朝日奈華名-HANA-
19 件の小説学生時代
自分の学生時代のお話。 中学校は、まぁ楽しかった。 高校生は、まぁ楽だった。 専科時代は、とてつもなく辛かった。 思えば心が死んだのはこの時代だった。 「いじめ」って良くないよ。 本当に良くない。 だって被害者側は「心を失う」んだから。 よく、被害者側にも理由があるとか言うけど、結局加害者側が虐めをやったら、全て悪いのはそっちなんだから。 開き直るなって思うかもしれないけれど、結局を言えばそうなのだと思う。 誰しも理由があれど、やった事は変えられない事実、それが表に出るか出ないかなだけで、変化はあまりない。 表に出ても揉み消す学校側、 対抗する被害者側になるだけで、 いつかは認められるが、壮絶な戦いを強いられる。 辛いのは代わりがないと私は思う。 何が重要かって、 「虐め」が存在する世の中がおかしいって事だと私は思うんですね。 これが無ければ、本来天命を全うできるのに、有るから出来なくなる事があるんですよ。 それって、「虐め」によって他人の人生を邪魔したって事だと私は思うんです。 奪ったって事なんですよ、 それを蔑ろにする世の中が私は嫌い。 だから私は当時言ったんです。 先生に虐めだという事を話したんです、 でも真に受ける人はいなく、 とりあえず、距離をとってるみたいに終わらされた感覚でした。 「あ、大人は対応しないのね」と、19歳手前の自分は思いました、 そしてこうも思いました、「こんな大人になりたくない」と。 人の人生に、傷をつける行為は許されない。それをきちんと大人は理解せず、 大人になっても虐めを行う。 だから、やられた側は人で居ることをやめてくのでは無いかと、思うんです。 諦めちゃうんですよ、存在するのを。 私も何度も諦めようかと、思いました。 でも、持病でギリギリ生きながらえた命、手術を幾度と繰り返し繋げた命を粗末にするのは勿体ない。と思えたから今を生きています。 終
精神論なんて信じない。
精神論を唱える人は沢山いる。 「今の若者はメンタルが弱い」と、 唱える者も沢山いる。 精神論で何でもかんでも、 乗り越えられるそんな時代はもう無い。 時代遅れの考え、やり方を押し付けるのも大概にして欲しいと願うばかり。 「今の若者」という言葉は、 私は差別用語だと思っている。 じゃあ、「昔の人」と言われたい?と 問いたくなるのである。 「これだから昭和は」とか言われたい?と 「平成生まれは軟弱もん」だの、 言いたいだけ言って、訴えられるのは君達だろう、と私は思っています。 そんな上の方々はよくある精神論を 言って来るのがオチ。 「メンタルが弱い」「自分の気持ち次第だろ」などという戯言はうんざりだ。 そんな言葉をかけて、周りの若者が次々と退社している事実を、君は見た方がいい。と上司に言いたくなる。 ほぼほぼ、君のせいだよと。 自分の気持ち次第だろって何?と、 何様なのかな貴方はと、私は問いたい。 そんな人と同じ空間に、誰しも居たくは無いだろう。 自分より上には胡麻をすり、 部下はないがしろ、なんなら男尊女卑ときたもんだ、時代遅れの象徴ここにアリ!!…と言ったところだろうか。 何を言っても無駄な人種だった。 面談も無駄な時間だった。 そう思われてるとも知らず、男尊女卑を続ける上司に呆れて何も言えない。 そんな自分は疲れ切ってしまった。 精神論は万人に通用しないということを 学んで頂きたい。 終
無限の勇気
きっと何でも無限だろう。 お金は無限じゃあないけれど…。 無限の可能性、無限の勇気と何でもかんでも無限と付ける人が世の中にいる。 何で、全てにおいて無限にする必要があるだろうか…。理解できない部分である。 私は『頑張れ』と言われるのが嫌いだ。 何故、頑張れと言われなきゃならない、これ以上どう頑張ればいい?と思ってしまうからである。 案があるなら教えてくれよ、といつも思う。 その『頑張れ』はただのプレッシャーにしかならないし、気持ちが萎える言葉でしか無い。勘弁してくれと、毎度思う。 人の頑張り方は無限大だろう。 だけど、それは人それぞれのやり方によるだろうと、私は思う。 その人その人の力の源にもよるだろう。 それを見いだせるのは本人だけ、または愛する人だけなのではないかと、私は思う。 小さな勇気が1歩の始まり。ではあるがその1歩はいつ、どこで踏み出せるかは本人のタイミング次第である。 だからこそ、本人の意見を聞いてから『頑張ってね』と言えばいい。 理解もしてないのに、簡単に口から『頑張れ』と、戯言を吐く。 そんな大人にはなりたくないと思った。 だから私は他人に対して『頑張れ』とは一切言わない。『頑張ろう』とも言わない。もし言わなきゃならないならば『一緒に頑張ろう。』と言うだろう。 なぜなら無責任の頑張れより、私はこう言われた方が頑張る気持ちを少しでも向上させることが出来るからである。 どんなに小さな夢でも、小さな1歩が大事なのだから…。 それならば、小さなお手伝いをしたい。 それが、その人の力になるのであれば。 見返りは要らない。大丈夫、自分のことは自分で考えるからね…。 終
自分革命
変わりたいと思えば思うほど、変われない時が常々。…その思いをしまい込みそっとしてたら、変われたりもする。 変わろうと思って変われる時もある。 私が思う『自分革命』は、多分まだまだこれからなのだろう。 変われた事は、少なからずあるだろう。 でも、変われてない所もあるだろう。 自分は理想はこうなのに、こうなれないと落ち込む場合もあるでしょう。 だからこそ、落ち着きを取り戻し、一度頑張りすぎない時を作るのも大事なのだ。 緩くって言うのも大事だと思った。 気ままに生きると言うのも大事で、それは自分の心を守る為であると、私は思うのです。 『自分の心を守るのは、自分しか居ない。』と思えるようになっていった。 何故そうなったか、それは学生時代に遡る。…専門学生時代の自分は、最初の頃は虐められてると気が付かず、『なんか嫌なことしたかな?』と思っていた。 その学校に同じ学校の出身の女性も居なかったから、友達を作るのが苦手な自分は周りに合わそうとしていたけれど次第に、はじかれて行った。 そして中期に気がついた、『無視されてるし、これは辛いな。』『虐め…かな』と、本当の事を言えば辛かった、先生も当てにならないので言わなかったし、親にも言えなかったからこそ、ズンズンと私は心は沈んで行った。 このような経験から、私は『心』を守らなきゃならない。それを出来るのは自分しかいない。そう感じて今を生きています。 だからこそ、変われるところは変わろう。自分の好きな自分になろう。 ナルシストとかではなく、ただ自分で自分を大事にしてあげられないなら、誰も見てくれないだろう。と感じたからこそ、少しずつ頑張ろうと思います。 ゆっくりで良い、大丈夫。 自分革命は、気持ちの余裕にある時に進めるものだから。 終
自己嫌悪
自己嫌悪が酷い時がある。 『なぜ出来ないんだろう。』と悶々と悩み続ける日々が続く今日この頃。 私は何故、こうなのだろうと考えてしまう。 理想と現実はだいぶ違うとは、よく言ったもんだ。…本当に違うんだから。 上司は言う『最近の若い人はメンタルが弱い』と、これは私は差別用語だと思っている。 どんな年代の人でもメンタルの弱い人、強い人、普通の人に別れるだろう。 なのに、この上司は『最近の若い人』という単語をよく使う。 何故、そう考えが硬いのか。私には到底理解できないことである。…理解したいとは思わないことだ。 大変申し訳ないが、この上司に対して嫌悪感しかないのだ。 私は心の中でこの人を『歩く騒音』と呼んでいる。理由は簡単、足音がとても煩く、引き出しや物をしまう音などもとても不快なくらい、煩いからだ。 どういう神経をしているのか、理解できない。 周り見て無さすぎなのでは?…と思ってしまう程である。 本人には言い難いが、尊敬は出来ないタイプの人物で、なんでも人任せで自分の上の人には良い顔、なんとも古臭い人だと私は思っている。 私はこの上司が本当に無理なのだ。 自分への期待は自分が一番しない様にしている。何故なら出来ない時の対処が出来ないからだ。本当に難しいと思っている。自分まず好きになれなさすぎて、常に自己嫌悪を抱いているのに、仕事で失敗をしたりした場合、もっと自分を追い込むだろうと、気がついたからだ。 でもここ最近、思い出した言葉がある。 学生時代の先生の言葉だ。『自分が苦手と思う人程、成長させてくれる題材になる。』と。 こうならないようにしよう、こういう所は見習おうと思うようにする。それが大事だと言っていた気がする。 どんなに苦手な人でも、自分が成長する為の存在だと思えばいい。そう思えるように少しずつ前に進もうと思う。 無理に走るのは禁物。ゆっくり自分のペースで登り続けるのが大事だと思う。 『大丈夫、ゆっくりでいい。』 『自分ならいつかできるよ。』と、 自分自身に言ってあげるようにしようと思う。 終
時計
私は時計が苦手だ。 チクタクチクタクと鳴り響く針の音が、耳障りだったから。 今でも寝付けない夜の時計の針の音は、少し不気味に聞こえる。 チクタクチクタク …チクタクチクタク…と鳴り響く。 気になって仕方ない、寝れない。 何故だろうか、夜の時計の針の音は不気味に聞こえるのは。 『あぁ、うるさい。』と呟く夜は幾度と続いている。 いつしか壊れるだろうと思いつつも、 壊れたらまた新しいものを置く。 そしてまたチクタクチクタクと、音を響かせるのだろう。 この繰り返したのだろうと、私は思う。 チクタクチクタク… …チクタクチクタク チクタクチクタク… カチッカチッと音を立てることもある。 アラームの針と被る時、カチッカチッと音を立て、『ジリリリリッ』と違う音を出す。 そして目覚める、私はいつも思う結局頼りになるんだよなと。でも音は苦手だ。 もう少し静かに、チクタクチクタクしてくれはしないかと、思い更ける。 目覚ましのアラーム音も、もう少し目覚めのいい物にならないのかと、思ってしまうのも事実。 目覚ましを開発した人はすごいなと、思いながらも音に耐え兼ねる私は、まだまだなのだろう。 笑えてくる、結局壊れても買い直して使い、頼りにしているのだから…。 終
やらない後悔よりやって後悔
『やらない後悔よりやって後悔』これが私の、座右の銘です。 意味は見たままなのですが、今まで私は「諦め癖」が強く、何でも「無理」と決めつけ、目を背けてきました。 でも、世の中の人達や、ドキュメンタリー番組を見たりしていたら、世の中にはこんなに頑張って生きている人、何事も挑戦してる人が居るんだなと、つよくかんじ思いました。 だからこそ、私も少しずつ前へ進むべく「無理」という言葉を吐くのを減らしていこう。と決めたのです。 本当にここ数年ですが、少しずつでいい進んでみよう、挑戦してみようと思えてきました。 何事も本当に自分次第で、やり方次第。 何か発見があるかもと、思いながらやってみたいと思っていた事を今、私は始めています。 その一つが小説を書く、ということなんです。 他にも沢山あります。 一つ一つ、挑戦していこうと思っていますが、皆さんは何かありますか? 私の挑戦したいことは、小説を書く以外でですと、「YouTube」や「ブログ」だったり「色々な興味のある資格を取る」だとか「ハンドメイド作家」にもなりたい。と色んな欲で大変ですが、全部やってみようと思っています。 『休みながら』ですけど、やはり何事も挑戦ではありますが、休暇も必要と考えます。 心が沈んでる時にいい作品は生まれにくいと考えてて、気分が乗らないと上手くできないなと思って休みながら頑張ろうと思います。 人を羨んでる暇はない。そう思うようになれたのは、一人暮らしを始めてからでした。 それまでは、『なんで』『私なんか』と『また劣ってる』と友達と比べては塞ぎ込んで落ち込んでく日々でした。 この考え方が自分の心を壊してたと、ハッキリわかったのは、転職して実家を離れた2022年4月ぐらいの話です。 本当に良かったと、今では思います。 あの頃の自分に言ってあげたい、『そんなに思い詰めて苦しく生きなくていいよ。大丈夫だよ。』と。伝えてあげたいと思うほど、今は考え方も捉え方も変わりました。 その友達には申し訳ないけれど、遠ざけました。比べてしまうから、あの子は今のしてる事が優先で、友達は二の次なのだからと分かったからこそ、離れようと思ったのも事実です。 でも、このおかげかもしません。 変われたのは、でも申し訳なさが残ります。今は連絡先も分からないので何も出来ませんが、心の片隅に『ごめんね、ありがとう』という気持ちを持って過ごしてます。 終
全ては自分次第
そう人生は、全て自分次第。 よく耳にする言葉ではありますよね。 私も確かになって思う部分があります。 でもまずは環境なんじゃ?と思うんですね、私は。 生まれた環境にもよりますし、家族の雰囲気にもよりますが、結局は努力できるかどうか、頑張れるかって言うのが大事であったりするんですよね。 否定されて生きてくと、頑張っても全て否定されるのでは?と塞ぎ込んだり、自分を否定してしまったりしますよね。 私はこれと似たような感じで、「病気だからこれはダメ、あれもダメ」と制限がある生活をして過ごしてました、今も制限はありますが、基本的に大人になってからは自己判断という形で、「やる」「やらない」を決めています。 絶対にしては行けないのは、「ウィンタースポーツ」だったり、まぁスポーツ全般NGなんです。 後は処方された薬の影響で、納豆が基本的にダメだったり、食に関しても少し制限があります。 体を動かすにも、休憩を挟みつつストレッチをするだとか、軽い運動をするのを心がけていますが、中々難しいんですよね。 世の中色々な人が居ます。 その他人の個性を差別する人も居ます。 決めつける人も存在します。 その中でどう、自分にとって悪影響を与える人と折り合いをつけ接する事が出来るかと言うのも、全ての社会では大事なのかなと思うようになりました。 それでも上手くできない時も沢山あっていいと思います。 現実的に、私も出来てないです。 私は、基本的には「この人嫌い」とか「この人は好き」的な区別を会社ではしないようにしてましたが、本当に無理な場合もあります。基本的なんとも思いませんが、この人だけは無理。という方が居ました。 それでもいいと思います。 無理に受け入れる必要性は皆無だから…。 そう私は考えます。 無理をして自分を壊すより、どうにか折り合いをつける余裕を作るしかない。そう感じています。 どうにも難しい、そんな時は考えるのをやめて、休んだっていい。泣いたっていいと思う。 でも人前では泣きたくないから家で泣く。それが私のマイルールです。 自分のルールを守りながら、自分次第だと言葉にしてもし何か不満などがあれば、動くか考え、動くならばなんて伝えるか失礼のないようにどうか上手く伝えられるようシナリオを考えてから向かいます。 そういうやり方が楽だと言うか、精神的には安定するような気がしています。 結局は自己判断、自己分析、全ては自分次第なのだと…思います。 終
ココロとカラダ
ココロとカラダはリンクしてる。 思う事が体に影響する事もあります。 沈んだ気持ちになれば、体もだるく感じ沈んだ感覚になります。 逆を言えば、楽しい気持ちの時は体は軽く感じます。 …そう私は思いました。 でも、ここ数日沈んだ日が多いのです。 「やる気」「活気」など、『よっしゃー!やってやるー!!』とはならないのです。 逆なんです。 「何もしたくなーい」「動きたくない」「働きたくない」など、沈んだ言葉を発することが最近多いなと感じてます。 前向きになる。というのも大事ですが、 なかなか上手く前向きになる事が出来ないのも事実です。 無理やり前を向いても、結局気持ちは後ろ向きのままになる事もありますし、「よし!頑張ろう!」からの、「やっぱ無理だよ…」という気持ちへの変換が、素早く行われるので、無理は禁物だと私は思っております。 だからこそ、ココロとカラダはリンクしている、ということでは無いかなとそう感じとっています。 あくまでこれは個人の意見と、考えて頂いて構いません。 人が10人集まれば、10通りの答えが出てきます。例え似ててもそれは1つの意見であり、考えであり、感じ方であるからです。 だからといって否定は良くない。 この人はこういう意見を、考え方をしているんだなと、思う事も大事です。 それでも心が健康でなければ、そう感じてさしあげれないのも事実です。 そんな時は耳がツーツーになってても、受け答えがそれなりになれば、いいんじゃないかと私は考えます。 それは何故か、その場の空気を壊さなきゃ安全だからと私は思っていて、空気を壊す方が大罪に感じるからです。 「こいつのせいで」「空気読めないな」とかげで言われてる?と考えてしまうからこそ、極力そうならないための考え方、しのぎ方を持つようにしています。 だからといって、毎回上手くいくわけではないです。 「え?今聞いてた?」とか「何その感じ」とか、そう感じ取られてしまうこともしばしばありました。 そんな時は正直に『今はこう言う気分で申し訳ないけど…』と事情を話したりしています。 そうすると少しは納得してくれたり、「最初から言いなよ」と怒る場合もありますが、なにも言わないよりは「マシ」と考えます。 結局はその日のモチベーション、感情の状態、体調が混ざってその日の気分が生まれます。 どうにもならないことも沢山です。 どうにか、過ごす事を考えても上手くいかない時があるのもまた人生なのかなと、考え落ち着いて行動するしかないので、大変ではありますが、「ココロとカラダ」は大切にしていかなきゃならないなと感じております。 終
降り注ぐ雨
今日は雨の日。 空から地上にザーザーと降り注ぐ。 今日も憂鬱な気分になると、考えながら布団から身体を起こした。 「あぁ、今日も仕事か…」と呟きながら。 今日みたいな雨の日、曇りの日はとても憂鬱な気分になる。いつもに増して。 元々やる気が起きないタイプの人間に追い討ちをかけるように、やる気を削る。 苦手な上司や先輩、ある程度しか話せない同僚、同期。 なんの為に働いて居るのか、不思議になる時が多々ある。 よく聞かれる事がある、「君は何のために働くの?」と。 普通に会社の人に聞かれた場合は「生きる為、生活の為です。」と答え、 友人等に聞かれた場合「推しの為。」と答える私は、歪んでいるのだろうか? 人によって回答は変えるし、言葉遣いも変わっている。理由は分からない。 ただ一つ、言える事は「人間」が苦手。 という事だ、というか嫌いに近い。 他人が怖い…と言うのが、第一の理由かも知れませんね。 基本的に他人に対し、会社では嫌いとか好きとかで接する事は無い様に心がけてはいるけれど、それでも本当に駄目な人が二人ほど居るのが現状。 そもそも上の立場だからと言って、偉そうにふんぞり返り上から目線でなんでも命令する、そういうのはどうなのか?と私は思う。例え、年下であったり、部下であったりしても、頼む時はきちんと説明をし、こうして欲しい、あぁして欲しい。お願いできるだろうかともう少し下から来るものであると思う。 私がおかしいのだろうか? 私は頼む時は「申し訳ないけど、これをお願いできませんか?こういう風に仕上げたいんですが。」と、極力柔らかく伝えるように心がけている。 …だからなのか、そんな様子もない人達のために、私は働きたくないなと感じている。 でもそれも一種の言い訳と言う人もいるであろうと考えています。 それはそれで他人の感性と認識するようにして居ます。 だって、他人は他人であり、交えない思考が沢山あるから…。 だからこそ、人間関係は難しいなと感じております。 雨が降る日はそれが増して、憂鬱な気分へと変わります。今日は良くても明日は…と考え方がブルーになる、そんな日です。 いつも通りに上手くいかず、不安になり悲しくなったりする。 「でも」「だって」「どうせ」等と、私は言い訳に近い言葉を出してしまう、そんな事が増える、雨の日曇りの日をどう乗り越えて行こうか、と日々格闘。 格闘しても、あまり変化がない時もあり中々自分の中で明るい考えが生まれず、しんどいなと思う事も沢山あります。 それでも進まないといけないのが、人生なのかなと感じています。 未だ私の中では「雨の日」、「曇りの日」は「憂鬱な日」「ネガティブ日」と呼んでいるのです。 どう吹き飛ばすか柄今後の課題、と言った所でしょう。 終