竹尾練治
2 件の小説貴方のDNAを、5Gの電波から守るためには
――ねえ、貴方は、覚えているだろうか? コロナウイルスという陰謀に侵される前の、美しかった世界の姿を。 西暦2023年、世界保健機関は世界に向けて、人類の新型コロナウイルスに対する勝利宣言を発表した。地球上の全人口の93%にワクチンの接種が終了し、現在確認されている患者の数は世界で三千人に満たないと。日本での新規患者の報告人数も一桁で横這いを続けている。喉元過ぎれば熱さを忘れ、既に世間は終息の空気に包まれていたが、WHOの発表は、長い抑圧の日々が終わった事を告げる明烏の声として響き渡った。 世界中の新聞は一面でこのニュースを報じ、SocialDistanceという文字に赤い×印をつけ、フリーハグを求める若者の姿が報じられると、すぐに各地でそのフォロワーが現れた。3メートルの高さまで、使用済みのマスクを積み上げて燃やして見せた学生は、その幼稚な行いをアート・パフォーマンスとして称して憚らなかったが、腕に火傷を負った上、消防法違反で逮捕されて物議を醸した。 はしたなく公衆の面前でキスをするカップル達の姿も多く報じられたが、LGBTへの配慮の為、男性同士、女性同士でキスをする姿と並べて報じるのが報道のマナーとされた。 世間は、抑圧からの解放をダシにした乱癡気騒ぎに興じていたが、心あるものは皆、沈痛な面持ちでそれを眺めていた——この、世界を巻き込んだ人類史上最大の壮絶なマッチポンプの茶番劇を。 アメリカのディープステイツが生み出し、世界に広めた新型コロナウイルス。その実態は、731部隊の研究結果を元に作られた人工的な細菌兵器だ。WHOもアメリカも、その走狗と成り果てた日本政府も、全てを知りつつ、沢山の尊い命が失われる事を承知で世界に悪疫を振りまいたのだ。 彼らの真の狙いは、恐怖で人類を統制し、予防と偽ってワクチンを接種することだった。新型コロナウィルスのワクチンは人間のDNAを改編してしまう。DNAとは人間にとって変え難い、アイデンティティを司る重要な情報だ。それを改編されるということは、人間の精神そのものを政府の都合のいいように書き換えられてしまうことに等しい。それなのに、何故若者達は嬉々としてワクチンの接種に向かうのか。私には理解不能だった。政府の洗脳政策が、若者達から考える力を奪っているのだ。 ワクチンの効果はDNAの改変に留まらない。ワクチンと共に注入される液体は高濃度のハイドロジェルであり、人体に注入されると、マイクロチップを通じて5Gの電波を受信して、DNAを改編された細胞を自在に操作する力を持つ――即ち、人体を直接インターネットに接続し、記憶や知識をそのままにして行動力を奪い、思考に干渉し、端末として管理下に収めてしまうのだ。 コロナウイルスは、人類を全て己の監視下に置くことを企む、ディープステイツの陰謀、ID:2020計画によるものである。我々は、その大罪を暴かなければならない。 既に、世界人口の93%がワクチンを接種され、ディープステイツのコントロール下に置かれてしまった。憐れな彼らは、もう私たちと同じ人類と呼べる存在ではない。己で思考する能力を失った、一個の端末に過ぎないのだ。 私たちは、結束し、戦わなければならない。この地球上で魂をもった人間は、もう7%しか残っていないのだから。 ◆ この世界に隠された陰謀を私に伝えてくれたのは、インターネットで知り合ったヤマノベさんという方だった。ヤマノベさんは健康食品に関するBBSで、現在の日本人の食生活に対して警鐘を鳴らす、憂国の士だった。 私はかねてから自然農法や健康食品に関心を持ち、野菜は勿論無農薬、毒である白砂糖は一切使わず、マーガリンもスナック菓子も一切与えず、健康的な食事で息子の高徳たかのりを育ててきたつもりだ。だが、愚かな私は現代社会によって、あらゆる食品が化学物質によって毒されていることを知らなかった。 ヤマノベさんは、半端な健康食品で妥協する有象無象とは心構えが違うと私を見込み、専用のチャットルームに招待してくれた。 チャットルームに入る前に、何度もWIFIを使っていないか確認された。幸い、私の家は固定回線で、電波機器は使用していなかった。 ヤマノベさんは、社会にとって都合の悪いことを知り過ぎたせいで、政府による思考の電波盗聴を受けていると私に明かした。今は、頭にアルミホイルをグルグル巻きにして、目張りをした地下室で暮らすことで、辛うじて思考盗聴を防いでいるという。 他人のプライパシーを侵害し、苦痛を与えるアベ政権の卑劣なやり口に、私は強い怒りを覚えた。 『白砂糖が有害な毒であることは言うまでもありません。マーガリンも同様です。マーガリンを自分の子供に与えている親は、石油で作られたプラスチックを食べさせているのと同じ事なのですよ。 そして、砂糖だけではなく、現在売られている食塩も殆どが有害です。 現在の食卓で使用されている塩は、食品ではありません――NaClという記号で表される、化学物質の一種にすり替えられているのですよ。 和多志たちの食卓は、今や全てが化学物質で汚染されているのです』 私は、目の前が暗くなる程の衝撃を受けた。 今まで私たちが塩と思って使っていたものは、無機質なNaClという記号で表される化学物質に過ぎなかったのだ! この恐ろしい事実を知っている人間が、一体日本に何人いるだろう? 日本人の知能は、どうしてこれ程までに低下してしまったのだ。 全く、義務教育の失敗としか言いようがない。 そう私が嘆くと、ヤマノベさんは更に恐ろしい事実を私に伝えた。 『それこそが政府の陰謀なのです。政府は、和多志たち日本人を無知のまま、都合よく扱おうとしているのですよ。 現在の教育は、愚かに、より人間を愚かにする方向に進んでいます。 遠からず、日本人の殆どが、政府の家畜への成り下がるでしょう。 和多志は、それに抗いたいと思っています。 ――ですが、日本政府はそんな和多志わたしの事を危険視して、毎日のように思考盗聴と電磁波攻撃を加えてきます。 遠からず、和多志は政府に消されることになるでしょう。 その前に、貴女に和多志の知る世界の真実を伝えたいのです』 国士。 ヤマノベさんこそは、この国を憂いる、真の国士だ。思わず目頭が熱くなる。 私は、そんなヤマノベさんを迫害する、この国の政府が憎くて堪らなくなった。 世界に誇れる美しい日本は、一体どこに行ってしまったのだろう? 今や、正しい者は迫害され、既得権益に目が眩んだ愚者ばかりが政府の中枢を牛耳っている。 それも、全てディープステイツという組織による、世界を裏から支配しようとするアメリカの陰謀なのだ。 GHQの支配から七十年が経っても、日本は未だアメリカの属国に過ぎない。 私たちは、真の独立を勝ち取らなければならないのだ。 私は朝となく夜となく、どうすればディープステイツの支配に抗えるかばかりを考えるようになり、やがて蟀谷に強い痛みを覚えるようになった。 ――ああ、私にも、政府からの電磁波攻撃が始まったのだ。 ヤマノベさんに対応を相談しようとしたが、彼とのチャットは既に繋がらなくなっていた。 今までも、インターネットに接続する事するら危うい状況だ、と幾度も口にしていたのだ。 これからは、私独りで戦わなければならない。 受け取ったバトンの重みに、眩暈さえ覚えた。 ◆ 私は、人間のDNAを書き換え、インターネットに接続してしまうコロナウイルスのワクチンには決して近づかなかった。 勿論、息子夫婦にも5Gの電波の危険性と、メディアで報道されているコロナウイルスの流行が全て陰謀である事を、何度も繰り返して電話で聞かせた。 高徳は聡明な子だ。 幼い頃から、害になるようなスナック菓子は決して与えず、言いつけを破り、隠れて友人からゲーム機を借りてきた時には、目の前で粉々に叩き壊してみせた。私の言う事には従順な良い子に育った筈だ。 嫁の美智子は子供にファーストフードでも平気で与えようとするような知識の足りない娘だったが、きっと高徳が正しく躾しつけてくれる。 ――そう、信じていた私が、愚かだった。 WHOの新型コロナウイルスに対する勝利宣言から始まった乱痴気騒ぎも落ち着いてきたある日、高徳が嫁の美智子、そして、孫の美登里と陽太を連れて家に遊びに来た。美登里と陽太は5つと4つの年子。可愛い盛りだ。 だが高徳と美智子は、いつもと違って妙によそよしく、互いに目線を交わし合っては、何か意思の疎通をしようとしているようだった。その仕草は、端末に成り下がってしまった人間達の、5Gの電波を通じてインターネットで会話する様子を連想させて、気分が悪くなった。 嫁の美智子が、子供たちに何かコソコソと私に聞こえないように小声で囁いているのも、不気味だ。 私は、心の中の疑念を隠しきれなかった。 「貴方たち――何か、私に隠し事でもしているの」 高徳が、何か言おうとして口ごもった。 美智子は高徳に冷たい視線を送ると、私をきっと見据え、信じられない事を言った。 「お義母様も、そろそろコロナウイルスのワクチンを打たれた方が良いのではないでしょうか? 仰るような危険なものではないという臨床結果も出ていますし、私も付き添いますので……」 媚びるような上目遣いのまま、子供に言い聞かせるような口調で、美智子は私に微笑みかけた。 この嫁が一体何を言っているのか、理解するのに数秒を要した。 「美智子さん! 何を言ってるの! あれ程言って聞かせたじゃない! コロナのワクチンはね、一度打つとDNAを書き換えられて、二度と戻らなくなってしまうのよ! その上、5Gの電波でインターネットに接続されて、人間ではない存在にされてしまうの! 貴女も見たでしょう! 電波の影響で体に砂鉄が付くようになった人の写真や、二度と妊娠できない体になってしまった人の証言を! 貴女は、それでもワクチンを打とうって言うの!?」 美智子は、拗ねたような顔で冷たい目線を高徳に向けた。 高徳が何かを言おうと口を開きかけ―― 「おばあちゃん、注射をするのが怖いの? ぼく、注射平気だったよ! 泣かなかったよ!」 陽太が、シャツの袖を捲り上げ、小さな肩の絆創膏を誇らしげに見せた。 「陽太ッ!」 美智子が、慌てた様子で陽太を抑え、シャツの袖を下ろして注射の痕を隠した。 私は、呆然とした。 「貴方たち……ワクチンを打ったの……!? こんな小さな、美登里と陽太にも……?」 怒りで、手の震えが収まらない。 息子たち家族は、全員ワクチンを打ってしまった――即ち、息子の高徳も、こんな小さな美登里と陽太まで、全員DNAを書き換えられてしまい、5Gの電波に接続されてしまったのだ! 「おばあちゃん」と私を慕ってきた、在りし日の美登里と陽太の姿が目蓋の裏に浮かぶ。 さっき、言葉も交わさず高徳と美智子が頷き合っていたのは幻覚ではなかった。 二人は、既にインターネットの回線を通じて電波で会話をしていたのだ。 陽太の言葉も同様だ。仕草は今までと同じでも、それは全て思考盗聴によって、記憶を再現させたものに過ぎない。 可愛い孫たちの未来は、永遠に失われてしまったのだ。 全て、愚かな嫁の美智子のせいだ。 ワクチンとは、人間性の全てを奪ってしまう魂の殺人だと教えていたのに。 悔しくて涙が止まらない。 私は膝をつき、大地を叩きながら叫んだ。 「どうしてぇッ! 美登里を返してェェェっ! 陽太を返してェェェっ! この人殺しぃぃぃっ!」 美智子が、慌てふためいたような様子を見せた。 「お義母様、またご近所の迷惑になりますから――」 へらり、と美智子は不細工な作り笑いを顔に貼り付けた。 ああ、この顔は見た事がある。 電磁波攻撃の被害を訴えるため、警察署に行った時の警察官と同じ顔だ。 この国は、既に警察官は全てワクチンを打ちこまれて思考を操作されている。 どれだけ訴えても無駄だったのだ。 見れば、周囲の家々の窓が開き、じっとりとした無数の視線が私を監視していた。 ディープステイツの支配下にない人間が存在する事が、そんなに不都合なのか。 「美登里ぃぃぃ、陽太ぁぁぁ……」 私はただ、もう本当の意味で泣くことすらできない孫たちの代わりに涙を流した。 「おばあちゃん、大丈夫だよ。ぼくはここにいるよ」 陽太の姿を乗っ取った何かが、不気味な笑い声を上げた。 その紅顔は、以前の何一つ変わらなぬようにも見える。だがそれは、ネットワークが陽太の記憶を奪って作り上げた虚像に過ぎないのだ。 陽太と美登里の仕草が以前と似ていれば似ているほどに、私の絶望はより深みを増した。 もう、抜け殻に返事をする必要は無い。 私は、気分が悪いと言って、自分の部屋に籠ることにした。 そして、私は布団を被って寝たふりをして機会を待った。 部屋の前で、ボソボソと美智子と高徳の抜け殻が何かを喋っているのが聞こえたが、耳を貸さなかった。 二人が部屋の前から離れた隙を見計らい、私は、今や私の命そのものより大事なノートをアタッシュケースに収め、窓から抜け出して車へ駆け込んだ。 「あなた、お義母様が――」 美智子の焦った声が聞こえる。 私は、全力でアクセルを踏んだ。 ◆ 逃避行は、直ぐに困難に見舞われた。 車を走らせていると、ぐらりと地面が揺れ、山道のカーブを走っていた車体が、ガードレール側にずるりと動いたのだ。 地震兵器ケムトレイル! まさか、私一人を足止めするためだけに発動させるなんて! 政治への不満を自然災害によって目を逸らさせるため、時の政権は幾度も地震兵器による人工地震を起こすという愚行を繰り返してきた。 だが、一個人を相手に発動させるなんて、度を越している。 『真実』に気付いた人間が存在するということに、政府は恐怖を覚えているのだろう。 私は政府に自分の行動履歴を管理されないよう、カーナビを外した車を使用していたが、今この時も、全国各地に配置された隠しカメラは私の車の行き先を追い続けていることだろう。 私は、路肩に車を乗り捨てて、見知らぬ林道へと分け入った。 林道沿いに山を登ると、木々が開け、眼下には鄙びた田舎の田園風景が広がっていた。 山際に落ちる赤い夕暮れと、畦道を彩る真っ赤な彼岸花。 どれだけ世界がインターネットに支配されようと、まだ世界には愛でるべきものが残っている。 ――遠からず、政府の特殊部隊が私を包囲し、麻酔銃を打ち込んでくるのは予想できている。逃れる術はない。 次に目覚めた時には、私はワクチンを注射され、5Gの電波によって操作される、ID:2020計画の生ける端末へと成り下がっている筈だ。 だが、私は私の尊厳にかけて、そんな未来は断固として拒絶する。 私は、本当に「生きる」という事を知っているから。 肌を撫でる夏風の涼しさを。 草木萌ゆる、春の大地の温かさを。 薄氷を叩き割った時の、冬の水の冷たさを。 首を垂れた稲穂を照らし出す、秋の黄金色の日差しを。 私がこれまでに愛した世界の全てを、最期まで私のままで愛おしんでいきたいと思うから。 5Gの電波によってインターネットに接続される前に、私は自らの人生の幕を己自身で閉じようと思う。 これが、私にできるささやかな抵抗だ。 愛する息子の高徳を、そして美登里と陽太と未来を奪ったディープステイツのID:2020計画を、私は決して許しはしない。 最後に。 今まで私が書き留めてきた、この世界についての真実についてのノートを、奴らに見つからない場所に隠しておこうと思う。 何重にもジップロックを重ね、アタッシュケースに入れてこの山に埋めるのだ。 このノートを見つける人間が、どうかワクチンを打たれていない本物の人間であることを祈りたい。 いつの日にか、きっと本物の魂を持った人間が現れ、『奴ら』の作り上げた歪んだ世界を破壊してくれる―― 私は、そう信じている。 ――貴方に、この世界の真実を教えます。 ――きっと、貴方の世界は、このノートを読む前と後では一変しているでしょう。 ――全てが信じられなくなるでしょう。 ――貴方には、その覚悟がおありですか? ――貴方は、どんな親しい人間にも、ここで知った事を喋ってはなりません。 ――貴方がこの世界の秘密を知っている事を、奴らに知られてはなりません。 ――まず、最初に。 ――貴方のDNAを、5Gの電波から守るためには―― 終 ・現在、インターネットで流布されている危険な医療デマの数々に反対致します。 新型コロナウイルスに感染されて闘病中の方々、及びそのご家族に、 心よりお見舞い申し上げ、一刻も早くご快癒される事をお祈り申し上げます。
推し、消ゆ
大切な人を喪い、失意の底にあった私に手を差し伸べてくれたのは、一作のWEB小説だった。一息の呼吸すら苦しかったあの頃、私は仕事に行くこともできず、頭まで布団に潜り込んで儚いスマホの明かりに浮かび上がる文字列を只管に追っていた。 頭の中はネガティブな感情で飽和して、何か物を思う度に居なくなってしまったあの人と、何も出来なかった自分に対する自責の念が、怒ったハリネズミのように心に棘を突き立てて、もう、何も考えたくないと鈍化した諦観に私に飲まれかけていた。 そんな折に出会ったあの小説は、幼い頃にお母さんが作ったくれた乳粥のように甘く優しく、私の心を慰撫してくれた。行住坐臥に付きまとう世間の柵しがらみから離れ、ただ物語の世界に没頭することで、私の心は徐々に人間らしい彩を取り戻していった。 その物語は、泣きたいぐらいに優しいだけではなく、凛然とした美しさと、私とは全く違う解像度で世界を拓く作者の眼差しの鋭さが伺える作品だった。 題名は、『空色のひよこ』。 その作品を見つけた投稿サイトは、袋のデザインだけが次々と変わるポテトチップスのように、内輪の流行りネタを消費していくばかりの愚にもつかない作品で溢れていたが、私を救った作品は、ジャンクフードのようなテンプレートで形成された心の入らぬ作品とは一線を画してた。 物語を貫く確固たる芯の差――とでも、言うべきだろうか。 ワンセンテンスで分かる言葉選びのセンスの良さ。刺激の強いエピソードやキャラクターを並べて読者を牽引するような小説とはまるで違う。『空色のひよこ』は、どこにでも居るような平凡な少女が、ありふれた日常を過ごすだけの物語なのに、彼女の前に現れる世界は喜びと彩りに溢れていて、スマホの画面をスワイプする指が止まらないのだ。 この美しい世界を綴る作者に、思いを馳せる。 ――多分、私と同じ女性。 ――作中に登場にする、主人公の少女が子供時代に好きだったアイテムから、多分同年代ぐらい。 ――主人公がお米を研ぐシーンで「うるかす」という言葉を使っていた。きっと、私と同じ北日本の生まれ。 作者の「ツユコ」さん――彼女に対する感情の針は、触れ難いものへの崇敬と語りかけたい親近感の間で大きく揺れた。 最終的には、後者が勝った。 ありきたりだが、まずは『空色のひよこ』に感想を書く所から始めてみよう。 そう決意を決めたものの、思い浮かぶ私の言葉は彼女の小説を讃えるのは余りに稚拙で、気恥ずかしくてとてもツユコさんのお目に掛ける気にはならなかった。 ふと気になって、『空色のひよこ』のこれまでの感想に目を通してみた。 そして、愕然とした。 この素晴らしい物語に書かれていた感想は、僅か三件。 「主人公には共感できるけど、もう少し物語に起伏をつけた方がいいと思います」 「結構よく書けているけど、地の文が多すぎて目が滑るので、もっと会話を増やしてテンポ良く進めるといいと思います」 云々。 何一つこの作品の素晴らしさを理解していない上から目線の物言いに、目の奥がちかちかする程の怒りを覚えた。感想を書き込んだ人間が、どれだけ御大層な作品を書いているのかと作品覗いてみれば、愚にもつかない異世界ファンタジーである。 だが、『主人公最強』だの、『チート』『ハーレム』だのの下品なタグがベタベタと張り付いたその浅薄な作品は、『空色のひよこ』より十倍以上の評価を得ていたのだ。 この世には、何て見る目が無い人間に溢れているのだろう。私はそいつの作品の全てに最低の評価をつけて即座にアカウントブロックをした。 軽佻浮薄な作品が五桁の評価を受けて次々と書籍化のオファーを受けていく中で、『空色のひよこ』の評価は僅か三桁に過ぎなかった。 作者も読者も俗物で溢れていて、『空色のひよこ』が本物の作品であることに気付くことが出来る人間は、きっと一握りに過ぎないのだ。 私は、衆愚の目を覚まし、ツユコさんの作品の素晴らしさを広めることが、自分の義務なのだとはっきりと自覚した。 その晩、私は徹夜して感想を書いた。幾度も幾度も書き直し、私の筆力の限りを尽くして『空色のひよこ』が如何に素晴らしい作品であるかを讃えた。私が精神的に参っていた時、この作品を読んで救われたこと、今社会復帰できているのは、全て作者のツユコさんのお陰であること……そんな、思いの限りを書き尽くした。 感想は、三千文字近くになってしまったと思う。学生時代にラブレターを出した時も、これ程の緊張はしなかっただろう。祈るような気持ちで、送信ボタンを押した。 ツユコさんからの返事は、来るだろうか。来ないだろうか。 その日は胸のときめきが収まらず、十分毎にリロードをしながら一日を過ごした。 果たして、ツユコさんからの返事は来た。夜の十時近くになっていた。 『大変ご丁寧なご感想をありがとうございます。これ程のお褒めの言葉を賜ったのは初めてで、嬉しさと戸惑いで返信が遅くなってしまいました。どうぞ御寛恕下さい――』 私の想像していた通りの丁寧な物腰で、ツユコさんはこちらが恐縮する程、丁寧にお礼を言ってくれた。 作品を気に入って貰って嬉しいという旨。 私が立ち直ったのは、きっと私自身の強さ故だと思うけれど、『空色のひよこ』何かの役に立ったならこの上ない幸福だという旨。 あれ程の筆力を持ちながら、ツユコさんは吃驚する程腰が低く、丁寧だった。 ツユコさんは、私なら即削除するような三件の感想にも、不必要なぐらい丁寧な返信をしていた。 それは紛れもない彼女の美徳だったが、彼女の素晴らしい作品を世に広めるためには、欠点だとも思った。 ◆ 私は、やがてツユコさんのtwitterアカウントを発見し、DMなどで親密に話をする間柄になった。 TSUYUKO_8759@『クロアザミさん、おはようございます』 毎朝の挨拶は、私達の日課だ。 ツユコさんのツイートを見て、にやにやしながら会社に出かけるのが私の毎日だ。 私という読者を得たことは、ツユコさんのモチベーションの向上にも繋がったようで、『空色のひよこ』は目に見えて更新頻度が増えた。 私の存在が、この無二の名作を生み出す土壌の一つになっている事は、言葉に出来ない喜びだった。 毎日『空色のひよこ』の宣伝ツイートをする事は、私の日課である。 けれども、私のtwitterアカウントは作ってから日も浅く、フォロワーも少なくかったので大きな宣伝効果は見込めなかった。 ツユコさんは、そもそもtwitterで作品の紹介をすることも少なかった。 こんなに素晴らしい作品なのだから、もっと世に宣伝すべきだと、私は何度もツユコさんを説得した。 だが、彼女は頑として応じなかった。 TSUYUKO_8759@『私には、クロアザミさんのように、作品を理解して下さる方がちゃんといるから大丈夫です』 私は、煮え切れないツユコさんの態度に、時折苛立ちを感じるようになった。 素晴らしい作品を作った人間には、それを広める義務がある。それは、作者としての責任ではないだろうか。 彼女がやらないなら、私がやらなければ、という使命感が胸をちりちりと焦がした。 何度か、ネットのtwitter批評企画に『空色のひよこ』を他薦したこともあった。 だが、帰ってきたのはツユコさんの作品の本質をまるで理解せず、トレンドに迎合しているかどうかだけを判じるような粗悪な批評で、私を酷く落胆させた。 私にも、ツユコさんの作品を理解できる数少ない人間として、まがい物に囚われた人間の目を開く責務があると理解した。 ツユコさんの作品の素晴らしさを広く理解して貰うためには、矢張り小説の形式が良いだろう。 私は、その為の執筆に取りかかかった。 広く読まれるために、ジャンルはトレンドに沿ったものを選んだ。 下らない大衆に迎合するのは癪に障るが、大事の前の小事と割り切って覚悟を決めた。 『魔力0だった私がパーティーを追放された末に、青い鳥を見つけて成り上がるまで』 己の指がタイプした字面のあまりの頭の悪さに、クラクラとする。 だが、読まれるためには必要なことなのだと覚悟を決めた。 主人公のモデルは、『空色のひよこ』の主人公、『幸代さちよ』だ。もじって、サチと名付けた。 ツユコさんの作品が評価されないのは、ジャンルがトレンドと合致していないからだ。 それを修正すれば、きっと誰もが夢中になる物語となる。 私はこの世界で誰よりもツユコさんの作品を愛していると断言できる。 彼女の文体の妙味を理解しているのは、私だけだ。 異世界に転生した少女が、パーティーにから追放され、真価を認められて成り上がる――。 陳腐なストーリーだが、私は主人公のサチに、幸代と、ツユコさんを重ねた。 ツユコさんを認めなかった連中に、『ざまァ』と言ってやりたかったのだ。 メインキャラクターは、浅薄な悪役を除いて、主人公の周りの人間は全て『空色のひよこ』の登場人物をモデルにした。 そして、本当はいけないのだろうが――『空色のひよこ』の素晴らしいテキストを、幾度も幾度もコピペして作中に散りばめて行った。 ツユコさんの文章を評価して貰うためには、仕方のないことだったのだ。 執筆を始めて三か月、『魔力0だった私がパーティーを追放された末に、青い鳥を見つけて成り上がるまで』は爆発的な人気を得た。 忽ち、評価は50000を超えた。日間のPVは一万超を維持していた。 『異世界ものらしからぬ本物の文章力』 『何気ない日常シーンでの表現力が半端ない』 『主人公のサチが派手じゃないけど、応援したくなる』 ツユコさんの文章を各所に散りばめた私の作品は、トレンドに合わせたエンタメでありながら、格調高い文章力を持つ作品として、数々の絶賛を浴びた。 私は、有頂天になった。 これが、ツユコさんの浴びるべきだった賞賛なのだ。これが、『空色のひよこ』の素晴らしさなのだ。 私は、作品人気に乗じて3000を超えるまでに増えていた私のフォロワーに向けて、何度もツユコさんの作品を宣伝した。 だが、ツユコさんの作品の評価はそれでも1000に届くか届かないか程度で伸び悩んだ。 当のツユコさんは、私の苦労も知らずに、 TSUYUKO_8759@『おめでとうございます! クロアザミさんは、すっかり私の届かない人になっちゃいましたね笑』 そんなツイートを飛ばしてきた。 イラッとした。 ツユコさんは、私がツユコさんの劣化コピーに過ぎない事に気付いた筈だ。あれだけ大量に彼女の文章を引用したのだ。気付かない筈がない。 それとも――私の作品を読みもせずに褒め称えているのだろうか。 どちらにせよ、彼女の称賛は本心を隠した上辺だけを取り繕ったものには違いあるまい。 彼女とは気の置けない仲だと思っていた私は、裏切られたような気分になった。 連載を続ければ続ける程に、作品は高い評価を受けたが、私はツユコさんの態度に対する不信を膨らませていった。 そして、作品の連載を開始してから五か月目、ついに書籍化のオファーが来たのである。 twitterでその報告をすると、『空色のひよこ』の劣化コピーで喜んでいた有象無象は、お祭り騒ぎのように喜んだ。 私は、蔑みの目を以て「書籍化おめでとうございます!」というコメントの群れを見下した。 許せなかったのは、その中にツユコさんも混じっていたことである。 身が震える程の怒りと屈辱を感じ、私は貯め込んだ思いを、私を賞賛するツユコさんのツイートのリプライに叩きつけた。 Blackthistle@『何がおめでとう、ですか? ツユコさん、あなた、ずっと私の事を笑ってましたよね』 TSUYUKO_8759@『あの、何の事でしょう……? 何かお気に障る事を申しましたか?』 Blackthistle@『貴方はずっと、下らない異世界転生なんて書いて、馬鹿相手にウケを狙う私の事を見下して笑ったましたよね。私は、貴方から見れば、さぞや滑稽なピエロだったのでしょうね』 TSUYUKO_8759@『クロアザミさん、穿ち過ぎです! 私はいつも、私には書けない作品を書かれる貴方を羨ましく思っていました』 Blackthistle@『嘘です。自分の劣化コピーを見て、嘲笑ってたんじゃないですか?』 twitterでやり取りをする度、澄ました顔で受け答えをツユコさんを想像し、カッと怒りが燃え上がった。 Blackthistle@『貴方は卑怯です。いつでも私を止められたのに、お高く止まって見下していた』 TSUYUKO_8759@『そんなつもりはありません。わたしはクロアザミさんが私の作品をリスペクトして下さる事を嬉しく思っていました』 私とツユコさんの会話を読んだ私のフォロワーが、ツユコさんの攻撃に加わった。 彼らは、私の発言の『貴方は卑怯です』や『見下していた』という刺激的なワードをコンテクストを無視して切り取り、新鋭の人気作家クロアザミを羨んで見下す、マイナー作者ツユコという虚構の対立構造を作り出し、小さな炎上を起こした。 幾つもの暴言や謝罪を求めるリプライが、ツユコさんのアカウントに流星群のように振りかかかった。 ざまあみろ、と私は思い、更に過激に過激な言葉でツユコさんを謗った。 Blackthistle@『貴方のそんなお高く止まった態度が、どれだけの人を傷つけてきたか分かりますか? そんな人の心の分からない人には、小説を書く資格はありません』 ツユコさんを嗜めるためとは云え、少しだけ言い過ぎてしまったかもしれない。 私は頭に上った血も下りて、冷静さを取り戻した。 心を落ち着かせるためには、自分の原点に帰るのが一番だ。 もう何度読んだかも分からない『空色のひよこ』を読み直そうとして、違和感に気付いた。 『該当する小説は、存在しません』 『空色のひよこ』が――ツユコさんのアカウントが、消失していた。 訳を尋ねようとツユコさんにtwitterで連絡を取ろうとしたが、彼女はtwitterアカウントすらも消していた。 何て愚かな事を! こんな些細なすれ違いで、あの名作を永遠に消し去ってしまうなんて! 私はただ、ツユコさんが自分の傲慢さに気付いて謝ってくれさえすれば、許してあげるつもりだったのに! 泣きわめき、後追い自殺のように自分の作品もアカウントも全てを完全に消し去った。 ツユコさんがいなければ、作品も、書籍化の名誉も無用の長物だったのだ。 五回目。これで、懇意にしていた大切な作家さんを喪うのはもう五回目だ。 どうして、誰も彼も私の前から居なくなってしまうのだろう。 私は、一体何度傷つかなければならないのだろう。 この心の穴は、新しい作品を読むことでしか埋められない。 私は、涙を拭って決意した。 新しいアカウントを作る。 広大なWEB小説の海を巡り、讃えるに値する作品を探し求める。 感想欄に、軽やかに挨拶を書き込む。 『こんにちは。こんな素晴らしい作品を拝読したのは初めてです!』 終