夜の底で、君の名前を呼んだ
プロローグ
夜の街を走っていた。
サンダルはいつの間にか脱げて、足の裏はガラスを踏んだみたいに痛くて、血が滲んでた。それでも走った。追いかけてくるのは、あの男の怒鳴り声か、母のヒステリックな悲鳴か、それとも、逃げ場のない現実そのものか。
どこか遠くでパトカーのサイレンが鳴っている。でも、誰も私を助けてなんかくれない。助けて、なんて叫んだって、誰も聞こえないこの世界で。
私はひとりだ。
ずっとずっと、ずっと――ひとりだった。
第一章:孤独
結は十七歳。高校三年生。学校が終わっても、なかなか家に帰ろうとしないのは、勉強が嫌いだからでも、友達と遊びたいからでもない。
ただ、家が地獄だったから。
駅のトイレで制服を脱いで、黒いパーカーに着替える。夜になるまで公園のベンチに座って、スマホの電池を切らさないようにSNSを眺めて過ごす。
母は最近、男と同棲を始めた。
その男――高橋という四十代の無職男は、昼から酒を飲み、機嫌を損ねれば、すぐに怒鳴り散らす。目が合うと舌打ちをし、時には結の髪を引っ張り、夜には酔って意味不明な言葉を呟きながら触れてくる。
母はそれを知っている。
でも「そんな格好してるあんたが悪いんでしょ」「あの人が怒るのは、あんたの態度が悪いから」と怒鳴るだけ。まるで、結がすべてを壊しているかのように。
家には父がいない。五年前に死んだ。優しい人だった。父が死んでから、母は壊れていった。ヒステリックになり、夜ごと男を変え、そしてついに高橋と暮らすようになった。
「…死にたいなあ…」
結は何度もそう呟いた。
でも怖いのは死ぬことじゃない。怖いのは、このまま生きていくことだった。
第二章:一晩だけ
その夜も、結は帰れなかった。
マンションの前まで行って、インターホンに指をかけて、でも押せなかった。
昨日、あの男――高橋の手が太ももに触れたときの、あのぬるりとした感触が、まだ皮膚に残ってる気がした。
「…くそったれ…」
小さく吐き捨てて、踵を返す。
どこに行く当てがあるわけでもなかった。ただ、家だけには戻りたくなかった。
夜の商店街を歩く。灯りはまばらで、人通りもない。
どこかのシャッターの前にしゃがみこんで、腕を抱えて丸くなる。涙が出そうになる。でも、泣いたら負けだと思って、ギリギリまで我慢する。
それでも嗚咽が漏れた。
「うっ…うう…っ…」
呼吸が乱れて、喉がひゅうひゅう鳴る。
誰かに見つかって、怒鳴られるんじゃないかと思う。でも、誰も来なかった。
そう思っていた時――
「おい、大丈夫か?」
低く疲れたような声が耳に飛び込んだ。
結が顔を上げると、そこにいたのはスーツを着た見知らぬ男だった。
歳は二十代後半くらい、無精ひげが伸びてて、目元には疲れがにじんでいる。
「…っ、誰?」
「通りがかりの、ただのサラリーマンだよ。おまえ、そんなとこで何やってんだ」
警戒心で全身がこわばった。けど、逃げる元気もなかった。
「…別に。寝てただけ。」
男は少し間を置いてから、小さくため息をついた。
「…寒いなら、ウチ来るか?泊めてやる。」
「は?」
「食いもんもあるし、風呂もある。ヤバいもんはない。ただの、独り暮らしの汚い部屋だけど。」
普通なら断る。逃げる。けど――
この時の結には、選択肢がもう残っていなかった。
「……ついて行ったら、どうなるの?」
男はポケットからタバコを出しながら言った。
「何も。何も起きねぇ。ただ、おまえが少しだけ休めるなら、それでいいと思ってな。」
嘘に聞こえなかった。
それでも怖かった。でも――
あの家よりは、きっとマシだと思った。
「……一晩だけ。」
「わかった。」
男のアパートは、古くて狭かった。でも、暖かかった。
名前は「藤原」。仕事は夜勤明けで、配送関係をしているという。
無口だけど、余計なことは聞いてこなかった。
インスタントラーメンを作ってくれて、座布団を敷いてくれて、毛布を貸してくれた。
「…ここ、汚くないよ。」
「いや、汚いだろ。」
「家よりずっとまし。」
藤原は少しだけ眉を動かした。
けど、何も言わなかった。
ラーメンをすすりながら、結はふと呟いた。
「…あんた、なんで私に優しいの?」
藤原は煙草に火をつけながら、視線を逸らして言った。
「……昔、似たような子を助けられなかった。だから、かもしれねぇ。」
それ以上、何も聞けなかった。
その夜、結は久しぶりに布団の中で泣いた。
嗚咽を漏らして、誰にも気づかれないように、小さく、小さく――。
第三章:約束しない約束
朝。
カーテン越しの光が差し込む。
「…寝れたか?」
目を開けると、キッチンでインスタント味噌汁を用意している藤原がいた。
いや、藤原“くん”
二十二歳。年齢を聞いて、結はちょっとだけ驚いた。
「……あんた、二十二歳なんだね。」
「見えねぇ?」
「二十後半くらいかと思ってた。」
「よく言われる。」
笑った。
久しぶりに、心がふっと緩んだ。
昨日までの地獄みたいな感覚が、遠くにある気がした。
学校に行くふりをして、藤原の部屋を出る。
けれど、教室には向かわず、町をふらついた。
帰る家はない。
行く学校もない。
だけど、帰りたい場所がある。
放課後、結はまた藤原の部屋のチャイムを鳴らした。
「…来ると思った。」
彼は、そう言って笑った。
それから数日、結は藤原の部屋で生活するようになった。
夜はコンビニのお惣菜を食べて、昼間はテレビを見たり、近くの河川敷を散歩したりした。
何をしていたって、あの家に帰らないだけで、呼吸ができた。
藤原は何も求めてこなかった。
触れてもこないし、夜中に変なことを言うわけでもなかった。
ただ、そこにいてくれる。
「ねえ、逃げたままって、やっぱダメ?」
「逃げてもいいよ。大事なのは、もう一回立てる場所があるかどうかだ。」
「…私、ないかも。」
藤原は、缶ビールを置いて、小さく息を吐いた。
「それなら、ここをその場所にすればいい。」
結は黙ってうなずいた。
小さな、壊れそうな、でもたしかな――約束しない約束だった。
ある晩。
藤原がコンビニに出ていた数分の間に、インターホンが鳴った。
「結! いるんでしょ!?」
怒鳴り声。
それは――母だった。
隣にはあの男。高橋。
結は声を出せなかった。
足がすくんで、震えが止まらなかった。
ガチャ、と玄関が開いた音。
藤原だった。
「誰?あんた」
「あなたが娘を誘拐したんでしょ!?このクソ野郎!」
「違います。彼女が自分の意志で――」
「はぁ!?このクズが!」
怒鳴り合い。手が出る。
藤原が突き飛ばされ、結は咄嗟に彼の腕を掴んだ。
「やめて!!あたしが悪かったから!ちゃんと家に戻るから!」
だが――その言葉すら届かず。
その数分後、警察が来た。
藤原は「未成年誘拐の疑い」で連れて行かれた。
結は保護された。
その時、初めて知った。
世界は、優しさよりも、「正しさ」を優先する。
泣き叫んでも、腕を伸ばしても、藤原は遠ざかるだけだった。
「ごめん…っ……ごめん、ごめん、ごめんっ!!」
警察車両の窓に手を打ちつけ、嗚咽した。
「戻りたくない!お願い、連れてかないで!!」
夜の街がにじんで見えた。
車の赤いライトの中で、藤原が最後に微笑んだのが、痛いほど焼きついて離れなかった。
第四章:底の底へ
藤原がいなくなったその日から、世界は完全に無音になった。
施設に連れて行かれたのは、警察署での簡単な取り調べのあとだった。
児童相談所に通された結は、何もかもを剥ぎ取られるような目をしていた。
「お母さんのところに戻るのは危険だと判断しています。今後しばらくはこちらの施設で…」
大人の声は、遠くで鳴る機械音みたいだった。
何も感じなかった。何も考えられなかった。
ただ、藤原がいないという事実だけが全身を焼いていた。
「…あたしバカだなぁ、ほんと…、全部ぶっ壊しちゃった…」
枕に顔を押しつけて、結は夜中に嗚咽を漏らしながら泣いた。
誰にも聞かれないように、声を殺して、でも身体が震えるのを止められなかった。
施設での暮らしは「安全」ではあった。
けど――安心ではなかった。
施設の子に物を取られたり、先生に監視されるような目で見られたり、
何より、「あの夜」が過去の出来事として扱われるのがたまらなかった。
心が、全部置いてきぼりにされたままだった。
「あたしは、ただ……あの人のそばに、いたかっただけなのに……」
藤原は、ただ一人、結の「存在」を受け入れてくれた。
他の誰も、親でさえ、それをしてくれなかったのに。
それを“犯罪”だと裁くこの世界が、どうしようもなく醜くて、許せなかった。
ある夜、結は脱走を試みた。
施設の窓を開けて、雨の中を走った。藤原がいた街に戻ろうとした。
何も計画なんてなかった。
でも、戻る場所もないことは分かっていた。
夜の街は静かで、冷たかった。
コンビニの軒下で、濡れた服のまましゃがみ込む。
スマホは没収されたまま。連絡なんてできない。
膝を抱えて、何時間も座っていた。通りすがる人たちは誰も気に留めない。
視界の端を、ただ通り過ぎていくだけ。
世界に見捨てられた十七歳。
「おじさん……会いたいよ……」
声が、涙が、喉から絞り出された。
気づけば、パトカーが来ていた。
再び保護され、また施設に戻された。
もう何も言葉が出なかった。
何を言っても意味がないと、わかっていたから。
先生の一人が、ぽつりと口にした。
「藤原さん、起訴はされてないみたいですよ。理由が理由ですし、君や周りの証言もあって…貴方、気にかけてたでしょう?良かったですね。」
その瞬間――
結の胸の奥が、張り裂けるように崩れた。
「……良かった……でも、じゃあなんで……っ」
嗚咽が止まらなかった。
助かったのに、彼はいない。
無罪でも、隣にはいない。
もう、どこにもいない。
その夜、結は声を殺して泣き続けた。
ベッドの中、腕で顔を隠しながら、泣いて、泣いて、泣き続けた。
名前を呼んでも、誰も返事はくれなかった。
第五章:再会の音
時は流れた。
藤原と引き離されてから三年。
結は二十歳になっていた。
施設から出て、奨学金を貰いながら大学に通って、掛け持ちでバイトをしていた。
「生きる」ことが、ただの作業のように毎日を埋め尽くしていた。
笑うことはほとんどなかった。
恋もしなかった。
友達もできなかった。
どこかでずっと、「あの夜」に囚われたまま生きていた。
夜、バイトを終えて家に帰ると、部屋の電気もつけずにベッドに倒れ込む。
暗闇の中、時々スマホの連絡帳を開く。
「ふじわら」の名前は、もうそこにはない。
でも――
あの夜の温度だけは、皮膚にまだ残っていた。
ある日、学校の課題で訪れた図書館で、偶然目に入ったチラシ。
「地域こども支援会・若年相談員募集」
その中に、一枚の写真が貼ってあった。
集合写真の中、後列右端――
見覚えのある顔。
無精ひげはなくなり、髪は短く整えられ、笑っていた。
「……っ」
結は、膝が崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。
震える手で、チラシをスマホで撮った。
写真の端に、小さく名前が載っていた。
「藤原 碧(ふじわら・あおい)」
間違いない。
本当に、生きていた。
そして――
また、こどもたちのそばにいた。
結は涙が止まらなかった。
声も出せなかった。
図書館の片隅で、静かに肩を震わせながら泣いた。
「……あたし、まだ……あの人のこと、忘れてなかったんだ……」
自分でも驚くくらい、涙は温かくて、長かった。
再会のきっかけは、その翌週。
支援会に直接連絡を取った結は、スタッフに名前を告げた。
「藤原さんに、会いたいんです。」
電話口の向こうが一瞬、静かになったあと――
「……お名前、“結ちゃん” ですか?」
その一言で、すべてが蘇った。
「彼……ずっと、君のこと探してましたよ。」
心臓が止まりそうだった。
「じゃあ……会ってくれる?」
「はい。きっと喜びます。」
約束の日、彼女は図書館の一角で待っていた。
落ち着いた黒いシャツ、スニーカー。
姿勢の良い若い男性が、静かに歩いてくる。
目が合った。
一瞬で、時間が巻き戻る。
「……結」
その声に、呼吸が止まった。
「……なんで、あんなに遠く行っちゃったの……っ!」
堪えていた涙が、すぐにあふれた。
彼は何も言わずに、そっと結の頭に手を置いた。
「……ごめんな。助けられなかった。」
「違うよ、助けてくれたの、あんただけだった……」
二人は再会したその日、長い時間をかけて語り合った。
あの夜のこと。
あの別れ。
その後の人生。
そして、いま。
話すほどに、溜め込んできた言葉がほどけていく。
心に開いた穴は、すぐには埋まらない。
でも――
穴の隣に、誰かが座ってくれるだけで、息がしやすくなる。
「これからは、もう離さないよ。」
藤原がそう言った時、結は初めて、安心して泣いた。
叫ぶような涙じゃない。
帰ってきた涙だった。
第六章:灯火
それから二年が経った。
私は二十二歳になった。碧は二十七歳。
私はいつも通り家に帰る。
でも――“一人”じゃない。
部屋には、ちゃんと明かりを灯す人がいた。
「まだ寝てんのか、おまえ」
休日の昼下がり。碧がキッチンから声をかける。
「うるさい、休みの日くらい寝かせてよ」
結は布団をかぶったまま、少しだけ笑っていた。
こんな風に冗談を言い合えるようになったのは、ほんの最近。
二年前、再会した直後は、ただ泣いて、すがって、崩れて、また泣いて。
壊れた心が、何度も何度も傷を見せては、碧の手を試すようにして縋りついた。
それでも彼は、怒らなかった。
離れなかった。
「俺は、結がどんなに傷ついてても、受け止める。昔、できなかったぶん、これからちゃんと生きるよ」
その言葉が、結の奥の奥まで届いて、溶かしていった。
社会の目は、もちろん冷たかった。
「犯罪者と被害者がくっつくなんて」
「歪んでる」
「依存じゃない?」
そんな言葉は山ほど浴びた。
でも、結は思った。
「誰にもわからないよ、私たちがどう生きてきたかなんて」
冷たい言葉は、もう届かない。
ふたりで生きるって決めたから。
そしてある日、碧がぽつりと言った。
「籍、入れようか」
それは、告白でもプロポーズでもなかった。
日常の中で、自然に溢れたひとことだった。
「……私、家族がいなかったから、正直ちょっと怖いけど」
「俺も怖いよ。でも、一緒に怖がって、一緒に笑ってけばいいだろ」
結は笑って、うなずいた。
「……うん。わたしもそう思う」
書類を提出しに行く道中、手を握り合った。
あの夜の街、あの雨の日、あの別れ――
全部が、ここに繋がっていたんだと、涙が出そうになる。
でも、今日は泣かない。泣かない代わりに、名前を呼ぶ。
「碧」
「なんだよ」
「ありがとう。私と出会ってくれて」
碧は照れくさそうに笑って、結の頭を撫でた。
「俺の方こそ、あの日出会ってくれてありがとう。」
空は優しく晴れていた。
この手のぬくもりが、わたしの唯一の灯火だった。