第1話 異臭
ローヤンがその場所に迷い込んだのは、本当に偶然だった。
いつものように友達と遊んでいた帰り道。
知らない路地を曲がり、知らない道を進み、気が付けばそこにいた。
異臭がした。
思わず鼻を押さえる。
腐った食べ物の臭い。
煙草の煙。
何かを焼いているような焦げ臭さ。
そしてそれら全てが混ざった、吐き気を催すような空気。
周囲を見渡せば、崩れかけた建物が並んでいた。
壁は剥がれ、窓は割れ、道端にはゴミが積み上がっている。
蠅が飛び回っていた。
昼間だというのに、路地裏では怪しげな男たちが小声で何かをやり取りしている。
少し離れた場所を流れるドブ川からはさらに酷い臭いが漂ってきた。
ローヤンは震えた。
ここは駄目だ。
そう本能が訴えていた。
帰ろう。
そう思って踵を返そうとした時だった。
人影が見えた。
道端。
崩れた壁にもたれるように座り込んでいる少女。
ローヤンと同じくらいの歳だろうか。
けれど。
その姿はあまりにも異様だった。
骨が浮き出ている。
頬は深くこけ落ち、目は落ち窪んでいた。
肌は土埃に汚れ、服は何色だったのかも分からないほど擦り切れている。
生きているのか。
死んでいるのか。
一瞬分からなかった。
少女は動かなかった。
ローヤンは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
怖い。
怖くてたまらない。
気付けば走り出していた。
振り返ることもなく。
ただひたすらに。
次の日。
ローヤンはまたその場所へ来ていた。
自分でも理由は分からない。
ただ、あの少女が気になった。
昨日よりも臭いが酷い気がした。
それに今日は別の臭いも混じっている。
腐臭。
何かが腐ったような嫌な臭い。
胸がざわついた。
嫌な予感がする。
ローヤンは思わず駆け出した。
そして昨日と同じ場所へ辿り着く。
いた。
少女はまだそこにいた。
ローヤンは小さく息を吐いた。
生きていた。
それだけで少し安心した。
けれど改めて見ても酷い有様だった。
腕は枝のように細い。
首元から浮き出た骨が痛々しい。
正直に言えば。
少しだけ不気味だった。
少しだけ怖かった。
それでも。
ローヤンは勇気を振り絞る。
「ねぇ、大丈夫?」
少女の瞼が開いた。
次の瞬間。
「失せろッ!!」
怒鳴り声が響いた。
ローヤンは飛び上がった。
少女の目は見開かれていた。
今にも零れ落ちそうなほど。
その痩せ細った身体のどこにそんな力が残っているのか分からないほどの声だった。
「ひっ……!」
ローヤンは逃げた。
またしても全力で。
少女の怒鳴り声が一晩中耳から離れなかった。
それでも。
次の日も来てしまった。
馬鹿だな、と自分でも思う。
けれど気になったのだから仕方ない。
パヴァティ地区を歩く。
視線を感じた。
住民たちだ。
皆、焼けた肌をしていた。
服は擦り切れ、身体は痩せている。
自分とは何もかも違う。
綺麗な服。
健康な身体。
温かい家。
自分が持っているものを、彼らは何一つ持っていない。
居心地が悪かった。
肩が縮こまる。
今すぐ帰りたい。
けれど。
ローヤンは足を止めなかった。
少女の元へ辿り着く。
少女は今日もそこにいた。
睨まれる。
敵意。
警戒。
拒絶。
全てが剥き出しだった。
ローヤンは唾を飲み込む。
「は、初めまして!」
少女の眉がぴくりと動く。
「僕はローヤンって言います!」
返事はない。
「あなたの名前は?」
沈黙。
少女の目は獣のようだった。
今にも飛びかかってきそうなほど鋭い。
怖い。
本当に怖い。
ローヤンは一歩後ろへ下がった。
逃げたい。
でも。
逃げたくない。
だから代わりに喋った。
学校であったこと。
友達のこと。
今日食べた昼ご飯のこと。
どうでもいい話を延々と。
少女は一言も返さなかった。
けれど襲ってもこなかった。
それだけで十分だった。
空が赤く染まり始める。
「じゃ、じゃあ帰るね!」
返事はない。
それでもローヤンは少しだけ笑って帰った。
それから何日かが過ぎた。
少女は相変わらず何も話さない。
ローヤンだけが一方的に喋っている。
今日もそうだった。
「それでね! 先生が転んじゃってさ!」
身振り手振りを交えて話す。
少女は無表情だった。
けれど。
ほんの一瞬。
口元が緩んだ。
笑った。
本当に少しだけ。
けれど確かに。
ローヤンは目を見開いた。
「えっ!」
少女がはっとしたように表情を戻す。
だが遅い。
ローヤンは満面の笑みを浮かべた。
「今笑った!?」
少女が露骨に顔をしかめる。
「笑ったよね!?」
ローヤンは嬉しくてたまらなかった。
思わず少女の肩を掴む。
「ねぇねぇ見た!? 今笑ったんだよ!?」
当然誰も見ていない。
けれどローヤンには関係なかった。
少女は呆れたように睨んでいる。
それでも。
以前ほどの鋭さはなかった。
ローヤンは気付いていない。
少女も気付いていない。
けれど確かに。
二人の距離は、ほんの少しだけ縮まっていた。