見せない涙。
「じゃあね。」
少し肌寒い卒園式後の夜。
眠りにつこうとしている私の頬を触りながら、お父さんはそう言った。
お父さんの手のひらよりも小さい私の頬に1滴、涙が流れた。
なぜかは分からない、お父さんの口から「じゃあね。」という言葉が出てくるのはそう珍しいことでもなかった。
お父さんがお仕事に行く時やお出かけする時に、よく言ってきた。
聞き慣れた言葉のはずなのになぜかその時だけは、どこか遠くへ行ってしまう、もう会えなくなるということを悟ってしまった。
とても寂しくて、悲しかったのを覚えている。
「おはよう、りん。お弁当ここに置いてあるから忘れずに持っていくんだよ?」
「ありがとう。」
「じゃあお母さん行ってくるから!学校遅刻しないでちゃんと行くんだよ?」
「わかってるよ、行ってらっしゃい」
「行ってきます!」
毎朝起きたら当たり前のように机の上に置いてあるお弁当。
私が起きる時間には仕事に行くお母さん。
これが日課になっていた。
学校に行く支度をして家を出る。
片道40分かけて、1人電車に揺られながら学校に向かう。
学校に1番近い駅に着いたら親友と一緒に登校する。
「あっおはよう!りん!」
「おはよう。行こうか!」
歩いていた時。
「あっそういえば昨日、面白いことがあったの!」
「どんなことぉ?」
「お父さんがね私の妹のぱつぱつの服を着てマッチョポーズしてきたの!ほら見て!あははは!」
「ふふふ!すごいぱつぱつじゃん!」
毎日のようにお父さんのことを話す。
ほんとにこの子はお父さんのことが大好きなんだな。
親友の幸せそうな顔を見ると微笑ましい。
でも心のどこかでモヤモヤするのを感じる。
妬ましい訳でも、恨んでいる訳でもない。
ただ、羨ましい。
そんな日々が3年間続いてた。
ある夜。
いつものように寝ようとベットの上に横になった。
ふとした時に、お父さんのことを思い出して泣いてしまうことがあった。
今日も同じようにお父さんのことを思い出して泣いていた。
しかし、今日はいつもと違った。感情も頭も涙腺も何もかも壊れていた。
「どうせ…いなくなるなら構わないでよ…何も言わずに出てってよぉ…いなくなる前に「じゃあね。」とか言わないでよ…」
次々と感情が溢れてくる。誰か届くわけでもないのに1人で嘆いている。
「…別にいいお父さんになって欲しかったとかじゃなくて…嫌いなお父さんでもいいから私の記憶に残して欲しかった…」
「お父さんとの記憶なんか全然覚えてないよ…ただ最後の別れの時の記憶がずっと残ってるの…ずっと思い返しちゃうの…もう嫌だよ…」
そんなこと言った瞬間。
まるで滝に打たれたように頭から背中にさーっと冷気が通る。
「あぁそっか…違う…違うんだ…間違っていたのは私だ…」
そこで初めて気づいた。
私はお父さんに捨てられたんだ。
お母さんは私を引き取ると決断したんだ。
そう簡単なことではない。
女でひとつで育てていく辛さをわかったつもりだった。でも何も分かっていなかった。
そんなお母さんに、私の勝手な妄想や想像で「お父さんがいなくて寂しい」なんて言った時もあった。
相当辛かったと思う。その時のお母さんの気持ちを考えたらまた涙が溢れてきた。
「ごめんなさい…ごめんなさい…うぅっ…」
申し訳なさと罪悪感で頭がいっぱいだった。
その日は一晩中泣き続けた。
「おはよう!りん…ってあれ…あなた誰かに殴られたみたいに目が腫れてるわよ?大丈夫?」
「うん。大丈夫。うつ伏せで寝ちゃってただけだから!」
「そう。ならいいんだけど。あっお弁当ここに置いてあるから忘れずに!お母さんもう行ってくるから!」
「うん。行ってらっしゃい。」
「行ってきます!」
「あっお母さん!」
靴を履いているお母さんに話しかける。
「どうしたの?」
「私を選んでくれてありがとう。」
「どうしたのよ急に。こちらこそ!」
「行ってらっしゃい!」
そしてお母さんは「行ってきます。」の言葉で仕事へと向かう。
その姿はいつもより大きく輝いて見えた。
(日本の法律上、1人育てるのに平均2000万程度かかると言われている。)