23
9 件の小説第9回N1決勝 濁り
時は一八四四年、長崎の港で私は生まれた。家は陶磁器を扱う商家であった。当時を思うと、多少裕福な子供だったと思う。私は学ぶことが好きだった。よく家業を手伝う片手間に父の隣で唐本を読んだ。金の都合で学ぶことを制限されることもなく、気づけばそこら一帯の中で一等賢い子供と評された。 私が九つになった頃、相模国の浦賀沖という場所に大きな外国船が来航したと噂が広がった。ただ、私の生まれたこの場所は前から阿蘭陀などといった外国との貿易地点であったから、他地域のような張り詰めた緊張感はなかった。 春の終わりを感じる頃、父は私に言った。 「吉之助、そろそろお前も接客をやってみるか。」 「!」 「お前はずっと外に出たがっていただろう。歳を理由にお前を家の中にしまい込んでおくのは忍びない。」 夢に見た事だった。海を渡ってきた大人達と、店の外で商売をする父や兄に一体何度憧れたことだろう。海の向こうを知りたいと、何度望んだ事だろうか。その日から私は父に付いて、外国の人間と関わるようになっていった。 それが私の人生を揺るがす第一歩だとは思ってもみなかった。 一年程経ったある夏の夕暮れ時、私は一人の大男と出会った。異質な男であった。白い肌、薄黄色の髪、中でもその青緑色の目は当時の私に大きな衝撃を与えた。一瞬、妖ではないかとも疑った。 男は異国の言葉を使った。阿蘭陀の言葉じゃない。男の隣にいた日本人はその言葉を私に日本の言葉で伝えた。 「お前、名前は。」 「…吉之助。…彼は?」 「エドワード・グレイ、イギリスの水兵だ。」 私は異国の男を見上げた。ニコリと微笑む彼に私は心を奪われた。 私はその日から彼を『エド』と呼び、暇が出来れば彼の後をついて回った。彼は面白い人間だった。言葉は分からずとも、その仕草や持ち物は子供である私を魅了するに十分であった。 そして彼は時折私に謎をかけてくるようになった。知恵比べとでも言うのだろうか。通詞の男、達之助を通じて出されるその問いは日を追うごとに難しいものへと変化していくのであった。 私はこの時間が好きであった。ここらのどんな大人と話しても、どんな友と遊んでも、あんなに楽しい時間はなかった。 彼はいつも私の答える言葉に耳を傾け、そして微笑みながら言う。 「good」 私は彼のその表情が、その声が、何より嬉しかった。私が異国の言葉に興味を持ち始めたのは彼の声がきっかけだろう。 エドは私以外の子供にはあまり興味がないようだった。私はそれが選ばれた人間になった気がして嬉しかった。 私がエドの言葉を覚え始めた頃の出来事だ。大したことじゃない。彼の隣で私は転んだ。盛大に転んだ。彼は私の手を取り服に着いた砂を払った。 「Are you ok?」 「うん、ありがとう。」 彼はしゃがんで私の顔を覗き込んだ。そしてまた、ニコリと笑った。 「you…good s…ve」 聞き慣れない、否、聞いたことのない言葉を彼は発した。その目は私を射通した。私の中の何かを見つめるような、そんな目だった。 「玄じい、いるー?」 玄じいとは近所の爺さんのことだ。名を高島玄庵と言う。幼い私に本を与えた蘭学者であり、私が異国語を学ぶ際に達之助の次に通った人だ。 「今度はなんだ、吉之助。」 「エドが言ってたことがわかんなくて。『ゆーぐっとせーふ』…みたいな。あんまり知らない音だったんだけど。」 「いつの話だ。」 「さっきだよ、エドの隣で転んだんだ。立ち上がった後に言われた。」 「ふむ…お前、泣いたか?」 「泣かないよ、もう十つだよ。そんな子供じゃない。」 何を言うんだこの爺さんは。 「そうか。それじゃあエドはお前のことを子供だと思ったんだな。お前は顔が幼いから七つくらいに見えていたのだろう。」 「どういうこと?」 「きっとエドはお前を褒めたんだ。いい子だ、助けてやるってな。『せーふ』は助けるという意味だ、覚えておけ。」 エドには私が子供に見えていた。少し腹立たしい気もするが、褒められた事についてはなんとも良い気分であった。 明日本当の齢を教えてやろう、落ちる紅葉を見つめながら思った。夕暮れが美しい帰路だった。 その日は朝から憂鬱だった。エドが国へ帰る日だ。 引き摺る足は凍てつくように冷たい。私は前日に大怪我をした。家の箪笥が倒れ、足が下敷きになったのだ。医者には治ると言われたものの、折れた足で港まで行くのは苦痛であった。それでも私はエドを見送りたかった。最後に会いたかった。 暖かそうな服に身を包んだエドは私の姿を捉えると目を見開いた。 「Why?」 「昨日怪我したんだ。お医者さんは後に響くかもしれないって。」 彼は私の足をじっと見た。そして分かりやすく顔を顰めた。 「大丈夫だよ、そんなに痛くない。」 彼は俯き、考え込むような顔をした。 『Edward!』 他の水兵に呼ばれた彼はハッとして、そして私の目の前で屈んだ。 「サヨナラ、キチスケ。」 「うん、またね。」 最後まで私の名前を間違えたまま、彼は背を向けた。彼が振り返ることはなかった。 彼を乗せた大船は約四ヶ月ぶりにこの長崎の港を出た。 十四年の歳月を超え、私は二十四の男になった。家を継ぐこともなく学び続け、いつしか異国の男達と会話できるまでになった。 最近設立された学校の教師として英語を教えるようになり、そのうちに町の娘と縁を結んだ。子供が生まれ、満たされた気持ちでそれなりに幸せな人生を歩んでいた。 ある日のこと、顔見知りの水兵達から噂を聞いた。人身売買の話だ。昔から貧しい子供たちが海の向こうへ売られているのは知っていた。ずっと前から行われていた悪行だ、と。 最近ここらでもそれを生業にしていた一味が摘発されたらしい。水兵達の間ではその話で持ちきりだという。 「不謹慎だが、人身売買ってそもそも何のためなんだ?」 『あぁ、そうだな。あまり詳しくはないが、一番は労働力だろうな。まあ、いわゆる奴隷ってやつだよ。』 彼は奴隷を『slave』と言った。 『人身売買といえば、あいつ以来だな。』 「あいつ?」 『知らないのかキチ、イギリスのエドワード・グレイだよ。数年前に事件になっただろ。』 「エド…?」 エドワード・グレイ、数少ないイギリスの男達の中で同名の人間がいるとは考え難い。あのエドが、彼がまさか…。 異国語を学んだ今、記憶を辿ると分かる。 私が転んだあの時、エドはきっとこう言った。 「You will be a good save. 」 ずっと違和感はあった。玄じいの言ったように「いい子だ、助けてやるよ」を意味するには文章の意味が通りにくい。はっきり言って、おかしな文なのだ。何かが違う。 あれは、『save』じゃなかった。 もっと…濁った音だ。 今、理解した。あれは、あの言葉は『slave』、奴隷だ。 幼い私は音を上手く聞き取れなかった。 スレイヴがセーブに聞こえ、玄じいの前ではセーフに変化した。 ずっと勘違いだった。 あの言葉に、救いなど無かった。最初から濁っていたのだから。 彼が私に謎をかけたのは何のためか。 最後の日、私の足を見て歪めた顔に含んだ意味は− 私は助けられたんじゃない、脚のせいで選ばれなかっただけだ。 全てを理解したあの日から、港に立つ度に思う。あの時、もしも私が脚を壊していなければ…私はきっとこの国には居ない。この世にすら居なかったかもしれない、と。 時は過ぎ、私の子も大きくなった。異国語に興味を示し始めたその子を見て、「親子って凄いのね」そう妻は笑った。 ある晩、息子が言った。 「父ちゃん、今日玄じいのとこで遊んだんだ。異国語を学びたいって言ったら父ちゃんに教えて貰えって。」 「玄さんに?そうか、お前も。いいだろう。」 「やったあ。俺、今日言葉をひとつ教えてもらったよ。」 息子は拙い発音で「ぐっど」と言った。「good」。私は一瞬言葉に詰まり、それから笑って頷いた。 「あぁ、goodだ。」 その意味を、今度は違えぬようにと思いながら。
第9回N1 椿は散らず
ある女の話をしようか。 ある青年に恋をした、哀れな女の話。 彼女は吉原の遊女であった。六つで檻に入れられ、寒椿という名を与えられた一人の少女− これはそんな彼女の短い生涯の話。 【寒椿】 「寒椿太夫、鶴屋様がお見えです。」 「そう、こちらへお通しなんし。」 鶴屋新吉、最近よく来る客の一人。呉服屋の一人息子で世間知らず、金使いが荒く、店としては上客⋯そこまで思い出して思考を止めた。 錦屋の太夫となって一年、相手にする客の位も、格段に上がった。客の名を忘れるなど、決してあってはならぬこと。 共に売られてきた二人の姉は一人は病で、一人は狂った客に刺されて死んだ。 姉は外を夢見ていた。 家に帰ることを心から望んでいた。 そんな彼女らはこの檻から出ることなく、息絶えた。最後に誰かと文を交わしたのはもう三年も前になる。この世に家族はもう居ない。九年前、ただの奉公だと偽り私を金の種にしたあの女を、私は母だと思いはしない。 「そん時、俺言ってやったんだよ。おい、聞いてる か?椿さんよ。」 「ええ、よう聞いておりんす。それで、なんと?」 「そんな事があるかってな、怒鳴ってやったんだよ⋯」 ⋯あぁ、馬鹿馬鹿しい。この方にそんな大口が叩けるものか。女に世の理など分かるまいとでも思っているのか。 何度目か分からない呆れを頭から追い払い、ただ耐える。ずっとそうしてきた。言葉はもはや反射だ。考えずとも相手の望む言葉がすらすらと口をつく。器用な口だ。嘘つきの口だ。 目を覚ますと日が高い。 「姐さん、もうお起きに?」 「おはよう小春。顔を洗うゆえ、水を持ってきておくれなんし。」 小春は私の禿だ。幼くしてここへ来たのに明るく、素直で、可愛らしい顔立ちをしている。太夫になれる見込みがある子だ。彼女の才を見抜き、育てるのが私の仕事。私があの子を遊女に育てる。この檻で生きる方法を教える。それが、私の務め。 一通りの準備を終え、舞の練習をしていると小春がしずしずと近づいてきた。 「姐さん、今宵は加賀屋の若旦那様のお披露目にて、お座敷が入っております。」 「本日はその宴の華としてお出ましをとのことにございます。」 「ええ、構わぬよ。かたじけないね。」 加賀屋。金融を生業としている老舗だ。若旦那は加賀屋恒一郎様。噂には聞いたことがある。 「姐さん、本日はどのお召し物に?」 「そうさね、一等のものを持っておいでなんし。今日はいつにも増して美しくしないとね。」 女を華に、ありふれた話だ。若旦那様のお披露目には、こうして遊女が呼ばれることがある。そうして家の財力や華やかさを示すのだ。 夕暮れ時、支度は着々と整っていく。鏡に映る自身の顔には何も浮かんではいない。こんなことにはもう慣れている。禿の時から同行していたのだ。今さら、緊張などしない。 ただ耐えるのみ。 時が過ぎるのを待つのみ。 九年前、姉と共に三人でこの街へやって来た。故郷でも美人だと評判だった姉妹だ。買い手はすぐについた。一番に売れたのは私だった。私は末子だったが、顔だけは一等良かった。この街に来るには幼すぎる年齢も、芸を仕込むには利点となる。私は錦屋という鳥籠で育った根っからの遊女だ。今はもう、普通の十五の娘の幸せを望むこともない。諦めはついていた。 加賀屋の屋敷はとてつもなく大きく、荘厳な気配が漂っていた。共に来た幾人かの娘達は初めての光景に、あるものは怯え、あるものは目を輝かせていた。 「お前たち、行くよ。」 店がよりすぐった容姿の良い娘たちを率いて私は屋敷の門をくぐった。 宴の席で一番の華は動くことは少ない。唄を歌い、舞い、客に酒を注ぐのは共に来た位の低い遊女達だ。私は若旦那様の隣で、彼に挨拶に来る客に笑顔を振りまくのが仕事だ。そして時折、彼と話をする。 「加賀屋様、お酌致しんしょうか。」 「必要ない。」 「まあ、つれないこと。」 こんなことにも慣れている。大人の男に連れられ錦屋へ来る若い客も少なくない。そんな客は大抵恥ずかしさからか、冷たい態度を取るのだ。いや、取ろうとするのだ。少しずつ距離を縮め、親しくなればほとんどがヘラヘラとしだす。鶴屋新吉がそのいい例だ。彼も初めは硬い顔で私を見ていた。 だからこの男もそのうち私に落ちるだろう、そう思っていた。そう、思っていたのだ。 【加賀屋恒一郎】 加賀屋。先々代のその前から続く、ここらでも随一の老舗だ。そんな店の跡取りとして一人生まれた私には、自由と呼べるものなど何一つなかった。いつも二人の監視が付き、少年らしい遊びなどしたことが無い。周りの大人は幼い頃から私を最上級の敬称をつけて呼び、齢八つの子供に頭を下げた。大勢の人間が自分にへりくだる様を見て私は育ってきた。責任と誇りと期待だけを固め、そうして出来上がったような私という人間も、十八度目の年を越した。 「恒一郎、私がお前を呼び出した理由は分かるな。」 「はい。十八になればこの店を継ぐ、という約束。存じております、父上。」 「うむ。明後日の夜、この家で宴を開く。加賀屋の四代目の主のお披露目会という訳だ。」 「承知しました。」 宴−− 私が嫌うものの一つだ。何も得るものなどなく、私に擦り寄る醜い人間を眺めるだけの催し。 「恒一郎様、千代様から文が届いております。ご確認を。」 「わかった。」 千代は私の許嫁だ。幼い時から決まっていた。明後日の宴が終わればすぐに祝言の支度が進められてゆくのだろう。 名家の子供には恋愛など許されない。同年代の女と結ばれるだけまだいい方だろう。噂では三十近い男のもとへ九つで嫁いだ娘も居るという。 千代のことは嫌ってはいない。ただ、好いてはいない。それは相手も同じだろう。親の指示で、家のために縁を結わえるだけだ。 私のための宴はたいそう豪華なものだった。世間に名の知れた資産家の旦那や、引っ張りだこの歌舞伎役者、噂によく聞く浮世絵師など、なんともまあ名家の宴に相応しい顔ぶれだ。遊郭でも指折りの店の最高位、寒椿太夫も招いているらしい。 「寒椿太夫、お見えになりました!」 会場がざわめく。 禿を先頭として、数人の遊女を後ろに連ねた寒椿にはやはり格があった。 「おそうなりました。」 一言で会場を支配する。すました顔をした彼女と目が合う。 「お待ちしておりました、寒椿太夫。」 一応の礼儀として挨拶を交わす。私には許嫁がいる。今後一切、遊郭になど近づかないだろう。愛想良くする必要も無い。 太夫が席につき、宴の賑やかさが戻る。 太夫に連れられた遊女達は優雅に舞い、客を盛り上げた。 所詮、身を売る女どもだ。私とは何もかもが違う。家柄も、地位も、同じ土俵にすら、立っていない者達だ。そう、思っていた−のに。 一人の女から目が離せなかった。淡い紅色の衣を身に纏い、座敷の隅で静かに舞う彼女は私にこれまでにない刺激を与えた。 「恒一郎様、本日はおめでとうございます。」 横にいた寒椿が声を掛けてきた。 「ああ、ありがとう。」 「今宵は良い席にございますね。」 「そうだな。」 適当な返事をしながら私は紅色の衣の娘を見つめていた。 「あの子でございますか?」 「⋯ああ。あの娘、名はなんという。」 「日和にございます。私の元で禿をしていた子の一人です。」 「日和⋯そうか。」 あの娘と話してみたい。これは私の初めての、異性に対する興味であった。 【寒椿】 若旦那様は日和が気になるご様子だった。分かりやすい人。これから日和目当てで錦屋を贔屓にしてくれるかもしれない。そんな浅ましい考えが脳裏をよぎった。 宴から数日、加賀屋様が錦屋へおいでになった。私を指名したらしい。家柄の為、まだ花魁でもない日和を呼ぶのは禁じられたのだろう。 「小春、今宵の席に日和を呼んでくれるかい。」 「日和姐さんですか?分かりました。」 気を利かせて日和を呼んで正解だった。加賀屋様は日和の琴をじっと聴いたあと、静かに褒めた。日和も上手く話に花を咲かせ、嬉しそうであった。元々愛嬌のある子だ、加賀屋様の表情も宴の晩よりずっと柔らかいものであった。 数回、こんなことが続いた。加賀屋様は完全に日和を気に入ったようだった。日和と加賀屋様は身分こそ違えど、傍から見ても実に幸せそうであった。それを見て、醜い感情を抱く私がいた。 私は遊女として越えてはならぬ境を越えていた。加賀屋恒一郎、私は彼に恋をしていた。 「姐さん、あの⋯加賀屋様のこと、もしかして、」 話があると言われ、真剣な顔つきで切り出した小春に私は驚かされた。 「⋯ふふ、小春に隠し事はできんねぇ。」 「姐さん⋯」 「案じなさんな、心得とるよ。仕事には支障を出さないから、安心し。」 「⋯はい。」 小春も幼いとはいえ十二の乙女だ。色恋には敏感な年頃である。それでいてここは遊郭だ。遊女の恋は禁忌、賢い小春には分かっているだろう。私ももう九年ここに居る。浅はかな真似はしない。今まで通り、居るだけだ。 「加賀屋様、今宵日和はお座敷があり、来られないのです。わざわざお越いただいたのに申し訳ございません。」 「⋯そうか。」 残念そうな顔、名家の十八の男がそんな顔をしていいの。 ふと、悪いことが頭をよぎった。 これまで、太夫としての務めを違えたことはない。なのに、 「加賀屋様、わっちを身請けしてはくださんせ。」 「⋯は?」 「私は錦屋の太夫です。私を身請けすれば加賀屋様の名もさらに広まるかと。」 小春が苦しそうな目でこちらを見ている。こんなこと、言ってはならない。その目はそう言っていた。それでも口は止まらなかった。 「わっちの終いを美しゅうしてはくださんせ。」 「黙れ。」 「私が日和を好いていると知っていて尚、そのような事を抜かすか。」 「⋯申し訳ございません。」 小春が私の名を呼んだ。 「寒椿太夫、今日はもう⋯」 「お前は散りはしない。椿は落ちる花だ。お前に美しい最後など待ってない。」 時が止まったようだった。 「なんと酷い⋯!」 小春が声を荒らげた。言葉を続ける前にそれを制する。 「加賀屋様、誠に申し訳ございませんでした。」 深々と頭を下げる。これしか今は出来ない。彼が部屋を出ても、しばらく動けなかった。 「姐さん⋯」 「小春、あのようなことをお客にしてはいけないよ。余計なことは言わぬもの。それがここの掟よ。私が言えたことではないけれどね。」 「だけど⋯だけど姐さん、あの人椿は落ちるなんて。姐さんはそんなじゃないのに。」 小春はその時初めて泣いた。私を思って泣いたのだ。店を壊すところであった私なんかを思って。 その夜、私は彼の言葉を思い出し、胸に刻んだ。私は遊女、恋など叶わぬ。椿は落ちる。散る前に美しいまま落ちるのだ。私もそう在らなければ。 【小春】 幸い、姐さんの加賀屋様への無礼は広まらなかったようだ。引き換えに彼は店に来なくなった。あの日から一年、今日は日和姐さんがここを発つ日だ。 姐さんは加賀屋へ身請けされた。加賀屋様の許嫁は祝言前に突然結核に侵され、縁談は破談となったらしい。なんともまあ、よくできた話だ。 着飾った姐さんは言いようのないほど美しかった。恋を知り、愛された娘ほど眩しいものはない。そう思い知らされた。加賀屋様と歩む彼女を、私は笑顔で見送った。 「寒椿姐さん、日和姐さんはきっと幸せになりんす。」 かつて私を育ててくれていた女性は半年ほど前に遠くの大名へと身請けされていった。去り際の虚しさの滲むあの笑顔を、私は忘れないだろう。そんな彼女はもうこの世に居ないかもしれない。 椿は冬を越えられない。そう知っていて貴方は私を『小春』と名付けたのですね。 最近、ある地方で身請けされた元遊女の女が火事に巻き込まれて死んだという噂を聞いた。きっと寒椿太夫ではなかろうか。あの誇り高い、美しい女は若く美しいまま息絶えた。 かつてこの街で大輪となった女は華麗に、優雅に−−−落ちた。
日の丸
一万年前、ここは自然の鼓動が響く地であった。 人と自然の境は薄く、人も含めて"自然"であった。 人は獣を狩り、天に祈り、森と共に生きていた。 二千年前、ここは争いの始まった地であった。 人は集まり、稲を育て、やがて村ができた。 土地や食べ物を求めて諍いが起こり、 それを指導する者が現れた。 ここに身分の差が生まれ始めた。 千六百年前。支配者となる王が現れた。 身分の高低は明らかとなり、王は支配する力を手に入れた。 身分の高いものは競うように、 自身の権力を誇示するように、大きな墓を造らせた。 千三百年前、ここは仏の地であった。 人々を救うための教えが生まれ、人はそれに身を委ねた。 仏を形にし、祈りはより身近となった。 千年前、ここは花の都であった。 身分の高いものは大きな屋敷に住み、美と教養を求めた。 花の降る地で人は雅を唄い、音を紡いだ。 八百年前、ここは矢と刀の交差する地であった。 武力をつけた者が地を治め、いつしか国となった。 争いはより過酷となり、家に帰らぬ者が多くなった。 人は海の向こうを見つめ、世界を知り始めた。 五百年前。この地は赤く染まった。 逆らう者が増え、大きな争いが相次いだ。 ある者は統一を望み、ある者は拒んだ。 ある者は意志を継ぎ、ある者は主君を獲った。 従い、裏切り、先を読む。疑うことが当たり前となった。 三百年前、ここは閉ざされた地であった。 人が増え、町が栄えた。 世界を拒み、閉じ篭ったこの地で人は変わらぬ平和を謳歌した。 百五十年前、ここは回り続ける地であった。 厚い殻を破いて知った世界はあまりに大きかった。 町は街になり、法の下で人は暮らした。 人は物を増やし、生活を変え、世界を追いかけた。 百十年前。人は国を変えることを覚えた。 人は自由を求め、集まった。 世界を受け入れ、新たな文化が街を染めた。 都市が発達し、人は街を彩り始めた。 八十年前、ここは戦場であった。 世界と戦い、人はこの世を去った。 子供は戦士に育てられ、学ぶことはできなくなった。 青年は青い空へ散って行った。 少女は着飾ることもなく、兵器を作り続けた。 大人は真実を知っていた。それでも黙ることを選んだ。 後戻りはできず、世界の傷が二つ増えた。 五十年前、ここはやり直す地であった。 銃を捨てたその手で人は、未来を描き始めた。 ビルを建て、線路を通した。 世界を招いて体で競った。 経済は目まぐるしく回り、社会は休むことなく光り続けた。 三十年前、ここは耐え抜く地であった。 経済は崩壊し、天災が降り注いだ。 人は逃げ、耐え、立ち上がり、直し続けた。 描いた未来を諦めなかった。 六年前、人は怯えていた。 未知のウイルスは大勢の人を亡くした。 人は篭もり、社会は止まり、明日は見えなくなった。 それでも世界を止めなかった。 薬を作り、人を守った。 人知れず戦う者が大勢いた。 立ち止まり続けることはなかった。 時は流れた今、ここはどうだろうか。 人は俯き、小さな箱をしきりに覗き込んでいる。 その小さなせかいで全てを知った気になる。 人を傷つけ、いずれ取り返しがつかなくなってしまう。 人とはそんなつまらないものではない。 顔を上げれば分かるだろう。 この国には道路を造る者がいる。 電車を走らせる者がいる。 国さえ動かす者もいる。 それら全ては人なのだ。 目に映ったその全ては人が重ね続けた時間そのものだ。 長い長い時間を重ねて、人が人を思い、作り上げたのがこの日の丸なのだ。 君はどうだろうか。 つまらない人になっていないか。 自分のことには目を向けず、人ばかり見て足踏みすら止めた、 そんな人になってはいないだろうか。 そんな、色の抜け落ちたような人になってはいないか。 君の道は、誰も代わりに色をつけてはくれないのだ。 人の歩いた、踏み固められたその道を、君も征くのか。 人と同じ色になることを否定しているんじゃない。 君の手で、君が選んだ、君の色をつけて欲しいんだ。 誰かが決めた道を歩まなければならない時もあるだろう。 だがそれは永遠じゃない。 選べるようになったその後で、君が求めるものをとことん探せばいい。 そうやって人が探し求めて見つけた色が、社会を多様に彩っている。 だから君も、その色を見つけて。 そして好きなやり方で"ここ"に色をつけるといい。 そんな風にしてこの世界は輝いているのだから。 いつか君の色を見つけて、世界に色を加えてみて。 きっと綺麗だよ。
後悔
取り返しのつかない後悔は多い。 もう二度と、やり直せない。 時間は戻らない。 それを知っていても尚、まだ悔いてしまう。 人はよく、 「大事なのはこれからだから。」 「後悔しないように生きていけばいい。」 そう話す。 多分、間違ってはいない。 だけど私は、自分が不器用なことを知っているから。 これからも沢山間違えるし、道を外す。 そうなった時、私はまた必ず自分を呪う。 だけど、それらの後悔も全て含めて私のものだと大事に出来たら いいと思うんだ。 「後悔しない。」じゃなくて、「後悔まで刻む。」 だって、そっちの方がきっと楽しい。 間違えて、後悔して、その時は自分を嫌っても。 全部を大事にして抱えて歩けたら、私はそんな私を好きになれる。 だから是非、あなたも。
中間子
真ん中の子供は影が薄い。 先駆けることもなければ、優しく手を引かれることもない。 「正直、俺が居なくても家族は上手く回ると思う。」 そう話す誰かの返信にはたくさんの励ましがあった。 「そんなことない。貴方がいなかったら家族は悲しむ。」 だいたいそんな内容の。 でもそれは、彼がその家族の一員として、もう既にこの世に存在しているからであって、元から誰も居なかったとしたらそれは− そう思った。 だって…だってね、私たちはめったに、『一番になれない』。 誰からも『見てもらえない』。『聞いてもらえない』。 ……『特別』になれない。 『初めて』の入学式でなければ、『最後の』卒業式でもない。 『初めて』も、『最後』も、全部、私のじゃない。 だから、大事にされない。 私にとっては全部、『初めて』で、『最後』なのに。 「私を見て。言葉を聞いて。」そう、言えたらいいのに。 言えないよ。だって私だけの親じゃない。 姉は忙しくて親の手伝いがないと部活に行けない。 弟は幼くて目が離せない。 ねえ、私は? 私はいつあなたの時間を独り占め出来ますか。 嫌いじゃないよ、弟も。 だけどね、やっぱりずるいんだ。羨ましいんだ。 だって私、ずっと我慢してるんだよ。 もっと甘えたい。もっと話したい。もっとお出かけしたい。 でも全部、黙ってるの。迷惑かけないように。 だけど、もう疲れちゃった。苦しくなっちゃった。 同じように愛して貰ってるのは分かってる。 けどお願い、『私だけ』をちょうだい。 ひとつでいい。一言でいい。一回でいい。 『特別』を私にもちょうだい。 それだけで、もっとお姉ちゃんも妹も、頑張れるから。 【ここまで読んでくれた人達へ】 あなたの周りに中間子の子供はいますか。 もしかしたらあなた自身がそうなのかもしれませんね。 または三人の子供を持つ親御さんかもしれません。 中間子、彼らに限った話ではありませんが、子供は何も考えて無さそうに見えて、意外と色々なことを考えているものです。 たとえそれが未熟なものであっても、彼らは一生懸命なのですから、笑ってはいけません。 中間子なら誰しも、「私は要らない」と思ったことがあるのではないでしょうか。 きょうだいに対する嫉妬と、そんな感情を抱く自分に対する嫌悪もきっとあります。 しかし、彼らは誰より家族を愛している。 見返りを求めず、そっと、でも大きな愛でみんなを包んでいる。 誰かの機嫌が悪いとき、空気を読まずおどけているように見えるのは彼らなりの気遣いです。 まだまだ上手ではないけれど、一生懸命空気を和ませようとしているんです。 彼らは家族の“平和”を願い、それを保つ役割を果たし続けます。 彼らは期待や注目を浴びることは少ないけれど、それでも彼らは輝く。その方法を産まれて今に至るまでずっと学んでいる。 「大事だ」と直接言われることはなくとも、彼らには分かっている。通じています。 だけど、時々それだけじゃ足りない時があります。 どうにも寂しくて、柄にもなく甘えたい時がある。 だから、気づいて欲しい。 「いつもありがとう」たったそれだけの言葉が彼らを救います。 無理に時間を作ってくれなくていい。家族の疲れた顔ほど、彼らが嫌うものは無いですから。 「あなたも大切だ」じゃなくて、「あなたが大切だ」と。 ひとつだけでいいから彼らに『特別』を作ってください。 中間子を持つ親御さん方、どうか彼ら彼女らに目を向けてあげてください。彼らはいつも、頑張っている。 長子より無責任で、わがままかもしれない。末っ子より生意気で、悪知恵が働くかもしれない。 だけど彼らはあなたが大好きです。大好きな人に見えもらえて、褒めてもらうことより嬉しいことがあるでしょうか。 時折「頑張りを見てるよ」そう、伝えてください。 それから、彼らの前ではできるだけ笑顔でいてあげてください。彼らは家族の笑顔が大好きです。 きっと喜びます。 中間子として産まれたあなた、ここまで沢山頑張ってきましたね。これからも気苦労は耐えないでしょう。 あなたの、誰にも褒められない静かな強さが今の家族を支えています。 あなたはかけがえのない、大事な子です。 ありがとう。
帰
学校からの帰り道、駅を出て駐輪場へ向かう。 部活のある日は大人達と一緒の電車に揺られることが多い。 信号待ちの人達の後ろ姿を、これまた一緒に信号を待ちながら眺める。 この大人たちのことを私は知らない。 なにも知らない。 ただ、彼らには帰る家があり、守りたいものがある。 それがどこなのか、誰なのか、そもそも人なのか、分からない。 分からなくていい。 分からないからこそ、いいんだ。 憧れるんだ。かっこいいんだ。 この人達が今の日本を支え、回している。 引っ張りはせず、後ろから押しだすひと。 先駆者が見落とした綻びを、静かにそっと治すひと。 それら全てに、見返りを求めない。 いつか私もこうなりたいと 右手に握った自転車の鍵を揺らしながら日々思う。
大人サン
公園でボール遊びを禁止したのも 建物ばっかり建てて空き地を無くしたのも ゲーム機を開発したのも、買い与えたのも 持っていないと恥ずかしいなんて雰囲気を作ったのも 全部全部大人なのに 悪いのは子供なの? 聞いた話だけどね、 最近の子供はゲームばっかりしてるんだって。 最近の子供は外で遊ばないんだって。 ねえ、知ってる? 最近の大人は外で遊ぶ子供を嫌うんだって。 部活の練習に打ち込む子供は迷惑なんだって。 子供の声は、【騒音】なんだって。 じゃあ、何が残されたんだろうね。 全てを禁止されて、否定された子供はどこにいればいいんだろう。 あのね、もしかしたら子供は ゲームしか、遊ぶ方法を知らないのかもしれないよ。 外で遊べないのかもしれない。 そんなはずないって、ほんとにそうかな? だって、時代は変わったんだもん。 昔みたいに、遊ぶ場所が少ない、狭い。 一緒に遊べる仲間が居ない。 「私達が子供の頃はねえ」って、いつの話をしているの? 貴方が子供の時と、今の環境は一緒なの? 貴方が子供だった時、今の貴方みたいに文句ばっかり言う 自分勝手な大人がいたの? 自分だって、沢山許してもらったんじゃないの? それなのに、そんなこと言えるんだね。 本当に面白い。 だって、どっちが子供なのか分かんないんだもん。 ダメだ禁止だと言われて行き場を無くした彼らと うるさい邪魔だと馬鹿みたいに騒ぐ誰かさん。それに群れる馬鹿。 ねえ、貴方はどうなの。どっちなの。 子どもは好き?それとも憎らしい? 答えてよ、大人サン。
謝
悪いと思ってなかったんじゃなくて、 反抗したかった訳でもなくて、 ただ、分かって欲しくて、聞いて欲しくて。 でも、絞り出した言葉も聞き入れて貰えないから どうしようもなく悔しくなって。 だから謝らなかったんだ。
逢
100年生きたって、200年生きたって、 出会えないひとの方が遥かに多い そんな中で 貴方に逢えた ただそれだけの事が 私にとって たまらなく どうしようもなく 嬉しいのです。