4 件の小説

プロポーズと氷水

 いま、目の前で二日酔いを覚ますために氷水を口に流しこむ夫を見ていたら、ふと、五年前の彼のプロポーズを思い出した。          * 「氷水と水の違いって何かわかるか?」 いつものバーのいつものカウンター席で彼が言った。 「んー、氷水は水よりも冷たいんじゃないの?」 「水って冷たくないとお湯って呼ばれるだろ。水も氷水も冷たいんだよ」 「え、じゃあ何が違うの?」 「ほとんど同じなんだ」 「え?」 「氷水っての九割九分水なんだよ。ほら、氷水って漢字見ればさ…」 そう言って彼は、さっきのレストランのレシートをポケットから取り出して、裏面に「氷水」と書いた。 「氷水って漢字から水をとってごらんよ。…ほら、たったの点しか残らない。強いて言えば、これが水と氷水の違いなんだよ」 レシートの裏面には点しか残っていない。 「じゃあ、この点はなんだと思う?」 「氷水から水をとったときに残るもの…なんだろうな…」 「“不純物”だよ。氷って100パーセント水じゃなくて、わずかに気体とかが入ってるんだ。だからこの点はその“不純物”。氷から水をとったら“不純物”しか残らないんだよ。」 彼はレシートをポケットに戻した。 「俺も氷と同じでさ、俺から君をとったら“不純物”しか残らないんだよ」 どこに忍ばせていたのか、彼は小さな、でも重厚感のあるケースを私の前に置いた。 「だからこれを受けとってほしい」 彼がケースを開けると、そこには指輪が輝いていた。 (これって、もしかして…)と思いながらも私は、「嵌めていい?」と彼に言った。本心をいうと、あなたに嵌めてほしい。 「もちろんだ」 そう言うと彼は、私の左手の薬指にその指輪を嵌めた。 「君と結婚したい」 ずっとその言葉を待っていたのに、「私も」と少し大人びた声で言い、彼を見つめた。 「ありがとう。ちなみにそれはダイヤモンドだ。少ないけど、“不純物”は入っていない。」

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プロポーズと氷水

石灰水

 ノートパソコンを閉じ、凝った首と肩を軽く回した。目は疲れているはずなのに、手が自然とスマートフォンに伸びる。  今年で四十六歳になるが、小学校の教師をしているため、流行は把握しようと心がけている。ほとんど毎日YouTubeを開き「急上昇」のタグがついた動画を観る。  「急上昇」になるチャンネルはいつも決まっている。チャンネル登録者数が一千万人を超えるトップYouTuberである。だが今日は、初めて名前を聞くYouTubeチャンネルがあった。  「シュンじゅんTV」。動画のタイトルは「【特大ドッキリ】シュンの家を海にする‼︎」だった。動画を再生する。 「どーもー!シュンじゅんティービーでーす!さて!今回はなんと、、ドッキリです‼︎」 二十代前半だろうか。少年のような元気な声が聞こえてきた。どうやらこの人がじゅんで、今からシュンの部屋を水浸しにして砂を撒くというドッキリを仕掛けるらしい。軽トラックでたくさんのバケツを運んでいる。  動画も後半となり、いよいよシュンが帰宅する。隠しカメラらしき映像に切り替わった。  シュンが帰ってきて腰を抜かした。 (ん?こいつ見覚えあるな…)    十年も前だろうか。私が担任したクラスに林駿輔という生徒がいた。控えめな子だった。  今、スマートフォンの中で怒鳴り声をあげているのが、あの林駿輔だった。  気になって、「シュンじゅんTV」のほかの動画を調べみると、人気の動画のほとんどがドッキリ企画であった。しかもすべてシュンがかけられている…    「石灰水」  そんな言葉がふと頭をよぎったのは、自分が理科の先生だからだろうか。  二時限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。次の時間は授業がないので、少し実験をすることにした。実験といっても結果は分かりきっていることだが…  石灰水を入れたビーカーを用意し、そこに息を吹き込む。ヒトは二酸化炭素を吐くので、石灰水は反応して白く濁る。    石灰水には、これしか使い道がない。  濁るだけ。  濁ることが石灰水の存在意義なのだ。  林駿輔が、ドッキリをかけられることで人気を集めている。それでしか見てもらえていない。  汚れ役である。  濁ることしかできない石灰水と同じ役割である。  小学校は運動会を間近に控えていて、六時限目は運動会の練習だった。校舎近くの影ができているところに立てるのは先生の特権だ。はつらつと動き回る生徒たちを眺める。  応援席から閉会式の並びに移動する、という練習だった。笛の音とともに五百人を超える生徒がこちらに動き出した。  そしてグラウンドに引かれた白い線に合わせて、列ごとにピタリと止まった。 白い線がなかったら難しかっただろう。               ん?白い線……  グラウンドに引かれた白い線の材料は石灰石である。  石灰石が、みんなが進むべき場所と止まるべき場所を示していた。    石灰石から白い粉となり、線として道標になる者もいれば、水と混ぜられ石灰水となり、濁ることでしか使われない者もいる。  林駿輔は水と出会ってしまったのだろうか。  先生という職業である私は、生徒たちのガイドとして、これからもグラウンドに引かれた白線であり続けなければいけない。  シュン、自分に汚れ役をすすめるような水と出会ったとしても、石灰水にならないことはできないのだろうか。    汚れてしまったとしても、道標にはなれる。          *  プリントを配り終わったと同時にチャイムが鳴った。あいさつを済ますと途端にストーブに生徒たちが吸い寄せられていく。二月の寒さは厳しい。  ひとりの女子生徒が教卓に近づいてきて、怯えるように言った。 「あ、あの、わたし、、鈴木先生みたいな、えっと、り、理科の先生になろうと思ってます。えっと、それで、、」 「がんばれよ。君ならきっといい先生になれる。」 「あ、ありがとうございます!」  嬉しい。私を目標にしてくれる子がいた。  自分という石灰石でできた道標を、辿って歩いてくれる人がいる。それだけで私は、生きていることに誇りを持てる。    

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石灰水

シャトル人間

 シャトルがラケットを弾み、ネットの上の空を切る。  シャトルの正式名称は「シャトルコック」というらしい。五年間バドミントンをやってきて、初めて知ったことに恥ずかしさを覚えていた。  「シャトル」とは「往復する」という意味らしい。だから、私の大嫌いな競技「シャトルラン」にも、あの宇宙船「スペースシャトル」にも「シャトル」という言葉が使われているのだそうだ。  そういった意味では、私は「シャトル人間」なのかな、と柄にもなく考えたりしていた。  私は毎日、天国と地獄を「往復」している。  高校にいるときはまるで天国のように楽しい。二年間通い続けていても、友達との話題は尽きないし、楽しみもなくならない。学校にいれば“孤独”を一切感じることはない。  だが私は毎日、地獄に向かわなければならない。  帰路の友達との別れ道を過ぎると、もう“孤独”を感じてしまう。私は“孤独”にめっぽう弱い。  家には誰もいない。父親は数年前に他界していて、母親はほとんど一日中働いている。勤務時間は昼の十二時から朝の七時までだった。一人で私を育てるために、いくつもの仕事を掛け持ちしてくれている。  空っぽの家の玄関を開け、誰もいないとわかっているのに、少し明るく「ただいま」と言う。もちろん、声が返ってくるわけはない。  寂しい。“孤独”が辛い。でも、がんばって耐える。  明日また、天国に行くために。    楽しいことがあるから辛いことだって耐えられる。    熱気に包まれた体育館の中、私は今日もラケットを振る。  シャトルコックがネットに引っかかって落ちた。  このシャトルコックが落ちたのは天国かな、地獄かな。  天国だったら、もちろん幸せだろう。でも、地獄だからといって不幸なわけでわない。  辛いときが長いほど、楽しいときがより楽しくなる。  わたしたちは天国と地獄を往復してる「シャトル人間」なんだから、ネットに引っかかって地獄に少し長くいることになっても大丈夫。    きっとまた、天国に帰ってこれる。  

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シャトル人間

目撃者の目撃者

 俺はアイツに憎しみを抱いていた。  だから、たった今見た光景をアイツを陥れる為に使ってやろう、と咄嗟にひらめいた。我ながらいいアイデアだと思った。  「アイツ」とは同じ会社に勤めていて、出会いは十三年前だった。大学に入って最初にできた友だちで、卒業してからも仲良くしてたのだが、 「お金貸してくんね?」 去年の秋、そう言われた。貸せない額でもなかったので、「返せよ」と軽く念を押して貸した。それが良くなかったのだ。  一ヶ月も経たないうちに倍以上の額を要求された。それが今までに数回続いたある日、俺の数十万円が一銭も返されていないことを追及すると、「当たればまとめて返せるから」と彼は言った。  俺の“貢ぎ”が彼のギャンブルに吸い込まれていたことを知ったのはこれがきっかけだった。憎しみが芽を出したのもこれがきっかけだった。  彼のことを「アイツ」と呼び始めて三週間程経った、今日の昼下がりの外は気持ちがいいくらいに晴れていた。  大学時代の名残りで今も二人は同じアパートに住んでいる。俺の部屋の左下にアイツはいる。  洗濯物を干そうとベランダに出た。ふと左下に目をやると、タバコをふかしているアイツがいた。 (ギャンブルにタバコ。落ちるとこまで 落ちたな)。あいつのボサボサの髪を見ながらそんなことを思ってた。  洗濯物も干し終わり、アイツを見下していた。(アイツ、ずっと同じとこ見てるな)。視線の先は向かいのアパートの屋上だった。そこに誰かが立っている。見覚えがある気がして、記憶を辿っていった。  南山孝。向かいのアパートの屋上に立つ男の名だ。高校時代の同級生で、確か連絡先も携帯電話に残っている。  アイツはなぜ知らないであろう南山を見ているのか。それとも、ただ虚空を見つめているだけなのだろうか。  と、その時。南山の体が宙に堕ちた。瞬間に、凄まじく嫌な音が響いた。肉がアスファルトに打ちつけられた音。  無意識のうちに俺は部屋の中に入っていた。カーテンを閉めて。  数分後、サイレンが街を包んだ。    南山孝という旧友の自殺。  旧友の自殺の目撃者。  これは罪になるのだろうか?  南山の連絡先をどうするかを迷った。が、自殺した瞬間に削除された連絡先、というのは怪しいと思い、そのままにしておくことにした。    そのときだった。アイツを陥れるためのいいアイデアが思いついたのは……  「お前、今見てただろ」 俺はアイツに電話をかけた。 「なんのことだ?」 「とぼけんな、向かいのアパート見てただろ。南山孝が飛び降りたとき」 「あぁ、それがどうした」 「見てたけど通報しなかった。それって罪じゃないか?」 「………」 あいつは言葉を失っていた。順調だ。 「お前が南山の自殺の瞬間を見てたってことを、俺が警察に言ったらどうなるか」 「…」 「わかるよな?」 「……あぁ。言わないでくれ、お願いだ。」 「お願い?何回目だ。今までお前に何万くれてやったと思ってる」 「それはすまなかった。返すから、もう少しだけ待ってくれ」 「いや、金はいい」 「えっ」 「秘密を警察にバラされたくなかったら、俺の命令をすべて実行してもらう。金の分も、だ。」 「金は本当にいいのか?」 うまくいってる。アイツは乗り気になっている。 「あぁ。命令を聞くだけでいい。」 「本当か。警察には俺が見てたってこと、黙っててくれるんだろうな?」 「あぁ」 「じゃあその交渉、乗らせてもらう。さっそくだが、命令ってなんだ?」 「それは明日伝える」 うまくいった。これでアイツの人生を台無しにすることができる。自殺の瞬間を見てたって別に罪にはならないのに。チキンなヤツだ、笑えてくる。  さぁて、どういじめてやろうか。どんな命令がいいか。ベッドの上でアイツを陥れることに想像をかきたてていたとき、  ピーンポーン。   家のチャイムが鳴った。  「警察ですが」  体じゅうの血の巡りが十倍速くなったような気がした。落ち着け。大丈夫だ。事情を聞きに来ただけなんだ。    恐る恐る、でも心情が悟られないように、扉を開いた。 「すいません、警察ですが。いま、向かいのアパートで投身自殺があったのご存知ですよね。」  ご存じ“ですよね”? 「差し支えなければ、携帯電話の連絡先なんか見せてもらえますかね」  なぜだ?なぜ知っている?ここは見せた方がいいのか?  大丈夫だ。連絡先を知っているってだけだ。ここはとりあえず、自然と。 「あぁ、ありましたね、この人です。南山さん。失礼ですが、この人とはどういうご関係で?」 「高校時代の同級生です」 「そうなんですか。連絡先を持っている高校時代の同級生が自殺する瞬間を見ていて、止めようともしなかったし、警察に通報しようともしなかったんですね。」  なぜ、俺が自殺の瞬間を見てたことがわかるんだ? 「すいませんね。このアパートの住人から、あなたが自殺の瞬間を見てたって言ってる人がいてねー」  アイツか?アイツが言ったのか! 「その人は自殺した人を知らなくて通報する勇気がなかったって言ってるんですけど、あなたは自殺した人を知ってたわけですよね?」  アイツ… 「しかも、その人は素直に警察に教えてくれたんですが、あなたは今まで何を?」 あぁ、もう終わりかもしれない。 「すいませんが、詳しくお話を」  そういって俺は二人はの警察に連れられ、パトカーに乗り込んだ。  アイツにしてやられた。俺が屋上に立つ男の名前を言ったから、“俺が知ってる人”と気づいたのだろう。きっとこれは裁かれはしないが、これからの俺の社会的地位や周りからの目がどんなになるか…  アイツは「素直で真面目」という評価を受けて、俺は「嘘つき」というレッテルを貼られるのだろう。    冷静に考えればわかることだった。  自殺の目撃者の目撃者は、自殺の目撃者なのだ。  一歩遠いところに立っているわけでわなく、目撃者と全く同じ立場なのだ。          

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目撃者の目撃者