TsuNa銀
79 件の小説TsuNa銀
おじさんです。猫3匹飼っています。私の文章に貴重なお時間を使っていただきありがとうございます。ついでに誤字、脱字のご指摘と共に感想なんかもいただけたら嬉しくて逆立ちしそうになりそうになります。
美しきブタの終末
カツ丼は、地上に顕現した祝福である。 ここで語るカツ丼とは、卵により綴じられし、あの黄金の一椀。 決してソースカツ丼を貶めるものではない。 あれもまた一つの尊き系譜である。 しかし―― 我が心を射抜くのは、 鰹と昆布の旨味を湛えた出汁が、 揚げたての衣へと静かに降り注ぎ、 その誇らしきサクサクをあえて解きほぐし、 やわらかき慈悲へと変容させる、あの奇跡。 卵は天の帳のごとくそれを包み、 熱を孕みながら、とんかつを優しく抱擁する。 染み渡る味は、まるで時そのものが浸透するかのよう。 白き米は大地。 その上に鎮座するは、旨味という名の神。 一口運べば、 それは食事ではない。 啓示である。 嗚呼、卵と出汁に綴じられしカツ丼よ。 汝こそ、日常に潜む至高の顕現。 我は、カツ丼を喰らうその時、 一滴の水も口にせぬ。 それは禁忌である。 旨味という神託が、 凡俗の水により洗い流されることを、 我は許さぬ。 出汁は舌に留まり、 卵は余韻となり、 豚の旨味は魂の奥へと沈殿する。 その全てを、 最後の一粒の米に至るまで、 余すことなく受け止める。 飲み物は救済ではない。 終幕である。 空となった丼を前に、 静寂が訪れる。 そして―― 満を持して、 コップに満ちた焙じ茶を掲げる。 それは清めの盃。 熱き茶は喉を駆け抜け、 先ほどまでの濃厚なる祝祭を、 静かに、しかし完全に、閉じる。 ここに儀式は完遂する。 ここに我がカツ丼は完結する。 さぁ―― 今日もまた、 黄金の丼のもとへ参ろう。
祝福
「お誕生日おめでとう。」 関係性が薄い人に言われたときに思う。 事務的な儀式のようなお祝いの言葉。 それに対して、 「ありがとう。(ごめんね)」 おめでとうと言ってくれたことに対して「ありがとう」と思い、同時に「言わせてごめんね」とも思う。 もっと言うと、「思ってないでしょ?」と。 別に他人の誕生日なんて興味がないでしょ?と。 ただこの世に自分自身が発生してしまった日なだけなのに。 その発生に何も関わってない人に言われたとて、ちょっとした会話のとっかかりにしかならない。 「何歳になったの?」 「あー、じゃああの人と同じ歳だー」 うん、で? もういい? いや、いらんて、花なんて、持って帰るのダルい。 ごめんね。気を遣ってもらって。でもいらんて。ありがとう。でももうホントやめて。 こんな「ありがとう」と「ごめんね」も愛なんでしょうか? 私が気持ち悪い考えの持ち主なだけなんでしょうね。 人は鏡という言葉があるが、逆も然りで、関係性の薄い人を祝う時は照れくさい。 「私が祝ったとて」と、そう思ってしまうのだ。 そして私は「おめでとう」と言わない自分が情けなくなり、「ごめんね」と思う。 そして薄い関係性のまま変わらずに私と接してくれるアナタに「ありがとう」と思う。 これも愛なんでしょうか? よくよく考えてみると『だけ』でした。 「ありがとうとごめんね『だけ』でできている」 私の先程の感情にはエゴや羞恥心や申し訳ない気持ちやウザいと思う気持ちなどがたくさん入り混じっている。 純粋な「ありがとうとごめんね」ではない。 今まで私は一切混じりっ気なしの純粋な「ありがとう」、純粋な「ごめんね」の感情を持ったことがあるのだろうか? 無い気がする。 愛を持っていないのだ。私は。 愛を持ち合わせていなくてごめんなさい。 生きさせてくれてありがとうございます。
うるせぇ社員
『社員』さん。 会社に雇われている人。 会社の為に働いている人。 正社員。派遣社員。アルバイト。パート。ここではそれら全てを含めて『社員』として話をさせていただく。 『社会の歯車』という言葉がある。 文字通りの意味だ。 次の歯車の為に。次の動力の為に。何かしらを出力する為に。社員達は歯車として回っている。 原動力はなんなのか? 給料。モチベーション。好きだから。ライバルに勝ちたい。とかもあるのか?出世欲。認めてもらいたい。私はこの会社で回るんだ! みたいな? 立派だ。 それぞれの歯車が100%回る為にはその歯車に100%の動力を送らなければいけない。 例えば100%の動力のうち、50%が給料だとして、残りの50%が埋まらなければ、その歯車は50%でしか回らない。 残りの50%の動力を何で補うか。 やる気。モチベーション。居心地。承認欲求。 そもそも最初から100%で回ろうとしていない社員もいる。 社員に求められているものは何か? 少ない動力で最大限の出力を出すことだ。 歯車が回る力が小さいのなら、それを踏まえてどうしたら最高出力を出せるのかを考えなければいけない。 システムの問題?昇給? 1on1ミーティング?社員の話を聞く?それはやめた方がいい。 「どうして回らないの?」 「回りたくねーからだよ。」 まともな人はこんな風に本音を言わない。 意味がない。 回らなくてもそれなりに出力できてしまっていることが問題なのかもしれない。 社員教育。 会社の為に。次の工程の為に。自分の為に。入社してからいろいろ教えられる。 都合良く回ってくれる歯車にさせられる。 都合良く回る歯車は良い歯車だ。 少ない動力で最大限の出力を出そうとするから。 会社は社員に「輝いてほしい」と言う。 英語で『輝く』は『shine』。 なんて奇遇なんだ。 輝く社員。 仕事ができる社員。働く姿が美しい社員。 ローマ字読みをすると? シネ。 どういうつもりなんだこの単語は。 意図して生まれてる言葉としか思えないんだが。 会社は社員に本当に輝いてほしいと思っているのか? ローマ字読みの意味の方でその言葉を使ってないか? ねぇ?どっち? ホワイト企業はルールで縛り、ブラック企業は同調圧力で縛る。 分からなくなってきた。 私達は歯車でいいのか?会社は縛るべきなのか? 矛盾。 歯車として回ることを望むのに縛って回りにくくしている。 縛られながら回るのはさらに動力が必要だ。 何をどうしたい? 私たちはどう回ればいい? 輝いてない星の数ほどいるこんなうるせぇ社員の中から、抜け出す為に輝いて、動力の供給側に回ったのが経営者なんだ。 うるせぇ社員達を従えて、「輝いてくれよ」って言いながら、心の中では「うるせぇシネ」って思いながら経営してるのかもな。
開いてしまった鍵
「え?スマホ落ちてる。」 拾ってみた。 案の定ロックがかかっている。 俺はなんとなく数字を打ち込んだ。 「なんでだよ!」 開いてしまった。どんな確率なんだ? ロト6でも買っておけば良かった。 しかし奇妙だ。 アプリが一つしかホーム画面に表示されていない。 当然タップする。 ダメに決まっている。他人のスマホを勝手にロック解除してさらにアプリまで開くのだ。 犯罪に問われてもおかしくない。 しかし解除できたら先へ行きたくなるのは人の、いや、俺のサガだ。 当然ダメだが当然アプリを開く。 すると動画が流れ始めた。 暗い画面から徐々に明るくなり変なお面の男が現れた。 「おめでとう。選ばれしものよ。君は十億円を得るチャンスを得た。二月二十二日の二十二時にそのスマホを拾った場所にそのスマホを持ってもう一度来てくれ。君の新しい人生に祝福を。」 動画が終わった。 …………。 キモ。 交番行こ。 俺は交番に着き、中に入ろうとすると男に声をかけられた。 「ちょっとすみません。」 「え?」 「そのスマホ私のかもしれません。」 「はぁ。」 「それ、アプリ一つしか無かったですよね?」 「お、おぉ、はい。」 知っているっていうことはこの人のか。良かった。 「良かった。落とし主見つかって。どうぞ。」 俺はスマホを渡した。 「良かったー。いや、ありがとうございました。もし良ければお礼させてくれませんか?」 男が言う。 「いやいや、結構ですよ。大したことはしてないので。」 「そんなこと言わずに。」 「いやいや。」 「いやいや、ホントマジで。来いちょっとお前。」 え?怖。なに? 俺は半ば強引にお礼をされることになってしまったらしい。 交番から少し離れたベンチに座らされ、男が話し出す。 「なんで?」 「は?」 「なんで交番に届ける?」 「え?だって落としも……。」 「十億円だぞ!欲しくないのか?」 あぁ、この人なのか。なんか察した。 「いや、欲しいです。」 「じゃあなんで!」 「でも、十億円手に入れる『チャンス』なだけですよね?」 「まぁ、うん。そうだけど。」 「じゃあ面倒くさいので、いいです。」 「え?待って、十億円だよ?普通に働いて十億円稼ぐのすごく面倒くさいよ?なのに?」 「確かにそうですけど、ちょっと胡散臭いし、十億円って言われてもなんか多すぎてよく分からないし、あと、実家長野なんで、またここに来るの面倒くさいので……。」 「え?え?え?お前にとって十億円は長野から東京に来ることより下なの?」 「いや、十億円は上ですけど、十億円を手に入れるチャンスは下ですね。」 「うっわ!マジか?なんで?」 「さっきも言いましたけど胡散臭いし、チャンスっていうことは何かさせられそうな気がするんです。」 「まぁ、させるよね。」 「ですよね?そして何かさせられた上で手に入らない可能性の方がたぶん高いですよね?」 「うーん。まぁそうかな。」 「そして手に入らなかった上で、また長野に帰らないといけないし、そもそも拘束時間とか、何をして何を成せば手に入るのかも分からないのに。」 「えー、あー、そう。…………そうかぁ…………。」 「あー、あと自分が手に入れられなかった場合、誰かが手に入れる瞬間を見るのもちょっと……。」 「へー。そう?そうなんだ?」 「だから、まぁ、いいかなって。」 「分かりました。お帰りください。長野に。早く。」 「いや、出張中なので明日までは東京にいますけど。え?」 「じゃあ俺が帰るわ。」 「は、はぁ。え?お礼は?」 「うるせぇ!知るかぁ!」 男は帰っていった。 俺が悪いのだろうか。 東京怖っ。
ゴミを拾う人
ゴミを拾う人は正義か。 私は正義だと思う。 学校や会社の敷地内に落ちているゴミを何気なく当たり前に拾う人を、私はカッコいいと思う。 正義だ。 だからゴミをポイ捨てする人は悪だ。 例えば、ゴミ箱に投げ込もうとして、入らなかったのに改めて入れずにそのままにしておく人はポイ捨てしたと同じだ。 悪だ。 正義も悪も立場で変わるのだろう。 ゴミをポイ捨てする人からしたら、ゴミを拾う人は悪か? どうなんだ? ゴミに気付いているけどあえて拾わない人は悪か? どうなんだ? ゴミをポイ捨てする人の心の中はきっと、 「アイツ、俺が捨てたゴミを拾いやがった!まるで俺が悪いことをしてるみたいじゃないか!チクショウ!アイツは俺を悪に仕立て上げようとしている悪人だ!」 こうか? ゴミに気付いているけどあえて拾わない人の心の中はきっと、 「面倒くさい。手が汚れる。俺のやることじゃない。なんで俺が拾わなきゃいけないんだ。誰かが拾うだろう。誰かに拾わせればいい。知らんがな。」 こうか? よし、両者悪! と、決めつけるのは早いかもしれない。 なぜなら各々善悪の線引き、つまり『ここからは悪』、『ここまでは悪』みたいな基準が違うからだ。 ポイ捨てする人は、きっとポイ捨てを悪いことだと思っていない。 程度によるがポイ捨ては罪にならない。厳密に言えば罪ではあるが、先述したゴミ箱に入らないポイ捨ては罪にならないだろうし、その辺の道路にペットボトルを捨てたとして立証しにくい。 だから悪いことをしている自覚が芽生えにくいし、客観的には『ほんの少しだけ悪いこと』で済んでしまうのは事実だ。 落ちているゴミに気付いているのにあえて拾わない人はポイ捨てという善悪に関わりたくないだけなのかもしれない。 まさに、知らんがなの精神だ。 確かにわざわざ関わるほどのことでもないのは事実だ。 面倒くさい。 手が汚れる。 俺のやることじゃない。 なんで俺が拾わなきゃいけないんだ。 誰かが拾うだろう。 誰かに拾わせればいい。 これも、まぁ、全て事実ではある。 が、胸を張ってそれを言えるかどうかは疑問である。 そうか、キーワードは『胸を張れるかどうか』かもしれない。 自分がやったことに対して胸を張れる時は正義なんじゃないか? それぞれの立場で、それぞれの抱えている理由で正義か悪かは変わる。 自分がやったこと。やっていることに対して確たる理由があって、その行動に胸を張れるのならそれは正義だ。 そんなことを考えながら私は地域のゴミ拾いをしていた。 その私の目の前で空き缶をゴミ箱めがけて投げる若者。 若者が投げた空き缶はゴミ箱の左脇に当たり地面に落ちた。 若者は気にも止めず立ち去る。 ゴミが生まれた。 たった今、私の目の前でゴミが生まれたのだ。 若者がいなければゴミは生まれなかった。 あの若者もゴミなんじゃないか? ゴミは拾わなければいけない。 でも、あの若者は生きている。 ならばゴミではない。ギリギリだが。 あ、じゃあ死んだらどうか。 ゴミか? 例えば私があの若者を殺したとしたらゴミを生むギリギリゴミではない人をゴミにするということだ。 しかし、その時点で私は新たなゴミを生んだことになってしまうな。 それは胸を張れる行いだろうか? 殺すという行為は胸を張れる行為ではないな。 ゴミを生むという行為も胸を張れない。 今私がやっているのはちょうどゴミ拾いだった。 そうか。 じゃあ大丈夫だ。 胸を張れる行為だ。 ゴミ拾いは正義だから。 私は胸を張ってゴミ拾いを続けよう。
選択
自分の中の自分が自分じゃなくなっていく感覚。 『自分はこうであろう』 『自分はこうでありたい』 そういった、ある種の欲望を抱えて人は生きていると思う。 何かしらの原因で自分の『こう』から外れてしまった時、人の本質は表れる。 例えば私が『常に冷静な自分でありたい』と思っているとする。 そしてある時、上司に言われたことに対して納得がいかなくてブチ切れた。 この時の私は冷静ではなく、本質は『ブチ切れる人』であったと言える。 またある時、上司に言われたことに対して納得がいかなくてブチ切れ寸前までいった。 三十分後、上司にもう一度話しかけ、納得がいくまで擦り合わせをした。 この時の私の本質は『選べる人』である。 そう、『選ぶ』のだ。 ブチ切れないことを。 『こうありたい』から外れた時、外れそうになった時、『こう』に戻ってくることを選べる人に私はなりたい。 人は無意識下で行われているものも含めて一日約三万回もの選択をしていると言われている。 人の本質は選択した結果の積み重ねとして表れる。そう言ってもいいだろう。 君が何をどう選択して、今そこにいるのか。 君が『どうありたいか』と思っているかは知らないが、君の選択はソレで本当にそれでいいのか? なるほど。君は争うことを選択したんだね? 争いを避けるという選択もできたはずなのに……。 人間は愚かな生き物だと心から思う。 私はできれば争いたくないというのが本音だ。 最後にもう一度問う。 「本当にチーズケーキ味を選ぶんだね?」 そうかよ! じゃあジャンケンだ!ゼッテー負けねーかんな! 行くぞオラァ! ジャン! ケン! ポン! うぁぁ━━━━!負けたぁ━━━!!! チクショォォォ━━━━━!!!! まぁいいか。バニラも美味いし。 あ、もし良ければチーズケーキ味一口ください。
流木-第二章-
『ホールインワン保険』というものをご存知だろうか? ホールインワンとは何か? ゴルフに詳しくない人も聞いたことがある言葉かもしれない。 簡単に言うとティーショットという一番最初に打ったボールがそのままカップに入り、一打でホールアウトすることだ。 滅多に起こらない現象である。 凄いことである。 祝福されるべきことである。 疑問に思った人がいるだろうか? 私は疑問に思った。 「保険」??? なぜ祝福されるべきことに保険が必要なのか? がん保険、自動車保険、自転車保険。 病気、事故に備えるものが保険だ。 ホールインワンは事故なのか? 調べてみると驚くべきことが明らかになった。 日本のゴルフ文化ではホールインワンをすると、同伴者へのお祝い、キャディさんへの心付け、記念品(ボール・タオル・盾など)、祝賀会などといった出費が『本人負担』になることが多く、合計で 10万〜50万円以上かかるケースがあるらしい。 気持ち悪っ!!!!! ホールインワンは努力の結果の証ではないのか。 ボールをカップに、いかに少ない打数で入れるかを競う競技での最高のパフォーマンスなのにも関わらず、その最高のパフォーマンスを披露した本人が周りにお金を使わなければならないという文化。 逆なら分かる。 同伴競技者がホールインワンをしたらお祝いを渡す。ホールインワンをされた側からしたら競技に負ける原因になるかもしれない。しかし、素晴らしいことをやってのけた同伴競技者に祝福の意味を込めてお祝いを渡す。パーティーを開く。そのための保険。 しかし、逆なのだ。 もう一度言いたい。 気持ち悪っ!!! 海外ではそんな保険は存在しないらしい。 なぜなら先述の通り、海外では周りが負担し、祝うからだ。 そしてさらに驚くべきことはこの保険が、四十年以上前に出来た保険だということだ。 ホントごめん。 これ最後。 気ん持ち悪っ!!! 成功に保険が必要になる社会。 そのうち『出世保険』なるものが売られるかもしれない。 昇進したことに対する保険だ。 本来なら出世は祝うべきことである。 能力を認められ、出世し、その地位と能力に対して役職手当などを得られ、報酬も上がる。 しかし、現代社会では出世は罰ゲームと化している。 責任は増え、関わる人も多くなるがゆえに付き合いにかかるお金も増え、気苦労も増える。 会社のために、自分のために努力して素晴らしいパフォーマンスをした結果、自分の首を絞めるという結果になる。 ホールインワンと出世は同じである。 さて、この新しい商品を保険会社はいつ生み出すのだろうか。 それとも私が知らないだけでもう既にあるかもしれない。 あった。 っていうか言ってた。 保険という名前を名乗らない、ステルス保険だ。 出世を事故と捉えた場合に払われる保険金。 『役職手当』 毎日気苦労を背負った分に対して毎月支払われる保険金だ。 報酬だと思っていたものが実は保険金だった。 これは奇しくも以前に私が書いた『流木』が実は『流プラスチック』なのかもしれない。ということに繋がっている。 いや、分かっている。 屁理屈だ。 屁理屈だし、この理論も『流プラスチック』である。 言うなれば「流木を流プラスチックに見せようとしている」理論である。 ただ、どうしてもホールインワン保険だけは納得いかないんだ。 だから私はホールインワン保険を貶めるためにこれを書いた。 そして正直なところ、この文章が読者様にとって『流木』に見えようが、『流プラスチック』に見えようがこの際どうでもいい。 今本当に私が言いたいことは一つだけだ。 そろそろお題変えてくれねーかな。
いつから食べていないと錯覚していた?
例えば『私達はもう毒林檎を食べている』としたら、それはそれで納得できてしまう。 前提として、普通の林檎は何も起きない。つまり平穏な日常。 林檎にまつわる逸話は多い。 「アダムとイブ」 善悪と知識の木の実 「イズンの林檎」 時間 生命維持 「ニュートン」 閃き 「白雪姫」 破滅への選択、からの救い 「林檎は木から遠くへは落ちない」 運命や宿命 毒林檎は、 『運命の人に出会える』 『人生が変わる』 たぶん私達はもう食べている。 なぜなら生きていれば起こり得ることだから。 きっとそれはパイ生地から丁寧に作られたアップルパイだ。 間違えちゃったんだろうね。普通の林檎と毒林檎を一緒に煮込んで不規則に生地に並べちゃったんだ。 だから平穏な日常が急に変わったりするのかもしれない。 迷惑な話だよ。こっちはただただ平坦に、平凡に生きて、そしてただただ穏やかに死を迎えられればいいのに。 毒林檎混ぜるなよ。 このおっちょこちょいヤロウが。 でも、やっちまったもんはもうしょうがない。こっちはいつの間にか食べさせられていたんだからどうしようもできない。 でも一応まだ生きているようだし。 じゃあ死ぬまで生きてみるよ。 そうするしかないんだから。 誰が運命の人なのか、誰が運命の人だったのか、これから運命の人に会うのか知らんけど。 これからの人生がどのタイミングでどういう形に変わるのか知らんけど。 落ちた木の下から転がって移動することもできるんだから。 破滅を選択しないように、時に閃いて、時間を気にして、生命を維持して、善悪という知識を身につけてコロコロコロコロ…… しなきゃダメなのかな?めんどくせ。
シ。
良い機会なので死について久しぶりに真面目に考えさせていただく。 私が人生で一番最初に、明確に「死にたい」と思ったのは中学二年生の時だった。 私は虐められていた。 クラスで無視をされていたのだ。 登校拒否にもなった。 若い頃に考えていた「死」は漠然としていた。 ただ「学校に行きたくない」という理由だけで、この世からいなくなりたい。そう思っていたから「死にたい」と思っていただけだった。 二度目は再就職したての時で、不安に駆られすぎて「死にたい」と思っていた。 この時は新しい環境に入り、周りの人々が皆んなスーパーマンに見え、今までやってきたことが全く通じない絶望感と不安に耐えられずに「死にたい」と思っていた。 私はメンタルが雑魚である。 メンタルが雑魚であるが故に、私は弱っている人や、悩んでいる人を自分に重ねてしまう習性がある。 ネットやテレビなどで切ない事件を見る度に、表しきれない怒り、哀しみが湧いてしまうのでそういったニュースは出来るだけ見ないようにしている。 叔母が二年ほど前に亡くなった。 死因は癌だ。 闘病生活は大変そうだった。 抗がん剤治療をしていたが、抗がん剤は味覚を奪うという副作用があるそうだ。 言い方が悪いかもしれないが、余命が少ないということで、父が奮発し、良いお刺身や、良いお肉を用意し、叔母に振る舞った時があったが叔母は元気が無かった。 聞けば「泥の味がする」とのことで、私はなんとも言えない気持ちになった。 そして叔母は抗がん剤治療をやめた。 抗がん剤治療をやめるということは、つまり……。 しばらくして叔母が何かを食べて、明るい顔で「美味しい」と言った時、私はまた、なんとも言えない気持ちになった。 その後、母が糖尿病になった。 初期の糖尿病ということで、薬と、食生活の改善と、適度な運動をということで、母は真面目に実行し、しばらくしたら80キロほどあった体重が50キロ台に落ちていた。 逆に周りに死ぬんじゃないかと心配されるほどに痩せた母が最近乳癌の手術をした。 これも幸い初期の癌だったので癌細胞とその近くのリンパを摘出し、現在は放射線治療を頑張っている。 死を追う者。 死を受け入れる者。 死を遠ざけようとする者。 歳を重ねると「生きたい」と思う気持ちが強くなるらしい。 子供や孫の存在が大きいのか。 特に孫の成長はお年寄りからしたら人生最後の楽しみなのではないかと思う。 私には幸か不幸か子供がいないので、子供の成長を見たいとか、子供のために、孫の成長とか、そういったものも無く、現時点ではいつ死んでも良いと思っている。 ただそれはまだ死を近くに感じていないからだと思う。 体長八十センチのゴキブリが近くにいたらどうする? 私は一目散に逃げるし、絶対触らないし、触りたくないし、見たくもない。 死を受け入れるということは八十センチのゴキブリに触られながら生活するようなことなのかもしれない。 私は八十センチのゴキブリと一緒に生活するくらいなら死にたい。 でも、いつ死んでもおかしくない人は八十センチのゴキブリと一緒に生活できていることを幸せに思うのかもしれない。 どんな死に方をしたいか。 私は八十センチのゴキブリに触られた事に気づかないような死に方がいい。 真面目に考えたつもりが、なんでゴキブリが出てきてしまうのだろう……。 結論として、私にとって死とは『体長八十センチのゴキブリ』のようです。
私がペットボトルを捨てるまで
怪我をした。 ブロックを足に落として骨折をした。 「しばらく仕事をしなくていい。」 そう思った。 足が動かないので社内業務をやれ。 とのことだ。 両手の指を骨折した。 「社内業務をやらなくていい。」 そう思った。 毎日がエブリデイホリデイだ。 毎日家にいるとお母さんがうるさい。 鼓膜を破った。 「何も聞かなくていい。」 そう思った。 お母さんが筆談してくる。 煩わしい。 目を潰した。 「何も見なくていい。」 そう思った。 何も聞かなくていい。 何も見なくていい。 何もしなくていい。 お前が望んでいるのはこういうことなのか? 違うだろ? お前は『何も出来ない理由が欲しい』だけだ。 みたいなことを頭の中で何周も何周もしてるだけで一向に掃除をしようとしない私です。 動こうとすると、猫が、猫が鳴くんで、構っちゃうじゃないですか。 そしたら写真とか撮って、そしたら過去の写真とか見ちゃって。 そのまま猫を膝の上に乗せて。 そのままケータイ弄り続けて……。 あー、今日も掃除できなかったって。 じゃあ、もう、掃除しないって決めちゃえば逆に良いじゃない。 とか開き直ってしまうのも良くない。 って、分かってはいるんですけど、やっぱりどうしても……あーぁ……。 って、そういう考えがグルグルと頭の中で……………。 って自己嫌悪に陥っているのならそれは間違いであり、正解だ。 まず今日は『掃除を出来なかった日』ではない。 今日は『猫を膝に乗せた日』だ。 客観的に見て、悪くない一日だったのではないか。 そんな毎日がずっと続けばいい。 ただ、今日と明日は違う日だ。 だから明日は今日とはほんの少し違った一日にしてみてはどうか? 例えば『猫を膝に乗せたまま机の上の要らない物をまとめる日』なんていうのはどうだろう。 一気に何かをしようとするからやる気が起きないのではないか? 目の前の何か小さな一つのことに、『まずは』手を出してみたらいい。 十キロメートルの道のりを歩くことを考えるから歩く気がなくなるんだ。 足を一歩、前に出すだけでいい。 そのうち、気付いたら十キロメートル先の目的地に辿り着いているかもしれないから。 このように一見まともそうな理屈を並べて、間違ったことを正解のように、正解を間違ったことのように伝える人を『詐欺師』と言う。 詐欺師は事実のみで嘘をつくのだ。 無駄に長い話をする人には気をつけた方が良いだろう。 ところで今まさに無駄に長い話をしている私は詐欺師なのか? 事実のみで嘘をつけているのか? もしかしたら私は詐欺師にもなれていないのではないか? 言うなれば『偽詐欺師』だ。 偽? 詐欺師ではないということか。 なんだ、良いことじゃん。 そんなことはどうでもいい。 どうでもいい通り越して降りる駅に困ってしまっている。 こんな意味の分からない長い文章をここまで読んでくれた君は相当な暇人なのであろう。 可哀想に。予定ないんだね。 そして、こんな意味の分からない文章を書く私が一番の暇人であることは言うまでもないのだ。 とても可哀想だ。私。予定ないんだよ。 今年も可哀想な私は、猫と、妻と、私の文章を読んでくれている皆様に、感謝しながら生きていきます。 ついでに同僚とか上司とかにも感謝します。 遅くなりましたが、本年もよろしくお願いいたします。 などという安直なオチで終わってなるものかと! 私はなんとかこの駄文をさらに駄文にするべく無い知恵を振り絞っている。 幸いと言っていいのかどうか分からないが、今、実際に猫が膝の上に乗って眠っている。 こうなったら耐久戦だ。 『耐久?』 と思っただろうか? そう、これは耐久戦。 私と猫の。 題するのであれば、 『猫がいなくなるまで書くのをやめない』 え?マジで? どうすんの?三時間とかこのままだったらずっと書かなきゃじゃん。 いや、「暇」だとは言ったけどさすがにちょっと……。 アナタはこの考えをどう思うだろうか。 『やめればいいじゃん』 まさにその通りだ。 書くのは自分次第だ。 書くのをやめるのも自分次第だ。 いつでもやめられる。 逆にいつでも始められるのだ。 掃除を! 今!まさに目の前にある机の上の空のペットボトルを少し端にずらせば!机の上にスペースが出来ることを私は知っている。 先述した小さな一歩などいつでも踏み出せる。 の に も 関 わ ら ず 私は猫を膝の上に乗せたままケータイに文字を打ち込んでいる。 愚かだ。 ほんと あ、猫どいた。何このタイミング。空気読めんの?猫。 ちなみに『の に も 関 わ ら ず』のちょっと前くらいからテレビを見ていて結構時間が経っている。 よし!ペットボトル捨てよう!絶対捨てよう! あ、改めまして今年もよろしくお願いします。