夢の底で
朝が嫌いだった。
目が覚めると、今日という日が始まってしまう。
カーテンの隙間から差し込む光を見るだけで、胸の奥が重くなった。
起きなきゃ。
そう思うだけで疲れてしまう。
スマートフォンには、いくつか通知が来ている。
誰からなのかを見ることすらしなかった。
心配してくれているのかもしれない。
会いたいと言ってくれているのかもしれない。
それでも私は、もう誰も信じられなかった。
優しい人も、ずっと優しいわけじゃない。
大切だと言ってくれた人も、いつかいなくなる。
だったら最初から、何も信じなければいい。
そうすれば、失うこともない。
私はそうやって、自分を守っていた。
ベッドから起き上がり、窓を少しだけ開ける。
風が入ってくる。
カーテンが揺れた。
机の上には、一台のカメラが置いてある。
私はカメラを手に取った。
カメラだけは好きだった。
レンズを覗いている間だけ、世界が静かになる。
人の顔を撮るのは苦手だった。
だから、自然ばかり撮った。
名前も知らない花。
水たまりに映った空。
夕方の雲。
誰もいない公園。
風に揺れる木々。
誰にも見られていないものが好きだった。
自然は、私に何も求めない。
綺麗に笑えとも言わない。
元気になれとも言わない。
ただ、そこにいる。
私も、そんなふうになりたかった。
何も考えず、ただそこにいるだけのものに。
その日は、珍しく外に出られた。
家から少し離れた川まで歩いた。
人が少ない時間を選んだ。
イヤホンから流れる音楽だけが、私と世界の間に薄い膜を作ってくれていた。
川沿いには、夏の終わりの草が揺れていた。
私はカメラを構える。
シャッターを切る。
もう一枚。
また一枚。
夕方の光が、水面の上で細かく砕けていた。
その景色を見ていると、ほんの少しだけ生きていてもいいような気がした。
でも、帰り道。
すれ違った人の笑い声が聞こえた瞬間、胸が苦しくなった。
誰かに笑われた気がした。
足が止まる。
息が浅くなる。
早く帰らなきゃ。
そう思って、逃げるように家へ戻った。
玄関のドアを閉めた瞬間、力が抜けた。
そのまま床に座り込む。
「……疲れた」
誰に言うでもなく呟いた。
カメラを抱えたまま、私は眠った。
*
夢の中で、私は海辺にいた。
夜だった。
空には星がたくさん浮かんでいる。
波が寄せては返している。
現実では聞こえないくらい、静かな海だった。
私は一人で砂浜に座っていた。
すると、遠くから何かが歩いてくる。
大きな影。
ゆっくり、こちらへ近づいてくる。
私は立ち上がった。
逃げようとした。
けれど、足が動かなかった。
月明かりの下に、それが姿を現した。
怪獣だった。
大きな身体。
長い腕。
頭には二本の角。
鋭い爪。
人間なら、見ただけで逃げ出すような姿だった。
怪獣は私の前で立ち止まった。
私は震えていた。
けれど、怪獣は何もしなかった。
ただ、私を見ていた。
「……なに?」
怪獣は答えない。
しばらくすると、ゆっくりと砂浜に座った。
私との間に、少しだけ距離を空けて。
まるで、
ここにいていいよ。
そう言っているみたいだった。
私は恐る恐る、怪獣の隣に座った。
海を眺める。
怪獣も海を眺めている。
何も話さない。
なのに、不思議と苦しくなかった。
むしろ、安心した。
「……怖くないの?」
自分でもおかしな質問だと思った。
怪獣は少しだけ首を傾げた。
私は笑った。
久しぶりに、自然に笑えた気がした。
「そっか」
その夜、怪獣は最後まで何も言わなかった。
ただ、私が目を覚ますまで隣にいた。
*
それから、怪獣は夢に何度も現れるようになった。
海。
森。
誰もいない街。
真っ白な部屋。
夢を見るたびに、怪獣はそこにいた。
私が泣いていると、隣に座る。
私が何も話したくないときは、何も聞かない。
私は少しずつ、怪獣に話をするようになった。
今日あったこと。
昔のこと。
誰かに言われて傷ついた言葉。
誰にも言えなかったこと。
怪獣は、何も否定しなかった。
ある夜、私は泣きながら言った。
「私、もう疲れた」
怪獣が私を見る。
「何もしたくない」
大きな身体が少しだけ近づく。
「誰も信じられない」
怪獣は何も言わない。
「……私、どうしたらいいの?」
その瞬間だった。
胸の奥から、黒いものが引っ張り出された。
それは記憶だった。
誰かに言われた言葉。
忘れたかった出来事。
一人で泣いた夜。
自分を嫌いになった瞬間。
全部が黒い塊になって、怪獣の口へ吸い込まれていく。
怪獣は、それを食べた。
ひとつ。
またひとつ。
私はただ見ていた。
やがて胸の痛みが、少しずつ消えていった。
「……軽い」
怪獣は口を閉じる。
私は涙を拭った。
「食べてくれたの?」
怪獣は頷いた。
私は怪獣の大きな手に触れた。
温かかった。
「ありがとう」
その日から、怪獣は私の嫌なものを食べてくれるようになった。
悲しい記憶。
怖かった記憶。
自分を責める気持ち。
眠れない夜。
怪獣は全部食べてくれた。
だから私は、眠ることが好きになった。
夢の中に行けば、怪獣がいる。
怪獣がいれば、私は一人じゃない。
*
ある朝、玄関を出たときだった。
ふと、足元を見る。
私の影が伸びている。
でも、何かがおかしい。
私の影の隣に、もう一つ影がある。
私よりずっと大きい。
頭には、二本の角。
長い腕。
私は振り返った。
誰もいない。
もう一度、足元を見る。
そこには、確かに怪獣の影があった。
私の影とぴったり重なるように。
「……え?」
怖いはずなのに。
なぜか、嬉しかった。
それから、怪獣は現実にも現れるようになった。
人には見えない。
私だけに見えるわけでもない。
正確には、姿は見えない。
ただ、影だけがいる。
私が歩けば、後ろを歩く。
私が立ち止まれば、立ち止まる。
私が泣けば、影も震える。
私はそれを「私の影」と呼ぶようになった。
ある日、川へ行って写真を撮った。
家に帰って写真を確認する。
川。
空。
木。
そして最後の一枚。
私は息を止めた。
写真の中に、怪獣が写っていた。
私の後ろに立っている。
大きな身体で、私を守るように。
私は写真を何度も見返した。
そのとき、気づいた。
怪獣の身体に、たくさんの傷がある。
腕にも。
背中にも。
顔にも。
夢の中で何度も見ていたはずなのに、今まで気づかなかった。
「……どうしたの?」
私は写真に向かって呟いた。
もちろん、答えはない。
*
その夜。
夢の中で、私は怪獣の背中に触れた。
やっぱり傷だらけだった。
「痛くないの?」
怪獣は首を横に振る。
「嘘」
私は怪獣の前に回った。
「私が食べてって言ったから?」
怪獣は何も答えない。
「私の嫌なこと、全部食べたから?」
怪獣は目を伏せた。
その瞬間、私は見た。
怪獣の中に、私の記憶があった。
私が忘れたはずの記憶。
小さい頃の私。
泣いている私。
誰かを信じて、傷ついた私。
一人で部屋に閉じこもっていた私。
「……これ、全部」
怪獣は私を見る。
「私の?」
頷く。
私はそこで、初めて気づいた。
怪獣は私を守っていたんじゃない。
私が抱えられなかった痛みを、代わりに抱えてくれていた。
私が忘れたかったものを、全部覚えていてくれた。
だから、怪獣は傷だらけだった。
「……ごめん」
涙が落ちる。
「私ばっかり楽になって」
怪獣は何も言わない。
「ごめんね」
私は怪獣の胸に顔を埋めた。
大きな身体が、私を包む。
いつもの温かさだった。
「もう、食べなくていいよ」
怪獣が少しだけ身体を離す。
「私、自分で持ってみる」
怖かった。
きっと、また苦しくなる。
また泣くかもしれない。
また外に出られなくなるかもしれない。
それでも。
「だから、隣にいて」
怪獣はゆっくり頷いた。
そして、いつものように私の頭を撫でた。
*
朝。
私は目を覚ました。
カーテンを開ける。
眩しい。
少しだけ目を細める。
机の上にはカメラがある。
私はそれを手に取った。
玄関へ向かう。
昨日までなら、ここで立ち止まっていた。
でも今日は、ドアノブを握った。
怖い。
それでも、開ける。
外は思っていたより普通だった。
鳥の声。
車の音。
風に揺れる木。
誰かの話し声。
世界は、何も変わっていない。
変わったのは、たぶん私のほうだった。
私はゆっくり歩いた。
川へ向かう。
カメラを構える。
空を撮る。
木を撮る。
水面を撮る。
最後に、自分の足元を撮った。
写真を確認する。
そこには私の影があった。
そして、その隣に怪獣の影がある。
以前より少し小さくなっていた。
私は笑った。
「ちゃんといるね」
風が吹く。
影が揺れる。
私は歩き出した。
もう、怪獣に全部を食べてもらわなくてもいい。
悲しいことも。
苦しいことも。
時々は一緒に抱えていけばいい。
私はたぶん、これからも何度も立ち止まる。
眠れない夜もある。
誰かを信じるのが怖い日もある。
外に出られない朝だって、きっとある。
それでも。
私の隣には、怪獣がいる。
ずっと私の痛みを食べてくれた、優しい怪獣。
私が自分を嫌いになったときも。
世界が嫌いになったときも。
夢の中で、ずっと私を待っていてくれた。
私は空にカメラを向ける。
シャッターを切る。
写真の中には、青い空と、白い雲。
そして小さな私の影。
それを抱きしめるように怪獣の影。
ちゃんといる。
私の足元に。
私と同じ速度で歩いている。
私は小さく笑って、もう一度前を向いた。
怪獣は私の影だった。
そして私は、
その影と一緒に生きていく。