第一回:ヴィネグレットの魔法
「ごちそうさまでした。……あぁ、まだ魔法が解けないみたい」
その一言に、俺の手は止まった。
都内の一等地に構えた、カウンター八席とテーブル二つの小さなフレンチレストラン『L'Éclat(レクラ)』。オーナーシェフの俺、長谷川 誠(はせがわ まこと)は、四十二歳。独身。
世間からは「イケオジ」なんて便利な言葉で呼ばれることもある。白髪が少し混じった髪を短く整え、糊のきいたコックコートに身を包めば、それなりの「画」にはなるらしい。
これまで多くの女性と食事をし、恋もしてきた。去る者は追わず、来る者は吟味する。そんな余裕が、独身のプロとしての矜持だった。
だが、今夜、カウンターの端に座った彼女―高瀬 結衣(たかせ ゆい)は、俺のその薄っぺらな自信を、一瞬でスープの中に溶かしてしまった。
「魔法、ですか。最高の褒め言葉です」
努めて冷静に、いつもの「聞き上手なシェフ」のトーンで返す。だが、心臓が妙にうるさい。
彼女は三十二歳だと言った。落ち着いたベージュのブラウスに、無造作にまとめられた黒髪。派手な装飾はないが、彼女が微笑むと、店内のライティングが一段明るくなったような錯覚に陥る。
「私、料理で泣きそうになったのは初めてです。このサラダのドレッシング……少しだけ、苦味がありましたよね?」
「ええ、セロリの葉と、ほんの少しのグレープフルーツを。春の気配を混ぜたくて」
「……春の気配。素敵ですね」
結衣はふふっと笑い、ワイングラスに残った最後の一口を飲み干した。その所作の一つひとつが、スローモーションのように目に焼き付く。
これまで出会ってきた女性たちは、もっと直球だった。「美味しい」の代わりに「今夜空いてる?」と視線で訴えてくるか、あるいは俺の肩書きを味わいに来るかのどちらか。
でも、彼女は違う。俺が料理に込めた、誰にも気づかれないような微かな「遊び心」を、正確に、そして愛おしそうに掬い上げてくれる。
「あの、長谷川さん。また……来てもいいですか? 一人でも」
その言葉を聞いた瞬間、俺は自分でも驚くほど動揺した。
「もちろん」とスマートに答えればいいだけなのに、喉が急に熱くなって、言葉が詰まる。
「え、あ、はい。……というか、ぜひ。いや、絶対に来てください。あ、いや、お暇な時でいいんですけど!」
……なんだ、今の。
自分の声が、中学生の放課後のような情けない裏返り方をした。
結衣は一瞬驚いたように目を見開き、それから今日一番の、屈託のない笑顔を見せた。
「ふふ、ありがとうございます。予約、また入れますね」
彼女が店を出て行った後、俺はしばらくの間、洗い物もせずにその場に立ち尽くしていた。
ステンレスのシンクに映る自分の顔は、耳まで赤くなっている。
四十二歳。
恋の駆け引きも、別れの切り出し方も、一通りの正解を知っているつもりだった。
なのに、彼女が残していった空気の中で、俺は自分がただの「料理好きの男の子」に戻されてしまったような、気恥ずかしくも誇らしい、不思議な高揚感に包まれていた。
「……あー、格好悪いな」
独り言をこぼしながらも、俺の指先は、次の彼女の予約のために最高級の食材をリストアップし始めていた。