廃ビルの屋上で
俺は今、廃ビルの屋上で1人、空を見上げていた。すぐ近くには、ひどく俺に懐いたカラスがいた。ここは昔からよく1人になりたいとき、お世話になっていた。大都会のこの街の中で、星が綺麗に見える数少ないスポットなのだ。心が荒んだ時には星を見るのが、1番俺の心に安らぎをくれた。俺はふと、カラスくんに話しかけた。
「なぁ、俺さ。今から死のうと思うんだ。何でそんなことするのか、って思うだろ?いいよ、お前には昔からお世話になったし、特別に教えてやる。そうだなぁ、まずは……」
と、俺はゆっくり昔のことを思い出しながら、語り始めた。
「あー、午後の授業マジダリィ」
昼休みも始まったばかりと言うのに、既に午後の授業へ文句を垂れているのは、俺の一番の親友、亮介だ。亮介は小学校の頃から仲が良かった。だから、俺の家庭事情もよく分かってくれている。
「あ、そういや大雅、現文の課題終わらせたか?」
大雅というのは俺のことで、亮介は忘れっぽいところがあるので、たまに宿題を忘れる。そんなときは俺はいつも見せてやってる。たまに真面目にやってきたときは嬉しそうに俺に見せてくる。
「ああ、終わってるよ。で、それがどうした?」
ごまをするような笑顔で見てくるのでこちらもニコニコしてやった。
「そんな意地悪言うなよ……ほら、俺たち友達だろ?な?」
「宿題見せてほしいです大雅様、って言ってみろ」
「宿題見せてほしいです大雅様!お願いします見せてください!」
「報酬は?」
「いやぁ……りんごジュースでいいすか?」
「しょうがねぇなぁ」
こんなしょうもない交渉を俺たちはほぼ毎日続けていたが、彼との時間は本当に幸せだった。
俺の家は父と俺の二人暮らしだ。俺が小学校に通ってた頃に母を亡くした。昔、母が生きていた頃は、温厚でとても優しい人だった。やはり大切な人の死は、人に大きい影響を与えてしまうらしい。母の死からもう6年ほど経つが父は見てわかるほど痩せこけていき、日に日に仕事にも行けなくなってしまった。そのため今は貯金を切り崩しながら少しでも出費を相殺すべく、俺がコンビニでバイトをして補っている。しかし始めたきっかけは、生活がかかっていると言うのもあったが、何より俺にとっては、家にいることが億劫で仕方なかった。日に日に痛ましい姿になってゆく父を見るのも、仏壇の近くにいて母のことを思い出してしまうのも、家にいても良いことなんて一つもなかった。それほどまでに、母が生きていた頃の生活が幸せだったのだ。
「おーい、大雅ー。授業始まるぞ?」
亮介が声をかけて俺はふと現実世界に戻された。
「あ、あぁ、わりぃ。ちょっとぼーっとしてたわ」
そう言って笑って見せたが、彼に誤魔化しは聞かなかった。
「なんだよ、まだ気にしてんのか?俺でよけりゃいくらでも愚痴聞いててやるから、そろそろ気にならなくなるといいな」
「おう、さんきゅ」
がらら、と音がして先生が授業の合図をしたので、駄弁る時間を終わらせて授業へと意識を向けていった。
今日の授業を終え、バイト先へ向かう。高校生活ですっかり染み付いた俺のルーティンだった。
「おはようございまーす」
「おう!おはよう大雅!今日はそんな人も多くないからのんびり着替えてこい!」
がははと軽快で大胆な笑い声を飛ばしているのはここの店長だ。ういーっすと気の抜けた返事をしながら、ロッカールームに向かい、着替えを済ませる。店に出ると、入ったときから客の気配はなかったが、案の定といった感じで本当に客はいなかった。
「太陽さん、俺が来る前のお客さんどうでした?」
「大雅が来る前から今日は全然来やしねぇよ。なんか妙なことでも起きてんじゃねぇのかって心配になるくらいだ」
いつものように元気に笑ってこそいるものの、その様子は本当に何かあったのかと疑問を感じている様子だ。まさか俺も、この疑問が思っていたよりもずっと身近で起きていたとは全くもって考えていなかった。
家に帰ると、親父がいつもより苦しそうに呻き声をあげている。心配で親父の部屋に駆け込むと、ベットから落ち、胸元を抑え苦しんでいた。
「親父!大丈夫か?おい、返事しろって!」
うう、という苦しそうな呻き声しか帰ってこないので、半ば焦りながら救急車を呼んだ。親父は意識不明のまま緊急入院した。元より痛々しい姿で、いつ朽ちるかも分からない姿ではあった。しかし、親父はまだ50に差し掛かろうと言う年代なのだ。死ぬには若すぎる。俺は必死に親父に生きてくれと願っていた。
親父が倒れた要因はやはり、過度な心労であったらしい。愚直で優しく家族思いな親父だったため、母の死自体も大きく響いたであろうが、それと同じくらい、親父の代わりに働く俺のことや、自分が働いていた会社のことも気がかりであったのだろう。なぜ帰らなかったのかと、俺は自分をとにかく責めていた。
しばらくして、親父はそのまま亡くなってしまった。ただでさえ1人で生きていたようなものだったが、それでも家から身内が1人いなくなってしまったことは俺にとって大きな負担となっていた。色々な後悔が俺にのしかかっていたからだろう。
「おーい、大雅?聞いてるか?」
俺の顔を覗き込みながら声をかけるのは、やはり亮介だった。いつのまにかこの日の授業は終わり、ほうかごになっていた。
「お前、疲れてるんだよ。今日うちに来い。金曜日だし、久しぶりに遊ぼうぜ」
亮介が無邪気に誘うが、俺は生憎受験生だった。
「馬鹿野郎、お前と違って俺はまだ勉強終わってねーの。今日はバイトもねぇし、そういう日くらいちゃんと勉強しなきゃ流石にまずいだろ」
「んー、俺にはわかる。今のお前は勉強なんてしない。いや、できないね」
もしこれを言ったのが亮介じゃなかったら、怒鳴り散らして学校を早退していたことだろう。そして多分、二度とこいつの家には行かなかったと思う。しかしそうしなかったのは、亮介が本当に俺のことをよくわかっていると、俺も理解していたからだろう。
「お前がいうなら間違いないんだろうし、お前の家には行く。でも勉強道具は持ってくし、遊んでばっかじゃなくてやるときはちゃんとやるからな。勉強中話しかけてくんなよ」
おう、と快活に答え、ニコニコしながら帰路に着くのを見送り、俺も一度自分の家に向かった。
亮介の家は昔と変わらず居心地が良かった。両親を亡くした俺にとって、亮介の親が俺を暖かく迎えてくれることは、本当にありがたかった。
「大雅ちゃん、大変だったわね……うちでよかったらいつでもアテにしてくれていいからね?ご飯とかお風呂とか、困るでしょう?」
「いやぁ、元から1人で暮らしてたに近かったですし……親父が働いてた頃の貯金もあるし、俺ももう働ける歳ですしね。でも、ほんとにヤバくなったときは、ちょっと甘えに来ちゃうかもしれないっすね。そんときは、すんません。お願いします」
いいのよ~と呑気に笑って俺のことを受け入れてくれる。亮介といい、亮介のお母さんといい、この家は何故こんなに俺に良くしてくれるのかこれにはよく分からなかった。
その夜、俺と亮介はたくさん遊んだ。中学の頃を思い出しながら、その思い出をなぞっていくように思いっきり遊んでいた。遊びに熱中しすぎて勉強のことなどすっかり忘れていたので、持ってきた勉強道具は結局無駄な荷物となってしまった。
「ありがとうございました、おかげさまでリフレッシュできました」
「もういいのよ、またあそびにきてちょうだいね。亮ちゃんともよろしくね?」
はい、と頷いて、俺は家に帰った。
家で俺は、親父の遺品整理をしていた。すると、母とお揃いでつけていた腕時計が出てきた。結婚記念日に、俺が以前から貯めていたお小遣いで、親にも内緒で近くの時計店までいき、はじめて自分で購入した物だった。あまりにもそれは懐かしく、両親についての記憶を色濃く思い出させた。親父はどんなに痛ましい姿になっても、俺が渡したこの時計はずっと大事にしてくれていた。母が亡くなって、この時計をつけているところを見なかったので、母のことを思い出したくなかったんだろうな、と察してはいたものの、自分の中にある寂しさは誤魔化しきれなかった。だからこそこの時計を見つけたとき、俺は涙がこぼれそうになってしまった。
「おーい、大雅~、いるかー?」
亮介の声が玄関先から聞こえてきた
「上がるぞー」
昔からこうだが、亮介は礼儀というものを知らないらしい。でも今は、このタイミングで一度手を止めないと、感情が体に追いつかなそうだった。
「お前さぁ、そろそろ礼儀ってもんを学ぼうとは思わんか?」
「わりわり、今のお前を見てると心配が勝っちまってよ。いちいちノックなんかしてたらお前が死んじまうかもしれん。そんなもんだからお前の身を案じてだな……」
「いやお前、俺の家きてちゃんとノックしたの数えるほどしかねーだろ」
はて?ととぼけた顔をしている亮介を尻目に、俺はさっきまで勉強していたかのようなふりをして勉強机に向かった。なんとなくだが、遺品整理をしていたことを、少なくとも亮介には知られたくなかった。
「昔っから変わんねぇよなぁ、大雅は。ほんと馬鹿みたいに真面目でよ。お前を見てると、俺もちゃんとしねぇとって感じ。もう俺らも高三だもんな」
「ほんとだよ。亮介はもう少し俺を見習え?」
俺も亮介も進路は同じ大学を志望していた。しかし、全く打ち合わせたわけではないのだ。だが俺たちは学部が違い、亮介はスポーツ医学部、俺は心理学部に行く。こんな様子だが亮介は、間違いなく俺より頭が良く、間違いなく俺より勉強している。こいつは人に努力を見せないのだ。
「俺、色んなアスリートが怪我で挫折してくの見てきたんだけどさ。みんなおんなじ顔してたわ。悔しそうで悲しそうで、切実にもう一度だけ大好きなあのスポーツを!って懇願するような顔してよ。それを目の前で見せられちゃあな?」
進路の話になると、亮介は決まってそういう。そして.俺の顔を見るのだ。俺は昔、野球が大好きなやつだった。でも、ちょっとした事故で肩を強打、2度とボールを本気で投げられない体になってしまった。
「俺のような天才が潰れるのを見たくない、ってか?」
ニヤッとして返すと、亮介もニヤッとしながら
「お前が天才とか100年はえーよ」
と返してくる。きっと卒業してからも、こいつとはずっと、こんな感じでずっとふざけ合ってくんだろうなぁ、とぼんやりと考えている。
しかし現実は、俺が思っていたよりも非情で、ずっと酷なものだった。
「滑稽だな」
自嘲気味に吐いたこの言葉はほとんど皮肉だった。事故に遭った人を救いたい奴が事故に遭って死んだのだ。これを皮肉と言わずなんというのだろうか。
それからすぐ、亮介のお母さんは後を追うように自殺していった。他にも、親父が亡くなってからの1週間でこの町では9人も亡くなった。何かが起きていると思えるくらい、ここ最近の死亡者数は異常だった。
ようやく気持ちが落ち着いてきた頃、久しぶりにバイトに行った。気持ちと受験に忙しくしばらく入っていなかったのだ。久しぶりに気分少し浮ついた気持ちであったのだろう。そしてそこで、俺は更に絶望した。
「おはようございま~、ってあれ、佐々木先輩。太陽さんはどうしたんすか?」
「おう、大雅か……太陽さんはな、亡くなられたよ。まぁ昔っから働き詰めだったし、仕方ないと言えば仕方ないんだけどな」
「え。それ、本当ですか?」
「あぁ、つい3日前の話らしいが俺も聞いたのはついさっきだよ。今度、葬式があるらしくてな、大雅も来るか?」
「そう、ですね……行けそうなら?」
おう、と察してくれたらしく、優しく微笑んでくれた。
バイトを終え、家に帰ってきた。しかし、何もする気が起きなかった。全く寝られないので、いつものビルの屋上までよじ登った。いつものカラスくんが待っていてくれて、俺はひどく安堵した。
「ま、そういうことだ」
話し終えたところで、どこか切なそうにかぁ、と泣き、遥かの空へ飛び去ってしまった。
「さて、と。これで思い残すこともない。俺も、みんながいる空に飛び立つとするか」
そう言って俺は、夜の街へ一歩踏み出した。