den龍
3 件の小説低俗の欲
久々に集まった面々は懐かしさもあったがどこか新鮮で 各々の歳を感じさせる風格に、切なさを感じずにはいられなかった。 特に彼女には。 知りたくはなかった事実が、暖色の空気の隙間から淡々と語られ 談笑として飽和していったが、僕は気が気ではなかった。 なんのことはない、たゞたんに僕は身勝手なだけだった。 彼女にはそれはなし得ないと心の中で馬鹿にしていたのだ。 いつまでも上下を保ちたかったのだ。 気がつくと周りは僕よりも果敢な経験を積んでいる人ばかりだった。 僕は一人取り残されていた。 本当は分かっていた。 彼女はそうだろうと。 一目見た時から、彼女は綺麗だった。 その姿で全て分かっていた。 分かっていたはずなのに、僕は孤独になるのが怖かった。 認めるのがひどく辛かった。 あろうことか、同情で関心を惹こうとさえもしていたのだ。 度し難い低脳だ。 それでも、僕は 彼女を愛していた。 都合良くむせび返す食道に救われて、本心を悟られずにすんだ。 そのまま床に着き省みる思いは今更のことではなかった。 哀れで、愚かな独身が 女々しくも他者の不幸を願った罪を、布団の中で懺悔する。 十数年。 こんなことを繰り返してきた。 今はたゞ 一人伏してこの欲を供養するに徹する。 明日も寒いのだろうか。
存えの樹 第二話 娘の行先
静の薬の処方が済んで家に戻った栄治は、一連の出来事を思い出していた。 「朝早く聞こえるの…鈴の音が」 静は儚しげに話し出した。 必ず朝方に聞こえる鈴の音で目を覚まし、段々と遠ざかっていく音をたゞ聞いているという。 静も気にはなっているが、体が弱いので外に出て様子を見に行くことが出来ない。 「…多分物売りの鈴じゃないかな? たまにこの辺りを通るし、もうすぐ穫納際の時期だから。屋台の仕入れで来てるのかもしれないな。」 「そうかな…」 栄治はそれから静に薬を渡すとすぐに それじゃ、と部屋を出ていった。 今朝方、自分もその鈴の音を聞いたことは静には話さなかった。 その鈴の正体である娘のことや、あの社のことも。あの樹のことも・・・ これ以上余計な心配をかけさせたくないという思いがあったし、 なにか嫌に不穏な気がしていたからだ。 特にあの娘は不思議だった。 この辺でも見たことがなかったし、随分と古い着物を拵えていた。 考えてみたら、そもそも早朝に子供一人で出掛けることがあるだろうか。 はじめは狐にでも化かされたのかと思う程だったので、馬鹿馬鹿しいとすぐには納得しなかった。 だが姿は見ていないとはいえ、静も同様に朝方にあの鈴の音を聞いていたという事実が、益々栄治の脳裏にあの娘ことを彷彿させていた。 いくら考えていても答えなどではしなかったので、仕方無しに仕事に移る。 薬の在庫を確認して少なければ調合し、袋に詰め薬箪笥へ収める。 このあたりも年寄りが多くなったのもあって、医者と同じくらいに薬を求める人が多い。 やれ手足が荒れてたまらんといったことから、咳が止まらんとか熱が下がらんといったことまで栄治のやることは幅広かった。 そこへしばらくすると 「おい、ひで!」 玄関先から声がした。 「はーい」 返事をしながら玄関へかけて行くと、道向かいに住む杵次(きねじ)こと杵爺(きねじい)が米袋いっぱいの柿を持って地面によいこらせと下ろすところだった。 「すごいなこりゃ。杵さん、どうしたんだいこれ。」 「今裏山から柿とってきたんだ。俺一人じゃこんなに食いきれねぇから持ってきた。」 「こんなにいいのかい?」 「いいのいいの。こんでもさっき里見さんとこへおいてきたんだぁ。これの半分くらいだけど、確かあそこの嬢ちゃん柿好きなんだろ?」 確かに柿は栄養価が高いので、静のように体の弱い子にはうってつけだ。 杵爺はこの村に居て長い。普段は作物を作っては街へ卸に行って収入を得ている。何でも時給自足で生活できるし、その節になれば松茸や栗、柿といった自然物を取りに外へよく出かけているので、どこの誰がどこに住んでる誰それでといった具合に、村の人のことは大体わかっていた。 静の容態が最近良くないことを早いうちから気づいており、柿は杵爺なりの気遣いだと栄治にはすぐに分かった。 「んじゃ、ありがたく貰うよ」 軽く会釈したら、ごつごつとしたその米袋を両手で抱え持ち、玄関脇の納屋に運ぶ。 ひと仕事終えた杵爺はとりあえず、息を吐きながら玄関に腰掛けた。 栄治はふと、近頃の疑問を杵爺に聞いてみることにした。 「そういや杵爺、このあたりに神社なんかあったけかな?御神木祀ったような」 「神社?荒沢神社(あらさわじんじゃ)か?」 確かにその村に神社はあった。それこそ昔からこの村にある荒沢神社がそれだった。 「いや、荒沢神社の他にこの辺で、神社って聞いたこと無いかい?」 「…聞いたことないな。荒沢神社以外なんてないだろ?」 「…そうか」 側から聞いたら信じ難いことだろう。あの杵爺ですらその惣社のことを知らない。 いよいよといった具合だ。 「それより、またいつものやつ頼むよ」 「あぁ、飲み薬と湿布ね、ちょっと待ってて」 杵次はこのところ歳のせいか腰に痛みが走るようになり、ことあるごとに栄治の薬を頼りにやって来ては、代金の代わり旬の作物を置いていく。 これが二人の間の約束事だ。 いつものように三週間分の痛み止めと湿布をナイロン袋に詰めて杵次に渡した。 「近頃どうも腰が硬くなってわかんねぇな。もう歳だから、山には入るなってことかもな」 「かもね。あまり無理はしない方がいいよ。畑だってやってるんだから」 「…そうかもな。爺ぃは大人しく家でのんびりするよ」 杵次は少しだけ笑って見せたが、哀しげに膝に手をつきながら立ち上がり、それじゃあなと去っていった。 晩になってからも栄治は内心穏やかではなかった。 その日の出来事を思い返しては悩みを繰り返す。 果ては今からもう一度あの場所へ、あの惣社まで行ってみようかとも思ったが日が暮れてしばらく経っていたので、暗がりを探して回るほど愚かではなかった。 明日、仕事の合間に探してみようという思いに至りその日はすぐに休んだ。 その晩、栄治は夢を見た。 鈴の音が聞こえ 音のする方へ顔を向けると、あの娘が立っていた。 凛とした眼差しでこちらを見つめながら、すっと手を差し出して来た。 その手をとると、娘は力強く栄治の手を引っ張りどこかへ連れて行こうとするのだ。 草木をかき分けて雑木林をひたすらに歩いていくと、あの大木と社の前に着いていた。 そして気がついたらさっきまで繋いでいたはずの手はなく、娘は居なくなっていた。 少しだけ手に残った温もりを目の前に持って手を開くと 栄治の手のひらは薄黒い血で染まっていた。 荒い呼吸で目を覚ました時にはすでに日が登っており、信じられないほどの寝汗をかいていた。 「はぁ…はぁ…」 「っ…」 未だかつてないほど気味の悪い夢だった。 しばらく放心としているところへいきなり ドンドンドン! 玄関の扉をけたたましく叩く音が聞こえた。 あまりの音に栄治の心臓を萎縮させたが、何度か叩いた後に声が聞こえてきた。 「栄さん!すみません隣の里見です!」 声の主は隣の里見の母、よう子のものだった。 ほっとした反面、瞬時に静に何かあったのかと考えをめぐらせてすぐに玄関の施錠を開けてよう子を出迎えた。 「どうなさったんですか?」 「静が…静が居ないんです…!」 よう子は息を荒げながら言葉を絞り出す。 「…え⁉︎」 いつもなら、とうに朝食を済ませる時間だった。
存えの樹 第一話 鈴の音
東北の田舎町、田園地帯が段々に長らく連なって続いて暫くすると、上や下へと市道がくねって家々を挟みつつさらに続いていく。 入り乱れた道の詰まりに五十人程度が暮らす聚楽(じゅらく)があり、周りを背の高い杉の木の群れが針のように空を刺している。 父親の代からこの地に移り住み小さな薬屋を営む平井栄治(ひらいえいじ)は、もう三十路も過ぎたというのに浮いた話どころか、度々知り合いから持ち込まれる縁談も最近は断るようになっていた。 家族はいない。 母は病に伏したのち早くに亡くなり、父は大戦から帰って来ることはなかった。 幼少は祖母に育てられ特に不自由なく暮らしてはいたが、その祖母も栄治が高等学校に上がる頃に痴呆が酷くなって、老施設に入れたがたちまち容体が悪くなり、間もなくこの世を去った。 しかし栄治は孤独を感じてはいなかった。 早朝に玄関先や庭の花に水やら選別やらの手を加え、玄関先を小綺麗にほうきで払い、それが終われば朝食に二、三のおかずを作り善によそって仏壇に上げる。自身の食事の前に線香をあげて手を合わせる。それが毎朝の日課なのだ。 ある日いつものように玄関先をほうきで掃いていると、コロコロと鈴のような音が聞こえた気がした。 辺りを見渡したが何もない。 聞き違いかと戻ろうとすると、またコロコロと音が聞こえた。 どうやら門の外らしい。すかさず音を追ってみる。 すると子供が一人、腰紐から鈴を下げて走る姿があった。 年の頃だと十かそこらだろう。 なにやら楽しげにころころと笑いながら駆けている。 なんのことはない。なんのことはない光景だが、先刻から聞こえるその鈴の音がどうも気になるのだ。 栄治はその娘のあとを追う。 時より姿を失うが鈴の音を頼りにくまなく追っていく。 しばらくすると田園と家々の間を通り抜けた先の農道に入って行った。 林の濃さで日の光が入らず、朝方だというのもあってか薄暗くすらあるその道が妙に不気味だった。 鈴の音はこの先へと続いている。 栄治はさらに奥へと進む。 すると薄暗さは和らぎ開けた場所へとたどり着いた。 そこには古びた惣社と、一本の大木が聳そびえ立っていた。 惣社は大きく立派なものであったが およそ人の手が離れて幾年月経っているのだろうか、屋根は廃れ苔に覆われて、壁や床は所々抜け落ちている。大木は底下から屋根後方へと突き抜けて高く伸び切っている。 なんとも無様な有様だ。 この大木はいわゆる御神木というやつだろうか。 どれくらいした頃か、はっとしてそういえばと追いかけてきた娘のことを思い出し、辺りを見渡したが、やはり姿はなかった。 ふと社に目をやって中の様子を伺ってみるが、暗転に影り多く、視認は難しい。 たしかにここへ来たはずだが、見間違えか。 そもそも理由もなく後を追って来たのだから、むきになることもないと諦めて帰ることにした。 しかし稀代なことだ。 幼少からこの地域に住んでいるのに、あれだけの惣社と御神木があったとは聞いたことはなかった。 疑問を感じながらも、栄治は家路に着いた。 すっかり朝食の準備も遅れをとってしまったのだが、もはや毎日の習慣もそつなくこなせるものだからあっという間に済ませてしまった。 ほどなくして、隣近所の方から咳き込む音が聞こえた。 栄治は ふっ、と鼻から小さく息をついてすぐにいつもの薬箱を準備し始める。 咳の正体は、栄治の家の隣に住まう娘のものだ。 その家、里見家は親子三人住まいで、その昔村の中でも指折りの名家であったという話は、その家の佇まいから容易に想像できるほどのものだ。一人娘の静(しずか)は今年十四になるが生まれつき体が弱く、その歳で肺を患っていた。 それに加えて最近は、手足先の痛みもあって体調次第では歩くことも難しい。 母のよう子は、静を看病しながら家内として家を守りつつ、母ながらなにもしてやれないと、自分の無力さにいつもはがゆい思いでいた。 父の繁(しげる)は役所の職員で、その立場を利用して明るい病院を探して回り、なんとか肺病に関しては下町の病院でなんとかなっているが、体の痛みに関してはどの医者を当たってもはっきりとした原因は分からなかった。 たゞ唯一、平井散薬の薬は痛みに効果があり、静もこの薬を飲み初めてからは大分楽になっているようだった。 繁もよう子も栄治に信頼を寄せていた。 今回も咳を聞きつけてすぐに里見家へ赴く。 すると玄関先で小走りで駆けて来たのは母のよう子だった。 「あっ、栄さん。おはようございます。今呼びに伺おうと思ってたんです。」 栄治の姿を見て安堵しながらよう子は挨拶をした。 「どうも。今しがた咳が聞こえたのですぐに準備してきたところです。」 「いつもありがとうございます。どうぞお入りになってください。」 「では、お邪魔します。」 栄治はこなれた具合に静の部屋へと向かう。 三度のノックの後、「はい・・・」とわずかな声で返事が聞こえ、ドアを開ける。 白い寝巻きに身を包み 左肩へと髪を下げ 口元に手をあてがいながら咳き込む静の姿があった。 透き通るほどの白い柔肌、 「おはよう。栄さん」 咳をすぐに止め栄治に顔を合わせる。 「やぁ。体調はどうだい?」 「やっぱり朝方になると辛くて、でも栄さんの薬だとかなり楽になるから。」 儚く笑顔を見せながら答える。 「でも、吉田先生から処方された薬もあるんだろう?そっちは飲まないのかい?」 「飲んでるけど、栄さんの薬ほどは効かないよ。おかげで手も足も痛くないし」 通いの吉田病院はさほど明るくなかった。効きが悪くなかなかに回復しないわけだが、平井散薬の薬はよく効くことで評判だった。 その評判が元で病院側から患者取りと陰口を叩かれて、あらぬ因縁をつけられるのがしばしばだった。 おかげで肺病の方もすっかり栄治の薬に頼るようになっていた。 「とりあえず、また二週間分出しておくよ。また無くなる頃に来るから」 「ありがとう・・・」 すこし俯うつむいた表情は、何やら思い詰めたようだった。 「・・・?」 「どうかした?」 「・・・なんでもない」 「何か、あったら話してごらんよ」 「・・・」 少し沈黙があった後、ゆっくりと話だした。 「・・・最近、音が聞こえるの」 「音?」 「うん。鈴の音・・・。」 そう言うと、窓の外の景色にゆっくりと視線を向けた。 足早の木枯らしが草木を煽り、葉を老いらせていた。