被験体
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僕が息を吹きかけても、 水面が揺れないくらいの距離に 噴水がある。 空は晴れていて、五、六才くらいの緑色のセーターを着た男の子が2人、互いに笑いながら、走り回っている。 太陽は視界から外れて、少し上の方にあって、 こうして、目を細めて眺めていると、 なんとなく、黒いものは灰色に、白い色は、もっともっと白く見えてくる。 まさか、この場所は、スノードームの中なんじゃないかと思うほど、 触れられず、また、とどまることを知らない。 透明な膜が全ての物体の一つ一つ、…塵でさえも、覆って、 僕は空気さえ吸えずに、うずくまった脳みそで、 噴水を見ている。 その噴水は、公園とか、広い庭とかにも置いてあるような一般的な形で、真ん中から水が噴き出して、頂点で、ひとしきり輝いたあとで、下の皿のような部分に、ぴちゃぴちゃ落ちて、まだ太陽光を貪り、皿の端から、 すこしの乱れもなく、一番下に落ちていく。 うっすら見える、噴水の底には、 十円玉とか百円玉とかの 茶色や銀色が、重く、沈んでいる。 …はたして、それは、 誰の、どんな願いを孕んでいるのだろう。 噴水の周りを走り回る子供のように、 無邪気な願いか、 また、 少し大人な願いなのか。 僕は膝に置いた手に無意識に込めていた力を 抜いた。 そして、肺の底で沈んでいた、ため息を吐く。 「僕は何をしているんだろう。」 写真を見るように、絵画を見るように、 僕は、現実を忘れていたい。 また、あの二人の子供のように、 それが、今の思い。 目の奥が少し痛む。 鮮やかな太陽と、そのまっすぐさを見たから。 僕は地面を見る。 地面でも、噴水の影はところどころ光っていた。 石が敷き詰められた地面には、 とても小さな影と、塵と、噴水の影と、 暴力的な透明があって、 石の色が互いに叫びあって、頭がガンガンした。 この場所が全てそのようであるように、 温かみはなく、 どの色も僕を突き放して輝いて、 一かけのくもりも無かった。 「綺麗だな。」 この石のタイルも、 噴水の影も、 僕たちがいつも見るような優しい色じゃなくて、 久しぶりに磨かれた、屋根みたいで、 それらがたくさんならんでいると、 大雨が止んで、 虹が出ているのを見ているのと、 同じ気分になった。 丸まって眠っている脳みそは、僕の頭の壁を蹴り続け、 僕は噴水の音と、 子供の笑い声を聴いた。 ※ 気づくと、僕は噴水のてっぺんと、その後ろの空をじっと見ていて、 ハトが居たらなあ。なんて思っていた。 “ハトが居たら、飛び去っていくその姿で、 雲の遠さが分かったのになあ。” 何だか、額縁に入れて、 飾りたいようなひつじ雲で、 でも、額縁に入れても、 この鮮やかさは思い出せないだろうな。 なんて、当たり前のことを思う。 さっきから脳みそはいびきをかいているのだ。 だから、僕は何げなく、 … … 噴水に沈んだ。 … 思ったより噴水の中はきれいで、 寝転がってみると、 意外とコインの山が出来ていて、 意外と十円玉が多かった。 僕がその山を、 ゆらゆら揺れる左手で崩すと、 ぷくぷく、 と泡を出して、 バラバラと、音もなく、ゆっくり、 遠くで崩れるお城のように、 何の感情もなく、消えた。 後に残ったのは、 水面から、噴水の底に射す、 まっすぐな太陽の光だった。 ※ 噴水の水の中はとても気持ちが良くて、 仰向けになって、深く呼吸をして、 ときどきお腹に触れるシャツの感触で、 なんとか夢じゃないことが分かった。 すべては、ぼんやりしていて、 水の外では暴力的だった、 たくさんの色も、 水面で揺れて、 大きなひつじ雲は、 だれかに吹かれたように、横に延びていた。 そして、 噴水の音も、子供の声も、 何も、聴こえなかった。 ※ 僕は手を延ばす。 そして掴んだ十円玉を 水面にかざして、 真っ黒な十円玉を眺めた。 眺めていると、 どこかで、ポチャンという音がした。 僕は笑った。 だってここは僕だけの場所で、 誰もこの場所を知らない。 そして誰も僕には気付くことがない。 人々が道端に落ちている 陽だまりに気付くことがないように。 でも、僕はその中で生きている。 小さな小さな脆弱性の中で生きている。 雨の日には失くなるし、 誰かの影でかき消されるし… そんなことを考えていると、 ひつじ雲はうすく消えて、 つまらなくなった。 だから僕は風呂から上がるみたいに よいしょっと噴水から出た。 会社用のスーツはもうびしょびしょだった。
お人形さんの話-生について-
*注意 気分を害する可能性があります。 「あなたは何か、 動いて欲しいって思ったことある?」 「動いて欲しい?」 「うん。そう。例えばね、 カレンダーの中の動物とか、オルゴールの上のバレリーナとか、あとは、何かの置き物とか。」 「うーん。そういうの考えたことなかったなあ。」 「ふーん。 じゃあ、そういう話聞いたこともない?」 「いいや、それは子供の時に本で読んでもらったことがあるかも。」 「じゃあ、私の話、聞いてくれる?」 「うん。」 … 「それはね、お昼の出来事だった。 私が病気なのも知ってるでしょ?」 「うん。」 「だからね、私は自分の部屋の分厚い遮光カーテンを閉めて、真っ暗な部屋にいたの。」 「うん。」 「暑い日だった。私は暑くて、シャツ1枚になっていたの。 それでね、私は考えてたの。 この世界はいつ光が差し込むんだろうって。 そりゃ、カーテン開けちゃえばいい話だし、 ずっと暗くしていれば、 誰かが来てくれる“はず”だし。 この世界が暗いなんて大げさなんだけど、 私は考えてた。 それで、 私が暗闇に目を慣らしたら、色々な物が見えてきた。 まず見えたのは、天井の照明が、ぼぉっと。 それから、机、ベッド、クローゼットの白い壁、 ドア、机の上の紙。それらの色、淡い色はだんだん私に近づいてきた。 砂浜に足跡を残すみたいに、着実に。 私は恐ろしかった。自分の存在を認識するのが。 自分がいるかもしれないという可能性が。 でも、 事実は冷酷で、あるがままを、あるがままに、 突きつけてくる。 戦慄した。 ただひたすら、前を見ていた。 静かな、私の部屋を。 隣の部屋の時計の音が聴こえて、 ヒューヒューっていう誰かの呼吸音がするの。 本当に怖い時は、本当にそんな音がするのよ。 だんだん全てが明らかになる。 ダメだなって、薄々気づいてたわ。 でも、本当にダメってことは、心の奥底が信じていなかった。 ついに見えたのよ、白い、足が。 文字通り、私は口を押さえたわ。 冷たかった。 私の吐く息も、手の温もりも。 私の目の先で、少しだけ動く足。 それは、とっても遠くの景色を見ているみたいだったけど、動かせたのを覚えてる。 絶望を通り越して、 泣き叫んだ。 机の足にすがりついて、おでこをゴンゴンぶつけた。 ベッドの上で赤ん坊のように、暴れて、 壁を、舌が削れるまで舐めた。 舌から血が出てきた時、 ようやく気づいたの。 “私、死ねるかも”って。 私の頭の中に光がスッと入ってきて、 脳みそをぐさっと刺したの。 快感だったわ。 このまま、脳を引き裂いて欲しかった。 それから、すぐに実行に移した。 壁に両手をついて、デロデロ舐めた。 血の味と、苦い味が混ざり合って、 途中から、塩っぽい味が口にどんどん流れ込んでくるの。 楽しくて、こんなに楽しいの人生で初めてで、私は思いっきり笑った。 デ、ゲ、デ、ゲ、って。うまく笑えなかったのよ。 笑ったら、やる気が出てきて、 横を、部屋の右から左を、思いっきり舐めた。 もう塩っぽい味で、おいしかったわ。 そしたら、たくさん血が出てきて、 舌の中身が出てきた。 ギギーって、猿みたいに叫んで、 床を魚みたいに飛び跳ねた。 でも、気持ち良かった。 もうじき、痛みも無くなるし、 ベタベタに染まったシャツは、 濡れて、すぐに乾いた。 だから、冷たくて、乳首が凍りそうだった。 嬉しくて、嬉しくて、ずうっと、 涙が止まらなかった。 天井の丸い照明をじっと見つめて、 私は床の味はどうなんだろうって考えだした。 そしたらね、そしたらね、 床を舐めてる私が頭に浮かんだの。 生きている私が、 大っ嫌いな私が。 そりゃ、泣き笑いするしかなかった。 馬鹿で滑稽な私を罵るのが楽しい、し、 けど、やっぱりそれは私で、ちょっと可愛そうだった。 その後、何百年も経っても、生きてるの。 舌がドクドクいって、いつの間にか、 壁で擦れて、左目がしぼんでた。 眼球が入っていた空洞の中で、 風船みたいにしぼんでいたの。 … どうしたの、悲しかった?怖かった?」 「ううん。」 「続き、話していい?」 「いいよ。」 「んで、確か…、私は、無意識のうちに、大好きな人形を撫でていたの。 子供の頃からずっと一緒にいて、 私なんかよりずっと大好きだった。 お人形。 汚い私から、血がポタポタ落ちて、 柔らかい毛を濡らして、赤く染めて、 ガチガチに固めちゃうの。 “ごめん。ごめん。”って、心の中でそう言いながら、 鼻水垂らしながら、暗闇と共に、その人形を抱きしめた。潰れちゃうんじゃないかってくらいに。 そしたら、 人形も、私を抱きしめてくれるの。 ぎゅって。人生で初めて。ぎゅって。 あったかかった。 あったかかった。 あったかかった。 だから、私は、 “ありがとう”って言いたかった、 けど、 壊れた舌じゃ、 何も言えなかった。」
notion
草が、草でいられる場所。 この町から少し離れても、まだ、おかしなものがある。 それは私。私は異物。 どうしても、息苦しくて、こんなところにやってきた。 うすく、呼吸をする草っぱら。 誰かのお腹の上みたいに、吸っては吐いて、吸っては吐いて、 生きている。 私はこの場所が好き。この場所は、私の場所ではないけれど。 今だけは、居させて。お願い。 願いを込め、目を閉じると、草っぱらの 小さな寝息が聴こえた。ような気がする。 ありがとう。 ちょっと鼻の奥がつんとした。 だって、優しくされるのには、未だに慣れないから。 大きく、壮大に呼吸する草っぱらに、踏み込む。 ぶゅう…ぶゅううう… かなたに見える青い山から、風が下りてきた。 永い間、旅をしていた風。私は記憶に触れた。 風の記憶に。 それは、それは、私には到底理解できない。 けれど、今、私と手をつないだ。 温かい手だった。 まるで、私のように居場所のない人みたいに、 微笑んでいた。 苦い水色をした、空。 ざわざわしている。私が来たから、 草がしゃべりだす。 “何か来たぞ、空以外のものが来たぞ” 私は、寝転がる。 手をついた草は、冷たくて、無機質だった。 でも、こうして背中に敷いていると、大きな生き物と、途方もなく大きな生き物と、一緒に眠っている気がする。 私の呼吸と、大きな生き物の呼吸は、重なって、 “私は、ここにいるよ。私も、ここにいるよ”と、 互いに存在を分かち合い、 相手の心の深さを感じた。 それは、とっても深い洞窟湖のようで、 天井から水が垂れる度に、 小さな飛沫をあげて、 自分というものを見つけさせようとしている。 “でも、私は、そんなところへは行けない” あまりに、深くて、暗くて、息苦しくて、 そして、独りぼっち。 “そうかい。そうかい。” … 空の青は、端から端まで、同じじゃないことに気づく。 もしかしたら、皆に見られるところだけ、 青くしているのかな? 皆に喜んでもらうために。頑張っているのかな。 私の裸足を、草が撫でる。 “本当は、あなた、白いんでしょ” …返事はない。 もし、空が白に戻ったら、きっと、 面白くなくなるだろう。 そして、毎日は、もっとつまらなくなる。 だから、皆は宇宙に行って、空に青色を、 ぺたぺた。ぺたぺた。塗りつけるだろう。 そこで、完成するのは、ペンキの星。 偽物の、青い星。 たぶん。誰が見たって、あれは偽物だって、指を指して笑うだろう。 その後は…、私には分からないし、分かりたくもない。 未来のことについて考え出すと、いつだって、 逆立ちしているみたいな気分になる。 世界が全部ひっくり返って、 物がぽんぽん、宇宙に飛んでいって、 何もかもなくなって、 元に戻った時には、何もかもなくて、 ただ、私の部屋に、窓からの光が伸びているの。 …そんなに嫌じゃないな。 そんなことを考えていると、草っぱらは、 お腹の底で、私を笑った。だから、私も笑った。 … 私は、いつの間にか、涼しい草っぱらのお腹の上で、夢を見ていた。 それは、いつもの町。 私の町で、途方に暮れる夢。 私は、街角を曲がって、赤信号を渡って、 チラシを蹴って、ため息をついて、 ショーウィンドウに手をついて、 石造の道を見つめて、 夕日に睨まれて、 怖くなって逃げ込んだのは、路地裏。 夕日は、細い、赤い光を差し込んできたけれど、 ゴミ箱のそばに座り込んだ私は、 その光を、目の前まで来た光を、眺めた。 赤い、オレンジじみた、光。 私には、少し強烈で、 焼かれてしまいそうな、光。 路地裏の、ゴミの臭いが私の鼻をくすぐって、 泣きたくなった。 袋小路の、この路地裏には、壁しかない。 行き止まりで、冷たくて、鋭い空気が、 渦を巻いて、私を見ていた。 … “あ。” 夢だ。雨だ。 私は、この小雨に起こしてもらったのか。 空より濃い青色と、 細い水の線が、私にぴちぴち当たって… 早く帰らなくちゃ。 時間が分からない。 空は、雨で見えにくいけど、雲で覆われて、 太陽と… “あ。” 月。 どうして。 雲の後ろで光る太陽の位置から考えて、 今は、夕方。 だけど、小さな、白い月が、 雲の隙間から見えた。 恐らく、昼寝をする前には無かった。 午後に現れる、真っ白で、寂しげな月。 絶え間なく動く灰色の雲の隙間から見える。 遠いところに、浮かんでいる。傾いた月。 雨が降っている地球を遠巻きに覗き込む月。 “ここは、あなたの居場所ではないの。” 月。あなたが居ていいのは夜だけ。 私は、夕方にも居る月が、 羨ましくて、妬ましくて、そんなことを言った。 月はそう言うと、灰色の雲のに隠れ、 小雨に目を瞑って、また開けると、 またそこに居た。 “あなたは?ヒトは、そこに居ていいの?” いいよ。べつに… 草っぱらは、深く眠り、 遠くから吹いてきた紅葉が1枚。 私にのっていた。 … 私は居ていいんだ。この場所には。この… じゃあどうして私は居るの? 居るのに、居場所が無いの? あなただって、人間だって、本当は、 居場所なんてない。本当は、宇宙だって、 色だって、原子だって、ダークマターだって、 何もかも、居場所なんてない。 ただ、生まれてきたから、そこにいる。 居たくもないのに、居場所もないのに。 そこにいて、生きる。 もう、私は生きていたくない。 答えなんて、出るはずがないから。 考えるだけ、考えたぶんだけ、 心の中はどんどん深くなっていくから。 草っぱらみたいに。 誰も来ない、孤独な場所で、 独り、生き続けたくない。 この、空虚な地球で、私は、 独り、生きていたくない… … “もう” 雨は止んだ。 私は、寒さに震え、月を、光り輝く月と、 星々を見つめる。 “馬鹿” 私の思いなんて、全部無視して、 月も、星々も、輝いている。 それらはきっと嘲笑っている。 私の、居場所の行き止まったことを。 嘲笑っている。 ずっと同じことを考え、考えたところで、 寂しくなって、いつも止めてしまうことを、 嘲笑っている。 夜なんて、嫌い。 みんな、寝静まって、私1人だけだから。 1人置いて行かれた気分になる。 ほら。 私は体を起こして、 遠くに見える、町の鮮やかな光を見つめる。 私はいつだって独り。 “あの、鮮やかな光の中で、眠っていたい” 視界がにじんで、温かい雨粒が、 何度も、何度も、 拭っても、拭っても、零れ落ちる。 寒い。 誰か…私を暖めて。 … 風が私を抱きしめる。 ぶゅう…ぶゅううう… あなたは、あなただけは、 私のことを分かってくれるのね… そうね。そうなのね。 「あなたたちは、悲しみに耐えられなくなった。 だから、風になった。」 “じゃあ、私は”… … … … 月は、静かに。 誰もいない、草っぱらを、 見つめている。
タルの中の談話-どこまでもまっすぐ-
…でも、ずっとまあっすぐだったんだよ。」 「どんな天気だったんだ。」 「そりゃ、秋晴れさ。ありゃ全く綺麗な空だったな。」 「そんなこと言われたって、分かるわけないだろ。」 … 「あれは、何かが落っこちたみたいだったな。 いつもは空にある、色素がごっそり、 俺の脳みそが色というもの、もっと大きく言うと、 空というものを、理解できなくてよ、 朝から間違えてコーヒーを2杯も飲んぢまったよ。 あの、空とは言えない空を見ながらよ…」 「…」 「それでな、俺あ、こんな空はもう二度と見られない。と思ってよ。今のうちに目に焼き付けておこうと思って、 とにかく、上を見ながら歩いたんだよ。 写真にも、絵にも、残せるだろうなんて思わなかったんだな。 それで歩いて、歩いて、ずうっと歩き続けたんだけどよ。 ふと石ころでも蹴って、下を向くと、もう、 さっきまで見上げていたものが一体何なのか分からなくなっちまっているんだよ。 しかも、どうして歩いていたのかってのも忘れちまってんだ。 …全く、おっかねえ。 そうして、何をしてたんだろって思って上を向いたら、 綺麗な、空じゃない何かが視界を覆っているんだ。 いや、もちろん空だよ。 空なんだけれどもって話よ。 それでな、俺あ、また、目に焼き付けようと思って、 上を向いて歩くわけよ。 まあ、河川敷ってのは便利なもんで、 どこまで歩いても、変わらなく続いてるんだわ。 うんうん。 で、あ、そうだ、 その道中でいろんなことを考えたんだった。 草に食われちまった奴の死体が根っこに埋まってるんだとか、 俺がまだチビの時に飛ばした風船は、今頃どこの宇宙に漂っているんだろうとか。 そう。俺はずっと考えた。 特に風船については答えが出たんだ。 そりゃ、簡単な話だった。 俺が飛ばした赤い風船が、 俺の手から離れてから最初に見た景色は、草野球をする少年たちだっただろうな。 ああ、…どんどん小さくなって… その次は、川の流れてくる始まりを見たんだろう。 この大きな、大きな曲がりくねった川の始まりを。 冷てえ風に吹かれながら… その次に見たのは、たぶん鳩だよ。 赤い風船に乗っかって、フンでも落としたんだよ。きっと。 その次は、…これについては確信があるんだが、 それは雲海だろうな。 ああ、あの日はどんよりとした曇り空だったんだよ。 でもよ、雲の上はいつでも晴れなんだぜ? お前、考えたことあるか?」 「いいや」 「そして、最後にゃ、 …最後にゃ…」 「最後にゃ…?」 「俺の母ちゃんのところに行ったんだ。」 … 「ああ、母ちゃん。天国にいる母ちゃん。」 (すすり泣き。) 「俺は親孝行もんだよ。母ちゃんが生きている間は、母ちゃんを愛して…」 「そりゃ誰でも愛すぜ。」 「いいや、母ちゃんは俺を嫌ってた。」 … 「だけどよ、俺は愛してやったんだぜ。 “母ちゃん、かゆいとこないか” “母ちゃん、俺が夕飯くらい作っけん” てな。 そんで、母ちゃんが死んでからは、 天国に行ってからは、 赤い風船を送ってやったんだぜ。」 (すすり泣き。) 「ああ、いい人生だなって思ったわ。 そうそう。それでな、 そんなこと思い出しながら歩くもんだから、 上向いてても、涙が溢れてきてよ。 なんだか“上を向いて歩こう”なんて 役に立てねえんだなって思ったんだわな。」 「上を向いて歩こう?」 「お前、そんなもん調べろ。 ほら、泣いてるところなんて誰にも見られたかねえだろ? だから上を向いて歩くんだよ。 そうしているうちにな、首筋が濡れて、 冷たくなってきたから、空なんてもう諦めようと 思い始めてたんだよ。 でもよ、そんなところに、 知らねえ町で草野球やってた少年がやってきたんだ。 それでな、“どうして泣いてるの?”って聞くんだわ。 あのちゃらんぽらんが。 だから俺は言ってやったんだよ。 “母ちゃんが死んじまって、どうも悲しいんだよ”ってな。 そうしたらよ。 その少年、俺が母ちゃんに向けて飛ばしたのと同じ色の風船をポケットから出して膨らませ始めちまったんだよ。 んで、俺がボーッと眺めてたら、少年は差し出してくんだな。綺麗な空じゃない何かを背景に。川も、キラキラしていやがった。 そりゃ綺麗で、俺はつい、 “お前の父ちゃんにあげろよ”って言っちまったんだ。“分かった”って、言って、 あの温かい秋の日の記憶のどこかに去っていっちまったんだ。 どうしようもなく、それは寂しかったよ。 だって、あいつの父ちゃんはいて、俺の母ちゃんはいないなんて、 まったく。 それで、気づいたら、空みたいな何かは、赤くなって、 とうとう、ここがどこだか分からなくなっちまったんだ。 だから、 俺は歩いた。来た道には戻らずに。 空を見ながら、母ちゃんに話しかけたんだ。 “俺こんなに、ダメな奴になったよ” “もう、希望もへったくれもないよ”ってな。 ああ、アイロニーだよ。ここがどこかも、頭上にあるのが何なのかも、“今日”の次には何がやってくるのかも、もう分からなかったからな。」 「お前、じゃあ、どうしてここに…」 「だから、さっき言ったじゃねえか。 どこまでもまあっすぐな雲が、 “空”に、浮かんでたんだよ。」 「ああ、……」 … (談話は、その後もえんえんと、続いていた。)
あっちにいけよ。
ゆめは言った。 「私、この空好き。」 ただの藍色の空。 遠くにひつじ雲がポツンと浮かんでいる。 昼間の喧噪は、太陽の色と共に沈んでいた。 僕たちは、 天井からぶら下がる蛍光灯の灯りに照らされる。 まるで、この教室だけが、人の住み家みたいに。 「僕は、好きじゃない。」 椅子に座っているゆめは振り向かない。 「だって、あまりにも寂しい。」 僕は、後ろの机に寄りかかって立つ。 空に、銀色の豆つぶが光った。 それは、きっと、この寂しげな空の彩り。 銀色の機体を光らせながら、 飛行場へ向かっていった。 僕と、ゆめは、きっと幾分か藍色を吸い込んだ。 そんな気がする。 だって、こんなに藍色に満ちているから。 向こうの棟も、遠くの町々も。 窓の桟に置かれた、ゆめの手も、 空に、寂しげな感情に、少しだけ、 呑まれる。 そうして、僕の言葉がこだましなくなった頃に、 ゆめはようやく口を開いた。 「寂しいのが好きなの。 もう、誰かに合わせるなんて嫌。 私は、独りになりたい。このまま、 誰かの“景色”になりたい。」 ゆめは静かな口調で、藍色を散らさないように、 つぶやいた。 そのつぶやきは、ゆめの景色に溶け、風に溶け、 どこかの人の服を靡かせるそよ風となった。 もし、その人が、藍色が好きなのだとしたら、 きっと、空を見上げるだろう。 そして言うだろう。 「ああ、綺麗だな。」 人間は、きっかけを待つように出来ている。 少なくとも、僕はそうなんだ。 生まれた頃から、何一つ変えられちゃいない。 ダメ人間だよ。 だからこうして、 ゆめが振り向くのを待っている。 待っている。待ち続けている。 ふと、ゆめの結んだ髪が揺れた。 振り返る。黒い瞳の中の点が、僕を見る。 教室の灯りがワントーン明るくなった。 急に教室が広がる。 普段使っている黒板。教卓。 風で落ちた白い紙。ほこり。 視界から外れそうなひつじ雲。 初めて会った時の眼差しと、 ゆめの眼差しが、 ぴったり重なり合う。 白い制服に、細い指と、付け根に小さなほくろ。 それは、なめらかな絵画。 この世には存在していない、二次元の存在。 それが、それなのに… 呼吸をしている。温かみを持っている。 「魔法、見せてあげよっか。」 意外に、柔らかく、生きている。 「え、うん。」 意外に、しゃべれてる。 きっと僕の方が絵画で、 額縁に囚われたまま、つぶやいているのだろう。 僕の言葉は誰にも届きやしない。 届くはずがない。 独りぼっちで、老いもせず、 外の、目の前の景色を見つめるだけ。 それなら、いっそのこと、 火の中に、燃え盛る赤い火の中に、 僕を放り込んでおくれよ。 「ふふ。」ゆめは笑った。 大きな瞳をきゅっと結ぶその笑顔は、 素敵でも何でもない。 ただ、人を寄せつけるだけのもの。そうだろう? その不快な笑顔のまま、ゆめは両手を広げる。 どうした?そのまま立ち上がって、 僕を抱いて、僕の情けない小さな心に 恋を自覚させ、あざ笑うのか? それを魔法だというのか? 僕はゆめのそんなところが嫌い。 そこだけが嫌いで、嫌いで、 でも、ゆめを総合して見ると、 ぎりぎり、好きなのかもな。なんて。 やっぱり嫌いだよ。 P.S. 完璧な人間なんていないし、魔法なんて、凶器か、はたまた、人類の愚かさの権化。この世に求めること自体が、間違えなんだ。でも、どうして求めてしまうのか、分からない。
呼ぶ。
なぜ、空が好きなのか。 青空と、背中の蒸し暑さに追われて目を覚ます。 目を閉じる。 きっと夢だ。 私は、夢の中で目を覚ましたのだ。 闇の中で電車の音が聞こえた。 この闇は深い。 行く先も見えない。自分の手足も見えない。 ただ見えるのは、やみ。 私は走った。走っている。多分、今。 どこだ、どこにある。入り口は。 この闇から逃れたい。 逃れたい。 目はしっかり見開いているはず。 なのに、顔面に当たる風を感じない。 指先の冷たさも感じない。 ただ、感じる。感じたい。それなら、そのままでいい。そのまま、感じていたい… 何も考えられないのなら、好都合だ。 私は動く。走っている。 闇のなかで、まるで目玉だけが浮いているかのように。 走っている。 上方向から、電車の音がした。 上方向に向かって走る。 体が宙に浮いている。体が軽い。 P.S. 一体、いつになったら、 私は、 再び起き上がることができるのだろうか? 夢を、見続けている。 考えばかりが、 モヤモヤした考えばかりが、 私の眼前を先行し続けている。 ああ、このまま、私は、 闇に呑まれるのだろうか。
Flowee
風が吹いている。 「私の心が、風に飛ばされてしまう。」 軽く手を握って、胸の前に持ってくる。 手のあたたかさが、一人じゃないこと、 いいや、一人ぼっちのことを気づかせてくれた。 風が吹いている。 窓辺に立っていたって、何も変わらない。 涙すら流れない。変わらず。 明け方の青と、脳に焼きついた彼と見た夕日。 今、この瞬間も、彼との時間が好き。 母が吹いている。 火葬場に横たわっている。 真上じゃなくて、横を向いて。 最期まで、上を見ようとしなかった母。 生まれてきてから、何にも気づけなかった母。 空が青いということにすら。 でも、私は見た。 火葬場の煙突から流れる。 母を。 母は、きっと風になった。 今も私の頬を撫でている。 ね。空は青いでしょ。 母が吹いている。 この世の生を見下ろし、 手の届く、空に微笑みながら。 「お母さん。私のそばにいて。」 風は吹くものだとは分かっている。 でも、悲しいって感情は、 私にどうにかできるものじゃない。 だから、言った。 遠くで、吹いている。 私の心は、傷つけられないように、 硬く、脆くなった心は、 とっくの昔に、粉々になった。 ちりぢりになった。 でも、それでいいの。 塵になってしまえば、 もう傷つけることはできない。 あとは、吹き飛ばされるだけ。 決して、 私の心の中に、風なんか吹いたりしない。