神無海 月子

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神無海 月子

初めまして。神無海(かんなみ)月子です。よろしくお願いします。美大ストーリー書いてます。

モデル(仮)

モデル(仮) 「北嶋先生、お疲れ様です。4Bデッサン画、完成ですね。午後からは、2BとBの作品もお約束どおりにお願いいたします」 そう言って星川修一は、今度はこちらに向かってやって来た。 「おつかれさまです。とりあえずお茶をお淹れしますね。そこのガウンを羽織っていただいて、お茶が済みましたら控え室でお昼休憩してください。軽食などもご用意させていただいておりますので」十七歳で裸婦画のモデルをしている添田真由は、やれやれ、まだきょうは終わらないのかと軽く自虐的な思いを心の内側にたたえた。 真由は小さな声で「あ、はい……ありがとうございます」星川に言われるまま、用意されていた厚手のガウンを小さく身震いしながら羽織った。張り詰めていた緊張が解けると同時に、どっと押し寄せてきた疲労感に気付く。絵のモデルというのは、ただじっとしているだけのように見えて、想像以上に体力を消耗するものだった。 ソファに深く腰掛け、差し出された温かいお茶のカップを両手で包み込む。湯気の向こうでは、画家の北嶋が今しがた描き終えたばかりのキャンバスを、愛おしそうに見つめていた。 「どうですか、星川さん。彼女の持つ独特の陰影、4Bの柔らかさが見事にハマったと思いませんか?」 北嶋が満足げに声を弾ませる。星川は顎に手を当て、完成したばかりのデッサンをじっくりと見つめた。 「ええ、素晴らしいです。肌の柔らかな質感と、背景に溶け込むような光の表現が実に見事です。ですが……」 星川は不敵な笑みを浮かべ、真由の方へと視線を向けた。 「午後からの2B、そしてBの硬さで描かれる彼女は、また全く違う表情を魅せてくれるはずです。先生、後半も期待していますよ」 時計の針は間もなく正午を指そうとしていた。束の間の休息の後、さらに鋭い鉛筆の芯が真由の肌の輪郭をなぞる時間が始まる。彼女はガウンの襟元を少し強く握り締めながら、午後の画架に向かう自分の姿を想像していた。 裸婦画のモデルには半裸と全裸があるが、真由の場合は後者だ。なぜなら、その方がモデル代が高いためである。 控え室に着いた真由は、洗面ボウルで手を洗ってから、美大側が用意してくれたサンドイッチをひと口齧った。ライ麦の香ばしいパンに、スモークサーモンとクリームチーズが挟まっている。そしてペットボトルのストレートティーで、それらを流し込んだ。 食事を終えると、部屋の隅にある三面鏡でヘアメイクをささっと直してから座り心地のよいソファにもたれかかった。自宅からかなり遠方の美大での仕事だったため、早朝の出発だったのだ。ソファでウトウトしていると、スタッフが控え室のドアをノックしてから少し開けて「モデルさーん!午後の準備をしてからアトリエまでお願いしまーす!!」と声をかけてきた。真由ははっ、と飛び起きて再び例の三面鏡で顔まわりのチェックをしてからアトリエに向かった。 北嶋優作は、星川修一とともに先にアトリエにいた。ふたりで何かを話している。多分、構図の話だろう、と真由は思った。そんなことは正直どうでもいい。モデルはあくまでも「モデル」であって、画家が描きたいポーズをとってさえいれば、別に何も咎められることはない。 すると、しばらくして北嶋が柔らかな口調で「午後イチは、シャープなラインが欲しいんだ。だからモデルさんさえ良ければ次は立位がいいんだけど」午前は、ゆったりとしたソファに横になるポーズだった。星川が北嶋に「構いませんよ、ねぇ」と真由に聞いたので「はい。どのような格好でいればいいでしょうか」と北嶋に直接、おずおずと尋ねてみた。 「立位なら。ポージングはおまかせするよ」意外な返事に一瞬戸惑ったが、真由は「こんなのはどうですか?」と、両脚を交差して立ち、腕はまっすぐ頭上に重ねて、更に顔を天に向けるポーズをした。すると北嶋は「いいね。流石。じゃぁ、描くよ」 キャンバスに炭が走る、カサカサという乾いた音がアトリエに響き始めた。どうやら、午後からの画法は、デッサン画から油絵に変更になったらしい。真由は頭上で両手を重ね、顔を天に向けたまま、じっと身体を固定している。全身の筋肉がかすかに緊張し、普段のポーズよりも呼吸が浅くなるのが自分でも分かった。いつもなら、画家の視線は「物体」を見るそれとして受け流せる。しかし、北嶋の視線が自分の肌をなぞるたび、そこに熱のようなものを感じてしまう 。(お兄さんくらいの、年の男の人―) その事実を一度意識してしまうと、全裸で立っている自分の輪郭が、急に生々しさを帯びて迫ってきた。北嶋の「穏やかなもの言い」とは裏腹な、獲物を捕らえるかのような鋭い眼差し。彼は言葉少なに、しかし確実に真由の身体の「シャープなライン」を画紙に定着させていく。「真由さん、少し肩の力を抜いて。……そう、そのままで。すごく綺麗だ」北嶋がふと漏らした低い声に、真由の心臓がどくりと跳ねた。モデルを褒める言葉など、他の画家からも耳にタコができるほど言われてきた。それなのに、なぜ彼の言葉だけが、皮膚を通り抜けて内側にまで届いてしまうのだろう。顔を天に向けているおかげで、赤くなりかけた頬を彼に見られずに済んだことだけが救いだった。 アトリエの隅で、星川が絵の具の準備をしながら、じっとふたりの様子を伺っている。星川の視線には、北嶋に対する純粋な尊敬と――そして、どこか冷徹な「観察者」としての目が混ざっていた。星川は、北嶋が真由というモデルを得て、今まさにインスピレーションを爆発させている瞬間を、見逃さないように記録しているかのようだった。 「……よし、一度休憩にしよう」時計の針が三十分を指した頃、北嶋がふう、と息を吐きながら木炭を置いた。キャンバスに要領よくフィキサチーフを吹きかけながら「星川さん、真由さんにガウンを」「はい、先生」星川が手際よく立ち上がり、厚手のガウンを持って真由に歩み寄る。その時、星川は真由にしか聞こえないような低い声で、ぽつりと言った。 「珍しいな。北嶋先生が、あんなに迷いのない筆の進め方をするのは」 「え……?」 ガウンに袖を通しながら、真由が星川を見上げると、彼は意味深な笑みを浮かべたまま、すでに北嶋の画架のそばへと戻っていた。キャンバスに描かれた自分の姿を、真由はまだ見ていない。けれど、午後からの本格的な着色を前に、アトリエの空気は、午前中とは明らかに違う「熱」を孕み始めていた。 北嶋優作は、とある有名美大を卒業したての、新進気鋭の画家である。美大在学時からメキメキと頭角をあらわし、今、界隈を大いに賑やかにしている。甘いマスク、穏やかなもの言いとは裏腹にその力強いデッサン画や油絵の実力は、群を頭ひとつ抜きん出ている。傾倒する女性ファンも多く、『抱かれてみたい男性画家』のナンバーワンには間違いなく輝くであろう人物だ。 そして今まさに真由は全裸でそんな男性画家に裸婦画を描かれている。いつもなら、自分の親以上の年の画家だから、さほど恥ずかしくはないはずなのだが、きょうに限っては勝手が違う。助手の星川は、30代中ごろといったところか。かなり年下の北嶋を『先生』と呼ばなければならないことにジレンマの片鱗は微塵も感じない。いや、感じないだけか。 「少し、お茶でもどうですか」と北嶋は真由に伝えると同時に「星川さん、足りない絵の具が少しあるので、買い出しお願いします」星川が画材の買い足しのためにアトリエを出ていくと、北嶋は自ら淹れたハーブティーのカップを真由に手渡した。 真由は厚手のガウンの合わせ目をきゅっと握り締め、ソファの端に腰を下ろす。北嶋は少し離れたパイプ椅子に腰掛け、長い脚を組んだ。キャンバスは、真由の立ち位置からは裏側しか見えない角度に置かれている。 「……ありがとうございます」 真由が小さく一口すすると、温かい湯気とともに、張り詰めていたアトリエの空気がわずかに緩んだ。 「驚いたよ。さっきのポーズ」北嶋がカップを片手に、悪戯っぽく微笑んだ。 「モデルさんにポージングを任せると、たいていは午前中の延長で、少しひねりを加えたくらいの座りポーズになることが多いんだ。でも、君は迷わず立ち上がって、天を仰いだ。あの瞬間、アトリエの光の回り方がガラッと変わった気がした」 「あの、お気に召さなかったら、すぐに変えようと思っていました」 真由は視線をカップに落としたまま、上気した顔を隠すように答えた。 「まさか。最高だった。星川が言わなかったかい? 僕の筆が乗っているって。言葉通りだよ。君の身体のラインは、ただ細いだけじゃなくて、内側に強い芯がある。僕が今探している『現代のヴィーナス』のイメージに、ぴったりなんだ」 現代のヴィーナス。あまりにも真っ直ぐな賛辞に、真由の胸の奥の泉が、またトクトクと恥ずかしさを生み出していく。 「北嶋先生は……」真由は思い切って、ずっと気になっていたことを口にしてみた。「その、たくさんのモデルさんを描かれてきたんですよね。ファンの方も大勢いらっしゃいますし」 「先生、はよしてよ。アトリエの外じゃ、ただの二十代前半の男だからね」北嶋は苦笑しながら、カップを机に置いた。そして、少しだけ真由の方へ身を乗り出す。「ファンがどれだけいようと、関係ないよ。僕がキャンバスの前で一対一で向き合うのは、目の前にいるモデルさんだけだ。真由さん、君は僕を『親以上の歳の画家たち』と同じように見ているかもしれないけれど……僕は君を、ただの『物言わぬモデル』として描いているわけじゃない」 北嶋の、穏やかだが射抜くような瞳が、真由の目を真っ直ぐに捉えた。 「君が恥ずかしがっていることも、呼吸が浅くなっていることも、全部デッサンに出ている。そして僕は、その君の『生々しい感情』ごと、絵の具でキャンバスに閉じ込めたいと思っているんだ」 その言葉は、まるで告白のようにも、あるいは画家としての冷徹な宣言のようにも聞こえた。真由の心臓が、ガウンの下で激しく音を立てる。 「……ずるいです」真由は消え入りそうな声で呟いた。「そんな風に言われたら、後半のポーズ、どんな顔をしていいか分からなくなります」北嶋は優しく、しかしどこか妖艶な笑みを浮かべた。 「そのままでいい。戸惑っている君も、きっと美しいから」 カチャリ、とアトリエのドアが開く音がして、星川が戻ってきた。二人の密やかな時間は、そこで終わりを告げた。 午後のセッションが終わり、アトリエに満ちていた張り詰めた空気が、北嶋の「よし、いったんここまで。ありがとう」という声でふっと緩んだ。 真由は頭上に伸ばしていた腕をゆっくりと下ろし、固まっていた身体を小さくほぐした。肌に触れる空気の冷たさに、自分が今までいかに集中し、火照っていたかを思い知る。 ガウンを羽織り、帯をきゅっと結んだところで、星川が「おつかれさまでした。お茶を淹れますね」と席を外した。アトリエには、真由と北嶋の二人だけになった。北嶋はパレットを置き、布で絵の具のついた指先を拭っている。その視線はまだ、イーゼルに載ったキャンバスに向けられたままだ。いつもなら、モデルが描かれている途中の作品を覗き見るのはタブーだと分かっている。けれど、心臓の鼓動が耳の奥でうるさいほどに高鳴り、どうしても抑えきれなかった 。「あの……北嶋先生」真由は、自分でも驚くほど硬い声で呼びかけていた。「もし、よろしければ……少しだけ、見せていただくことはできますか?」北嶋の手が止まった。彼は少し意外そうに目を丸くしたが、すぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべ、キャンバスの横へと一歩退いた。「いいよ。まだ途中だけど、君がどう映っているか、見てみるといい」 促されるまま、真由はおずおずとイーゼルの正面へと歩みを進めた。そしてキャンバスへと視線を走らせた瞬間、息をのんだ。 そこにいたのは、紛れもない自分でありながら、まったく見たことのない「女」だった。荒々しくも迷いのない、力強い線の重なり。午前中の気怠げな横臥位とは対照的な、午後の光を浴びてまっすぐに天へと伸びる肢体。両脚を交差させ、全身の筋肉が緊張と弛緩の絶妙なバランスで保たれているその姿は、あまりにも生々しく、そして圧倒的に美しかった。 なによりも真由を動揺させたのは、その「表情」だった。顔を天に向け、目を閉じているはずの自分の顔。しかしキャンバスの中の彼女は、ただ無心にポーズをとっているのではない。どこか、秘められた熱を帯び、自らの裸体を晒していることに微かな歓びと、それ以上の切なさを滲ませているように見えた。 (見抜かれてる……) 真由の指先が、ガウンの襟元をきつく握りしめた。あの時、心の中で湧き上がっていた、泉のような羞恥心。北嶋という男を意識し、彼の手によってキャンバスに刻まれることに翻弄されていた、歪な自意識のすべてが、絵の具の層の奥から透けて見えるようだった。 甘いマスクの裏にある、画家の容赦のない、そして残酷なほどの観察眼がそこにあった。 「どうかな?」背後から、北嶋の柔らかい声が降ってきた。いつの間にか、彼はすぐ近くまで歩み寄っていた。微かに漂う、油絵の具と彼自身の匂いに、真由の身体が強張る。 「……すごく、綺麗です。でも、なんだか……」 「なんだか?」 「私じゃないみたいです。もっと、ずっと……」 言葉に詰まる真由を見て、北嶋はふっと悪戯っぽく、しかしどこか艶を帯びた目で微笑んだ。 「そう? 僕には、これが今の君そのものに見えるよ。僕の目を誤魔化そうとしても、身体は嘘をつけないからね」 その言葉は、まるで真由の心臓に直接触れるかのように響いた。ちょうどそこへ、トレイを持った星川が「お待たせしました」と戻ってきた。アトリエを支配していた濃密な空気が、一瞬で霧散する。 真由は逃げるように北嶋から一歩遠ざかりながら、もう一度だけキャンバスに目をやった。そこに描かれた自分の姿から、もう目が離せなくなっていた。 「お待たせしました。今日は少し、香りの強いアールグレイにしてみたんですが……お口に合いますかね」星川がトレイをローテーブルに置きながら、穏やかに微笑んだ。アトリエの片隅にある小さな応接スペース。真由はガウンを深く合わせたまま、勧められたソファに腰を下ろした。少し遅れて、北嶋もイーゼルから離れて真由の対面に座る。星川は二人に手際よくカップを配ると、自分は一歩引いた位置の丸椅子に腰掛けた。 「ありがとうございます、星川さん」 真由がカップを受け取り、温かい湯気に顔を近づけると、張り詰めていた呼吸がようやく少しだけ整うのを感じた。 「星川さん、あなたの淹れるお茶はいつもタイミングが良すぎるよ」北嶋がふっと緊張感を解いた笑みを浮かべ、カップに口を付ける。その表情は、先ほどまでキャンバスに向き合っていた「容赦のない画家」のものとはまるで違い、いつもの人当たりの良い青年そのものだった。 「先生が熱中しすぎると、モデルさんが倒れてしまいますからね。……それにしても」 星川はそう言って、少しだけ視線をイーゼルの上のキャンバスへと向けた。30代半ばの落ち着いた瞳が、一瞬だけ鋭く細められる。 「午後の一枚目から、ずいぶんと……熱が入っていますね。午前中の穏やかな空気とは、ガラリと変わった。真由さんのあの立ち姿、素晴らしい緊迫感です」星川の言葉に、真由は思わずカップを持つ手を震わせそうになった。 「あ、あの……ポージングは、北嶋先生がおまかせとおっしゃってくださったので、私、勝手にあんな……」 「いや、それが大正解だったんですよ、真由さん」 星川は真由の言葉を遮るように、しかしどこか含みのある笑みを浮かべて北嶋を見た。 「先生はいつも『モデルの自意識が邪魔だ』なんて生意気なことを言うくせに、今日の真由さんの自発的なポーズには、完全にノせられてしまったようだ。ねぇ、先生?」 「星川さん、人聞きが悪いなあ」 北嶋は苦笑しながら、カップをソーサーに戻した。 「僕はただ、彼女の身体が放つ『シャープなライン』に素直に反応しただけだよ。あの瞬間の彼女は、僕の想像以上のものを見せてくれた」 北嶋の視線が、再びまっすぐに真由へと注がれる。 「普段の君は、きっともっと自分を隠すのが上手なんだろうね。でも、あのポーズをとった時、一瞬だけ……何て言えばいいのかな。すごく純粋なものが剥き出しになった気がしたんだ。だから、描かざるを得なかった」 (純粋なもの……) 真由は、それが自分の内に湧き出た「羞恥心」や「北嶋を意識する歪な自意識」であると知っている。それを彼は「純粋」と呼び、芸術として切り取ろうとしているのだ。二人のやり取りを、星川は静かに見守っていた。 「なるほど……。先生をここまで刺激するモデルさんは、久しぶりかもしれません。真由さん、先生の絵の具の匂いに当てられて、疲れてはいませんか? 先生は一度火がつくと、相手のエネルギーを限界まで吸い上げようとするところがありますから」 星川の言葉は一見、真由を気遣う助手のものだった。けれど、その声の底には、北嶋という「若い天才」への絶対的な陶酔と、同時に、二人の間に生まれつつある濃密な空気を冷静に見定めようとする、どこか冷ややかな観察眼が混ざっているように見えた。 「大丈夫です……。少し驚いただけで、ちゃんと、最後まで努めさせていただきます」 真由は自分に言い聞かせるように、しっかりと答えた。 「それは心強い。……じゃあ星川さん、悪いんだけど、さっきの続きの準備を始めてもらえるかな。光が変わる前に、もう一気に進めたいんだ」北嶋が立ち上がりながら、助手へと指示を出す。「かしこまりました、先生」星川は立ち上がり、真由に一礼すると、再びあの掴みどころのない笑みを浮かべた。 「真由さん、次のセッションも、先生に負けない素晴らしい『嘘のない姿』を期待していますね」 その言葉が、これからのセッションでさらに自分を裸にされていく予感のように、真由の背中を小さく駆け抜けた。

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