だった。四季のある日本で1年中袖の長い服を着ていたのは学校全体を見渡しても私だけだった。バツが悪そうに服を手渡す父親の顔は、今でも鮮明なまま記憶の箱に残っている。 彼女と出会ったのはそれからのことだった。小学3年生の春。ほとんどが赤いランドセルを背負っている中、彼女は一人春に映える桃色のランドセルを背中で輝かせていた。転校生ということもあって周りは皆羨ましがり、単純な頭しか持ち合わせないあの頃はきっと、そんなことで憧れの対象が決まっていた。その注目の的は、誰にでも分け隔てなく持ち前の優しさを見返り求めず配り歩くような、健気で愛らしい子だった。嫉妬や羨望を寄せ付けないほど、完璧に出来上がった人間だった。 変わり者と避けられ、友達のいなかった私がそれほどにも人気者の彼女と過ごすようになったきっかけは覚えていない。隣の席になったことが発端か、明確には分からずとも私たちにはどこか通じ合うものがあったということ、それはきっと、きっと事実だろう。 私が彼女に異様な感情を抱き始めたのは中学に上がったばかりの頃。彼女があの綺麗な顔に正義の傷を負った時だった。私を庇ったがために出来た哀れな傷だった。私と彼女の仲睦まじい様を見て腹を立てた同級生の女の仕業で、凶器は安っぽいカッターだった。その汚らわしい女は、私を脅すはずだった凶器に大好きな彼女の血が塗られていることに戸惑いと恐怖を隠せない様子で、その凶器を落として逃げていった。陶器のように隙のない頬から鮮やかな紅色が浮かび出すその瞬間、まだ幼い彼女が耐えきれず漏らした弱々しく呻吟する声。その声は私にとって何よりも魅惑的なものだった。刺激のない無聊な日々に舞い降りた神様からの贈り物で間違いなかった。 その瞬間を境に、私の心の押し入れは少しずつ開き、人生への期待を取り戻してしまった。不本意にも、悶え呻く声に高揚する人間がこの世には少なからず存在するという事実を知った上で、それを自ら喚起させるような屈辱を味わうことに耐えられなかった。これがただの思い込みか、はたまた事実なのかは、今のところ叔母本人にしか分からない。 しかしまた同刻を境に、彼女の見せる屈託のない純粋な笑顔は、無造作に作られた突発の仮面だということを、彼女が瞳に映り込む度に思い知ることになった。はじめから分かっていたのかもしれない。けれど何処かで期待していた。彼女だけは違って欲しいと期待を胸に秘め、彼女の笑顔は本物だとそう信じていた。頬に伝う紅色の液体が、天に向かって弧を描く彼女の口角を彩るまでは。 両親がこの世を去るよりも前から、私は人の笑顔が苦手だった。苦手だと称するよりも好きになれないと形容する方が正しいのかも知れない。笑顔は人間の汚染された心そのもので、誰でもその気になれば容易く作り出すことの出来る、何の価値もないもの。ただ自分を守るための盾にすぎないのだから。勇者のような強い存在ですら、盾を壊した先に本当の価値があるのだから。そしてまた彼女も例外ではなかった。あの一見清らかで、誰かの心をきゅっと痛めつけては奪い去るような矛らしい笑顔は、結局ただの盾にすぎなかった。本物の笑顔なんてものはやはり存在しないのかもしれない。造りもので紛いもの。分け隔てない優しさも、見返りはその先にある周りからの評価だったのかもしれない。あの頃、あの女に大丈夫だよと言って見せた笑顔がそれを仄めかしていた。 母親がよく口ずさんでいた言葉がある。 “何かを捨てなければ何も得られないでしょう”。 人間らしい心を捨てて快楽を得て、羞恥を捨てて金を得て、そして命を捨てて、母は何を得たのだろうか。けれど、私は理解した。彼女を見て漸く理解した。あの出来事以降、私と話すときの彼女の仮面は透けて見えた。言い換えると透明の仮面を付けている彼女が見えた。しかしそれが彼女にとっては不本意なものであったことに違いない。母の言葉を信じて私は 変わらない生活 を捨てた。そして、私は 彼女 を得ることにした。 彼女を手に入れたあの日もまた、断片的な記憶しか残っていない。 卒業間近、まだ肌寒い時期だったこと。彼女が私からの告白を笑顔で承諾したこと。それから手を繋いで帰って彼女の家へ行ったこと。 今にも息絶えそうな祖母と二人暮らしだと知れたこと。 ・ ・ ・ こんがり焼けた夏の空を一瞥してから茜色の光に照らされる彼女へと視線を向けた。年季の入った手枷足枷を物ともせず、ただそこに飾られた人形のように、座らされた置物のように、そして少しばかり眩しそうに目を細めて微笑んでいた。 「いい加減仮面外しなよ。」 表情筋のひとつも働かせることなくそう告げた。年を重ねる事に段々と截然たるものへとなっていった、透明な仮面がどうにも癪に障った。大きく溜息をついて、机を弾く音で決断を急かした。それでも彼女は頑として外そうとしなかった。 「外して欲しい?」 両膝を抱えるようにして壁に寄り掛かる彼女の目を見てそう聞いた。途端に仮面にヒビが入る。彼女は血相を変えて何度何度も首を横に振った。彼女は自分が仮面を付けた人間だということを理解している。そして、彼女にとって仮面は自分を守るための盾であって矛ではない。矛は無くとも盾さえあれば生きて行けるこの世界で、盾を壊されることの恐怖はきっと、盾しか持てない彼女にとって想像に絶するものに違いない。その事実がたまらなく、たまらなく私を掻き立てた。 「そうそう!それであってるよ大正解!!」 彼女の目線に合わせるよう膝を折ってそう告げた。八方美人の彼女は少しばかり肩を跳ねさせて、そしてハッとしたように笑った。その様子に再び憤りを覚える。 私はあれから彼女を手に入れた。暫く幸せな日々を過ごした後、この仮面を取ってやりたいと強く思った。透明な仮面はすぐに色付いてしまうから、一刻も早く外してしまおうと思った。盾の先にある本当の価値を知りたかった。すぐに笑顔を作り上げる彼女の、仮面に色をのせようとする彼女の最も人間らしい部分に触れることが出来なければ、神様にも失礼でしょう? 今思えば母は、私が思うよりもずっと人間らしかったのかもしれない。母が拳を振るう時に見せた笑顔は、欲望のままに生きた母の矛らしい笑顔だった。 今思えば彼女は、私が思うよりもずっと醜い人間だったのかもしれない。私の隣にいたのも、私を庇って自身の仮面に傷を負ったということでさえ、仮面をより鮮やかに彩るための材料にすぎなかったのかもしれない。そうに違いない。 誰かに愛されたい私と誰からも愛されたい彼女。誰からも愛されなかった私と誰からも愛された彼女。そんな可哀想な私をアクセサリーとして身につけた気になって失敗した。この期に及んで尚、頑なに笑顔を崩すまいとする様を見て辟易する。誰からも愛されたいなんて贅沢考えるから、私にすら愛されようとするから、こうなったんだよ。私の前では、私の前でだけは外してくれたって良かったでしょう? 熟考して辿り着いた答えは、透明なままの仮面なんてものは存在しなかったし、今になって外せるものでもないということだった。きっと、誰もが好むような鮮やかで単純な色の仮面ではなく、色んなものが混ざり濁って汚染された色の仮面こそが矛らしく人間らしい。人間らしくていい。でも彼女は、いつまでも鮮やかな仮面を造り上げる。何度割ろうと試みても懲りずに造り上げる。憤りを見せず、まるで人間らしさを心の押し入れに閉じ込めて頑丈に封をしているかのように。窮地に立たされても尚、笑顔でいることに終止符を打たない彼女の過去には一体何があったのだろうか。一度、彼女の昔について聞いたことがあったが笑顔ではぐらかされた。悟らせまいとするような笑顔で。そう、今目に映っているようなこんな笑顔で。 「そんなに取りたくないなら私が新しく作ってあげる」 街が闇に包まれ始めた今、私は、臆病な私の代わりに矛らしい笑顔を彼女に贈った。矛も盾も持たない私の最高傑作が今出来上がった。彼女は甘美な呻き声を上げながら、縫われた口角に触れて、耐えきれず零した涙が縫い目に染み込んではまた美しく声を漏らした。そんな彼女の姿は何よりも人間らしかった。ああ、あの頃と同じ悶え喘ぐ声、嘘のない涙、歪な笑顔。盾を失った彼女はこれ程にも美しい。けれどどうも違った。まだ人間らしくはなれない。透明の仮面は取れない。未完成の仮面はまだ色を持たない。より人間らしく、私の望むままに、いいや、真の彼女を顕にしてあげなければ。踊る心と期待を傍らに、手にしたものが街灯の光に照らされ輝きを見せた。 「あ、ちょっと待っててね。」 何かを思い出したように、彼女に屈託のない笑顔を向けてはぱっと背を見せる。テーブルの上に開かれたアルバムをもう一度だけまじまじと見つめた。そしてアルバムの中に残る忌々しい彼女の仮面を一枚ずつ丁寧に切り裂き突き刺した。私には、命を捨てまでして娘の心を得た父のような、利己的な欲求の邪魔をする存在なんて居ない。 手枷から骨張った手を、足枷から弾力のない足をするりと抜き出した。既に守る術を失っていた無抵抗な彼女は、まるでおぞましいものを見るような目で私を見つめた。 「良かったね。もう頑張らなくていいんだよ。」 私は一足先に人間らしくなった。初夏の生温い風が気力を蝕むこの街に、彼女の甲高く妖艶な声がゆっくりと溶かされていく。彼女の仮面は赤褐色に染められ、ようやく人間らしくなった。

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