松坂屋大本舗
3 件の小説魔女狩りの笛
魔女狩りの笛が鳴った瞬間、腐肉を地で洗う死闘が始まった。時刻は草木も眠る丑三つ時。現代日本の時間に換算して午前3時ごろをさすが、ここは魔境だ。 といっても、21世紀の西洋先進文明からそれほど乖離してない世界線上にある。 グレーブヤード。カトリック教会のそばにある墓碑の列が荒波のようにうねり、土が盛り上がり、せりあがった墓石を虚空に弾き飛ばす。 一つ、また一つと小山から這い出てきたのは半ば白骨化した遺体だ。だらりと腕を垂らし、せむしの様に背中を曲げ、ガニ股でゆっくりと隊列を成す。 彼らは襤褸をまとい、身体の開口部から据えた瘴気を吐き、粘液を垂らしながら教会を目指す。 「ゾンビよ! ゾンビ来襲ーッ!」 不気味な異形の群れとは対照的にうら若き女声が彼らの頭上をよぎった。 箒にまたがり、長い髪とマントを風になびかせる少女―魔女だ。 おおよそ十騎あまりの|魔箒《ボウ》がゾンビたちの出現を警戒していた。一人の少女がはためくスカートをたくしあげ、下に履いていたブルマーのポケットから水晶玉を取り出した。 腐乱死体の襲撃は予測されていたらしく、伝令がすかさず司祭の耳に入る。 「わかったわ。出来るだけ引き延ばして。じきにゴーストが沸くから」 漆黒のローブを纏った中年女性が顔をあげた。 「隣教区でもゾンビの復活が観測されたと…」 修道尼が息せき切って祭壇に駆け上がってきた。女司祭は無言で両手を広げた。すると燐光が凝縮してサッカーボール大の地球儀が形づくられた。 大陸の形は違うが、広い海に覆われた美しい星だ。その夜の側に銀河のごとき灯が輝いている。その砂粒のような営みが吹き消すようになくなっていく。 「急がなきゃ!」 「落ち着いて!」 司祭はあわてふためく修道尼をぴしゃりと制した。 「だって…」 彼女はいてもたってもいられないようだ。その焦りがゾンビにつけ入る隙を与えるのだ。 司祭は静かにさとした、 「ザルトワ、ルキフ、二つの大陸でゾンビが猛威を振るっています。現地の魔道軍から救援要請が入っています」 霊界ラジオが聖堂内に厳しい状況を告げている。 続いて、切迫したやりとりが中継されている 「見殺しにする気か! ゾンビが玄関先まで迫ってるんだ。ニンニクも銀粉も効きやしねえ」 「助けたいのはやまやまなんですが、ゾンビが津波のようで」 「死ねって言うのか!」 「魔女も近づけないんです。どこか近所に清潔な場所や神聖な施設はありませんか。そこで一夜を明かしてください」 通話は大きな物音で途切れた。ニュースキャスターによれば当事者がその後ゾンビの隊列に加わっている事を親族によって確認されたという。 ゾンデミック――世界規模の蘇生。それは大小さまざまな周期で繰り返される災厄の事で、生者必滅のことわりを根底から覆すものだった。 いかなる宗教も死者の復活を認めていない。教典にはその類の奇跡が記されてはいるが、どれも聖者によるものだ。人間は例外ではない。 弔いの方法としては埋葬が主流だ。火葬は光をもてあそぶ罪であるとして許されていない。なぜなら、この世界に人の手で作り出したあかりは一切存在しないからだ。 その昔、パイロという男が神々の住む山からいかずちを盗み出した。それを地を這う獣たちに分け与えようと彼は企んだ。天から降る光の刃におびえ、傷つく生き物たちを気の毒に思ったのだ。 彼の哀れみが逃げまどうしか能のなかった動物にひらめきを与えた。すなわち、人類の誕生である。しかし、神々はパイロのほどこしを偽善だと見抜いた。 雷で彼を刺し貫き、神々の山へ釘付けにした。その一部始終を目の当たりにした人々は恐れおののき神々に帰依した。 人々の手から稲妻は奪われ、代わりに火を用いない知恵が授けられた。以後、神はいたずらに光を作り出す行為を禁じた。 町のはずれには闘技場ほどもある大きな鏡の受け皿がしつらえられた。そこから光を透す植物の根を張り巡らせ、地平線の向こうへつないだ。 こうして昼の側から夜の側へ太陽の恵みが橋渡しされている。人々は太陽と入れ替わりに寝起きする。夜の闇を光の根で照らし、昼を地下でやり過ごす。 炊事も洗濯も根の下でおこない、ものづくりも商いも夜に営まれる。 葬式もだ。地の裏で太陽が中天にさしかかる頃、亡骸を埋める。 そして人は土に還る…筈だった。聖典はいう。死者はみな肉体を離れて天の御国へ向かう。地表に残されるのは物言わぬ肉の塊である。 だが、あろうことか、よこしまなはたらきによってこの世を去った者が再び目覚める。 ゾンビだ。 抜け殻の脳はとうに死んでいるからタチが悪い。説得も叱責もまったく通じない。ただ本能のおもむくままに異性を求める。もちろん、配偶も出産も望めない。生殖機能が死んでいるのだから。 かわりに彼らは仲間を増やす。ひとたびゾンビに傷つけられた者は人間であることを止め、ゾンビとなる。 連中があらわれ始めたのは近代になっての事だ。ここ百年の間におびただしい犠牲者が出たが、その数だけ事例が集まった。 有志が家族を奪われたいきどおりを生きがいに変え、熱心に研究を進めた。そしてゾンビ出現から十年も経たないうちに有効策を打ち出した。 魔女である。 よこしまの権化であるゾンビにはいくつかの弱点があるらしく、そのうちの一つである大蒜を施術に用いる魔女が抜擢された。彼女らは古くから民間医療のエキスパートとして活躍してきた。 魔女がゾンビ対策の研究に参入することで飛躍的な進歩が起こった。聖なるアイテムの導入によって圧倒的優位を保つことが出来る。 このようにして人々は墓場を封印し、清め、寺院の足元に置く事でゾンビの発生を抑えてきた。 軒先に大蒜を吊るし、玄関に銀粉を撒き、死者を聖水で清める。シンプルな方法を地道に積み重ねて死者に抗う。 真実は常に単純で力強いものだ。 安寧は魔女によって保たれていると言って過言ではない。 だが、それでもゾンデミックは起きてしまう。 神の御業は万能ではないのだ。 「いい気になるのも今夜限りよ」 司祭が属する教区は蘇りが比較的少ない地域として知られてきた。残念ながらそれも現在進行中のゾンデミックによって貶められた。 今回の集団蘇生は半世紀の周期でおきる大規模な現象で、何年も前から備えがされてきた。 とはいっても、ゾンビを物理的に抑止したり破壊できるわけではない。いわば対症療法だ。ゾンビに塩の雪を降らせ、聖水の雨を浴びせ、もろもろの神聖を真っ向からぶつける。 それでゾンビが浄化されて塵と化す。 だが、ゾンビどもも清められるままに朽ち果てていてはレーゾンデートルを失う。じょじょに耐性を獲得していった 最初は塩が人体に必要欠くべからず要素である事に気づき、無効化した。次に聖水も所詮はただの水であることを悟った。両者を血潮の原材料として取り込むことで完全無効化した。 魔女たちも防御魔法陣、眷属召喚などの超人力を発揮できるようになり、これを魔術とした。 それでも、ゾンビの襲撃を阻む延命措置であることに変わりはない。いずれ人類はゾンビの餌になる。 「と、悲観論者は言うけどね」 司祭アリエッタは満面の笑みを浮かべてガラス窓を睨んだ。光の根がぼうっと照らす教会周辺。目を凝らせばそこかしこにゾンビが潜んでいる。 「まさか?!」 修道尼はただならぬ気配に気づいた。司祭の様子が変だ。いや、彼女は幾度となく来るべき日について教えられていた。心配をかけぬよう故意に断片化された情報が、つながった。 「せんせい、バカな事はやめて」 「シモーヌ、ありがとう。元気でね。さようなら」 アリエッタは短い言葉をのこすと、出窓に駆け寄った。両手両足を広げて虚空へ身を投じる。さあっと風がそよぎ、木々が嵐のように揺れる。 教会を取り囲んだゾンビどもがいっせいに色めき立った。 「キシャアアア!」 鼓膜をつんざく奇声、罵声、怒声。魔女狩りの笛とよばれる独特のかちどきだ。 「せんせぇー」 シモーヌの叫びもむなしく、アリエッタの肢体はゾンビどもの歯牙にかかる。 泣き崩れる彼女をぐいっと担ぎ上げる者がいた。涙で曇った視界の隅に箒が見えた。 魔女だ。あれよあれよというまに後席に乗せられ、気づくと町の灯りが見えなくなっていた。 雲ひとつない闇。カッ、と閃光がきらめく。 「しっかり、捕まって」 背中ごしにいわれるまま、シモーヌは柄を握りしめた。強烈な光が瞼を透かす。上下左右に翻弄され、強烈な吐き気をもよおした。 「あと少しです。頑張って!」 やがて地平線が白みはじめた。日の出だ。昼の世界では魔女もゾンビも生きられない。光をもてあそぼうとした罪びとへの報いだ。 薄れていく意識のなかで彼女は気がかりな単語を耳にした。 「しっかり、司祭」 いったい誰の事だろう。ここにいるはずのないアリエッタの名前。それとも彼女は無事だったのだろうか。 そこまで考えて、シモーヌは意識を手放した。 ◇ ◇ ◇ ◇ まどろみの中でシモーヌは激しく揺り起こされた。 「シモーヌ! シモーヌ司祭。ご気分は?」 白衣の看護婦が心配そうに見つめている。 「えっ? わたし」 司祭という肩書に戸惑いつつ、身を起こした。視線を巡らせると消毒薬の臭いがツンと鼻につく。一目で病院だとわかるが、問題は居場所と理由だ。 「シモーヌ司祭」 見知らぬ少女がベッドサイドにかしずいた。シモーヌは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。 「えっ? わたしが……司祭?」 きょとんとする彼女に少女は淡々と告げた。 「アリエッタ司祭はあなた様を後継者に任命なされました。ご指示を」 「ちょ、ちょっと待って! わたしが後継? では、アリエッタ司祭は?」 少女が言うには、アリエッタは自らを犠牲にして教区の危機を救った。 正確に言えば、自爆したのだ。祭壇の奥にしつらえた特別な儀式――それが具体的に何であるかはシモーヌも知らなかった――を介して、尋常ならざる力を導き、教会ごとゾンビ集団を祓い清めたのだと。 「おお! うそよ。そんなことって……そんな」 シモーヌの脳裏に走馬灯がぐるぐると回転した。出会いは嵐の夜だった。母親はゾンビに喰われ、幼子を持て余した父は酒におぼれる代わりに新しい恋人に身を捧げた。 そして、新生活の障害となるシモーヌを雨の中に放り出したのだ。お腹をすかせ、凍えていた彼女に救いの手をさしのべてくれたのはアリエッタだった。 フケとシラミにまみれたシモーヌの髪を解きほぐし、垢にまみれた身体を湯船で洗い、暖かいスープと毛布、そして抱擁で温めてくれた。 そんな何物にも代えがたい母の様な存在が、急にいなくなってしまった。昨日まで元気だった人間が死んだといわれて、額面通り受け取れる者がどれぐらいいるだろうか。 「まだ、あてどない旅に出たとか、異国の蛮族にさらわれたとかいう方が信じられる」 「司祭がお望みなら、私たちはそのように……」 修道女はモウンと名乗った。そして、教区の信徒たちにその様に計らうよう周囲の女たちに命じた。 「ちょ、ちょ、ちょっと待って」 シモーヌは手にした権限の大きさに戸惑いながらも、あわてて措置を撤回した。 「別にわたしはそんなウソは望んでいないのよ。アリエッタは死んだわ。これは神様でも動かしようのない事実」 「では、何をお望みで? 何なりと」 「モウン、と言ったわね。アリエッタはどうして犠牲にならなくちゃいけなかったのかしら?」 グイッと思わず身を乗り出した。人はこの世に生を受ける。その意味や理由は不明だし、誰にも定義する事ができない。本人ですら存在意義を見失う。 すると言いにくそうに後ずさりするモウンに代わって黒縁眼鏡の女があらわれた。歳の頃は十代後半と言ったところか。 「ゴーストです。前司祭はゴーストを解き放ったのです」 「幽霊?」 ふたたびシモーヌはきつねにつままれたような顔をした。 眼鏡女は武器商人の娘でハルと言った。彼女によればアリエッタは形而上の食物連鎖を発見したのだという。 つまり、人間がゾンビに捕食されるならば、人もまた霊的な何かを摂取できるだろう。それが自然の摂理だ。 「そうです。ゴースト、つまり幽霊に身を委ねたのです。人は肉と魂でできており、ゴーストは女性の胎内に魂となって宿ります」 「身ごもったの? じゃあ、無事なのね!」 色めき立つシモーヌをハルが制した。 「最後まで聞いてください、前司祭は自らゴーストを招き寄せたんです。それも無限に」 「ちょっと、何を言っているのか……」 シモーヌはそこまで考えて、はたと思い当たった。 私だ。アリエッタが産んだのは、いや換言すれば産んでくれたのは「今、ここに生きているシモーヌ」そのものなのだ。 彼女はシモーヌと本人に付き従う教区の人々を「生み出す」ためにゴーストを大量に招き入れた。その結果がゾンビ集団を消し飛ばす大爆発。 「捨て身の攻撃でゴーストのゾンビに対する優位性が証明されました」 ハルは羊皮紙に羽根ペンでさらさらと三角関係を描いて見せた。ゾンビ→魔女→ゴースト→ゾンビの三すくみが完成する。 「そういえば……」 ふとアリエッタの講義を思い出した。 ”私達は神から授かりし神の子を失うという【よろこび】を与えられました” 救世主をはりつけにされて何が嬉しいのだろうか。この女は頭が沸いてるんじゃないか、とシモーヌは腹の内で笑っていた。 ところが、ようやく気付かされたのだ。 失うよろこび……人は何か大切な物を失ってこそ幸福になれる。それは、自分を誰かのために捧げる事だ。何も命を投げ出さなくてもいい。 自分の時間、お金、体力、ちょっとした何かを費やして誰かの役に立てるよろこび。 それがアリエッタの遺したものであり、人間の命を奪うばかりのゾンビに欠けたものだろう。 「わたしは貴女たちになにをしてあげられるのかしら」 シモーヌは部屋を満たすゴーストたちに問いかけた。
カルネ村の勇者
とある国の辺境の森の中に、小さな集落があった。 その集落の名は“カルネ村”という。村人達は皆優しく、慎ましく、平和で幸せな生活を送っていた。 しかし、ある日突然、この村に悲劇が訪れることになる……。 それは、ある晴れた日の昼下がりのことだった。 いつものように畑仕事に精を出す、一人の少年がいた。 少年の名は、ダイク。若き代議士である。彼は今日も清き一票に一票を入れる方法を求めて投票箱を栽培していた。投票箱とは熱帯スイカの新種である。郵便ポストのような口がついていて投票用紙を食べるいきものだ。なかなか愛嬌があってかわいいのである。 そんなときだった。 「大変だぁー!!」 村の若者が大慌てで駆けてきた。手には弓を持っている。狩りにでも行っていたのだろう。血相を変えて叫んでいる様子はただごとではないことを物語っていた。 「どうした!?」 ダイクは尋ねる。「魔物の群れだ!!オーガやトロールまでいやがるっ!」 それを聞いた途端、その場にいる全員が戦慄した。オーガといえばオークよりも強く残忍な種族として有名であり、その上群れをなすことは滅多にない。それがよりにもよって村にやってくるなんて……。しかもよりによってこんなときに……!!そのとき、また一人別の若者が走ってきた。今度は怪我をしているようだった。 「大丈夫か!?一体どうしたんだ?」 「村長の家の方角にゴブリンの群れが出たんだ!かなりの数がいるぞ!」 それを聞いて、村人たちに動揺が走る。まずいことになった。このままでは間違いなく村は壊滅してしまうだろう。こうなったら、俺が行くしかない……!俺はそう決意し、弓矢を手に取った。だが、そんな俺を制止する声があった。 「待てい!」 振り返るとそこには、髭を蓄えた白髪の男が立っていた。 彼の名はゴブニュ。鍛冶屋を営んでいる男だ。彼は険しい表情で俺を見つめていた。どうやら俺の考えていることがわかっているらしい。流石は年の功といったところだろうか?彼ならこの状況をなんとかしてくれるかもしれない。そう思った俺は彼に尋ねた。 「何か策があるのか?」 すると彼は答えた。 「うむ、ひとつだけじゃがな……」 そう言って彼が指差したのは、先程の若者だった。よく見ると、その手には弓が握られているではないか。まさかとは思うが、こいつを……?嫌な予感がする。だが、迷っている時間はない。こうしている間にも刻一刻と状況は悪化しているのだ。もう手段を選んでいられる場合ではなかった。 「……わかった、やってくれ」 覚悟を決めてそう言うと、彼は頷いた。そして若者の方を向くとこう言ったのだ。 「お前に頼みがあるんじゃ」 「俺に……?」 戸惑う若者に対し、彼は続けた。 「ああそうじゃ、実はこの村には大切な宝物が隠されていてのう」 「宝だって!?」 その言葉に若者の目が輝く。無理もないことだ。こんな状況でなければ俺だって食いついていたことだろう。だが今はそんなことをしている場合じゃない。頼むから話を脱線させないでくれよと祈るような気持ちで見守るしかなかった。 「その通りじゃ。ワシはその隠し場所を知っておるのじゃが、一人ではどうにも出来なくて困っておったところなんじゃ」 そう言いながら彼は若者の手を取り、両手で包み込むように握った。若者の目はますます輝きを増していく。まるで神でも崇めるかのような眼差しだ。それを見て満足そうに微笑むと、彼は言った。 「そこでお前さんの出番というわけじゃな」 「……え?」 若者の顔が凍りついたのがわかった。俺も思わず頭を抱えたくなった。どうしてそうなるんだ……。やはりこの人は苦手だと思った瞬間であった。案の定と言うべきか、若者たちの顔は青ざめていた。当たり前だ。これから死ぬか生きるかの戦いに赴くというのに、いきなり戦力外通告されたのだから無理もないことである。可哀想ではあるが仕方がないことなのだ。ここは心を鬼にして送り出すしかないだろう……。 だが次の瞬間、予想外の出来事が起こったのだった。なんと若者たちは全員一斉に武器を投げ捨てたかと思うと、その場で跪いたのだ。そして口々に叫んだのである。 「お任せ下さい!」 それは明らかに今までとは違った雰囲気を纏っていた。なんというか気迫に満ち溢れていたのだ。これにはさすがの彼も驚いたらしく目を丸くしていたが、すぐに笑顔に戻った。 「そうか、引き受けてくれるか!ありがとう、感謝するぞ!」 そう言って一人一人の肩を叩きながら激励の言葉をかけていく。その姿はまさに歴戦の戦士といった風情を漂わせており、とても頼もしく見えた。実際彼らの士気はかなり上がっているように見えた。これならいけるかもしれない……!そう思って期待していると、最後にこちらを向いてきた。そしてウインクをしながら親指を立ててきたので、俺もそれに応えるように力強く頷いてみせたのだった。それを見た彼の顔はとても満足そうだった。 よし、そうと決まれば善は急げだ!俺たちは急いで支度を整えた後、森へと向かった。一刻も早く敵を殲滅して村を守らねばならない。その思いだけを胸に抱きながら走り続けたのだった……。 森の中を進んで行くと、やがて開けた場所に出た。そこは円形状に木が生えておらず、草花だけが生い茂っている不思議な空間だった。まるで何かの祭壇のようだと思ったが、今はそれどころではないと思い直し、周囲を見回すことにした。すると少し離れたところに何やら動く影が見えたような気がしたので近づいてみると、そこにいたのは巨大なイノシシ型の魔物だった。間違いない、こいつが例のオーガ達だ!数はざっと20匹くらいだろうか?これだけいれば十分だと安堵しつつ身構えていると、後ろから声が聞こえてきた。 「よしお前ら、作戦通りに行くぞ!」 振り向くとそこにはダイクが立っていた。いつの間についてきたのか全く気づかなかった。相変わらず気配を消すのが上手い奴だ。まあそんなことより、今は目の前の敵に集中しなくては。 「いいか、奴らは動きが速い上に力も強い。決して油断するなよ」 「はい、わかりました」 「おう、任せろ!」 「了解です」 「承知しました」 ダイクの指示に従い皆がそれぞれ返事をする。そして戦いが始まった。最初に動いたのはダイクである。彼は腰に差した剣を抜き放つと、オーガに向かって斬りかかった。だが相手も黙って見ているわけではない。棍棒を振り回して応戦してくる。それをなんとか避けつつ反撃の隙を探るダイクだったが、なかなかうまくいかないようだった。 「くそっ、ちょこまかと逃げ回りやがって!」 オーガはダイクの攻撃を巧みにかわしていた。なかなか攻撃に転じられない様子である。一方オーガの攻撃は一撃必殺と言ってもいいほど強力で、まともに喰らうのは危険だった。俺はダイクの援護をすべく矢を放ったが、それも避けられてしまった。なかなか厄介な相手のようである。 すると今度はゴブニュさんがオーガの背後へと回り込み、その背中目掛けて斧を振るった。だがそれすらも読まれていたようで、あっさりと受け止められてしまう。どうやら相当なやり手のようだ。 「ふむ、やるのう……」 「グォオオッ!!」 ゴブニュさんの呟きに反応するように、オーガが雄叫びを上げる。すると今度はゴブニュさんの方に向き直り、猛然と襲いかかってきた。だがゴブニュさんはそれを冷静に受け流すと、すかさずカウンターの要領で斧を振った。 「ウゴァッ!」 脇腹を切り裂かれたオーガが悲鳴を上げながらもなお立ち向かってくる。だが既に体力の限界だったらしく、そのまま倒れ伏してしまった。どうやら勝負あったようだ。他の仲間たちの活躍もあり、残るはあと3体となっていた。このまま一気に決めてしまおうと考えた俺は、狙いを定めて弓を引き絞ろうとした。だがそのとき、突然どこからか呪文のようなものを唱える声が聞こえてきたのである。 「……我に宿るは聖なる力なり。我が手に集いし光の力よ、邪悪を滅せよ!セイクリッド・ジャッジメント!」 詠唱が終わると同時に、オーガたちの足元が眩いばかりの輝きを放ち始めた。そして次の瞬間、そこから光の奔流が飛び出し、彼らを飲み込んでいった。あまりの衝撃に俺は思わず目を背けてしまいそうになったが、辛うじて耐え抜いた。そして恐る恐る視線を向けると、そこにはもう何も残っていなかった。どうやら全滅したらしい。一体誰が……?そう思ったとき、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。 「ふう、やっと終わったわね」 「ああ、そうだな」 振り返ると、そこにいたのは鈴美と恵美子だった。まさか彼女たちがここまで強かったなんて……!俺は驚きを隠せなかった。だが考えてみれば当然のことなのかもしれない。二人は共に勇者の血を引いているのだ。それならばこの強さにも納得がいくというものである。 「助かったよ、二人とも」 「礼には及ばないわよ」 「ああ、気にしないでくれ」 俺がそう言うと、彼女達は笑顔で応えてくれた。どうやら無事で良かったと思ってくれているらしい。俺としてもほっとした気分になった。こうして村の危機は救われたのである。 その後、俺たちは村へ戻ることにした。オーガの死体を回収しなくてはならないからだ。だがその前に、ゴブリン達の亡骸もどうにかしなくてはいけないだろう。そう考えた俺は、まずは死体を集めることにした。 「みんな、手伝ってくれ」 「はい」 「おう」 「わかった」 そうして手分けして作業を開始した。だがしばらくして、あることに気づいた。 「ん?これは……」 よく見ると、彼らの中に一匹だけ毛色が違う個体がいるのがわかった。見た目は普通のゴブリンなのだが、なぜか角のような突起物が生えているのだ。 「おい、こいつだけ何か違うぞ」 「どれだ?」 近くにいたダイクに話しかける。彼はこちらに歩み寄ってくると、その個体を観察し始めた。 しばらく眺めていたが、やがて彼は首を傾げた。 不思議に思って尋ねる。 すると彼はこう答えた。 なんでも、この個体は他のものとは少し違っているようだ。突然変異か何かだろう。 そんなことがあり得るのだろうか? だが現に存在している以上、そういうこともあるのかもしれない。 とりあえず今は考えていても仕方がないので、後で調べてみるとしよう。 そんなことを話しているうちに、全ての死体の回収が終わった。これでひと安心だ。さて、それでは村に戻ろう。そう思い歩き出そうとしたとき、ダイクに呼び止められた。 彼は真剣な表情を浮かべながらこう言った。 実は、まだ終わっていないんだ。 どういうことだ……? そう思って問いかける。 彼は少し躊躇うような素振りを見せたが、すぐに覚悟を決めたような顔つきになると、ゆっくりと口を開いた。 実は、この森の奥に遺跡があるんだ。 遺跡だと!?それは本当なのか? 彼は静かに首肯する。 その遺跡の中には、かつてこの世界を恐怖に陥れた邪悪な存在が封印されていると言われているんだ。その存在の名は……魔王。 なんということだ……。 この世界には、そんなものが存在していたのか……。 だがなぜそれをお前が知っているんだ? それは言えない……。 どうしてだ? どうしても言わなければならないことか? それは……お前を巻き込むわけにはいかないと思っているからだ。 どうしてだ?それは……。 そこでダイクは言葉を詰まらせた。そして苦悶の表情を浮かべている。やはり何か理由がありそうな感じだ。もしかしたらダイクは、何かを知っているのではないだろうか? だがそれを尋ねようとしたところで、彼は唐突に踵を返すと、森の外へ向かって走り出した。 待ってくれ!どうして逃げるんだ! 頼む、行かせてくれ! ダイクはそう叫ぶと、そのまま森の中へと消えていった。俺は追いかけようとしたが、途中で足を止めてその場に佇んでいた。なんというか、これ以上追ってはならないという気がしたのである。「あいつは、何を知っていたのだろうか……」 そう呟いてみたが、もちろん返事など返って来るはずもなかった。結局その日は諦めて村へ帰ることにして、家路についたのだった。 それから数日後、ダイクの姿は村から忽然と消えた。彼がいなくなってからというもの、村の空気はどこか沈んでいるように思えた。彼の姿が見えなくなったことが不安なのである。俺はダイクの行方を探すことにしたが、その手がかりはどこにもないままだった。そんなある日のことである。 「ねえ、ちょっといいかしら?」 鈴美が話しかけてきた。彼女は何かを決意したような顔をしていた。 どうしたんだい、改まって。何か大事な用事でもあるのだろうか? ええ、とても重要な話よ。 一体何の話なんだ? 私はあなたに伝えたいことがあるの。 伝えたいこと? そう、とても大切なことよ。 俺は彼女の言葉に戸惑っていた。こんなことは初めてだったので、正直どうしたら良いのかわからないのである。だがいつまでも黙っている訳にもいかないので、意を決して訊ねることにする。……それで、伝えたいことというのは何だい? 私、あなたのことが好き。 だから、私の彼氏になって欲しいの。……はい? 今、何て言った? もう一度言うわね。私、あなたのことが好きです。付き合ってください。 鈴美は真剣な眼差しで見つめてくる。冗談を言っているわけではないようだ。 だが俺の気持ちは決まっている。悪いが、君の申し出を受けることはできない。 ごめんなさい。……わかってたわ。やっぱり駄目よね。 でも、はっきり言ってくれてありがとう。おかげで決心がついたわ。 鈴美は寂しげな笑みを浮かべると、その場から去っていった。俺は複雑な心境のまま、その後ろ姿をただ呆然と眺めていることしかできなかったのだった。ダイクがいなくなってしまったため、俺は一人で行動することが多くなった。だが幸いなことに、特に危険な目に遭うこともなく日々は過ぎていく。そんなある日、俺は村長に呼び出された。そして告げられた内容は、驚くべきものだった。 ダイクがオーガトロルに殺された。誰もが耳を疑った村はずれに白目を剥いた生首が転がっていたことで死亡が確定した。なぜなら額に三ツ星の痣があり間違いなく本人であると確認できたからだ。ゴブニュさんが怒り狂った。「おのれ!あの馬鹿者が!あやつのせいでワシらはとんでもない迷惑を被ったんじゃぞ!しかもオーガに殺されるとは情けない奴め!」 「まあまあ、落ち着けよ」 「これが落ち着けると思うてか!」ゴブニュさんの怒りは収まらない。 「そうだぜ」とゴブニュさんの意見に賛同する者がいた。それはゴブニュさんの息子でゴブ太くんの父親だったゴブゴブさんだった。「ゴブゴブさん」 「親父、落ち着いてくれよ」 「そうですよ、お父さん」 「そうよ、落ち着きなさいよ」 「お母さんまで」 「皆、済まんのう」 「いえ、謝る必要はありませんよ」 「そうだよ」 「そうよ」 「そうだよ」 「そうだよ」 「そうだよ」 「そうだよ」 「そうだよ」 「そうだよ」 「そうだよ」 「そうだよ」 「そうだよ」 「そうだよ」 「そうか。わしはもう疲れた」 ゴブニュさんはガックリと肩を落とし蹲ってしまった。そしてシクシク泣き始めた。「わしもしのう」 そういうと懐からダガーナイフを取り出して自分の喉元に突きつけた。 「ゴブニュさん!」 誰もが制止しようとしたが遅かった。 「がはあっ!」 ゴブニュさんは大動脈出血性ショックで死んだ。「ううむ」 「どうしたんです?」 「いや、なんでもない」 「そうですか」 「ああ」 「そういえば」 「ん?」 「今日はエイプリルフールですね」 「違います。寝正月です。旧暦の寝正月。亡くなった方をお迎えする日ですよ。さぁ、灯篭流しの準備をして。いつまでも泣いているとダイクやゴブニュさんが浮かばれませんよ」「そうか。そうだな」 「そうですとも」 こうして村では灯篭を流しました。 俺の日常は相変わらず平和なままだ。 だがダイクが死んでしまったせいで、鈴美は俺と顔を合わせるたびに辛そうな表情を浮かべるようになった。それが俺には堪らなく辛いのだ。鈴美の笑顔が曇る度に、胸が締め付けられる思いになる。鈴美の笑顔が戻らないかと、何度も祈ったが無駄だった。 ある日、俺は鈴美に告白された。だが俺は断らざるを得なかった。俺には好きな人がいると嘘をつくしかなかったのだ。だが鈴美は納得してくれた。そのかわりと言っては何だが、俺は彼女からあるものを受け取ることになった。それは俺にとって、とても価値のあるものだった。 それからしばらくして、ダイクの死について村の中で噂が流れた。それは次のような内容だった。 ダイクがオーガトロルに殺されてしまったのは、実はオーガの罠にかかったからだという話だった。そのオーガの名前はゴブリントロルといい、普段は人間の姿をしているが満月の夜になると化け物の姿に変わるという恐ろしい魔物だ。その正体は、オーガの血が混じった混血種なのだ。 ダイクはそのことに気づかず、無防備にその怪物の前に姿を現した。そしてゴブリントロルの餌食になってしまったというわけだ。 ダイクはゴブリントロルのことを知っていたのだろうか? 恐らく知らなかっただろう。 だが、もしかしたら……ということもある。 だがダイクは、どうしてそんな場所に居合わせていたのだろうか? 偶然だろうか? それとも誰かに呼びだされていたのだろうか? それならば、いったい誰が呼び出したのだろうか? 疑問は尽きないが、答えは見つからないままだった。そして時は流れていき、やがて鈴美は結婚した。相手は村の青年で名前はゴブトといった。二人はとても幸せそうだったが、一方で俺は一人取り残されたような気分になっていた。そんなある日のこと、鈴美が妊娠していることがわかった。「やったぞ!ついに子供ができたんだ!」 「本当かい!?」 「ええ、そうなの」 「すごいじゃないか!」 「ありがとう」 「元気な子が生まれることを祈るよ」 「私もよ」 「きっと男の子だよ」 「どうしてわかるの?」 「勘かな?」 「ふーん。まあいいわ。あなたの名前を付けてあげるからね」 「ダイクにしよう。うん、そうだ。この子の名前はダイクがいい」 「えっ!?どうしてその名前にしたの?」 「だって、ダイクは君が付けた名前だろ?」 「ええ、そうだけど……」 「だからこの子にダイクという名前を付けるんだ。そして、この子が大きくなったときにダイクは偉大な男になったんだよ、って教えてあげよう。そして、この世界を救った勇者なんだよって言って聞かせたいんだ。どうだい?」 「素敵ね。そうしましょう。ねえ、ダイク。あなたは将来、どんな大人になりたいの?あなたは立派な大人になれるかしら?私は心配だわ。あなたがちゃんと成長してくれるかどうか。もしも駄目な大人になったら、私が責任を持って矯正してやるわ」 「はははははは。君はまるでゴブニュさんみたいなことを言う」 すると彼女が釣り目になった。「そうよ。私がゴブニュさんよ」 「ははは。モノマネが上手だな」 俺は笑いながら彼女の頭を撫でた。彼女は嬉しそうに微笑んでいた。
つまり君も共犯者か
「わぁっ!元気というか幸せが貰える絵ですね」 思わずこぼれる嬌声を男が冷ややかに笑った。 「つまり、君も共犯者か」 「何ですってぇ」 想定外の言葉に女は憤る。 「女は今もICUにいる。意識不明だ。元夫の身柄は確保されたが妻の自殺だと言い張っている」 探偵は妻の友人を名乗る女を徹底的に追い込む構えだった。犯行現場に防犯カメラはなく、複数の目撃談を元に再現CGが作られた。 「だからと言って瑠璃さんを殺す必要はなかったはずよ!」 「殺すつもりはなかった。だが、結果的にそうなっただけだ」 「嘘よ。あなたがやったんでしょ? 犯人は自分だと自白したのよ」 「それは違うな。犯人は私じゃない」 「じゃあ誰なの?」 「その前に教えてくれないか? 君は何故この男のことを知っていたんだい?」 「そ……それは……」 探偵は女の顔色が変わったことに気付くと、更に畳み掛けた。 「私はね、君の口から彼の名前を聞いた瞬間にピンときてたんだよ。でも、念のため調べさせたらビンゴさ。やっぱり彼が殺したんだ。あの日、彼は会社で仕事をしていたと言っていた。それなのにどうしてあんな時間に公園にいたのか不思議に思わなかったかい?」 「……」 「それにしても凄いな。君が彼と知り合いだったことは間違いないようだ。どこから彼のことを聞きつけたんだい?」 「別に……たまたまよ」 「偶然ねぇ……。まあいいか。それで、君は彼を知っていたのかい?」 「ええ、何度か会ったことがあるわ」 「いつ頃かな?」 「一昨年ぐらいかしら。確か、私がお腹の子と一緒に散歩をしていた時にばったり出会ったと思うんだけど……」 「妊娠していたことを彼に話してたのかい?」 探偵の声色が厳しくなる。 「まさか!言うわけがないでしょう」 「では、その時はどういった話をしたのかね?」 「ただ世間話をちょっとしただけよ」 女の顔からは血の気が失せていた。額には汗さえ浮かんでいる。 「世間話であんな事件が起きるとは考えられないけどなぁ」 「……」 女は押し黙ったままである。沈黙の時間が長く続く。時計の音だけが響き渡る。まるで判決を言い渡される直前の被告のような心境であった。だが、探偵の質問責めはそれで終わったわけではなかった。 「それから、彼とはどれくらい付き合いがあったんだい?」 「そんなに長くはないわ。ほんの二ヶ月くらいじゃないかしら。それも偶然、街で再会しただけですもの」 「二ヶ月前に再会してから今まで一度も会っていないのかい?」 「ええ」 「ふーん、そうか」 探偵は再び腕を組むと天井を見上げた。何かを考え込んでいる様子だ。やがて視線を落とすと、ゆっくりと口を開いた。女は目の前の男が何を言うのか不安になった。心臓が高鳴る。 探偵が言った。 ──君は瑠璃さんの事件とは関係なさそうだ。 安堵する反面、女の胸中には複雑な思いが渦巻いた。これでいいのか?このまま終わってしまって本当にいいのか?このまま引き下がってしまって後悔しないだろうか?しかし、いくら考えても答えが出るはずもない。もう後戻りはできないのだ。彼女は意を決すると探偵に向かって語りかけた。 ──お願いです。私を信じてください。必ず犯人を見つけ出しますから。 その言葉を聞いて、男は一瞬驚いたような表情を見せた。そして微笑むと言った。 ──もちろん信じているとも。 女はその笑顔を見て涙が出そうになった。 翌日、私はいつものように出勤した。 オフィスにはすでに何人かの社員の姿がある。私と同様に残業をする社員たちだ。このところずっと遅い時間まで仕事をしている。 今日も定時を過ぎても仕事を続けるつもりだ。私はパソコンに向かうと、まずインターネットに接続した。メールボックスを開く。昨日受信したばかりのメッセージの中に見慣れないアドレスを見つけた。 差出人は、Kさんとなっていた。私は早速、中身を確認することにした。 Kさんというのは、例の女のことである。彼女が探偵の事務所を訪れ、調査結果の報告を受けたことは知っていた。その内容についても知っている。しかし、送られてきた内容までは知らなかった。だから少し興味を覚えたのだ。 ファイルを開きながら何気なくディスプレイの表示時刻を確認した。午前九時五十七分だった。 私は慌ててメールの内容に目を通した。内容は簡潔なものだった。昨日の一件については、調査会社を通してすべて解決済みであるという内容だった。瑠璃を殺した犯人は別にいるということが書かれてあった。また、私が事件の関係者であることについても触れてある。ただし、犯人の名前などについては伏せられていた。これは当然であろう。犯人の正体を知っている者は、探偵と私の二人しかいないからだ。 私は続けて添付されている写真を見た。そこに写っていたのは、若い男女の写真であった。どうやら二人が一緒に撮った記念撮影らしい。男性の方は背が高く、ハンサムな顔をしていた。どこかで見たことのある顔だと思ったが、どこで見かけたのか思い出せなかった。私は更に画面をスクロールして、文章を読み進めた。そこには探偵と彼女のやり取りが記されてあった。 私はそこで手を止めた。──探偵は彼女に、犯人は自分のことをよく知っていたと答えたようだ。つまり、彼が瑠璃を殺害した犯人だということだろう。 女はそれを聞くと、涙を流したという。その涙は、探偵に対してのものなのか、それとも自分に対する同情の念からなのかはわからない。あるいは、別の理由があったのかもしれない。いずれにせよ、女の心の中で何かが変わったことだけは間違いないだろう。 女がその後、どのような行動を取ったのか、それは私にはわからない。 しかし、あの男を殺すに至った経緯は理解できる気がする。 おそらくあの男への殺意は、以前から女の心の中にあったに違いない。それが今回の件で一気に膨れ上がったのではないだろうか。その結果、彼女は男を殺すという凶行に及んだのである。 では、何故そこまであの男のことを嫌ったのか? 理由はいくつか考えられるが、最もわかりやすい理由としては、男の態度にあるのではないだろうか。男は常に傲慢な態度を取っていた。他人の意見に耳を傾けようとせず、自分の考えばかりを押し通そうとした。そればかりか、自分は他人とは違うのだという優越感に浸りきっていた。そのような男の性格が、やがては女の心に大きな負担を与え続けていたのである。 女はきっとこう思っていたはずだ。あの男は自分が支えてあげなければ、何もできない人間なのだ、と。しかし、現実は違った。女がどんなに尽くしても、あの男は何も変わらなかった。相変わらず我が強く、他者の忠告を聞き入れようとしなかった。次第に女は疲れ果てていった。それでも、女はあの男から離れなかった。むしろ、以前よりも強く依存するようになった。 それはなぜか? 女にとって、あの男が唯一の拠り所になっていたからに他ならない。たとえ、周囲からはみ出すような存在であっても、彼女にとってはかけがえのない存在であったのである。 だが、その思いはいつしか憎しみへと変わっていった。ある日、女は考えた。何故、これほどまでに苦しい思いをしなければならないのか、と。そして、その原因を作ったのは誰であるかを思い出した。 女は思った。──憎い。 ──あいつさえいなければ……! そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。そして、ついに決意したのである。 私はもう一度、写真を見た。 そこには、幸せそうな笑みを浮かべる二人の姿が映っている。 探偵は今頃何をしているのだろう。 自宅のベッドの上で横になりながら、ぼんやりと考えていた。 今日一日の出来事を振り返ってみる。朝からずっと書類作成に追われていた。昼休みに昼食を食べてから再び仕事に戻った。そして夕方になって退社した。そのまま真っ直ぐ帰宅したのだが、特にこれといった出来事はなかった。 いつもと同じ毎日だ。 私は目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは妻の笑顔だ。 瑠璃は死んだ。自殺だった。 私は何度も同じことを考えた。 どうして瑠璃は死を選んだのだろう? 私が殺したわけではない。 もちろん、探偵に依頼したわけでもない。 では、誰が瑠璃を殺したのだろうか? 瑠璃が死ぬ直前に会っていた人物と言えば、一人しか思い当たらない。そう、妻の友人を名乗るあの女性だ。 彼女は瑠璃の夫を恨んでいた。 だから瑠璃は殺されたのだ。 しかし、本当にそれだけだろうか? 私には他にも動機があるように思えてならなかった。 では、そのもう一つの動機とは何か? 私は答えを探すべく、記憶を掘り起こしてみた。 瑠璃が自殺した日の朝、探偵の元に一通の手紙が届いた。 探偵はそれを読み終えると、深い溜め息を吐いた。 「何だ、君か」 手紙の差出人には『雨宮美紗子』という名前が書かれている。探偵はしばらくの間、無言のまま天井を見上げていた。 「全く、面倒なことを起こしてくれたものだ」 やがて探偵は立ち上がり、部屋の奥へと向かった。 「君はどうするんだ?」 探偵はソファに座っている私に向かって話しかけた。 「さあ、どうしましょうか」 「さあって、そんな暢気な話じゃないぞ」 「わかっていますよ」 「君はどうするつもりなんだ?」 「とりあえず様子を見ようと思います」 「ふん、なるほどな」 探偵は小さく鼻を鳴らすと、ゆっくりと立ち上がった。「行くんですか?」 「ああ、そうだ」 「気をつけてくださいね」 「馬鹿を言うな」 探偵は苦笑いしながら言った。 「大丈夫ですか?」 「心配するな」 「そうは言っても……」 「私はプロだ」 「……」 「まあいい。とにかく何かわかったら連絡してくれ」 「わかりました」 探偵はコートを手に取ると、事務所のドアノブに手をかけた。 「一つだけ聞きたいことがある」探偵は振り返ると、真剣な眼差しで言った。 「何でしょうか?」 「君は瑠璃さんの事件とは関係なさそうだな」 探偵の言葉に私は戸惑った。しかし、すぐに返答した。 「違いますよ。僕はただの一般人ですから」 探偵は納得していない様子だったが、それ以上は何も言わずに部屋を出て行った。私は探偵がいなくなった後も、しばらく一人で部屋に残っていた。それからしばらくして仕事を終えた私は、電車に乗って家に帰った。家に着いてからも、ずっと探偵のことが気になっていた。探偵の身に危険が及ぶのではないかと不安で仕方がなかった。 翌日、私はいつものように出勤した。オフィスには社員の姿が数人ほどあった。 今日も残業をしなくてはならないだろう。 私はパソコンの前に座ると、まずインターネットに接続した。メールボックスを開く。昨日受信したばかりのメッセージの中に見慣れないアドレスを見つけた。差出人はKさんとなっている。私は早速、中身を確認することにした。Kさんというのは、例の女のことである。彼女が探偵の事務所を訪れ、調査結果の報告を受けたことは知っていた。その内容についても知っている。しかし、送られてきた内容までは知らなかった。だから少し興味を覚えたのだ。 ファイルを開きながら何気なくディスプレイの表示時刻を確認した。午前九時五十七分だった。私は慌ててメールの内容に目を通した。内容は簡潔なものだった。昨日の一件については、調査会社を通してすべて解決済みであるという内容だった。瑠璃を殺した犯人は別にいるということが書かれてあった。また、私が事件の関係者であることについても触れてある。ただし、犯人の名前などについては伏せられていた。これは当然であろう。犯人の正体を知っている者は、探偵と私の二人しかいないからだ。 私は続けて添付されている写真を見た。そこに写っていたのは、若い男女の写真であった。どうやら二人が一緒に撮った記念撮影らしい。男性の方は背が高く、ハンサムな顔をしていた。どこかで見たことのある顔だと思ったが、どこで見かけたのか思い出せなかった。私は更に画面をスクロールして、文章を読み進めた。そこには探偵と彼女のやり取りが記されてあった。 私はそこで手を止めた。──探偵は彼女に、犯人は自分のことをよく知っていたと答えたようだ。つまり、彼が瑠璃を殺害した犯人だということだろう。 女はそれを聞くと、涙を流したという。その涙は、探偵に対してのものなのか、それとも自分に対する同情の念からなのかはわからない。あるいは、別の理由があったのかもしれない。いずれにせよ、女の心の中で何かが変わったことだけは間違いないだろう。──彼女は男のことが好きだったのだと思う。だが、その気持ちは次第に憎しみへと変わっていったのではないだろうか?なぜなら男は傲慢で他人を見下す傾向があったからである。おそらく彼女以外の誰もが男のことを嫌っているに違いない。しかし、その事実を知っていながらも、彼女は男を庇うような発言をしていたのではないだろうか?それはきっと男に嫌われたくなかったからに違いない。彼女には男のことを好きになる以外に選択肢がなかったのである。だからこそ、その男から突き放された時、絶望してしまったに違いない。その時すでに彼女の心は壊れかけていたのだ。その証拠に、男が死んでから数日が経過した後、彼女は突然行方をくらませたのである。 私はそこまで読むと、目を閉じて深呼吸をした。 「どうしたの?」隣のデスクにいた女性が声をかけてきた。 「いえ、何でもありません」 「大丈夫?」 「ええ、大丈夫です」 女性は心配そうな表情をしていたが、それ以上は何も言ってこなかった。私は再び画面に視線を移した。そして次の行に目をやった瞬間、心臓が止まりそうになった。 「ちょっとすみません」私はそう言うと、席を離れた。そして急いでトイレに向かった。 個室に入ると鍵を閉めて便座の上に座った。そして大きく深呼吸すると、震える手でマウスを操作して最後の行まで一気にスクロールさせた。 そこにはこう書かれていた。──瑠璃さんは誰かに殺されたのよ! 「嘘だ!」私は大声で叫んだ。 私はそのまましばらく身動きが取れなかった。そして何とか気持ちを落ち着かせると、ゆっくりと席を立った。それから手洗い場に行き、鏡の前でもう一度自分の顔を見つめた。顔色が悪いような気がした。 私はハンカチを取り出すと、それでそっと汗を拭った。そして再び席に戻った。 私はもう一度、 「嘘に決まっているじゃないか」と言った。 自分に言い聞かせるように何度も何度も同じ言葉を繰り返した。しかし、いくら否定しても頭の中から消えてくれなかった。むしろその言葉はどんどん膨らんでいくばかりだ。このままではいけないと思い、気分転換のために窓の外を見た。ちょうど太陽が沈みかけているところだった。空は淡い紫色に染まっている。 「綺麗だな」私は無意識のうちに呟いていた。 次の瞬間、急に吐き気が込み上げてきた。私は慌てて洗面所に駆け込んだ。そして胃の中のものを全て吐き出した。口の中に嫌な味が残っている。私は何度か口をゆすいだ。そして水を飲むと、近くにあった椅子に腰を下ろした。ふと、顔を上げると、 「あ……!」思わず声が出てしまった。目の前に洗面台があって自分の姿が映っているのだが、その姿が瑠璃の姿にそっくりだったのである。 いや、違う!これは私だ!間違いなく私だ!私以外の何者でもないではないか!どうして気がつかなかったのだろう? 私はその場にしゃがみ込むと、頭を抱えた。 「瑠璃……」小さく呟くと同時に涙が溢れ出してきた。嗚咽を漏らしながら泣き続けた。どうしていいかわからなかった。ただ怖かったのだ。自分が自分でなくなるような気がしてならなかった。このまま気が狂ってしまうかもしれないと思った。だが、どうすることもできないのだ。今はとにかくこの恐怖に耐え続けるしかない。 どのくらい時間が経ったのだろうか?気が付くと、 「大丈夫ですか?」という声が聞こえてきた。顔を上げると、そこには見知らぬ女性が立っていた。心配そうに私の顔を見つめている。年齢は二十代後半といったところだろうか?長い黒髪がよく似合っている美しい女性だった。服装は白いブラウスを着ていて、 「あの……大丈夫ですか?」 「え?」一瞬、何を言われているのか理解できなかった。 「気分が悪そうでしたので」 「ああ、大丈夫ですよ」私は笑顔を作って答えた。すると彼女も微笑み返してくれた。その表情を見て安心したのか、彼女はゆっくりと歩き出した。すれ違いざまに会釈をすると、そのままオフィスを出て行った。 「今の人って誰かしら?」近くにいた女性の同僚が話しかけてきた。 「さあ、わからない」 「何だか美人だったわね」そう言って彼女は微笑んだ。 私もつられて笑った。その瞬間、頭の中にかかっていた靄のようなものが消えていくのを感じた。まるで霧の中から抜け出したような感覚だ。私は立ち上がり、背伸びをした。そして椅子に座り直すとパソコンの電源を入れた。そして仕事に取りかかった。不思議と集中力が増している気がした。 気がつくと午後七時になっていた。フロアに残っている社員の数は少なくなっている。ほとんどの者が退社した後だった。もちろん探偵の姿もなかった。 今日は定時で帰れそうだ。そう思った矢先、電話が鳴った。私はすぐに受話器を取った。「はい、こちら人事課です」 『あの……』若い女の声だった。明らかに困っている感じだ。『すみません、そちらに電話をするように言われたのですが』 「どなたですか?」 『ええと』相手は口ごもっている様子だった。『ちょっと待ってくださいね』と言って少し間を置くと、小さな声で『雨宮さん』と言った。 雨宮美紗子だ!やはりあの女の仕業か! 「雨宮さんがどうかしたのですか?」私は冷静さを装って言った。本当は今すぐにでも叫び出したい気分であった。だが、そんなことをすれば相手に怪しまれてしまうだろう。それだけは絶対に避けなくてはならない。もし、あの女に何か感づかれたら私の人生は終わりだと言っても過言ではないからだ。だから私は何としても冷静になろうと努力した。それが無駄なことだと知りつつも……。 しばらくして相手の返事が聞こえた。『あのですね、昨日こちらに来た時にこちらの電話番号を教えられましたので連絡しました』 「なるほど、そういうことでしたか」私は平静を装って返事をした。自分でもわかるくらい不自然だと思ったが仕方ないだろう。まさか彼女がここまで大胆な行動に出るとは予想していなかったのだ。完全に油断していたようだ。 『今どこにいるのでしょうか?』女は言った。『会社にはいないみたいですけど……』 私は唾を飲み込んだ。額から汗が流れるのがわかった。 なぜこの女はそんなことまで知っているのだろう?どこから情報を得ているのかはわからないが、とにかくまずい状況であることは確かだ。もしかしたら探偵事務所にまで尾行されているのかもしれない。だとしたら非常に危険な状態であるといえる。もしそうだとすれば一刻も早く手を打たなければ大変なことになるかもしれない。 「ええ、今日は有給休暇を取っておりまして」私はできるだけ自然に聞こえるように心がけながら言った。 女は沈黙したままだった。どうやら納得してくれたようだ。 「あの……」しばらくすると再び女の声が聞こえてきた。まだ何かあるのだろうか?これ以上何も聞かれたくはなかった。しかし、そういうわけにもいかなかったようだ。女が続けて発した言葉は私を戦慄させるのに十分な威力を秘めていたからである。 『瑠璃さんの事件について詳しく聞かせていただけませんか?』女は言った。 その日の夜遅く──正確には朝方だったが──家に帰るとそのままベッドに倒れこんだ。着替えることもせずに横になったまま天井を眺めていた。何も考える気になれない。ただただぼんやりとしているだけだ。あれからどうやって家まで帰ってきたのかも覚えていない。それほどまでに精神的に追い詰められていたのだと思う。無理もないだろう。あんなことがあったのだから……。いや、それよりも気になることがあったのだ。それは雨宮美沙子が口にした言葉についてである。 彼女は確かにこう言ったはずだ。〝あなたの妹さんは何者かによって殺害されたのですよ〟と……。 いったいどういうことなのだろう?本当に彼女の言っていることが正しいのであれば、私は殺人犯の妹ということになる。つまり加害者の身内ということだ。そんなはずはない!だって私には何の罪もないじゃないか!それなのにどうして私が疑われなければならないんだ!?そんなの理不尽すぎる! そこまで考えたところで気が付いた。もしかして、あの女は私のことを疑っているのだろうか?そうでなければわざわざ私に接触してくるはずがないではないか!しかも私の名前まで知っていたということは、おそらく最初から私に目をつけていたという可能性が高い。だが、そうなると疑問が残ることになる。果たしていつから私のことを見ていたのだろうか? その時、玄関のチャイムが鳴った。私はベッドから起き上がると、ゆっくりと立ち上がった。こんな時間に一体誰が訪ねてきたというのだろう?不審に思いながらも玄関に向かうことにした。もしかすると新聞や宗教関係の勧誘なのかもしれないと思ったからだ。いずれにしても無視するわけにはいかないだろう。ドアを開けるとそこには見覚えのある女性が立っていた。確か名前は浮田草木と言った。大学時代に交際を申し込まれたが時期尚早だと判断して辞退した。草木は号泣しながら走り去ったが不思議と心は痛まなかった。私にとって恋愛などどうでもよかったからだ。むしろ迷惑だと思っていたくらいだ。それから一度も会うことはなかったのだが、こうして再会することになるとは思ってもいなかった。彼女は突然訪問してきたかと思うと、 「瑠璃さんのことでお話があります」と言ってきたのだ。そして家の中に入ってきたのである。突然のことで驚いたが追い返すわけにもいかないので仕方なく招き入れることにしたのだった。それにしても一体何の話をするつもりなのだろう?ひょっとして瑠璃を殺した犯人を突き止めたとでも言うつもりなのだろうか?しかし、それなら何故直接私に会いに来ないのだろう?普通は警察に行くべきではないのか?それとも何か特別な理由でもあるのだろうか? 私はそんなことを考えながら台所に行きお茶を淹れるためにお湯を沸かすことにした。その間にリビングに行くとソファに座って待っているように言った。すると素直に従ってくれた。意外と素直な性格のようだ。てっきり居座るつもりなのかと思っていたが違ったらしい。あるいは警戒しているのかとも思ったがそれも違うようだ。何となくそわそわしているように見えるが気のせいだろうか?いや明らかに何かを隠している。そして問題を抱えきれなくなって藁を縋る想いでここに来た。だが切り出す勇気がない。そんな態度が見て取れる。となると話の内容は想像がつくというものだ。恐らくは例の事件に関することに違いないだろう。 私はお茶の入ったカップを持って行くとテーブルの上に置いた。彼女はお礼を言うと一口だけ飲んでカップを置いた。私も自分の分を用意して向かい側に座った。 しばらくの間、無言のまま時間が過ぎていった。その間、私は彼女の様子を注意深く観察していた。何を考えているのかはわからないが緊張しているのは確かなようだ。時々、視線が合うのだがすぐに逸らされてしまう。よほど言い出しにくいことがあるのだろう。だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。私の方から話しかけるべきだろうか? いや、もう少し様子を見よう。その方がいいだろう。 やがて決心がついたのか、彼女は顔を上げた。そして意を決したように話し始めた。 「実はあなたにどうしても聞いてもらいたいことがあって来たんです」彼女は真剣な表情をしていた。その表情を見て嘘ではないことがわかった。どうやら本気のようだ。ならばこちらも真剣に答えなくてはならないだろう。 「どのような内容でしょうか?」私はなるべく穏やかに話しかけた。すると彼女はほっとしたような表情を浮かべた。「ありがとうございます」そう言って頭を下げた。「それでですね、あの事件の真相なんですけど……」 やはりその話だったか。私は心の中で頷いた。そして黙って次の言葉を待った。 「あれは殺人事件だったんですよ」彼女の言葉を聞いて耳を疑った。今、何と言ったのか?聞き間違いでなければ殺人だと言わなかっただろうか?「……どういうことですか?」思わず聞き返すと、 「ですから犯人は別にいるということですよ」と答えた。 その言葉に衝撃を受けた。では瑠璃は本当に殺されたというのか?信じられないことだが事実だとしたら大変なことになるぞ!すぐに警察に通報しなければ!そう思って立ち上がろうとしたができなかった。目の前の女性がそれを許さなかったのだ。いつの間にか私の手を掴んでいたのだ。驚いて彼女の顔を見ると笑っていた。背筋が凍りつくような感覚に襲われた。この感覚は以前に感じたものと全く同じだったからだ。そう、あの時と同じだったのだ!私は慌てて手を振り払おうとしたがびくともしなかった。まるで万力で固定されているかのようだった。このままではまずいと思い必死に抵抗しようとしたが無駄だった。次第に意識が遠のいていくのを感じた……。気がつくとベッドの上にいた。ここはどこだろう?辺りを見回すと見たことのない部屋であることがわかった。壁紙は白く床はフローリングになっているようだ。家具などは置かれていないようだが、かなり広い部屋のように思える。窓から外の様子が見えた。夜なので真っ暗であったが街の明かりが見えることからどこかの高層マンションの一室だということが理解できた。そこで思い出した。そうだ、私はあの女に気絶させられたのだ。ということはここは雨宮美沙子の家なのか?だとするととんでもないことになったぞ!早く逃げなくては大変なことになる。急いで起き上がろうとした時、ふとあることに気付いた。両手両足が縛られているではないか!これでは身動き一つ取れない状態だ。何とか抜け出せないかともがいてみたが無理だった。完全に拘束されているようでびくともしない。こんなことなら多少乱暴でも無理やりにでも逃げるべきだったかもしれない。今更後悔しても遅いだろうが……。 それにしてもこれからどうなるのだろう?殺されることはないと思うが、何をされるかわからないのが怖いところだ。 その時、ドアの開く音が聞こえた。顔を向けるとそこに立っていたのは雨宮美紗子であった。「お目覚めですか」そう言うとこちらに向かって歩いてきた。その手には大きな鞄を持っているのが見えた。まさかとは思うがその中に入っているものは武器なのではないだろうか?そう考えると恐怖が込み上げてきた。 「怖がらなくても大丈夫ですよ」私の考えを見透かしたように彼女が言った。「痛いことはしませんから安心してください」笑顔でそう言った。とても信用できるとは思えなかったが今は信じるしかないだろう。 雨宮美沙子はベッドの脇に立つと私を見下ろした。その視線はまるで獲物を狙う肉食獣のように感じられた。 「さて、それでは始めましょうか」彼女はそう呟くように言うと手に持っていた鞄を開けた。中に入っていたのは注射器のようなものや医療器具のような物がいくつか入っていた。それを見て血の気が引いていくのがわかった。何をする気だ!?そう思った瞬間、腕を掴まれると袖を捲り上げられた。そして注射針のようなものが腕に刺さったのだ。チクッとした痛みが走った後、何かが注入されていくのを感じることができた。これは一体何なのだ!?いったい何をするつもりなんだ!?不安に思っていると今度は別のものを差し出された。それは大きめの絆創膏のようなものだった。これを貼れということなのだろうか?とりあえず言われた通りにすることにした。貼り終えると再びベッドに寝かせられた。手足は相変わらず拘束されたままだ。 「しばらくすれば効果が出ますから大人しくしていてくださいね」そう言って部屋を出て行った。しばらくして眠気に襲われ始めた。抗うことができずそのまま眠りに落ちてしまった。 どれくらい時間が経ったのだろうか?目を覚ますと部屋の中は薄暗くなっていた。雨宮美沙子が戻ってきたようだった。彼女は私の顔を見るなり笑顔を浮かべて近づいてきた。そして私の顔に触れながら話しかけてきた。「気分はどうかしら?」その声は今まで聞いたことのないくらい優しい声音だった。その声を聞いているうちに安心感を覚えたような気がした。 「悪くないですよ」と答えると、 「良かったわ」と言って微笑んだ。 それからしばらくの間、彼女と話をした。主に大学のことが中心だったが話題は尽きなかった。私が通っていた大学の卒業生だったらしい。しかも学部も同じだということが分かった時には驚いたものだ。もっとも当時はそれほど親しい関係ではなかったため気付かなかったのかもしれない。もしかしたら何度かすれ違ったことくらいはあったかもしれないがそれだけだ。だから彼女が私のことを覚えていたというのは意外だった。もちろん悪い意味でだが……。 その後、彼女は私に質問してきた。家族構成や交友関係についてなど様々だ。なぜそんなことを聞くのかわからなかったが素直に答えた。特に隠すようなことでもないと思ったからだ。だが、一つだけわからないことがあった。私の名前のことだ。どうして知っているのかと尋ねると、 「調べたのよ」と言っただけだった。それ以上は何も教えてくれなかったが何か嫌な感じがしたので聞かないことにした。 しばらくすると眠くなってきたのでまた眠ることにした。次に目を覚ました時はもう朝になっていた。「おはようございます」と言うと彼女は優しく髪を撫でてくれた。 その後、朝食を食べさせてもらってからは彼女の仕事を手伝うことになった。何でも家事全般は彼女の担当らしく一人では大変らしい。そのため手伝ってほしいとのことだった。料理や洗濯などできることは何でも手伝った。だが、こんなことをしている場合ではないと気づいた。「何なんだ。君は」と詰め寄ると、あっさり「私はあなたの妻よ」と答えた。そしてこうなった経緯を話してくれた。どうやら私はあの時、薬を打たれた後に再び気を失ってしまったらしい。そして気が付いた時にはすでに彼女の家で寝ていたというわけだ。さらに恐ろしいことに私の身体には彼女の子供ができており、彼女は私と結婚する意思があることを親に伝えたそうだ。 私はあまりのショックでその場に崩れ落ちた。そんな私を彼女は抱き締めて「ごめんなさい」と何度も謝った。私だって結婚したかった。でも結婚してしまえば彼女はきっと不幸になるだろうと思っていた。だがそんなことはなかったのだ。結局、彼女の思惑通りになってしまったのである。私は彼女の顔を見ることさえできずにいた。彼女は私の顔を覗き込むようにして語りかけた。「お願い、私の赤ちゃんに会って」泣きそうな声でそう言ってきた。だが、私はその願いに応えることができなかった。なぜなら彼女の腹の中にいる子供が憎くて仕方がなかったからだ。今すぐに殺してやりたい衝動に駆られたがなんとか堪えた。そんなことをしても何もならないと自分に言い聞かせて気持ちを抑えつけた。そんな私の様子に彼女はショックを受けたようだ。やがて諦めたのか、彼女はその場を離れていった。 私はしばらく放心状態に陥っていたがこのままではいけないと思って立ち上がった。とにかく外に出なければ、このままでは大変なことになる。私は彼女の制止を振り切って部屋を出た。玄関を出ると、そこには雨宮瑠璃が立っていた。私は彼女の姿を見ると逃げ出したくなったが、必死に踏みとどまった。彼女に会うためにここまで来たのではないか。逃げるわけにはいかない!そう決心して彼女の前に立った。すると瑠璃はいきなり土下座をした。これには驚かされた。 「すみませんでした!まさか先輩の旦那さんだったなんて……」 その言葉を聞いて私は悟った。そうか、そういうことだったのか……。おそらく、あの女は雨宮のことが許せなかったのだろう。だからあんな行動を取ったのだ。そして彼女はそれを実行した。その結果がこれだったのだ。 私は瑠璃の肩を掴むと立ち上がらせた。「いいんだ、君のせいじゃない」そう言うと彼女にキスをした。瑠璃は驚いていたが受け入れてくれたようで嬉しかった。唇を離すとお互いに見つめ合った。「愛してる」そう言って抱きしめると瑠璃は涙を流し始めた。どうやら嬉し涙のようだ。「……私もです」そう言って私の背中に手を伸ばすとぎゅっと抱きしめてきた。こうして私たちは夫婦になったのだ。 それからは幸せの日々が続いた。彼女は私のために働いてくれている。その分、私は彼女を労う必要があるだろう。それが妻として当然のことだと思う。だから私は彼女に精一杯の愛情を示した。 ある休日、二人で買い物に出かけた。彼女は妊娠しているため、無理はできない。私が代わりに買い物をすると言ったのだが、彼女は首を横に振って「一緒に行く」と言い張った。仕方なく二人で出かけることになったのだ。私は荷物を持ち、彼女の手を引いて歩いていた。途中で疲れた様子を見せると彼女は心配そうに声を掛けてきた。 「大丈夫?」「大丈夫だよ」 全然大丈夫じゃない。うつむき加減に歩くその足元に血が転々としている。 「大丈夫」 彼女は口元をぬぐうが明らかに喀血している。彼女は出産間近だ。無理をしているのがよくわかる。「もう少し休もうか?」「ううん、早く帰ってあげたいから」そう答えるが明らかに体調が悪いように見える。 家に着いてすぐ彼女はベッドに入った。 「今日は安静にしてて」私がそう言うと、スヤスヤという寝息が聞こえてきた。私は扉をそっと閉じた。 それが今生の別れになった。夜半に大鼾で起こされた。いくらなんでも音がデカすぎる。揺さぶって起こそうとしても騒々しいばかりでちっとも目覚めない。慌てて救急車を呼んだが到着した時には脳梗塞による死亡宣告がなされる状態だった。 単刀直入に言おう。死因は脳梗塞だ。そして、その死に方は極めて奇妙だった。彼女は病院に運ばれた直後に亡くなったが、その死に顔はとても穏やかなものだった。苦しんで死んだというよりはむしろ幸福を感じて逝ったような印象すら受けた。私は不思議でならなかった。なぜこんな状況になったのだろう?いったいどんな理由があったのだろうか。わからない。 ただ言えることは彼女にも私にも非はなくまた咎もないということだ。そう信じたい。あれからどれくらいの月日が流れたのだろうか?少なくとも三年以上の歳月が過ぎ去ったことは確かだ。私の人生の中でこれほど長い時間を共に過ごした相手はいないと断言できる。 幸福は永遠に続かない。だが、幸福の時間は永遠なのだ。私はそれをよく知っている。人は死によって別たれるが幸福は永久に失われることはない。そう信じることにしよう。 私は彼女と出会ってからの日々を思い出しながらそう呟くと再び目蓋を閉じるのだった。