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作品1

桜が散ることほどさみしいものはないと思う。 僕はいつもそう思う。体の奥底からじんわりと暖かくなるような陽の光や、あの独特な雰囲気 をかもしだす空気感とか、それらがずっと自分のそばにあって欲しい、どこかに消えていって欲し くないと思ってしまうことがある。 何というか、卒業式の終わったあとの雰囲気や気持ちを、ずっと自分の記憶や写真みたいな曖 昧なものなどでなく、何かもっと明瞭な、心の目でいつでも見える形にずっと残しておきたいと 思うようなものだと思う。 しかしどれだけ願っても、桜というのはいつも散っていくし、時間は無常に進んでゆくのだ。 それに気がついたのはいつからだったろうか、よく覚えていない。春の季節になるとその実感が 湧いて、たまに感傷に浸ってしまい、泣きそうになってしまう。 …本当に不思議だった。なぜこんなにも春に心を揺さぶられてしまうのか。単純に、大切な想 い出をもたらしたあの場所に、たくさんの桜が咲いていたからなんだろうか。 せいぜい十五メートルくらいの桜の木一本と、ちっちゃなピンクの花びらたちがあるくらい で、なぜこんなにも僕の心は、動かされてしまうのだろうか。 ・ 昼ごろの暖かな風が吹き、あたりは桜が一列に並んでいて、冬を耐え切った人たちの凱旋を祝 うように綺麗に花を咲かせている。公園の外周にある電柱にかかった日差しは、まるで僕らを包 み込むようにぼんやり光っている。 僕たちはいつもこの場所でだらだらとくだらないことを喋っていた。今思うとよく飽きず話し 続けられていたなと思う。でも僕は初瀬と話をしていると、心が落ち着いてくるし、楽しいと感じ ていた。どんなに嫌なことがあっても彼女と話すことができれば、それらをだいたい忘れられた のだ。 いつか、多分もう何年も前の、春休みのある一日だった。その日は僕らの町でもちょうど桜が 満開になり、いちばん桜の花が多かったと思う。 高校生の春休みって、勉強とか、課題とかでほとんど休みとはいえないけれど、その忙しさの 間を縫って初瀬と会っていたのを、今でも覚えている。 初瀬はあたりに落ちている桜の花びらを一つ拾って、それにふっと、優しく淡い息を吹きかけ て飛ばしていた。 「牧志くん、笛できる?」 淡い茶色のどんぐりまなこが、僕に問いかけるように、上目遣いを向けてくる。 「笛?笛かあ・・・」 リコーダーやハーモニカは、小さい頃授業で習ったきりだったから、多分ひょろひょろな音を出 すので精一杯だと思う。 「うーん、ちょっと微妙かな、やってたのは結構前のことだったから。」 「牧志くん、何か勘違いしてない?」 「え?」 「もう、だからね、私が言ってるのはね・・・」 そう言って彼女は足元のいちめんの淡く真っ白な地面に手を伸ばし、その中の一つを拾い上げ る。 そしておもむろにくちびるに花びらをあてがって、軽めに息を吹き込んだ。 あたりに鳥のさえずりのように、ぴいっと軽やかな音が響く。それはまるで桜の中に滲んでい くように。 「おお、すごいな」 思わず僕は感嘆の声を上げた。すると彼女は、華奢な身体をうんと背伸びをして大げさに、ま んまるい笑顔で「すごいでしょ!」と言った。僕が「うん」と言ってみると、白い歯を見せ、そ のどんぐりまなこを目一杯細めて、にいっとはにかんでみせた。 ・ ※ 僕は宇都宮の県立高校を卒業し大学に入ると同時に、東京の八王子の方に引っ越し、宇都宮を 離れた。 電光掲示板がやけに古ぼけて見える宇都宮線のホームは、地面がところどころ濡れていて、とて も寒々しい雰囲気だった。 そこには桜の気配を感じられず、ただただ人とコンクリートがあるだけだった。 そこからは大学生として、それなりに楽しく過ごし、良い仲間ができた。そして大学を卒業し た。就職は少々手こずったが、何とか試験をパスし、八王子からさほど遠くはない中堅企業で、 一生懸命働いていた。 でも何というか、何かが足りないような感じがした。パソコンの画面を見つめながら、ふとそ う思った。何だろうと少し仕事を緩めて、それについて考えてみた。でも答えは浮かぶどころ か、ただ訳もわからず郷愁の気持ちが心をじわじわと溶かして、キーボードを打ちこむ手がおぼ つかなくなるだけだった。 そうしていると、ふと同期の会話が耳に入る。東京はもう桜もだいぶ散っちゃったね、なんて 話をしている。僕は、桜はきれいだけど、それが散るのを見るのが寂しくて、嫌なんだよな。な んて心の中でつぶやくと、そこで僕は気がついた。 次の日、僕は会社を休んだ。風邪ということにしておいた。 その日は、全ての物語がここから始まるのかもしれない、と思うほど淡く澄んだ朝だった。 起きてすぐに最寄りの八王子まで行き、中央線の始発電車で新宿まで行くと、湘南新宿ライン に乗り換えて、宇都宮まで向かう。 途中で宇都宮線と合流すると、景色は懐かしさを帯び始める。 あたりはずっと向こうまで広がる田園で、日を遮るものが何もないから、朝日はこれでもかと眩 しい。 宇都宮に着くまであと一時間以上もあった。スマホにもとくに面白いものもなく、ぼーっと景 色を見ていた。 途中、小山駅の一つ手前の間々田駅の近くで住宅街に入ったのだが、そこにぽつぽつと桜の木 が生えていた。満開で、朝日に照って淡く輝いていた。 それがあまりに美しく、僕の心をひどく揺さぶる。 ああ、あの桜の木が、ずっとあのままならいいのに。そんな事を思った。 ふと思い出す。昔の想い出を。ノスタルジーな気持ちが心をかすめて、どうしようもできなく なった僕は、ただ茫然と景色を見つめて、あの日の眩しさをどこかに探すしかなかった。 ・ 彼女は読書がとても好きだった。 学校の授業中、机の下に隠して本を読んでいた。まるでスマホを触っているかのように。 それで勘違いした先生は、どうしたら良いかわからない様子だった。 どうやら彼女にとっては、授業というのはとくに価値のないものということになっているらし かった。 でも国語の時間は別だったようで、本をしまい、授業をしっかり聞く姿勢だった。 とくに詩や短歌の話に入ると、あからさまに元気な様子だった。 授業のはじめは、椅子に深く腰掛けているのだが、終わりが近づいてくると、姿勢はどんどん 前のめりになって、前につんのめってしまうのではないか、と先生が心配するほどだった。 そんな様子なので、気になった僕は、夏休みのいつの日かに、何でそんなに本を読むのが好き なの、と彼女に聞いてみたことがある。 彼女は、手元のビー玉入りラムネ瓶をカラカラと音を立てながら、答えた。 「本の中にも、世界ってあるよね」 「え?うん」 僕が微妙な反応をするので、彼女は、あるよね?、まあ、今はあるってことにして、と言って続 ける。 「わたしはね、とっておきたいの。本の中にある世界を。何言ってるかわかんないと思うんだ けど、ええと、つまりね」 彼女は透き通った声で、言葉を詰まらせながらも、一本の透明な糸を張るように、ただはっき りと紡ぐ。 「本当におもしろくて、あ、これ、大好きだな。このお話が終わらないで、ずーっと続いていっ て欲しいなって思う話ってあるでしょ?」 「まあ、ある」 「うん、そういうストーリーの日常?、みたいなものを、ずっと心の奥底で、感じていたいって とこかな」 ちょっと曖昧すぎて、わかんないよね、ごめんね。と彼女は言って、ラムネを一口飲んだ。 あたりにジィジィと蝉しぐれが降り注いで、晴れた空から雨が降っているようだった。 僕はそのとき、また訳のわからないことを言ってるな。と思い、その話を流したのだが、何年 も後になってようやく彼女の言っていたことが理解できた。 彼女の言葉が、僕の心の中にある桜を見ると湧き立つ淡くぼんやりとした言葉にできない気持 ちが、どういうものなのか、何年もの時を超えて僕に教えてくれたような気がした。 ・ 「春になると、空って海みたいになるよね」 と彼女は、あたかもそれが普通かのように言った。 最初、僕は彼女の言っていることが理解できず、しかめっ面をした。 「んん?どういうこと?」 彼女は華奢な指を近くの桜の木に向けて、くるりと回って見せて言った。 「桜花 散りぬる風の なごりには、水なき空に波ぞ立ちける」 彼女は古今和歌集(何年か後になって調べて、やっと分かった)の短歌をすらすらと言った。 彼女はふっとこちらを振り返って、やっぱりにぃっと自慢げにはにかんでみせた。とても眩し さに満ち満ちた笑顔だった。 僕はその姿が本当に可愛く、おかしくて、思わずくふっと笑ってしまった。 その時、淡い風がひゅうっと吹いて、彼女の黒く長い髪をたなびかせていた。 ああ、懐かしいなあ、何で今になって思い出すのだろう。小山駅のホームからゆっくりと動き 出す電車の音に、今はもう聞き慣れなくなった発車メロディに、僕はあの懐かしい想い出を重ね ていた。 ※ 久しぶりにこの町に帰ってきた。 あの公園で、今でもまだあの淡さと儚さを保ったままの想い出を、ずっと自分の心の内や写真 などでなく、何かもっと明瞭な、心の目で見れる形に残しておくために、またあの公園に向かっ ていた。 僕はあの時のことを思い出しながら、実家に置いてあった古いタイプの自転車を漕いで、平坦 な舗道を進む。あたりには、春を祝福するかのような鳥のさえずりが聞こえて、地面には向こうの 公園からやってきた花びらで、淡く真っ白に染まっていた。 ・・・もしかしたら何かに拍子に、またすれ違うかもしれない。そうなったときあいつは、ど んな姿をしているのだろうか、何を生きがいにして生きているのだろうか。あの日の眩しさのま までいたりして。 何の気なくそんなことを考えながら進んでいると、あの公園の桜並木が見えてくる。相変わらず の大きな桜たちが林立した光景に、あの頃とあまりに変わっていないものだから、思わず息を呑 んでしまう。 桜が散ることほどさみしいものはないと思っていた。 ―――だけど、桜は散っても、一年待てばまたくりかえし、あの淡く白い花を見せてくれる じゃないか。 不意にそんなことを考えた。やっと気がついた。そういうことだったのか。 自転車を止めて、近くのベンチで一息ついた。 ふと見ると、遠くからでもわかるぐらい華奢で小柄な人影が見えた。 はっきりとは見えないが、地面に向けて手を伸ばしているのが見てとれる。 何か物でも落としたのかな。なんて思った。 その瞬間、耳をかすめるゆるやかな風の音が、一瞬だけ止まる。 ぴいーっと笛のような音が、まるで桜に滲んでいくように、辺りを響く。 僕はそのとき、ふと一つの予感がした。 地面に落ちて色あせた花びらみたいになっていた想い出が、まるで朝日が昇るみたいに、一気 に淡いピンクに色づいていく。 僕の心の中で、一輪の小さな桜のつぼみが、ゆっくりと膨らんでいくのを感じた。

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