刹那
38 件の小説余命1年。
窓外の桜は、すでに瑞々しい葉桜へと移ろいつつある。 若葉の鮮烈な緑が、夕暮れの鈍色に浸されていく様を眺めながら、私はおもむろに万年筆のキャップを外した。 医師から告げられた言葉は、拍子抜けするほど簡潔だった。 「余命一年、です」 その響きには、映画や小説にあるような劇的な重みなど微塵もなかった。 まるで、図書館で借りた本の返却期限を告げられるような、淡々とした、しかし拒みようのない事務的な響きがそこにはあった。 人間は、己の死を突きつけられたとき、烈火のごとく天を呪うか、あるいは涙に暮れて床に伏せるものだと思っていた。 だが、実際に私を包んだのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。 余命を宣告されたその日から、世界は妙に透明度を増し、あらゆる生活の雑音が消え失せてしまった。 時計の秒針が刻む音が、やけに大きく部屋に響く。 チク、タク、と、私の命の残高が削られていく。 かつては無限にあると錯覚していた時間が、いまや目に見える砂時計の砂となって、指の隙間からサラサラと零れ落ちていくのが分かる。 私は、これまで何を惜しんで生きてきたのだろう。 世間体、将来への漠然とした不安、他人の目。 そうした実体のない影に怯え、本当に書きたかった言葉を、心の奥底に死蔵してきたのではないか。 残された三百六十五日。 それは、絶望するには長く、何かを成し遂げるにはあまりにも短い。 しかし、この胸の裡で燻り続けている熱情を、原稿用紙の上で燃やし尽くすには、十分な時間かもしれない。 私は深く息を吸い込み、白紙の原稿用紙に最初の一行を書き添えた。 死が私を迎えに来るのが先か、この物語が完成するのが先か。 指先に伝わる万年筆の冷たい感触だけが、いま、私が確かに生きているという唯一の証拠だった。 死の宣告を受けてから一ヶ月が経った頃、私はそれまで勤めていた古びた出版社を辞めた。 他人の書いた、流行の軽薄な文章を校正する日々に、これ以上私の貴重な砂粒を費やすわけにはいかなかったからだ。 退職金と僅かな貯蓄を崩せば、一年分の家賃と食費、そして最低限のインク代くらいは賄える。 贅沢など初めから望んでいない。 私の肉体は日ごとに蝕まれていくのだろうが、精神だけはむしろ、余計な脂肪を削ぎ落とした剣のように、鋭利に研ぎ澄まされていく感覚があった。 梅雨の季節が訪れると、部屋の中は湿った空気と古書の匂いで満たされた。 雨粒が窓ガラスを叩く規則的なリズムは、私の心臓の鼓動と奇妙に同調していた。 私は朝から晩まで机に向かい、ただひたすらに文字を紡いだ。 「先生、最近お痩せになりましたね」 週に一度、生存確認を兼ねてやってくる若き日の友人であり、今は小さな古書店を営む男、 織田が、心配そうに私の顔を覗き込んだ。 彼は私が病を患っていることを知らない。 ただ、会社を辞めて急に小説を書き始めた私を、奇妙な熱病に浮かされている男として見守ってくれていた。 「ただの粗食のせいさ。胃袋に詰め込む時間が惜しくてね」 私は嘘をついた。 実際には、病魔が私の内臓をじわじわと侵食し、食事を受け付けなくなりつつあったのだ。 しかし、不思議と空腹感はなかった。 原稿用紙に言葉を落とし込んでいく作業そのものが、私の新たな栄養源となっているようだった。 「ほどほどにしてくださいよ。あなたの書くものは、どうにも命を削って削り出したような気配がする。読んでいて、胸が苦しくなるほどだ」 織田が置いていった数冊の資料に目を落としながら、私は小さく笑った。 命を削っているのではない。 命そのものを、このインクへと変えているのだ。 夏が来た。 今年の夏は、例年になく苛烈な日差しが街を焼き尽くしていた。 だが、私の部屋の遮光カーテンは下ろされたままで、世界から隔絶された冷暗所のように静まり返っていた。 病状は確実に悪化していた。 時折、肺の奥からせり上がってくる激しい咳とともに、白い洗面器が鮮やかな赤で染まることが増えた。 喀血の赤は、驚くほど美しい。 それは、私の体内にまだこれほど鮮烈な「生」が残っていることを証明しているようだった。 私はその血を拭い、再びペンを握る。 書いているのは、一人の男が己の魂の根源を探し求めて旅をする物語だ。 それは私自身の虚飾を剥ぎ取る作業であり、過去のあらゆる悔恨との対峙でもあった。 かつて、私には愛した女性がいた。 彼女は私の文学への執着と、それに伴う極貧の生活に耐えかねて、静かに去っていった。 当時の私は、彼女を追うことも引き止めることもせず、ただ己の才能のなさを呪って、引きこもるように会社員になった。 もし、あの時。 もし、別の選択をしていれば。 そんな「もしも」の亡霊が、夏の夜の闇から這い出してきて、私の耳元で囁く。 しかし、今の私にはその後悔を反芻して涙を流す時間すら残されていない。 私はその亡霊たちをも、物語の登場人物として原稿用紙の中に閉じ込めた。 彼らは紙の上で息を吹き返し、私の代わりに泣き、笑い、そして互いを許し合っていった。 ペン先が走る音だけが、夜の帳を満たしていく。 私の指先は、インクの染みで黒く汚れていた。 それは、洗っても落ちない勲章のようであり、死へのカウントダウンを刻む刻印のようでもあった。 秋、木々が枯れ葉を落とし、世界が静かに死を予感し始める季節。 私の肉体は、いよいよ限界を迎えつつあった。 ベッドから起き上がるだけで、体中の骨が悲鳴を上げる。 視界は時折、霧がかかったように白く霞み、万年筆の重みさえもが、鉄の棒のように重く感じられるようになった。 それでも、私は書くことをやめなかった。 物語は終盤を迎えていた。 主人公は旅の終わりに、ある一本の巨木の下へと辿り着く。 そこは、すべての始まりであり、すべての終わりでもある場所だ。 「もう、入院をお勧めします。これ以上の在宅療法は、お体の負担が大きすぎます」 往診に来た医師は、厳しい表情で私に告げた。 彼の目には、哀れみと、同時に私の執念に対する一抹の恐怖が浮かんでいた。 「先生、あと一ヶ月、いえ、あと二週間だけでいい。この部屋にいさせてください」 「しかし……」 「私は、このために生まれてきたのです。ここで倒れるわけにはいかない」 私の眼光に圧されたのか、医師は深くため息をつき、いくつかの強い鎮痛剤を机に置いて去っていった。 薬を口に含むと、意識が泥のように濁っていく。 だが、激痛が去った一瞬の隙を突き、私は再び原稿用紙に向き合う。 朦朧とする意識の中で、私の手は勝手に動いていた。 それはもはや、私の意志ではなく、物語そのものが私という依代を使って、自らを完成させようとしているかのようだった。 窓の外では、秋風が枯れ葉を巻き上げている。 世界が色を失っていく中で、原稿用紙の上の文字だけが、奇妙な立体感を持って躍動していた。 冬。 凍てつくような寒さが、私の小さな部屋を支配していた。 暖房を入れる気力も失せ、息は白く弾ける。 私の手足は氷のように冷たかったが、胸の奥だけは、奇妙なほど熱く燃えたぎっていた。 十二月のある夜、ついにその時が訪れた。 原稿用紙の最後のマス目に、万年筆の先が触れる。 「――了」 その一文字を書き終えた瞬間、私の手から万年筆が滑り落ち、机の上を転がって床に落ちた。 カラン、という高い音が、静寂に響き渡る。 終わった。 すべてを書き尽くした。 胸を突くのは、達成感というよりも、完全な虚脱だった。 私の体内にあったすべてのエネルギー、すべての記憶、すべての血肉が、目の前に積み上がった数百枚の原稿用紙へと移し替えられていた。 今の私は、中身をすべて絞り出された、ただの抜け殻に過ぎなかった。 私は、満足感の中でそっと目を閉じた。 不思議と、死に対する恐怖は一切なかった。 私はこの一年の間に、数十年分の人生を密度濃く生ききったのだという確信があったからだ。 翌朝、部屋のドアを叩く音で、私はかろうじて意識を浮上させた。 鍵を開けて入ってきたのは、織田だった。 彼は私の姿を見るなり、手にしたカバンを床に落とした。 「あなた……一体、その体は……」 私の姿は、骸骨のように痩せこけ、肌は土気色に変わっていた。 誰の目から見ても、死が間近に迫っていることは明らかだった。 私は枕元に綺麗に揃えられた原稿の束を、震える手で指差した。 「織田……それを、君に託したい」 織田は、這うようにして机に近づき、その原稿を手に取った。 最初の数ページをめくる彼の目が、次第に驚愕へと見開かれていく。 「これは……これは、一体何ですか。あなたが、これを書いたのですか……?」 「私の……生きた、証だ。君の店で、あるいはどこかで、誰かに届けてくれればいい」 織田の目から、大粒の涙が溢れ落ち、原稿の余白に小さな染みを作った。 「馬鹿な……こんなものを書くために、あなたは……!」 「幸せだったよ」 私は微笑んだ。その言葉に嘘はなかった。 「私は、ただの会社員として退屈に死んでいくはずだった。だが、この一年は……私は確かに、本物の作家だった」 織田が救急車を呼ぶために取り乱し、声を荒げているのが、遠くの方で聞こえた。 だが、その切迫した声も、次第に遠い波音のように遠ざかっていく。 私の意識は、心地よい闇の海へと沈んでいく。 ふと気付けば、窓の外では、いつの間にか雪が降り始めていた。 世界をあまねく静寂で満たしていく雪は、まるであの、まだ何者でもなかった日の、真っ白な原稿用紙のようだった。 降り積もる雪は、私の荒い息をも優しく吸い込み、世界からすべての色彩と痛みを消し去っていく。 私はその広大な白光の中に、ゆっくりと足を踏み入れていく。 もう、ペンを持つ必要はなかった。 私の物語は、完璧な形で、今ここに、永遠の静けさとともに完成していたのだから。 それから、三年の歳月が流れた。 東京の片隅にある織田の古書店「落葉堂」の店先には、今や一冊の文庫本がうず高く積まれている。 背表紙には、あの男の名と、彼が命を賭して名付けた『余命一年』という題名が端正な活字で刻まれていた。 あの日、織田が涙ながらに抱きかかえた原稿は、大手出版社の編集者の目に留まり、彼の死後わずか半年で世に送り出された。 文学界に走った衝撃は、まさに烈火のごときものだった。 「言葉の端々から、文字通り命の香気が立ち上っている」 「昭和の文豪たちが遺した、あの狂気とも言える美学の最後の系譜だ」 批評家たちはこぞって絶賛し、生前は無名だった一人の男の名は、またたく間に現代文学の最高峰へと押し上げられた。 秋も深まるある日の夕暮れ。 落葉堂の重い木製のドアを押し開けて、一人の女性が入ってきた。 仕立ての良い、しかしどこか寂しげな濃紺のコートを着たその女性は、まっすぐに新刊の棚へと歩み寄り、彼の遺作をそっと手に取った。 彼女の指先が、表紙に踊る彼の名に触れたとき、小さく震えたのを織田は見逃さなかった。 「……彼、最期まで苦しんでいましたか」 女性は本を見つめたまま、消え入りそうな声で呟いた。 彼女こそが、かつて男が貧しさゆえに手放し、作中で「亡霊」として、そして最後には「救済」として描かれた、あの恋人だった。 織田は帳場から立ち上がり、静かに首を振った。 「いいえ。彼はとても穏やかでした。まるで、長い旅を終えて、一番行きたかった場所に辿り着いたかのように、満足そうに微笑んでいましたよ」 女性はかすかに目元を潤ませ、深く頭を下げると、本を大切に抱きしめるようにして店を去っていった。 夕闇が街を包み込み、店の外では、かつて男が眺めたのと同じ鈍色の空から、小さな冬の予感が舞い降りてくる。 織田は、店の一角にそっと飾られた、あの男の形見である万年筆に目をやった。 インクはとうに干からびているが、その先は今もなお、鋭い光を放っている。 男の肉体は土に還り、その砂時計の砂はすべて落ち切った。 しかし、彼が原稿用紙に注ぎ込んだ魂は、この本が開かれるたびに、何度でも、誰かの心の中で鮮烈な息を吹き返す。 彼は死ぬことで、永遠の生を手に入れたのだ。 落葉堂の小さな灯りは、今夜もまた、彼の遺した言葉を優しく照らし続けている。
夜空の星に願いを込めて
「きれいだ」 その言葉は、誰に聴かせるためでもなく、僕の唇から自然とこぼれ落ちていた。 見上げる夜空には、息をのむような絶景が広がっている。 僕は今、街の喧騒から遠く離れた、標高の高い山頂の展望スポットに立っていた。 ここは昔から、僕にとって特別な場所だ。 学校で嫌なことがあった時、進路に迷った時、あるいは言葉にできない孤独感に押しつぶされそうになった時、僕はいつも原付を走らせてこの場所へと向かった。 誰にも邪魔されず、静かに自分と向き合える、僕だけの秘密の聖域だった。 いつもなら、ここは夜空にぽつぽつといくつかの星が控えめに輝き、眼下に広がる街の灯りがきらきらと絨毯のように広がる、そんな「少し綺麗な夜景スポット」に過ぎない。 しかし、今夜は違っていた。 数日前から日本列島を覆っていた寒気の影響か、空気は驚くほどに澄み渡り、チリ一つない。 夜空のキャンバスには、無数の光の粒がこれでもかとぶちまけられていた。 そして何より僕の目を奪ったのは、天空を真っ二つに割るようにして流れる、圧倒的な光の帯――天の川だった。 濃淡のある星の集まりが、まるで生き物のように美しくうねりながら、宇宙の深淵へと続いている。 「こんなの、何ヶ月ぶりだろ……」 思わずそう呟いてしまうほど、今夜の星空は神々しく光っていた。 日頃の小さな悩みやストレスなんて、この壮大な宇宙の営みの前では一瞬で消し飛び、吸い込まれてしまいそうになる。 寒さで白くなった息を吐き出しながら、僕はただただ、天を仰いでいた。 その時だった。 カサリ、と背後の茂みから微かな音が聞こえた。 続いて、サッ、サッと、柔らかな靴底が地面の砂利を踏みしめる気配が近づいてくる。 僕はこの場所に何年も通っているが、夜のこんな遅い時間に人と遭遇したことなど一度もない。 地元の人でも知る人ぞ知る、寂れた展望台なのだ。 幽霊の類か、あるいは質の悪い不審者か。 身を硬くしながら、僕は声のする方へと問いかけた。 「あれ? こんなところに来る人とかいるんだ」 暗闇に向かって投げかけた僕の声に、気配の主は一瞬ピクリと動きを止めた。 そして、少し決まり悪そうに、しかし鈴を転がすような澄んだ声で応じた。 「なんでバレたの……。まぁいっか」 暗がりの向こうから歩み出てきたのは、一人の女の子だった。 年の頃は僕と同じ高校生くらいだろうか。 小柄で、今にも夜風に吹き飛ばされてしまいそうなほど、どこか儚げな雰囲気を纏っている。 彼女は少しはにかんだような笑みを浮かべ、僕の隣まで歩いてくると、僕と同じように夜空を見上げた。 「私もここの景色が好きで、よく来るんだ」 「え……?」 僕は驚いて彼女の横顔を見つめた。 僕だけの秘密の場所だと思っていたこの山頂に、自分と同じようにこの景色を愛する人がいたなんて。 「昔からここに来るの?」 驚きを隠せないまま僕がそう問いかけると、彼女はいたずらっぽく目を細め、人差し指を顎に当てて記憶を遡るような仕草をした。 「10年くらい前に見つけてね、悩み事とかがあったら来るようになったんだ~」 10年前。 彼女がまだ幼い子供だった頃から、この場所を知っていたということか。 僕はその言葉を聞いて、少しだけ胸が疼いた。 なんだ、僕の専売特許ではなかったのか、と。 そして同時に、妙な対抗心が湧いてきて、ふっと鼻で笑いながら言った。 「ふっ、ぼくは11年前から来てるよ」 僕がそう言うと、彼女は目を丸くし、それから大げさにのけぞってみせた。 「うひゃー! 先輩だったか!」 その大げさなリアクションが可笑しくて、僕の緊張は完全にほぐれていた。 初対面のはずなのに、なぜかずっと前から知っている幼馴染と話しているような、不思議な安心感がその場を包み込んでいく。 僕は調子に乗って、少し威張ったような声を出した。 「敬語を忘れてるぞ、後輩よ」 すると彼女は、芝居がかった動作で両手を前に突き出し、ひれ伏すようなポーズをとった。 「ははーっ! 先輩様ー!」 「くくっ、なんだよそれ」 あまりにも初対面とは思えないほど、馬鹿な会話だった。 お互いの名前も、どこから来たのかも知らないのに、僕たちはまるで何年も共に過ごしてきたかのように笑い合っていた。 どうしてここまで自然に話せているのか、自分でも全く分からない。 人見知りで、学校ではいつも周りの目を気にして縮こまっている僕が、どうしてこの見ず知らずの少女の前では、こんなにも自然体でいられるのだろう。 「君って……なんか話しやすいね」 心に浮かんだ本音が、そのまま口から滑り落ちた。 彼女は僕の言葉を聞くと、一瞬だけ驚いたように目を見張り、それから満面の笑みを咲かせた。 「えっ、それ私も思ってた! ……運命?」 「ははっ、かもね~」 運命。 少女の口から飛び出したそのロマンチックな単語に、僕の心臓がどきりと小さな音を立てた。 けれど、それを悟られないように、僕はわざと軽い調子で返した。 それからは、言葉が途切れた。 けれど、その沈黙は決して気まずいものではなかった。 僕たちは並んでベンチに腰掛け、ただ静かに、圧倒的な星空を眺めていた。 耳を澄ませば、遠くの森で木々がざわめく音と、虫の鳴き声だけが聞こえる。 冷たい夜風が僕たちの頬を撫でて通り過ぎていく。 「こんなに綺麗なの、久しぶりじゃない?」 静寂を破るように、彼女が夜空を指差しながら言った。 「そうだね~、何ヶ月ぶりだろうね」 「今までで一番綺麗まであるかも!」 「それは本当にそう」 本当にその通りだった。彼女の横顔が、星の光を浴びて淡く輝いている。 その横顔を見つめながら、僕は心の中で確信していた。 やっぱり彼女は話しやすいな。 話してても楽しいし、何より、この空間を彼女と共有できていることが、堪らなく心地よかった。 もっと、この時間を続けたい。 もっと、彼女のことが知りたい。 いつもなら慎重で、自分から行動を起こすことなんて滅多にない僕の心が、今夜の星の魔法にかかってしまったのかもしれない。 「ねぇ、明日も来てよ」 気づいた時には、僕は言葉を口にしていた。 引き止めるような、すがるような、そんな唐突な誘い。 「えっ?」 彼女は驚いたように動きを止め、僕を凝視した。 しまりがない。僕は自分の大胆すぎる発言に、急激に顔が熱くなるのを感じた。 初対面の女の子に、いきなり明日も会おうなんて、いくらなんでも馴れ馴れしすぎるし、気持ち悪いと思われたに違いない。 「あっ! 急にこんなこと言ってごめんね! 無理なら全然来なくても……っ!」 焦って手を振り、言い訳を並べ立てる僕を見て、彼女は一瞬きょとんとした。 そして次の瞬間、お腹を抱えるようにして吹き出した。 「あっははは! 違うの、そういうことじゃないよ。ただ急だったからびっくりしただけ!行く行く、明日も来る!」 「ほんと?! なら、よかった……!」 全身の力が抜けるほどの安堵感が押し寄せてきた。 情けない声を出す僕を見て、彼女はさらに楽しそうに目を細めた。 「あはは! 君、男の子だけど可愛いね!」 「はっ?! やめてよ恥ずかしい……」 からかわれて顔を真っ赤にする僕を見て、彼女は満足そうに微笑んだ。 そして、はっと思いついたように手をポンと叩いた。 「ていうかさ! お互い名前知らないでしょ?」 「あっ、確かに」 言われてみれば、これだけ親しく話しておきながら、自己紹介すらしていなかった。 彼女は背筋を正し、誇らしげに胸を張った。 「私は濱田 恭子(はまだ きょうこ)。君は?」 「僕は、久保 紳助(くぼ しんすけ)」 「紳助、ね。よし、覚えた!」 恭子。 その名前が、僕の心の中に深く、消えない刻印のように刻まれた瞬間だった。 その夜を境に、僕たちの「特別な日常」が始まった。 約束通り、翌日の夜7時、僕が山頂の展望台へ向かうと、そこにはすでに恭子が待っていた。 彼女は僕の姿を見つけると、大きく手を振って迎えてくれた。 それから、何日も、何週間も、そして何ヶ月も、僕たちはこの場所で会い続けた。 学校が終わると、僕は宿題を片付け、夕食を済ませてから原付に飛び乗る。 恭子はいつも、僕より少し早く来ているか、あるいは僕と同時にやってきた。 彼女がどうやってこの山まで来ているのか、具体的な家がどこにあるのか、僕は野暮な気がして深くは聞かなかった。 ただ、ここで会えるという事実だけで、僕の毎日は信じられないほど鮮やかに彩られていった。 僕たちは本当にたくさんのことを話した。 学校での出来事、好きな音楽、嫌いな食べ物、将来の漠然とした不安。 恭子はいつでも僕の話を楽しそうに、時に身を乗り出して聞いてくれた。 彼女のリアクションはいつも新鮮で、僕が何気なく放った冗談にも、「うひゃー!」とか「あはは!」と、心の底から笑ってくれた。 「君!今日の学校でさ……」 そう言って笑う恭子の瞳には、いつも夜空の星が映り込んでいた。 彼女は自分のことについては、あまり多くを語りたがらなかった。 家族のことや、普段の学校生活のこと。 けれど、僕がそれに疑問を抱くことはなかった。 ただ彼女と一緒にいる時間が、あまりにも純粋で、楽しすぎたからだ。 夏が過ぎ、秋の涼しい風が山を吹き抜け、やがて冬の足音が聞こえ始める頃になっても、僕たちの逢瀬は続いた。 防寒着を何枚も着込み、温かい缶コーヒーを二人で分け合いながら、白い息を吐き出して語り合う。 寒さなんて、彼女の隣にいる温もりに比べれば、何の意味もなさなかった。 そうして過ごしていくうちに、僕は自分の心の中にある「変化」に気づかざるを得なくなっていた。 最初は、ただの「話しやすい友達」だった。 でも、今は違う。 学校にいる時も、授業を受けている時も、友達と話している時も、僕の頭の片隅には常に恭子の姿があった。 今日の夜は、彼女に何を話そう。 今夜の星空は、綺麗に見えるだろうか。 彼女のあの弾けるような笑顔を、もっと見たい。もっと僕だけのものにしたい。 いつの間にか、僕は彼女に恋に落ちていた。 それは、じわじわと染み渡るようなものではなく、ある日突然、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような激しさを持って自覚された。 彼女の優しさに触れるたび、彼女の愛おしい仕草を目にするたび、僕の胸は破裂しそうになる。 ただ一つ、ずっと気になっていることがあった。 恭子は時折、ひどく儚げな表情をすることがある。 夜風に揺れるその身体は、今にも崩れてしまいそうなほど華奢で、油断すると星空の中に溶けて消えてしまうのではないかという錯覚を、僕に抱かせた。 だからこそ、僕は彼女を強く抱きしめたい、守りたいと、本能的に願うようになっていた。 季節は巡り、また星が美しく輝く季節が近づいていた。 「また、明日ね」 いつものように、夜が更けた展望台で、恭子が名残惜しそうに手を振った。 「うん! また明日!」 僕も笑顔で手を振り返す。 いつも通りの、何の変哲もない別れの挨拶。 けれど、恭子の後ろ姿を見送りながら、僕の胸の中には熱い決意が満ち満ちていた。 もう、自分の気持ちをごまかすことはできない。 こんなにも彼女のことが好きなんだ。 毎日会って、他愛もない話をするだけの間柄から、一歩進みたい。 彼女の特別な一人になりたい。 (明日……明日、絶対に告白しよう) 僕は心に強く誓った。 明日、この星空の下で、僕のありったけの想いを彼女に伝えるんだ、と。 その決意が、これからの未来を大きく変えることになるなんて、その時の僕は知る由もなかった。 「遅いな……」 翌日、約束の夜7時。 僕はいつもの展望台で、そわそわと足を動かしながら恭子の到着を待っていた。 ポケットの中には、彼女に告白するための言葉を何度も反芻したメモが入っている。 心臓はバクバクと高鳴り、緊張で口の中がカラカラだった。 しかし、針が7時半を過ぎ、8時を過ぎても、恭子は現れなかった。 いつもなら、どれだけ遅くても7時には必ず来ている。 連絡先を交換していなかったわけではないが、お互いに「この場所に来れば会える」という暗黙の信頼があったため、あえてスマホで連絡を取り合うことは少なかった。 急な用事でもできたのだろうか。 それとも、僕の決意が何かの形で伝わって、怖気付いてしまったのだろうか。 不安が黒い霧のように胸の中に広がっていく。 時計の針が9時を回った。 周囲は完全に静まり返り、山の寒気が容赦なく僕の体温を奪っていく。 もう今日は来ないのかもしれない。 諦めて帰ろうと、原付の鍵に手をかけた、その時だった。 「おまたせ……」 かすれた、今にも消え入りそうな声が静寂を破った。 振り返ると、そこに恭子が立っていた。 しかし、その姿を見た瞬間、僕の心臓は凍りついた。 「恭子……?」 彼女はいつも着ているコートを羽織っていたが、その足取りはふらついており、近くの木にすがりつくようにしてかろうじて立っていた。 何より、街灯の微かな光に照らされた彼女の顔は、驚くほど真っ白だった。 血の気が完全に引き、唇は紫色に変色している。 目は落ち窪み、いつもの爛漫な輝きはどこにもなかった。 「今日は遅かったね、何かあったの……って、顔色めっちゃ悪いよ?! 大丈夫?」 僕は駆け寄り、彼女の細い肩を支えた。 触れた肩は、驚くほど小刻みに震えている。 「あぁ、大丈夫だよ……。今日はね……君に伝えたいことがあるんだ……」 恭子は力なく微笑もうとしたが、その表情は苦痛に歪んでいた。 声は掠れ、呼吸は浅く荒い。 「伝えたい……こと……?」 僕の胸に、不吉な予感が走る。 告白しようとしていた僕の決意なんて、彼女のただならぬ様子を前にして、一瞬で吹き飛んでしまった。 「そう……伝えたいこと。ゴホッ、ゴホッ!」 突然、恭子が激しく咳き込んだ。 彼女は口元を自身の両手で覆ったが、その隙間から、ドロリとした暗い赤色の液体が溢れ出た。 「ちょっ……ちょっと! 血が出てるよ!」 僕はパニックになり、ポケットからハンカチを取り出そうとした。 しかし、恭子は血に染まった手で僕の腕を強く制した。 その細い指先からは、信じられないほどの必死さが伝わってくる。 「大丈夫!! 大丈夫だから……落ち着いて聞いてね?」 「うん……」 僕は彼女の気迫に押され、ただ頷くことしかできなかった。 心臓が早鐘を打つ。 嫌だ、聞きたくない。 何かが決定的に壊れてしまうような、そんな恐怖が全身を支配する。 恭子は溢れた血を袖で拭うと、悲しいほどに優しく、僕に向かって微笑んだ。 その笑顔が、かえって僕の涙を誘う。 「私はちょうど10年前……余命宣告をされたの……」 「余命……宣告?」 言葉の意味が、脳に届くまでに時間がかかった。 ヨメイセンコク。 テレビのドラマや小説の中でしか聞いたことのない、現実味のない言葉。 「そう。君が思い浮かべてる、その余命宣告。ゴホッ、ゴホッ……」 再び咳き込む彼女を見て、僕は居ても立ってもいられなくなり、彼女の手を握りしめた。 「ねぇ、本当に無理しないで! 今すぐ救急車を呼ぶから、病院に行こう! ねえっ!」 「とりあえず!!」 恭子が、今まで出したこともないような強い声で僕の言葉を遮った。 「っ!!」 「とりあえず……聞いて?」 彼女の瞳には、涙がたまっていた。 けれど、その奥にある意志は固く、僕にすべてを告げるまでは一歩も引かないという覚悟に満ちていた。 僕は、突き動かされるようにして、言葉を飲み込んだ。 「……分かった」 僕が静かにそう言うと、恭子は安心したように、また僕に優しく微笑んだ。 その表情は、まるですべての役目を終えた聖者のようだった。 「宣告された余命はね……10年だったの」 10年。 頭の中で、出会った日の会話がフラッシュバックする。 『10年くらい前に見つけてね、悩み事とかがあったら来るようになったんだ~』 彼女がこの場所を見つけた日。 それは、彼女が医者から「あと10年しか生きられない」と言われた日だったのだ。 幼い彼女が、その残酷な現実を受け止めきれず、逃げ出すようにして辿り着いたのが、この星空の見える山頂だった。 「え? それなら……」 頭の中で不吉な算数が完了してしまう。 10年前の余命宣告。 ということは、今、その期限が――。 「そう。君が思ってる通り……もうすぐ死ぬよ……」 恭子は、まるで明日の天気を予報するかのように、淡々と、静かにそう言った。 「そんな……っ! なんでもっと早く言わなかったの! 言ってくれれば、僕だって……っ!」 僕は叫んでいた。 どうして、これほど重大なことを隠していたのか。 数ヶ月もの間、毎日一緒に笑い合っていたのに、どうして教えてくれなかったのか。 裏切られたような、悲しいような、ぐちゃぐちゃな感情が涙となって目から溢れ出す。 しかし、恭子は首を横に振った。 「言ったら……態度変わっちゃうじゃん……。可哀想な目で見たり、腫れ物に触るみたいに扱ったり……。私は、あの態度の君が……好きだったんだよ」 恭子の瞳から、ついに一筋の涙がこぼれ落ちた。 「なっ!! 好きって……」 「異性として……ね?」 心臓が大きく跳ね上がった。 こんな極限の状況で、彼女の口から紡がれたのは、僕がずっと望んでいた、そして今まさに伝えようとしていた言葉だった。 彼女も、僕を好きでいてくれた。 同情や憐れみのない、対等な男の子として、僕を見ていてくれた。 その事実が、僕の胸の奥にあるストッパーを完全に破壊した。 僕は彼女の肩を掴み、自分の想いを、ありったけの声を絞り出してぶつけた。 「……僕も……僕も好きだ!」 「!!」 恭子が目を見開く。 「君と過ごしていくうちに、君の優しさに触れて、君の愛おしさを目にして……その、今にも崩れてしまいそうな華奢な身体な君に、恋をしたんだ!」 僕は叫ぶようにしてそう言った。 涙で視界が歪んで、彼女の顔がよく見えない。 けれど、想いだけは真っ直ぐに彼女に届くように、大声で言葉を紡ぎ続けた。 「本当はもっと早くに言いたかった……! こんなことになるなら、もっと早く、ちゃんと言っておけばよかったのに……っ!」 後悔が押し寄せる。 もっと早く伝えていれば、もっと違う思い出が作れたかもしれない。 もっと彼女を支えてあげられたかもしれない。 泣きじゃくる僕を見て、恭子はそっと冷たい手を僕の頬に添えた。 「泣かないでよ……紳助」 「えっ……今……名前を……」 僕はハッとして涙を拭った。 あの日、お互いに名前を言い合ってから、彼女は僕のことをずっと「君」と呼んでいた。 「紳助」と名前で呼ばれたのは、今この瞬間が初めてだった。 「自分の限界って……自分が一番理解してるんだ……。だから分かるの。私はもう、長くないんだって……。だから、最後にちゃんと、名前で呼びたかったの」 「あ……あぁ……嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ!!」 僕は狂ったように首を振った。 信じたくなかった。 こんなに優しくて、こんなに素敵な女の子が、今ここで僕の前からいなくなってしまうなんて、そんな理不尽なことがあってたまるか。 神様がいるなら、今すぐ彼女を助けてくれ。 星に願いを叶える力があるなら、僕の命なんていくらでもあげるから、彼女を救ってくれ。 「こんな嘘……つかないよ……。ねえ、紳助……」 恭子は僕の胸にトントンと小さく頭を預けた。 彼女の身体は、驚くほど軽かった。 「最後に……名前を呼んで欲しいな」 彼女の最後の願い。 僕は喉の奥が詰まって、うまく声が出なかった。 けれど、彼女のために、全精力を振り絞って、その愛おしい名前を呼んだ。 「ッ!……あぁ……恭子……」 「えへへー、嬉しいな~……。ねえ、紳助」 「なんだ……」 恭子がゆっくりと顔を上げた。 その瞬間、世界が静止したかのように思えた。 刹那。 口元に、信じられないほど柔らかく、そして凍りつくように冷たい感触が伝わってきた。 恭子が、僕の唇に、自分の唇を重ねていた。 ほんの数秒の、短いキス。 けれど、僕にとっては永遠のようにも感じられる時間だった。 彼女が顔を離すと、いたずらが成功した子供のような、いつもの眩しい笑顔がそこにあった。 「あははっ……紳助の初めて……奪っちゃった……」 彼女のその言葉に、僕の胸の奥から、言葉にならない愛おしさと切なさが爆発した。 僕は彼女の細い腰を引き寄せ、今度は自分から、彼女の唇に重ね直した。 「よくも……やってくれたなーー!!」 強がり混じりの言葉と一緒に、僕は彼女を強く、強く抱きしめながらキスをした。 彼女の唇は本当に冷たくて、今にも消えてしまいそうだったけれど、確かにそこに、濱田恭子という少女が生きて、僕を愛してくれているという確かな証拠が刻まれていた。 顔を離すと、恭子はうっとりとしたように目を細めていた。 「えへへ……私は幸せ者だなー……」 「どうしてそう思うの? こんな、こんな時に……」 僕は涙を流しながら問いかけた。 死を目前にして、どうして幸せだなんて言えるのだろう。 「だって……大好きな星の下で……大好きな人に看取られるんでしょ?……これ以上の幸せはないよ……」 「それも……そうだな……」 僕は彼女を抱きしめる腕に、さらに力を込めた。 見上げれば、夜空にはあの出会った日の夜と同じ、息をのむほどに綺麗な星空が広がっていた。 天の川が、僕たちを祝福するように、あるいは優しく包み込むように、冷たい光を放っている。 皮肉なほどに美しい、世界で一番綺麗な夜だった。 「ねぇ……紳助……手……繋ご?」 恭子の声は、さらに小さくなっていた。 蚊の鳴くような、風が吹けば消えてしまいそうな声。 「うん……いいよ……」 僕は彼女の右手を、僕の両手で包み込むようにして握りしめた。 そうして握った彼女の手は、まるですべての体温を失ってしまったかのように、氷のように冷たかった。 人間の肌の温もりとは到底思えない冷たさ。 その温度を感じた瞬間、僕の脳裏に、残酷な確信が突き刺さった。 あぁ、本当に死んでしまうんだな。 これは悪い夢でも、彼女の冗談でもない。 本当に、恭子は僕の前からいなくなってしまうんだ。 「ねぇ……ゴホッ! ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ!!」 「おっ……おい! 大丈夫か!?」 突如、恭子の身体が大きく跳ね上がり、激しく咳き込み出した。 今度は口元を押さえる力すら残っていないのか、彼女の口から鮮血が溢れ、地面を赤く染めていく。 「恭子! 恭子!!」 僕は彼女の身体を必死に支えた。 しかし、彼女の身体からは急速に力が抜けていき、まるで糸の切れた人形のように、僕の腕の中に崩れ落ちていく。 「あはっ……もう、長くないみたい……。最後に……紳助……」 恭子はかすかに目を開け、僕を見つめた。 その瞳は、すでに焦点が合いづらくなっているようだった。 けれど、その視線は真っ直ぐに僕の心を射抜いていた。 「……なに?……」 僕は彼女の顔に耳を近づけた。 一言も聞き漏らさないように。 彼女がこの世に残す、最後の言葉を、僕の魂に刻みつけるために。 恭子は、最後の力を振り絞るようにして、僕の手を微かに握り返した。 そして、世界で一番美しい、弾けるような笑顔を浮かべて、囁いた。 「愛してるよ」 その言葉が、彼女の唇からこぼれ落ちた瞬間。 ふっ、と。 僕の手を握っていた彼女の指先から、完全に力が抜けていくのが分かった。 だらりと垂れ下がったその手は、もう二度と僕の手を握り返してはくれない。 彼女の身体を支えていた微かな緊張感が消え失せ、完全な静寂が彼女を包み込んだ。 胸の上下運動が止まる。 浅かった呼吸が、完全に途絶えた。 「恭子……?」 声をかけても、返事はない。 「嘘だろ……? ねえ、目を開けてよ……。恭子!!」 僕は彼女の身体を揺さぶった。 けれど、彼女の身体はただ冷たく、重くなっていくばかりだった。 さっきまであれほど愛おしく僕の名前を呼んでいた少女は、もうどこにもいなかった。 ここにいるのは、彼女の形をした、ただの冷たい器だけだった。 「ここで叫ぶのは……野暮ってものだな」 僕は彼女の遺体を抱きしめ、静かに涙を流した。 静かだからと言って悲しく無いわけでは無い。 涙が溢れて止まらない。 胸が引き裂かれるような、息ができないほどの絶望が僕を襲う。 どうして彼女だったのか。 どうして僕たちの幸せな時間は、こんなにも短く終わってしまわなければならなかったのか。 しばらくの間、僕はただ泣き続けた。 時間の感覚なんてなくなっていた。 やがて、涙も枯れ果て、喉が枯れて声も出なくなった頃。 僕はゆっくりと顔を上げ、彼女の亡き殻をベンチに横たえ、夜空を見上げた。 そこには、変わらず無数に広がる星たちが、冷ややかに、しかし圧倒的な輝きを放ちながら僕たちを見下ろしていた。 天の川の輝きが、まるで恭子の魂が向かっていった道標のように見えた。 彼女の魂は今、あの美しい星たちの中に溶け込んで、僕を見守ってくれているのだろうか。 僕は、恭子が向かっていった天に向かって、無数に広がる星たちに届くように、そして彼女の魂に届くように、願いを込めながら、静かに、しかし確固たる意志を持って言葉を発した。 「僕も愛してるよ……恭子」 僕の声は、夜風に乗って、満天の星空へと吸い込まれていった。 彼女はもういない。 けれど、彼女と過ごした数ヶ月の記憶、あの優しい笑顔、初めてのキスの味、そして最後に交わした愛の言葉は、僕の心の中で永遠に生き続ける。 僕は、彼女が遺してくれたこの命の尊さを胸に、彼女が愛してくれた僕のままで、これからも生きていこうと誓った。 見上げる夜空で、一つの大きな流れ星が、まるで僕の言葉に応えるかのように、天の川を横切って美しく尾を引いて消えた。 それはまるで、恭子が「ありがとう」と言って微笑んだ瞬間のようだった。 僕たちの恋は、星空の下で始まり、星空の下で終わった。 けれど、僕が星を見るたびに、いつでも彼女は僕の隣で笑っている。 僕はその流れ星を見て、もう一度呟いた。 「恭子……世界で一番、愛してる。」 僕のこの言葉が、届くように。 夜空の星に、願いを込めて。
『君との日々が、忘れられない。』
スマートフォンのアラームが鳴る前に目が覚めた。 カーテンの隙間から差し込む光は、驚くほど白く、そして冷たい。 カレンダーに目をやる。 十月三日。 あの日から、ちょうど一年が経った。 「もう、一年か」 声に出してみると、その言葉はあまりにも軽くて、部屋の空気に吸い込まれるようにして消えた。 部屋の中は、あの日からそれほど変わっていない。 本棚に並ぶ小説の順番も、クローゼットの端に掛けられたままの、少し色褪せたベージュのカーディガンも、 彼女―― 美咲が遺していったものの多くが、まだそこに佇んでいる。 僕と美咲は、大学のサークルで出会い、それから四年近くを一緒に過ごした。 大きな喧嘩をした記憶はない。 いつも隣にいるのが当たり前で、これから先も、何十年と同じように歳を重ねていくのだと、疑いもしなかった。 あの突然の病気さえなければ。 美咲が亡くなってからの三百六十五日間、僕はただ、息を吸って吐くだけの人形のように過ごしてきた。 仕事には行き、人と話し、食事を摂る。 周囲からは「少しずつ元気になってよかった」と言われる。 けれど、僕の心の一部は、一年前のあの秋の日に置き去りにされたままだ。 今日という日を、どう過ごすべきか、ずっと考えていた。 部屋で一人、彼女の写真を眺めて泣き明かすこともできた。 けれど、僕の足は、自然と外へ向かう準備を始めていた。 美咲。君がもうこの世界にいないという事実を、僕はまだ、本当の意味で受け入れられていないのかもしれない。 だから今日、僕は歩くことにした。 君と僕が確かに存在し、笑い合っていた、あの思い出の場所を。 最初に訪れたのは、僕たちが初めて待ち合わせをした、私鉄の小さな駅だった。 改札を出ると、当時のままの少し古いロータリーが広がっている。 休日の午前中ということもあって、部活へ向かう学生たちや、買い物袋を下げた主婦たちが行き交っていた。 四年前の春、僕はここで美咲を待っていた。 サークルの新歓コンパの買い出し。 まだそれほど親しくなかった僕たちは、お互いに緊張した面持ちで、ぎこちなく挨拶を交わした。 あの時の美咲は、紺色のワンピースを着ていて、風が吹くたびに長い髪を耳に掛けていた。 「お待たせ、セツくん。待った?」 ふと、改札の向こうから、あの鈴を転がすような声が聞こえた気がして、僕は足を止めた。 けれど、そこにいたのは見知らぬ女子高生で、僕の視線に気づくと怪訝そうな顔をして通り過ぎていった。 「……幻聴か」 自嘲気味に呟き、僕はロータリーを抜けて、細い路地へと入る。 路地の奥には、学生時代によく通った小さな喫茶店『カフェ・ロンド』がある。 木製の重いドアを開けると、カランコロンと古びたカウベルが鳴った。 店内に漂う、少し苦味のある珈琲の香りと、トーストの香ばしい匂い。 それは一年前と、いや、四年前と何一つ変わっていなかった。 「いらっしゃい……おや、刹那くんじゃないか。久しぶりだね」 白髪のマスターが、カウンターの奥から穏やかな声をかけてくれた。 「ご無沙汰しています、マスター」 「一年ぶり、かな。まあ、適当な席に座ってくれ」 僕は、いつもの窓際の席を選んだ。 二人がけの小さなテーブル。 いつも美咲が窓側に座り、僕は通路側に座っていた。今日は、美咲が座っていたはずの、窓側の席に腰を下ろす。 「ご注文は?」 「ブレンドを二つ……あ、いや、一つで」 言いかけて、慌てて訂正する。 マスターはすべてを察したような、少し悲しげな目をして、「はい、ブレンドお一つね」とだけ言って奥へ下がった。 注文を待つ間、窓の外の景色を眺める。 美咲はいつも、この席で珈琲を飲みながら、道を行く人々を観察するのが好きだった。 「ねえセツくん、あの歩きスマホしてる人、絶対に次の角で郵便ポストにぶつかるよ」とか、 「あの犬、飼い主に似て凄く不機嫌そうな顔してる」とか、どうでもいいことを楽しそうに話していた。 僕は「そんなわけないだろ」と笑いながら、彼女の横顔を見ているだけで幸せだった。 運ばれてきた珈琲に、砂糖を一つと、ミルクをたっぷり入れる。 それが美咲の飲み方だった。 僕は本来、ブラック派だ。 けれど今日は、彼女の味を知りたくて、スプーンでゆっくりとかき混ぜた。 口に含むと、驚くほど甘く、そしてどこか切ない味がした。 「美味しいよ、美咲」 誰もいない、目の前の空間に向かって、心の中で語りかける。 彼女がいた時間は、こんなにも鮮やかに僕の記憶に刻まれているのに、どうして目の前の椅子は空席なのだろう。 その理不尽さに、胸の奥がキュッと締め付けられるように痛んだ。 喫茶店を出た僕は、そこから二駅ほど離れた場所にある、大きな総合公園へと向かった。 ここには、大きな池があり、その周りを囲むように桜の木や公孫樹(いちょう)が植えられている。 秋の風が、池の水面を揺らしていた。 ここは、僕たちが付き合い始めて間もない頃、初めての本格的なデートで訪れた場所だった。 「セツくん、ボート乗ろうよ!」 あの時、美咲は子供のように目を輝かせて、池に浮かぶ手漕ぎボートを指差した。 男のプライドを見せようと、僕は「任せてよ」と胸を張ってボートに乗り込んだ。 けれど、いざ漕ぎ始めてみると、ボートは右へ左へと回るばかりで、一向に前に進まなかった。 「ちょっとセツくん、回ってばっかりじゃない! どこ連れて行く気?」 美咲はお腹を抱えて笑っていた。 結局、見かねた美咲が片方のオールを手伝ってくれて、二人でタイミングを合わせながら、なんとか池を一周したのだ。 池のほとりにあるベンチに腰掛ける。 今、目の前を、若いカップルが楽しそうにボートを漕いで通り過ぎていく。 男の子が必死にオールを動かし、女の子がそれを笑顔で見守っている。 かつての僕たちの姿が、そこに完全に重なった。 美咲は、特別なイベントよりも、こういう何気ない日常のデートを好む子だった。 高級なレストランに行くよりも、公園の売店で買った冷たい缶コーヒーを分け合って飲む方を喜んだ。 「私はね、セツくんと一緒なら、どこにいたって特別なんだよ」 そう言って、僕の腕に自分の腕を絡め、はにかむように笑った美咲。 彼女の温もりが、まだコートの袖のあたりに残っているような錯覚を覚える。 思わず、自分の左手を右手に重ねてみる。 けれど、そこにあるのは冷たい秋の風だけだった。 「どうして、君なんだろうな」 ぽつりと、言葉が溢れた。 世界には何十億という人がいて、毎日誰かが生まれ、誰かが亡くなっている。 それは仕方のないことだと、頭では分かっている。 けれど、どうして僕の、世界で一番大切な美咲でなければならなかったのか。 その答えのない問いが、一年の間、何度も何度も僕の頭を巡り、そのたびに僕を削り取っていった。 美咲が病床で、最後に僕の手を握りながら言った言葉を思い出す。 「セツくん、泣かないで。私がいなくなっても、セツくんの人生は続くんだよ。だから、たくさん恋をして、たくさん幸せになってね」 そんなこと、できるわけがない。 君以外の誰かを好きになる自分なんて、想像もつかないし、想像したくもない。 美咲、君は僕に優しすぎる呪いを遺していったんだ。 公園を後にした頃には、太陽は随分と西に傾いていた。 本日、最後に訪れる場所。それは、僕たちが最後に二人で旅をした、あの砂浜だった。 都心から電車を乗り継ぎ、一時間半。駅を降りると、潮の香りが鼻腔をくすぐった。 坂道を下っていくと、視界が一気に開け、一面の海が広がった。 夕日が水平線の彼方に沈みかけており、空は燃えるような茜色から、深い紫色のグラデーションへと移り変わっている。 一年前の夏、美咲の病気が発覚する少し前、僕たちはここにいた。 「今度、連休が取れたら、遠くの海に行こうね」 そう約束していた。 けれど、彼女の体調は急激に悪化し、長旅は叶わなくなった。 だから、体調が良い日を見計らって、気休めかもしれないけれど、この近くの海へと足を運んだのだ。 あの時の美咲は、すでに少し痩せていて、顔色も青白かった。 それでも、砂浜に足を踏み入れると、「海だー!」と言って、裸足になって波打ち際へと走っていった。 「美咲、危ないよ、冷えるから」 僕が後ろから追いかけると、彼女は振り返り、夕日をバックに、世界で一番綺麗な笑顔を見せた。 「セツくん、私ね、セツくんと出会えて本当に幸せだったよ」 それが、まるで別れを予期していたかのような言葉に聞こえて、僕は胸が苦しくなった。 「何言ってるんだよ、これからもずっと一緒だろ。来年も、再来年も、また来よう」 そう言って、僕は彼女を強く抱きしめた。 美咲の身体は、驚くほど軽くて、儚かった。 「うん、約束ね」 美咲は僕の胸の中で、小さく呟いた。 だが、その約束は、果たされることはなかった。 二度目の海に来る前に、彼女は病院のベッドから起き上がれなくなり、そのまま静かに息を引き取った。 砂浜を歩く。 靴が砂に沈み、歩きづらい。 波が寄せては返す音が、規則正しく響いている。ザー、ザー、と。 まるで、世界の心臓の音のようだ。 美咲の心臓は止まってしまったのに、世界はこうして、何事もなかったかのように動き続けている。 それが酷く残酷に思えた。 波打ち際に立ち、沈みゆく夕日を見つめる。 風が強く吹き付け、僕の髪を乱した。 一年の間、堪えていたものが、決壊するように溢れ出しそうだった。 僕は、周囲に誰もいないことを確認し、大きく息を吸い込んだ。 「美咲ーーーーー!」 海の轟音にかき消されないよう、お腹の底から声を張り上げた。 「一年経ったよ! 一年経ったけど、全然ダメだ! 前を向くなんて、新しい恋をするなんて、僕にはできそうにないよ!」 叫ぶと、視界が急激に滲んだ。 温かい涙が、頬を伝って砂の上に落ちていく。 「どこに行っても、何を見ても、全部君との思い出ばかりなんだ! 珈琲を飲んでも、公園を歩いても、この海を見ても、君の笑顔や、君の声ばかりが頭の中に溢れてくるんだ!」 胸を締め付ける痛みが、熱い塊となって喉を突き抜ける。 「君の代わりなんて、どこにもいないんだよ! 美咲、会いたいよ……もう一度だけでいいから、僕の名前を呼んでよ、手を握ってよ!」 波の音だけが、僕の叫びに対する答えのように、静かに響いていた。 砂浜に膝をつき、両手で顔を覆って、僕は子供のように声を上げて泣いた。 一年の間、周囲に心配をかけまいと、ずっと「大丈夫」なフリをしてきた。 けれど、全然大丈夫なんかじゃなかった。 僕は、今でも君を狂おしいほどに愛しているし、君を失った喪失感に、毎日押しつぶされそうになっているんだ。 どれほどの時間、そうしていたのだろう。 涙が枯れ果て、顔を上げると、辺りはすっかり暗くなっていた。 空には、ぽつぽつと星が輝き始めている。 冷え切った身体を起こし、ズボンについた砂を払う。 不思議と、胸の奥を占めていたドロドロとした重苦しさは、涙と一緒に流れ出たかのように、少しだけ軽くなっていた。 自分の情けない姿を思い出し、少し苦笑する。 もし、今の僕の姿を美咲が見ていたら、きっと呆れた顔をして、 「もう、セツくんはすぐに泣くんだから。男の子でしょ?」 なんて、からかうように笑ったに違いない。 彼女の遺した「たくさん幸せになってね」という言葉。 今の僕には、まだその言葉通りに生きることはできない。 他の誰かを好きになることも、一歩を踏み出すことも、きっとまだ先の話だ。 けれど、今日、思い出の場所を巡って、確信したことがある。 僕は、美咲を忘れる必要はないんだ、と。 忘れることが、乗り越えることではない。 これほどまでに僕を支え、僕の人生を豊かにしてくれた君との思い出を、僕はこれからの人生、ずっと胸に抱いて生きていけばいい。 君との日々は、僕の肉体となり、血となり、僕という人間を形成している。 美咲が僕にくれた温もりは、彼女がいなくなった今でも、僕の中で生き続けている。 ポケットからスマートフォンを取り出し、画面に設定されている、二人の写真を見る。 公園で、缶コーヒーを持って笑い合う、僕と美咲。 「美咲」 今度は叫ばず、静かに、愛おしさを込めてその名前を呼んだ。 「やっぱりね、君との日々が、忘れられないんだ。どれだけ時間が経っても、僕の心の一番深いところには、いつも君がいる」 それは、絶望の言葉ではなかった。 これからも君を想い続けていくという、僕なりの決意の表明だった。 「だからさ、無理に忘れるのはやめるよ。君の思い出と一緒に、僕は明日からも生きていく。いつか、君に胸を張って『幸せになったよ』って報告できるその日まで、もう少しだけ、見守っていてね」 スマートフォンの画面を消し、ポケットに仕舞う。 もう一度、深く、海の空気を吸い込んだ。 夜の海風は冷たかったけれど、不思議と心地よかった。 僕は駅の方へと、ゆっくりと歩き出す。 足取りは、心なしか朝よりも軽かった。 君のいない明日は、相変わらず寂しくて、少し怖いけれど。 それでも僕は、君と生きたあの眩しい日々を道標にして、一歩ずつ、歩みを進めていこうと思う。 ありがとう、美咲。 僕の人生に、現れてくれて。 君との日々は、僕の生涯の、 最高の宝物だ。
リメイクすることに決定したのはー?
どうも刹那です! 今日は、先週の投票から1週間経ったと言うことで、リメイクするのを発表したいと思います! リメイクすることに決まったのはー? 「夜空の星に願いを込めて」です!!! 文字数は一万字ほどの超長編になりますが、その分めっっっちゃ感動するようにするので全部読んでいただけたら嬉しいです!!
隣にいる君は、どこか遠い存在に見えた。(旧版)
十二月の朝は、いつもより静かだった。 窓の外では、薄い雲が空を覆っている。 校庭には昨夜降った雨の名残が残っていて、誰もいないグラウンドが灰色に濡れていた。 「おはよう」 隣から声がした。 振り向くと、彼女が笑っていた。 「おはよう、結衣」 白い息を吐きながら、彼女――高瀬結衣は、僕の机の横に立っていた。 「今日、寒くない?」 「寒いよ。十二月だし」 「じゃあ、なんで窓開けてるの」 「……閉め忘れただけ」 「ほんと、そういうところ昔から変わらないよね」 そう言って、結衣は笑った。 僕も笑った。 いつもの朝だった。 一年前から、ずっと変わらない朝。 僕と結衣が仲良くなったのは、高校二年の冬だった。 きっかけなんて、今となっては大したことじゃない。 たまたま席が近かった。 たまたま帰る方向が同じだった。 たまたま好きな音楽が同じだった。 そんな小さな偶然が積み重なって、僕たちはいつの間にか一緒にいるようになった。 昼休みにはくだらない話をして、放課後には駅まで一緒に帰った。 休日には近くの公園で話したり、コンビニで新作のお菓子を買って食べたりもした。 恋人ではなかった。 けれど、友達という言葉だけでは少し足りない。 僕にとって、結衣はそれくらい大切な存在だった。 「ねえ」 結衣が僕の顔を覗き込む。 「なに?」 「今日、放課後暇?」 「暇だけど」 「じゃあ、いつもの場所行こうよ」 「……屋上?」 「うん」 結衣は嬉しそうに笑った。 その笑顔を見ると、なぜか胸の奥が少し痛くなった。 理由は分からなかった。 ただ最近、結衣と一緒にいると、時々そんな感覚になる。 すぐ隣にいるはずなのに。 手を伸ばせば届く距離にいるはずなのに。 どこか遠い。 まるで、薄いガラス一枚を隔てた向こう側にいるみたいだった。 「どうしたの?」 「……いや」 「?」 「なんでもない」 僕は笑った。 結衣も笑った。 それ以上、何も聞かなかった。 * 放課後。 僕たちは屋上へ向かった。 古びた鉄の扉を開けると、冷たい風が頬を撫でた。 「寒っ」 結衣が肩をすくめる。 「だから言ったじゃん」 「でも、ここ好きなんだよね」 そう言って、結衣はフェンスの向こうを眺めた。 夕暮れの街が、オレンジ色に染まっている。 「ねえ、覚えてる?」 「何を?」 「初めてここに来た日」 「覚えてるよ」 「いつだっけ」 「去年の十二月」 「……そっか」 結衣は小さく笑った。 「もう一年なんだ」 「ああ」 一年。 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が妙にざわついた。 なぜだろう。 一年前。 その言葉に、何か引っかかる。 「どうしたの?」 「……いや」 僕は頭を振った。 「なんでもない」 「変なの」 結衣は笑った。 そして、空を見上げた。 「一年って、早いね」 「そうだな」 「来年も、ここに来ようね」 「もちろん」 僕はそう答えた。 結衣は、嬉しそうに笑った。 * その夜。 家に帰ってから、僕はスマートフォンを眺めていた。 結衣からメッセージが来ていた。 『今日は楽しかった』 『また明日ね』 僕は、 『うん。また明日』 と返した。 すぐに既読がついた。 そして、 『約束ね』 と送られてきた。 僕は少し笑った。 けれど、その直後。 スマートフォンの画面に映った日付を見て、なぜか手が止まった。 十二月十七日。 その数字を見た瞬間、頭の奥がズキリと痛んだ。 何かを思い出しそうだった。 でも、思い出せない。 僕はそのままスマートフォンを伏せた。 * 翌朝。 「おはよう」 いつものように、結衣が隣に立っていた。 「おはよう」 「眠そう」 「昨日ちょっと遅くまで起きてたから」 「何してたの?」 「結衣とメッセージしてた」 「……私と?」 「うん」 結衣は、少しだけ不思議そうな顔をした。 「そっか」 それだけ言って笑った。 その日、昼休み。 僕は友達の田中と話していた。 「なあ、田中」 「ん?」 「去年の十二月って、俺何してた?」 「去年?」 「ああ」 「なんで?」 「なんとなく」 田中は少し考えた。 「確か……お前、結構休んでなかった?」 「俺が?」 「うん。冬休み前くらいから」 「……そうだっけ?」 「そうだよ」 田中は苦笑した。 「忘れたのか?」 「たぶん」 その会話を聞いていたのか、結衣が口を挟んだ。 「去年のことなんて、そんなに覚えてないよ」 「そうだな」 「それより、今日のお昼何食べる?」 「パンかな」 「また?」 「安いから」 「貧乏学生め」 「うるさい」 僕たちは笑った。 その時だった。 「ねえ」 田中が僕を見る。 「誰と話してんの?」 「え?」 僕は結衣を見た。 「結衣とだけど」 田中は、何も言わなかった。 ただ、困ったような顔をして僕を見ていた。 * その日の放課後。 僕は一人で廊下を歩いていた。 結衣は先に屋上へ行ったらしい。 階段を上っていると、廊下の掲示板に古い紙が貼られているのが目に入った。 写真だった。 文化祭の集合写真。 去年のものらしい。 何気なく眺めていると、僕の目が止まった。 そこには、僕が写っていた。 そして。 僕の隣には、結衣が―― ……いなかった。 「……え?」 何度見ても、いない。 僕の隣には、空いたスペースがあるだけだった。 写真の中の僕は、一人で立っていた。 背筋が冷たくなった。 「何見てるの?」 後ろから声がした。 振り返る。 「結衣……」 「行こうよ」 「……これ」 僕は写真を指差した。 「去年の文化祭の写真?」 「うん」 「私、写ってないね」 「……そうだな」 「なんでだろうね」 結衣は笑った。 その笑顔が、いつもより少し寂しそうに見えた。 「ねえ、翔太」 「何?」 「もし私がいなくなったら、どうする?」 「……何それ」 「答えて」 「嫌だよ」 「どうして?」 「どうしてって……」 僕は言葉に詰まった。 「結衣がいなくなったら、寂しいから」 結衣は、しばらく黙っていた。 そして、 「そっか」 と呟いた。 * 屋上に着くと、夕日が沈みかけていた。 「ねえ、翔太」 「ん?」 「私ね」 結衣はフェンスに手を置いた。 「ずっと、ここにいたかった」 「……何言ってるんだよ」 「ううん」 結衣は首を横に振る。 「なんでもない」 そして僕を見る。 「翔太は、私のこと忘れないでね」 「忘れるわけないだろ」 「約束?」 「約束」 小指を差し出す。 結衣も小指を絡める。 その瞬間。 冷たい風が吹いた。 結衣の髪が揺れる。 僕は、その横顔を見ていた。 やっぱり。 どこか遠い。 すぐ隣にいるのに。 声も聞こえる。 笑顔も見える。 手だって触れられる。 なのに。 なぜか、ずっと遠い。 * その日の夜。 僕は眠れなかった。 頭の中に、去年の十二月十七日という日付が何度も浮かんでくる。 何かあった。 絶対に何かあった。 僕は机の引き出しを開けた。 古いノート。 教科書。 写真。 そして、一枚の紙。 それを見た瞬間、呼吸が止まった。 病院の領収書だった。 日付は―― 去年の十二月十七日。 名前の欄には、僕の名前が書かれている。 診療内容は、精神科。 「……なんで」 手が震えた。 僕は知らない。 こんな病院に行った記憶なんてない。 その時。 スマートフォンが鳴った。 着信。 結衣だった。 「もしもし?」 『……翔太』 「結衣?」 『ごめんね』 「何が?」 『もう、思い出しちゃったんだね』 その声を聞いた瞬間。 頭の中に、何かが流れ込んできた。 * ――一年前。 十二月十七日。 雪が降っていた。 僕は病院の廊下にいた。 目の前には、泣いている母親。 そして、その隣には担任の先生。 「翔太……」 先生が何かを言っていた。 でも、聞こえなかった。 僕の頭の中には、たった一つのことしかなかった。 結衣が死んだ。 交通事故だった。 学校からの帰り道。 僕の目の前で。 結衣は、もう帰ってこない。 その事実を、僕は受け入れられなかった。 だから。 僕は作った。 結衣がまだ生きている世界を。 毎朝、教室にいる結衣。 一緒に昼食を食べる結衣。 放課後に屋上へ行く結衣。 メッセージを送ってくる結衣。 笑ってくれる結衣。 全部。 僕が作ったものだった。 * 『翔太』 電話の向こうから、結衣の声がする。 「……結衣」 『もう、いいんだよ』 「嫌だ」 『翔太』 「嫌だよ……」 涙が溢れた。 「だって、今ここにいるだろ」 『うん』 「だったら……」 『私は、ずっとここにいるよ』 「……え?」 『翔太の記憶の中に』 声が少しずつ遠くなる。 『だから、もう私を生きていることにしなくていい』 「……そんなの無理だ」 『大丈夫』 「結衣……」 『今まで、一緒にいてくれてありがとう』 電話が切れた。 静かな部屋に、無音だけが残った。 * 翌朝。 教室に入る。 いつもの席。 窓際。 その隣。 僕の隣の席は、空いていた。 初めて気づいた。 そこには、机も椅子もなかった。 最初から。 そこには何もなかったのだ。 「……そうだったのか」 僕は小さく呟いた。 窓の外を見る。 校庭に、白い息を吐きながら生徒たちが歩いている。 その中に、結衣はいない。 もう、どこにもいない。 なのに。 不思議と寂しくなかった。 胸の奥には、確かに結衣との一年間が残っている。 たとえそれが、僕の幻想だったとしても。 僕にとっては、本物だった。 笑ったことも。 喧嘩したことも。 一緒に帰ったことも。 屋上で交わした約束も。 全部、忘れたくない。 僕は空を見上げた。 冬の空は、どこまでも遠かった。 その時。 隣から、聞き慣れた声がした。 「翔太」 僕は振り向かなかった。 振り向けば、また彼女を作ってしまう気がしたから。 「……またね」 そう呟く。 返事はなかった。 けれど。 窓から吹き込んだ冷たい風が、僕の頬をそっと撫でた。 それだけで十分だった。 一年前から、ずっと隣にいた君。 いつも笑って、僕の名前を呼んでくれた君。 僕が作り出した幻想だった君。 それでも僕にとっては、確かに大切な一年だった。 ――隣にいる君は、どこか遠い存在に見えた。 きっと最初から。 君は、この世界の人じゃなかったから。
『冬空のサテライト』
窓際の席から見える校庭は、いつもより少し白く霞んで見えた。 12月の風は冷たく、ガラス窓を小さく揺らしている。 私、佐々木ハルが、隣の席に座る木村蓮に恋をしたのは、特別なきっかけがあったわけじゃない。 小学校の時から同じ塾で、いつも少年漫画の話で盛り上がれる、気心の知れた男の子。 ただそれだけのはずだった。 けれど、中学2年生の春、クラス替えの掲示板で隣同士の席に自分たちの名前を見つけた瞬間、ドクンと跳ねた鼓動の理由を、私は認めざるを得なかった。 蓮はサッカー部のエースで、いつも輪の中心にいる。 彼が笑うと、その場の空気がパッと明るくなるような、そんな男の子だ。 隣の席という特等席を手に入れた私は、毎日が緊張の連続だった。 授業中、教科書を忘れた彼と机をくっつけるだけで耳の奥が熱くなり、ノートを貸す時に指先が触れそうになるだけで、息の仕方を忘れてしまう。 「ハル、次、移動教室だぞ。また置いてくぞ」 「わ、わかってるってば。今行く」 そんな他愛のないやり取りが、私にとってのすべてだった。 この心地いい距離感が、ずっと続くのだと信じて疑わなかった。 あの日、友人のマイから「木村くん、親の転勤で3学期からイギリスに行くらしいよ」と告げられるまでは。 その言葉を聞いた瞬間、世界から音が消えたような気がした。 冬の足音が近づくにつれ、蓮と過ごす一分一秒が、砂時計の砂のようにサラサラと指の隙間からこぼれ落ちていく。 本当は「行かないで」と引き止めたい。 せめて「好きだった」と伝えたい。 けれど、これから夢に向かって新しい国へ旅立つ彼に、自分のわがままな感情を押し付けることなんて、どうしてもできなかった。 そして迎えた、2学期の終業式。 放課後の教室は、蓮との別れを惜しむクラスメイトたちで溢れていた。 記念写真を撮るシャッター音と、にぎやかな笑い声。 私はその輪に加わることができず、ただ自分の席で俯き、爪が白くなるほどカバンの紐を握りしめていた。 みんなが帰っていく。 蓮の背中が遠ざかっていく。 私の初恋は、誰にも知られないまま、この冬の寒さの中に消えていくのだ。 夕暮れ時、オレンジ色の光が斜めに差し込む教室に、私は一人で戻った。 忘れたペンケースを取りにいくという口実を自分に作って。 しかし、ガラガラと扉を開けた私の目に飛び込んできたのは、誰もいないはずの窓際の席で、ぽつんと外を眺めている蓮の姿だった。 「……蓮? まだ、いたんだ」 「あ、ハル」 蓮はゆっくりと振り返った。 いつもの屈託のない笑顔はどこにもなく、どこか寂しげな、見たこともない表情をしていた。 「最後だからさ。この景色、ちゃんと目に焼き付けておきたくて」 長い影が、私たちの間に伸びている。 沈黙に耐えかねて「じゃあ、元気でね」と背を向けようとしたその時、服の袖をぐっと引かれた。 「待って、ハル。……最後に、どうしても言っておきたいことがあるんだ」 蓮の声は、微かに震えていた。 「俺さ、イギリスに行くの、本当はすごく不安なんだ。言葉も通じないし、友達もゼロからだし。でも、それ以上に……ハルと離れるのが、一番寂しい」 「え……?」 「ずっと、言えなかった。同じ塾の時も、春に隣の席になれた時も。 一生懸命で、たまに不器用で、でも誰より優しいハルのことが、 ずっと好きだった。 困らせるってわかってたから、隠したまま行こうと思った。だけど、やっぱり無理だったよ。 君を置いていきたくない」 蓮の綺麗な瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ、机に小さなシミを作った。 いつも前を走っていた彼が、私の前で泣いている。 その瞬間、私の中でせき止めていた感情が、一気に決壊した。 視界が激しく歪み、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。 「私も……っ、私もずっと好きだった! 蓮のこと、ずっと見てた……!」 涙が頬を伝い、言葉がうまくまとまらない。 しゃくり上げながら、私は想いのすべてをぶつけた。 「いなくなっちゃうのに、そんなこと言うなんてずるいよ……。これからどうすればいいの、私……」 蓮は一歩近づくと、震える手で私の涙をそっと拭った。 彼の指先は驚くほど温かくて、それがまた愛おしくて、涙がさらに溢れてしまう。 「ごめん。でも、嬉しい。両想いだったんだな」 蓮はポケットから、小さな、天球儀を模した真鍮のキーホルダーを取り出し、私の手の中に握らせた。 「これ、俺とお揃いなんだ。 どんなに距離が離れても、俺たちが見上げる空は一つだから。 高校生になったら、絶対にハルを迎えに来る。だから、俺のこと、待っていてくれる?」 手のひらに残るキーホルダーの冷たさと、蓮の体温。 私は何度も、何度も激しく頷いた。 「うん……! 待ってる。何年経っても、ずっと待ってるから!」 窓の外では、一番星が静かに瞬き始めていた。 私たちは夕闇に沈む教室の中で、泣きながら、けれど確かに、未来への約束を交わした。 それは切なく、苦しく、けれど私の人生の中で、何よりも温かい冬の日の記憶となった。 約束の3年は、長いようであっという間だった。 スマートフォンの画面越しに見る蓮は、少しずつ背が伸び、声が低くなり、すっかり大人びていった。 時差を超えて交わすメッセージや通話だけが、遠く離れた二人を繋ぐ細い糸だった。 そして、高校1年生の春。 私は、あの日蓮が言った「絶対に迎えに行く」という言葉を信じて、彼が帰国後に編入すると言っていた高校の入学式に臨んでいた。 桜の花びらが舞い散る校門の前。 新入生たちの賑やかな声が響く中、私は胸を高鳴らせながら、人混みの中に『彼』の姿を探していた。 「——ハル!」 聞き覚えのある、けれど少し低くなった懐かしい声が、私の名前を呼んだ。 振り返ると、そこには、紺色の新しい制服を着た蓮が立っていた。 中学生の時よりもずっと背が高くなり、少し大人っぽくなったけれど、その優しい瞳と、私を見る愛おしそうな笑顔はあの日のままだった。 「ただいま、ハル。約束通り、迎えに来たよ」 蓮の目元が、少しだけ潤んでいるのが見えた。 私の視界も、一瞬で熱い涙で滲んでいく。 けれど、あの冬の日の教室で流した涙とは違う。 胸いっぱいの嬉しさと、愛しさが溢れた涙だった。 「おかえり、蓮……っ!」 桜の花びらが、一枚、また一枚と私たちの間を舞っていく。 三年前の冬に交わした約束は、今日、ようやく叶った。 私は握りしめた天球儀のキーホルダーを見つめて、そっと笑った。
隣にいる君は、どこか遠い存在に見えた。
いつもと変わらない放課後。僕はいつものように、ただ退屈をやり過ごすためだけに屋上へと足を向けていた。 「となり……いい?」 そこに佇んでいたのは、同じクラスの瀬璃(せり)だった。 彼女はクラスの中でもとりわけ物静かな少女だ。 休み時間になっても、誰かと親しげに言葉を交わしている姿を、僕は一度も見かけたことがなかった。 …いや。 正確に言うなら、僕以外の誰かと話しているところを見たことがない。 まあ、特に断る理由もなかったので、二つ返事で僕は彼女が隣に並ぶのを承諾した。 僕たちの始まりは、ごく一般的な出会い方だった。 屋上で所在なげにしている彼女に僕が何気なく声をかけたところ、驚くほどすんなりと懐かれてしまい、今となっては放課後に二人きり、屋上で他愛のない雑談を交わすくらいには仲良くなっていた。 「私達が出会ってからもうすぐ一年だね。セツ」 彼女は僕のことを親しみを込めて「セツ」と呼ぶ。僕の本名は刹那(せつな)というのだが、それにちなんだ、彼女なりのあだ名のようなものだった。 「そうだね。思い返すと色んなことが…なかったな。」 あくまで僕たちの関係は、この屋上で言葉を交わすだけの狭い世界に閉じじていた。 クラスに戻れば、僕だけが周囲から不気味なものを見るような目で見られてしまう。 だから、教室で彼女と話すことは決してなかった。 ふと彼女の方へ視線を巡らせると、どこか寂しげな陰りを帯びた横顔をしていた。 だが、僕の視線に気づくと、すぐにいつもの優しい微笑みに戻る。 「一年もいて思い出がないのってちょっとさみしいから遊びに行かない?」 「今から?」 僕はポケットからスマートフォンを取り出し、画面に表示された時間を確認する。 そうなると、当然日付も見るわけで… 四月九日。 その数字を目にした瞬間、なぜか胸の奥が不意にざわついた。 (この日付、どこかで……) 強烈な違和感が走る。けれど、その理由をどうしても思い出すことはできなかった。 「今は五時か。」 僕の親は放任主義だから、一日くらい家に帰らなくても特に咎められることはないだろう。 「良いよ、行こう」 そうして僕たちは、沈みかけていく夕日を背に浴びながら、鮮やかなオレンジ色に染まった街へと歩みを進めたのだった。 「お待たせしました。オムライスです」 辿り着いたのは、街の一角にある、ありふれたファミリーレストランだった。 「おいしそー!いただきます!!」 「そんな急いで食べてたら、のどにつまるぞ?」 目の前の状況はとても幸せに満ちていた。それなのに、周囲から突き刺さる不躾な視線が、やけに痛かった。 それは憐れみを含んだような色を帯びていたが、僕にはそれが、仲睦まじい僕たちを妬んでいるかのように思えた。 だが、いつまでもその視線に耐えられるほど僕は強くなかった。 彼女が食事を終えると、僕たちは逃げるようにしてすぐに店を出た。 「もう、すっかり夜だな…まだどこか行くのか?」 「最後に行きたいところがあるんだ。着いてきてくれる?」 「もちろんだ。」 「着いて行くとは言ったが、まさかこんなに遠いとは…」 夜の闇に完全に呑まれ、主役の座を射止めた月を背に受けながら、僕たちはひっそりとした山道を歩いていた。 「たしかもうすぐ…着いたよ。」 彼女がそう呟いたので、僕は視線を前方へと向ける。 するとそこには、息を呑むような光景が広がっていた。 一面に咲き誇る花畑。そして遥か眼下には、宝石を散りばめたように広がる街の明かり。 「すごく…きれいだな。花はスイートピーと、もう一種類はなんだ?」 「これね、ストロベリーキャンドルって名前。」 ストロベリーキャンドル。その響きに、どこかで見聞きしたことがあるような既視感を覚える。 いや、ストロベリーキャンドルだけではない。 夜の街の明かりも、漂うスイートピーの甘い香りも、すべてを前にどこかで見たことがあるような気がしてならなかった。 「ねえ…」 不意に、静寂を破るように彼女が語りかけてくる。 「なんだ?」 そう問い返すと、彼女は何か大きな覚悟を決めたような、張り詰めた表情をして、ある問いを僕に投げかけた。 「もし私が いなくなったら…どうする?」 その、瞬間だった。 「グッ……!」 頭の奥を、何か鋭利な刃物で突き刺されたかのような、激しい激痛が走った。 「なんだ…、これ……」 あまりの頭痛に顔を歪める。それとともに、僕の記憶にはないはずの光景が、濁流のように次々と脳裏に浮かび上がってきた。 騒がしい教室。 八分咲きの桜。 どこかの入学式。 そして――泣いている女の子。 次に浮かんできたのは、僕が気絶する前にいたあの場所。 山の中の花畑に、寄り添うようにして並んで座っている中学生の二人組だった。 その二人に、今の僕の覚えなんて全くない。もちろん言葉を交わした記憶もない。 それなのに…… (どうしてこんなに…胸がしめつけられるのだろう。) 胸を掻き毟りたくなるような切なさに襲われたとき、記憶の中の女の子が、思いがけない言葉を口にした。 「もし私がいなくなったら…どうする?」 瀬璃と同じ質問をする、その女の子。 よく見つめてみれば、その容姿は瀬璃にとても酷似している。 ということは……この子は、瀬璃なのか? だとしたら、その隣に座っている男の子は、一体誰なんだ? 混濁する思考を置き去りにして、記憶の中の二人の会話はどんどん進んでいく。 そして、なぜか二人は固く抱き合っていた。 今更その内容を深く聞き込んでも、内容を正確に理解できないとは思った。 けれど、僕はとりあえずその会話に耳を傾けることにした。 「多分、今週末が限界かな。」 「そんな…。日曜日には入学がある。死にものぐるいで勉強してやっと美子と同じ高校に行けることになったのに…。」 この女の子は美子というのか。 初めて見たはずなのに、どこか見覚えがあった。 「もう一度聞くね。私が いなくなったらどうする?」 「軽く一年は立ち直れないかな」 「逆に一年だけなんだ…まあいいや。私ね、君にお願いがあるんだ。」 「最後なんだし…何でも聞くよ」 「ありがとう。それでね、お願いっていうのは…」 「うん。」 「君には、生きてほしい。私が死んでもそれを受け入れて、生活を送ってほしい。私が見れなかった景色。私がしたかったこと。その全てを、君に『経験』してほしい。多分だけど、君は弱いからしばらくは立ち直れないと思う。だから、立ち直れた時…私の死を受け入れたとき、私に会いにきて…セツ」 「分かった…約束だ」 そう言い残し、二人はその場から静かに去っていった。 ハッと気が付くと、僕は眩しさに目を細めていた。 辺りを見渡す。 一体どれほどの時間が経過したのだろう。 空高くに昇った太陽が、地面に転がっている僕を強く照りつけていた。 案の定と言うべきか、隣にいたはずの瀬璃の姿は、どこにもなかった。 そして――全てを、思い出した。僕と、"美子"との思い出を。 そうなると、僕には行かなければいけない場所がある。 僕は、這いつくばるようにして倒れていた体をゆっくりと起こし、ある場所へと向かって歩き出した。 「久しぶり。美子。」 僕は、目の前にある、冷え切った墓石に向かって話しかけた。 今日の日付は四月十日。高校の入学式。 そして……美子の命日。 ちょうど一年前の今日。美子はこの世に永遠の別れを告げた。 美子の死をどうしても受け入れられなかった僕は、その翌日から、美子の代わりに『瀬璃』という幻影を見るようになっていた。 あまりのショックで美子との記憶を失った僕は、その喪失感を埋めるように、彼女を瀬璃という名に仕立て上げて幻視し続けていたのだ。 だが、あの幻影は、わざわざ僕をあの思い出の場所まで連れていき、忘却の彼方にあった全てを思い出させてくれた。 きっと、一年という大きな節目を迎えて、僕の脳が本能的に現実との折り合いをつけたのだろう。 「そんなことはどうでもいいか。今は再会を喜ぼう。」 僕は、携えてきた二本のガーベラ、スイートピー、ストロベリーキャンドルを、その石の前にそっと供えた。 「これ、前に一緒に見た花だよな。一年前はガーベラも咲いていたし。」 僕は一度、胸の前で手を合わせ、静かに目を閉じた。 十秒ほど祈りを捧げた後、ゆっくりと目を開ける。 「そろそろ本題に入るとするか」 僕は一度深く息を整え、騒がしい心臓を落ち着かせた後、静かに語り始めた。 「今日まで色んなことがあった…って言いたいけど、特に何もなかった。だって、君の死を受け入れたのついさっきだったから。君が死んで君の思い出を忘れて幻影を見るようになったんだ。君の代わりにね。その幻影が、昨日あの場所に連れていってくれたんだ。街が一望できる山の中の花畑だよ。まあ、最後に一緒に過ごした場所って言った方が分かりやすいかな。そこで、君との記憶を思い出して、ここに来たんだ。宣言をするためにね。…僕はこれからの人生で君を忘れることなんて一度たりともない。思っても、それは忘却なんかじゃない。むしろ逆だ。君の代わりに色んな景色をみて、色んな経験をする。約束したからね。だから、見ててよ。空の上から、僕の生き様を。そして最後に。本当は君が生きてる間に言いたかったんだけど…仕方ないよね。しっかり聞いててよ?美子。大好きだ。世界で一番愛してる。」 「…じゃあな。また会う日を、楽しみにしてる。」 そして僕は、冷たい墓石にそっと唇をよせた。 それから、未練を断ち切るように立ち上がって去ろうとした、その時だった。 「来てくれて、ありがとう。私も愛してる。」 耳元で、懐かしい声が響いた。 ……僕は、その場に立ち止まった。 今ふり返れば、そこには微笑む美子が本当にいるのかもしれない。 けれど、僕は決して振り返らない。 美子との約束を果たすのに、これ以上の未練を残したら意味がないから。 そして僕は、再び前を向いて歩き出す。 美子との約束を果たすために。
一日の結婚と、一年間の告白。
病室の窓の外では、季節外れの桜の葉が秋風に揺れていた。 乾いた音を立てて擦れ合う葉の音だけが、静まり返った部屋に響いている。 ベッドの上の千晶は、かつての健康的な輝きを失い、ひどく痩せてしまった手で僕のワイシャツの袖を掴んだ。 かすかに震える指先に、彼女の残された最後の力が込められているようだった。 千晶は僕を見上げ、消え入りそうな、けれど確かな意志を宿した声で言った。 「ねえ、刹那。私と、結婚して」 それは、彼女に残された時間がもう一日もないという残酷な宣告を、医師から受けた直後のことだった。 僕と千晶は、大学の入学式で出会って以来の同級生だった。 互いに好意を持っていることは、言葉にしなくても分かっていた。 共通の友人が集まれば「お前らいい加減付き合えよ」といつも冷やかされていたし、二人で出かける時は恋人同士そのものだった。 けれど、僕たちは決定的な言葉を口にしないまま、ずるずるとモラトリアムのような関係を続けていた。 原因は僕の意気地なさだ。 もし告白して、万が一にも今の心地よい関係が壊れてしまったら――そう恐れて一歩を踏み込めないうちに、千晶の体に病魔が見つかった。 病気が発覚してからの彼女は、僕に甘えることをやめてしまった。 弱っていく姿を見せたくないという、彼女なりのプライドだったのかもしれない。 だからこそ、今この瞬間の「結婚して」という言葉が、彼女の生涯で最初で最後の、剥き出しの我が儘なのだと分かった。 「……分かった。結婚しよう」 僕は千晶の冷たくなった手を、両手で包み込むように握り返した。 病院側の温かい計らいにより、僕たちはその日の夕方、ナースステーションの奥にある面会室でささやかな結婚式を挙げた。 千晶の友人たちが急遽集まってくれ、誰かが持ってきてくれた白いレースのストールをベールに見立てて千晶の頭に載せた。 車椅子に座る彼女は、少しだけ顔色を良く見せるために薄く口紅を引いていた。 指輪なんて用意している時間はなかった。 僕は病院の売店へ走り、お見舞い用ののし袋に使われていた手作りの水引を外し、即席のリングを作った。 「妻になってくれてありがとう、千晶」 震える手で彼女の薬指に水引の指輪をはめると、千晶は涙をボロボロとこぼしながら、人生で一番美しい笑顔を見せた。 「うん。旦那様、これからよろしくね」 けれど、僕たちの神様はどこまでも冷酷だった。 日付けが変わる少し前、千晶は深い眠りに落ちるように、僕の腕の中で静かに息を引き取った。 夫婦として過ごした時間は、わずか数時間。 夜間窓口に婚姻届を出す暇さえなかった。 法的には何の証拠も残らない、たった「1日の結婚」で、僕たちの短い新婚生活は幕を閉じた。 千晶が亡くなってからの僕は、完全に抜け殻だった。 朝起きて、仕事へ行き、帰ってきて眠る。 その全ての営みから感情が消え失せていた。 彼女のいない世界は灰色に染まり、ただ時間だけが冷酷に過ぎていった。 自分が生きているのか死んでいるのかさえ分からなかった。 初七日の法要が過ぎた頃、千晶の母親が僕の自宅を訪ねてきた。 彼女は腫らした目で、一冊の分厚い革表紙のノートを僕に手渡した。 表紙には、千晶の几帳面で丸みのある字で『刹那へ』とだけ書かれていた。 「千晶がね、あなたに遺したものよ。私が預かっていたの。毎日、少しずつ読んでほしいって、それだけは何度も強く言っていたわ」 母親が帰った後、静まり返った部屋でノートを開いた。 中を見ると、日付が細かく区切られている。 驚いたことに、それは千晶が病床で、痛む体に鞭打って書き溜めていた日記だった。 しかも、ちょうど「365日分」のページが存在していた。 最初のページを開く。そこには、千晶が旅立ってからちょうど1か月後の日付が記されていた。 『10月23日。 刹那、元気にしてる? ちゃんとご飯は食べてるかな。きっとカップ麺ばかり食べてるんでしょう。 今日から1年間、毎日あなたに私の気持ちを届けるね。題して「一年間の告白」です! まず、最初の告白。 大学2年の夏、あなたがサークル室で居眠りしてたでしょ? あの時、実は私、あなたの寝顔にこっそりキスしそうになったんだよ。 意気地なしの刹那がなかなか手を握ってくれないから、あの頃の私は毎日じれったくて仕方がなかったんだからね』 胸が締め付けられるような痛みを覚えながらも、僕は思わずクスリと笑ってしまった。 涙がポタポタとノートの端に染みて、文字を少しだけ滲ませる。 彼女の怒ったような、悪戯っぽい声が耳元で再生されるようだった。 それから、僕と「亡き妻」との不思議な1年間が始まった。 千晶の遺言を破るわけにはいかない。僕は毎朝、どんなに辛くても一日に一ページだけ、彼女の「告白」を読み進めることを自分に課した。 一度にたくさん読みたい衝動に駆られたが、千晶が「毎日少しずつ」と望んだ意味を考えると、踏みとどまることができた。 『12月24日。 メリークリスマス、刹那。 去年のクリスマス、一緒にみなとみらいのイルミネーションを見たよね。 あの時、刹那が私のポケットに手を入れようとして、緊張で手が震えてたの、実は全部バレてたよ。 でもね、すごく嬉しかった。私はずっと、あなたのそういう不器用で優しいところが好きだったの。 今日は寒いから、ちゃんとマフラーをして出かけてね』 『3月15日。 もうすぐ春だね。大学の卒業式を思い出すな。今日の告白は、ちょっと意地悪なこと。 刹那がサークルの後輩の女の子と楽しそうに話してると、私、いつも心の中でその子に猛烈に嫉妬してたんだよ。 「私の刹那なのに!」って。 言わなかったけどね。だから、私が他の男友達と話してる時に、刹那にも少しは嫉妬してほしかったな』 ページをめくるたび、僕の知らない千晶の素直な想いが溢れ出してきた。 彼女はもうこの世のどこにもいないのに、毎朝日記を開くたび、すぐ隣で千晶がはにかみながら愛を囁いてくれているような錯覚に陥った。 そして何より、千晶の言葉はただの思い出の暴露ではなかった。 「今日は少し遠くのパン屋さんまで散歩してみて」 「明日はベランダの植物にお水をあげて」 「お気に入りのカフェのマスターに挨拶してみて」 と、僕を少しずつ外の世界、日常の光の中へと連れ出そうとする、優しい指示が含まれていたのだ。 僕は彼女の言葉に導かれるように、重い足を動かし、少しずつ、前を向いて歩き出すことができた。 彼女の日記を読むという目的があるからこそ、僕は毎朝、ベッドから起き上がることができた。 それは、千晶が自らの死を予期した上で仕掛けた、僕を絶望の淵から救い出すための、壮大な「救命ロープ」だった。 季節は巡り、千晶が旅立ってから丸一年が経った。 窓の外には、あの日と同じように秋風が吹き、桜の葉を揺らしている。 僕は机に向かい、最後の一ページを開いた。 そこには、体調が急激に悪化していたのだろう、これまでの几帳面な字とは打って変わって、細く、激しく震えた文字が並んでいた。 何度もペンを置き、息を整えながら書いたことが容易に想像できた。 『9月23日。 最後の告白です。 刹那、私と「1日だけ」結婚してくれて、本当に、本当にありがとう。あの日は私の人生の中で、間違いなく一番幸せな1日でした。 この1年間、毎日あなたに「好き」って言えて、私は死んでからもずっと、世界一幸せな女の子でした。 でもね、私の告白は今日でおしまい。 明日からは、私の思い出を「重荷」ではなく「お守り」にして、新しい一歩を踏み出してね。 あなたのこれからの長い人生が、たくさんの愛と笑顔で満たされますように。 空の上から、ずっとずっと、あなたを応援しているよ。 世界で一番、愛しています。 千晶より』 最後の文字は、掠れて消えそうになっていた。 僕はゆっくりとノートを閉じた。 涙は出なかった。 この1年間で、千晶の愛が僕の心の傷を完全に満たし、癒やしてくれていたからだ。 僕は立ち上がり、窓を大きく開けた。 1年前と同じ、少し冷たい秋風が部屋の中に吹き込み、僕の頬を優しく撫でて通り過ぎていく。 まるで、千晶が「よく頑張ったね」と頭を撫でてくれたかのように。 僕の左手の薬指には、あの日売店で買った、少し色褪せた水引の指輪が、今もぴったりと嵌っている。 「ありがとう、千晶。僕も、世界で一番、お前を愛してるよ」 空を見上げ、僕は声に出して言った。 千晶からもらった365日分の無償の愛を胸に、僕は明日から始まる、彼女のいない、けれど彼女が命をかけて守ってくれた「新しい僕の人生」へと、力強く歩き出した。
愛と呼ぶには、醜すぎて。
その部屋は、不気味なほどに白かった。 白い壁、白いリネン、窓から差し込む無機質な光。 その中心で、僕は冷たくなった彼女の「名残」を見つめていた。 僕の手は、彼女の首元にあったはずの感触をまだ覚えている。 部屋には、まるで蛆が湧くようなドロドロとした醜い感情が満ちていた。 憎悪、嫉妬、絶望。 それなのに、不思議とそこからは、あの日までの彼女がまとっていた、甘く気高い百合の香りが消えてくれない。 「どうしても、貴方のことが許せないんだ」 声は虚しく壁に跳ね返り、白い空間に溶けて消える。 僕にとって、美香はすべてだった。 僕の暗い過去を救ってくれた女神であり、僕の世界の正義そのものだった。 信じていた。 混じり気のないあの無垢な笑顔も、凍えそうな僕を包み込んでくれた手の温もりも。 全部、本物だと信じて疑わなかった。 けれど、昨日暴かれた「真相」は、僕が生きる意味として作り上げた天国を、容赦なく地獄へと変えた。 僕の部屋のクローゼットの奥から見つかった、一冊の古いノート。 そこには、美香の几帳面な文字で、僕を破滅させるための綿密な計画が書き連ねられていた。 彼女が僕に近づいたのは、愛ゆえではなかった。 5年前、僕が起こしてしまった自動車事故。 その被害者遺族の娘が、美香だったのだ。 『あいつを私と同じ地獄に突き落とす。私を愛させ、依存させ、すべてを捧げさせた後に、最も残酷な方法で裏切って絶望を教える』 ノートに並ぶ呪詛のような言葉たち。 僕を愛してくれていると思っていた彼女の瞳の奥にあったのは、狂気的な復讐心だけだった。 僕の心は、その瞬間、修復不可能な音を立ててぶち壊れた。 愛しても無駄なのに。 信じるだけ傷つくだけなのに。 それなのにこの期に及んで、僕はまだ、僕をハメた彼女の温もりを醜く愛している。 僕は震える手で、庭から摘んできた白い花を一輪、彼女のいた場所に手向けた。 手と手を合わせて、静かに目を閉じる すべてが終わった後、彼女は僕の目の前で、自ら用意していた毒を煽った。 「これで貴方は、一生私という呪いから抜け出せない」 そう言って、見たこともない歪んだ笑顔を浮かべて、彼女は息絶えた。 僕の手で殺すことさえ、彼女は許してくれなかった。 「もうすぐ、其方(そっち)に往くからね」 美香を失った世界には、ただ永い夜だけが横たわっている。 どれだけ憎くても、彼女なしでどうやって生きていけばいいのか分からない。 そう諦めようとするのに、カーテンの隙間から差し込む朝日に、僕の心臓はまだドクドクと生々しいビートを刻んでしまう。 生きているという罪悪感と痛みが、僕をこの世界に縛り付けようとする。 けれど、頭の中で天使の笑い声のような、美香の声が響き始めた。 その声に生かされ、同時に、その声に狂わされていく。 「もうすぐ、此方(こっち)に来る頃ね」 幻聴の中の美香が、僕に向かって優しく微笑む。 僕の真っ白だった心は、彼女の復讐によって美しく穢(けが)されてしまった。 もう二度と、何も知らずに彼女と笑い合っていた頃の僕には戻れない。 もしも。 もしもあの復讐のノートを見る前の、偽りだらけの彼女に、もう一度だけ出会えたとしたら。 それがどれだけ精巧に作られた嘘の舞台であっても、僕は喜んで騙され続けただろう。 今度は嘘のない世界で。 今度は裏切りのない場所で。 「今度はちゃんと、手を握るからね」 僕はポケットから、美香が遺した毒の残りのカケラを取り出し、口に含んだ。 内臓を焼くような痛みが走る。 ガタガタとノイズを立てて、僕の視界が、世界が、激しく明滅する。 激しい感情の転調。 そして、その感情の最高潮の果てに――。 すべての音が、ブツリと途切れた。 はずだった。 ブツリ、と途切れたはずの世界に、再び忌々しい音が戻ってきた。 電子的なアラームの音。 規則正しく刻まれる、他人の心臓の音。 ゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、あの白い部屋ではなかった。 ひび割れた天井と、鼻を突く消毒液の匂い。 そこは、病院の集中治療室だった。 「……あ、気がつきましたか!?」 看護師の緊迫した声が響き、医師たちが集まってくる。 体に繋がれた無数の管。 生きている。 僕は死ねなかったのだ。 胃洗浄を受け、無理やりこの世界に引き戻されたのだと、感覚が戻るにつれて理解した。 内臓を焼くようなあの痛みは消えていた。 代わりに、胸の奥にぽっかりと開いた底なしの空洞が、冷たい風を上げている。 美香はもういない。 警察の取り調べで、彼女の遺体はすでに搬出され、彼女が残した「復讐のノート」も証拠品として押収されたことを知らされた。 彼女の計画は、僕が生き残ったことで、歪んだ形で完成してしまった。 『私という呪いから抜け出せない』 彼女の最期の言葉が、呪詛のように僕の耳元でリフレインする。 死ぬことさえ許されず、僕はこれから一生、彼女を殺してしまったという罪悪感と、彼女に裏切られていたという絶望を抱えて生きていかなければならない。 それこそが、彼女が僕に与えたかった、本当の「地獄」だったのだ。 数ヶ月後、退院した僕は、誰も僕を知らない見知らぬ街の、小さなアパートに移り住んだ。 5年前の事故の件は、すでに法的処分を終えていること、そして今回の件が美香の自殺加担と判断されたことから、僕が罪に問われることはなかった。 けれど、僕の心はあの白い部屋に囚われたままだ。 窓の外では、何も知らない人々が楽しそうに笑い、太陽の光を浴びて生きている。 その眩しさが、僕には耐えられなかった。 僕は昼間でも遮光カーテンを閉め切り、薄暗い部屋の中でじっと息を潜める。 ふと、部屋の隅に目をやる。 そこには、あの時と変わらない無垢な笑顔で、僕を見つめる美香の姿が見えるような気がした。 「ねえ、苦しい? 寂しい?」 幻聴の中の彼女は、とても優しく僕の頬を撫でる。 それが僕の罪悪感が見せる幻覚だと分かっていても、僕はその幻にすがりつくしかなかった。 彼女の憎しみだけが、今の僕と彼女を繋ぐ唯一の絆だからだ。 僕は、彼女に裏切られたことを激しく怨んでいる。 同時に、僕を狂わせた彼女を、今でも狂おしいほどに愛している。 生きながらにして地獄に落ちた僕は、皮肉にも、彼女の幻影に抱かれるこの薄暗い部屋を、僕たちだけの「天国」だと感じ始めていた。
リメイクするなら、どれがいい?
みなさんこんにちは。刹那です。 題名にある通り、僕こと刹那は、新たな試みを考えています。 その試みとは..... 今までの作品のリメイクです! とは言っても、普通にリメイクするわけじゃなく、一万字くらいの長編小説にしようと思ってます! リメイクする作品は、今までの作品のどれかです! これを抜いた約28個の作品で、一番いいねが多い作品をリメイクしようと思います! 期間は9月30日の午後11時59分までです! これを投稿した後も小説を投稿しますが、期間中に出した小説は投票外にしようと思います。 個人的には、君の記憶を、一グラムだけ残して が一位になってほしいかなーなんて笑 てな訳で、投票スタート!