息もできない
彼女を攫った。だけど女が女を攫っても、彼女の狭い世界では問題にならないようだった。
両親も、友人も、職場の同僚も彼女の行方を探していないようだった。
今日で5日たった。最初は車で南へ向かった。そこから船で別の島へ渡った。
港から山に入って、小さな町を通り過ぎて、山を歩いて、また海が見えた。
彼女は2日ほど前にけがをして、熱が出ていた。だんだん弱っていくようだった。
夜になって、捨てられたバスタブを見つけて、一緒に入った。
ふちがひび割れていて、土埃が完全に拭えなったけど、夜の空気から少しでも体を守りたかった。彼女はぐったりと私にもたれかかって、目を閉じた。
人生なんてゴミみたい、と彼女はつぶやいた。私は自分の頭に手を伸ばして髪を引っ張る。
今朝生理がきた。そのことが私を一層疲れてみじめな気分にさせた。
彼女はイワシのように群れの中で生きていた。イワシのように。周りと同じくらいの大きさで、同じくらいの速さで、同じことを繰り返して生きていた。苦しいと言っていた。これから先ずっと同じなら、生きている意味なんかない、と。
群れの恩恵を捨ててもいいの?と聞くと、彼女は何も言わない。私から少し顔を背けて、目が濁る。かわいそうなので、私も何も言わない。
相談に来るたびにASDを彼女に与えた。気が楽になるから、とだけ伝えた。
5回目に渡した翌日に電話がかかってきた。彼女の家へ向かうと、彼女は壁にもたれるように座っていた。そばにはロープがあった。何も言わない。でも以前よりもはっきりした目線で私を見る。どうしたい?と聞いた。
彼女は私に攫ってほしいと言った。
バスタブから海が見える。夜の海は怖い。暗くて心を病みそうだ。でもそれは見慣れていないだけかもしれない。毎晩、真っ黒な海を見ていれば、今もこんなにみじめじゃなかったかもしれない。彼女も海の中の群れにいれば、人生なんてゴミみたい、なんて言わずにすんだかもしれない。彼女は後悔しているだろうか。聞いてしまえば、彼女の心を折るように思った。
太陽が出て、あたりを十分に照らす時間になっても、彼女は起きられなかった。
目を開けるのもだるそうだった。もうここでいい、と言った。
私は一抱えの小枝を拾って、ライターとASDを一緒に彼女に渡した。
夕方ごろに港について、帰りの船の中で煙が上がっているのを見た。