かなみや いづき
46 件の小説かなみや いづき
中学3年生です 現在 低浮上 小説家に興味がある人が、どんな物語を描いてるのか知りたいです。 私は、自分の体験談や思いを描きたいと思い始めました。ぜひ読んでくれたら嬉しいです!!
かなみやいづき辞めます。
急にすみません。 約3ヶ月間書くことができていませんでした。 体調面でも優れていなく、受験勉強で必死なのでこれにて、かなみやいづきNoveleeをやめたいと思います。 短い間でしたが、たくさんの方と関われて、たくさんの方から評価をいただき、すごく忘れられない体験になりました。 小説が好きなのは変わらないです。 みなさんも小説が好きだと思います。そんなみなさんの書く短編小説、すごく好きでした。 更新されるたびに楽しく読ませていただいてました。 なので、私は辞めてしまうけれど、みなさんは大好きな小説を書き続けてください。このNoveleeの中から将来本当に小説家が現れることを願ってます!!すごく楽しみです 本当にありがとうございました! さようなら。
出逢う
毎日が出逢いの日と言ってもいいのではないだろうか。 どんな出逢い方でもそれは出逢いである。 その出逢いにはどんな意味が込められているのだろうか。 「これから幸せがあるよ」 「これから不幸があるよ」 大きく分けると、この2つではないか。 どっちの意味でもいい。それは出逢いなのだから。 意味なんて、出逢ったその時に考えるものではない。 「その人といたら楽しそう」 なんて、勘でもいいのだ。 出逢えれば自分のもの。 自分の人生に必要な人となっていくのかもしれないだろう。 だからたくさん出逢おう。 世界中のひとに。
未知
たくさんのものを見た。 たくさんのものを食べた。 たくさんのものを聞いた。 たくさんのものを感じた。 たくさん一瞬を愛してきた。 だから行こう。 自分のこれからの世界へ。 私は飛び込みたい。 −誰も知らない− −私だけの未知の世界に。−
あとどんぐらい
憂鬱な空に私は問いかけた。 「どんぐらい頑張れば幸せが巡ってくるの?」と。 私たちは毎日違う日々を過ごしている。 その中でも全てが幸せな出来事で溢れかえってる訳では無い。 人は「幸せ」と思うものがあるだろう。 それは人それぞれであり全員が同じ瞬間、同じことに「幸せ」だと感じることは少ないだろう。 私はずっと今までダラダラと過ごしてきた。 ある日、私は空を見つめてこう思った。 「どんぐらい頑張れば幸が巡ってくるの?」と。 たくさん頑張ってきて、それでも自分が思う幸せがやってこない。 じゃぁどうすればいいのだと思う。 でも、私は「思い込んでる」だけで本当はもっと頑張れることを「そこで終了」にしてるのではないか。 空を何十秒も見つめながらそう思う。 人は自分の中で「諦め」を創ってしまう。 そんなのばっかでは当たり前に「幸せ」は巡ってこない。 じゃぁ私はもう二度と諦めたりなんかしない。 私は決めたことは全てが成し遂げるまでやりきろう。 だから私にも、 家族にも、 親戚にも、 近所の人にも、 友達にも、 大好きな親友にも、 「幸あれ」。
100人突破!!
100フォロワーさんありがとうございます!!🙇♀️ これからもたくさん私の作品を読んでいいね&感想をコメントしてくれると嬉しいです☺️ そして、4月から私は受験生になります。 ものすごく投稿頻度が下がると思いますが、フォロー解除しないで、このまま投稿されるのを待ってくれてたら嬉しいです😆 投稿頻度が下がるからというわけではないけど、今までよりもいい作品を執筆できたらなと思います🥲 これからもどうぞかなみやいづきのことをよろしくお願いします🥺 追記:フォロワー2人減ってるから100人じゃなくて草
答え
−−−感情がわかる 失敗なんて、したくない。 感情が見えるとかじゃない。 けど、感情がわかるんだ。 この人は私に何かを思っている。 それが例え悪いことを思っていたとしても、「良いこと」に変わることは無い。 それが“わかる側”からしたら辛い。 そんなのみんなそうかもしれない。 でも私の世界にいるのはただ1人で、 この気持ちをちゃんと理解できるのは、 1人だから。 そう、私しかいない。 −−−私の世界には「私」しか居ない。 もちろん、他の人にとっても「自分の世界」にいるのは 「自分」だけなのかもしれない。 それはそれで残酷で、苦痛なことに私は思い知らされている。 私しかいないから私にしかたくさんの 答えを求めれない。 私は答える。 それが間違ってたとしても私は私だから 自分のことを信じるしかない。 だが、これからはずっと1人じゃなければ…… 私の世界に「大切な人」も入れれば自分 以外に答えを求めれる。 そうだ。 私は「大切な人」が欲しいのだ 途中で話が少し変わるときがあると思いますが、これは語り書きで私の思ったことをそのまま言葉にして並べているのでもし違和感はお許しを🙇♀️
Valentine present
私は彼にチョコを渡したかった。 渡したいと願った。それはバレンタインデーのニ週間前のことだ。 SNSも繋がってないし、同じクラスだけどその男の子は全然喋んなくて大人びたような人。そして、私はいつもはっちゃけててうるさくてやんちゃ。真反対な私は彼と仲良くなりたいと思った。もちろん、その「仲良くなりたい」が異性のことを「好き」という感情なのか友達として「仲良くなりたい」なのか。 −−−−自分でもよくわからない。 でも、一つ言えるのはどんな形であれ「仲良くなりたい」と思ってることに、間違いはないことだ。 バレンタイン一週間と四日前。勇気を持って教室でLINEを交換したいと彼に迫った。すると彼は頷いた。これは“いいよ”というサインだ。 その時私はめちゃめちゃ舞い上がった。その夜交換してから、毎日と言っていいほど私は彼にLINEを通じて毎夜話しかけた。彼はおとなしくて意見を言うのが苦手だから、もし私と話してて嫌だと思っても決してそれを言葉にしない。 いや、思ってない方が私的には嬉しいのだが。そして私は、すぐにバレンタインチョコをプレゼントしたいと言った。すると彼は 「バレンタインは自由なんだから全然いいよ」と言ってくれた。 −−−−彼のその言葉に納得できた。 世の中、好きでもない男子に義理として渡すのは、いらないんじゃいかとかいろんな意見が飛び交う。さらに、大抵陽キャ男子は「え、俺のこと好きなの?まじでまじで?」とか自意識過剰なことを言う。そんな世間一般論が私は嫌いだった。だからこそ、その彼の言葉に救われた気がした。 なによりも、渡していいんだという想いに溢れて嬉しかった。 そしてバレンタイン当日の放課後、彼の家に行ってチョコをプレゼントした。彼は美味しそうに食べてくれた。喜んでくれた姿を見て、私は思わず、そっと微笑んだ。私はこの時、彼に恋してるのだと、自分でようやく気づいた。私は、勇気を振り絞って彼に勢いのまま告白をしてしまった。でも私はずっと黙って彼の返事を待つ。 彼の返事は、 「いいよ。俺も好きです。」 −−−断られると思ったのに嬉しすぎて、 黙っていたら自然と涙が出た。 それを見た彼は、私にチョコより 甘いキスをしてきた。
大人の正論
「大人の正論は正しい」と大人は言う。 だけど、本当に“大人の正論”ってやつが正しいのかな。 この世の中が、大人だけで成り立ってるとは思えない。 子供がいるから大人は自分的正論を言える。 子供から学ぶ事だってあると思う。 それを無かったことのように、大人は大人が正しいと思っている。 本当に正論を述べているのか、大人でも怪しいとこはあるんじゃないか。 どうして、子供の言い分は聞かないの。 “大人”だから何言っても許されて、それが正論だと勘違いする 馬鹿な大人がいるのかな。 私はそんな大人になりたくない。 だって大人だけが正しいと思ってたら、子供の言い分を聞かなくなって、子供は滅びてしまうかもしれない。 子供は“大人の正論”を聞くためだけに生まれたのじゃない。 自分の意思を言うために生まれてくる。 大人はもう“大人の正論”を子供に押し付けるな。 子供の意思も通る世の中になるといい。 そう願おう。
尊敬他人
私には、かけがえのない、誰にも代えられない、そんな存在の人がいる。 私にたくさんの時間を費やしてくれた。 相談に乗って、 雑談して、 電話して、 その繰り返しの日々。 そんな日がほとんど毎日続いていた。 情緒不安定な私を教師よりも、友達よりも 彼は支え続けてくれた。 この世に、ここまで素敵な人は いるのだろうか。 私は彼に問いかけた。 「どうしてそこまでしてくれるの?」 彼はこう答えた。 「自分が決めたことだから責任を持って支える」 彼は当たり前のことを、当たり前のように さらっと言った。 ここまで当たり前を当たり前のように、 さらっと言う事はそう簡単じゃないじゃないか。 私はこの人に一生ついていきたい,そう思った。 親友でも、 彼氏でもない。 一生涯の男友達であり、尊敬する人だ。 私はその人になんて、どこまで、 どうやって、伝えれば良いのだろうか。 「ありがとう」と。 作者の実体験です。周りからこの文を見たら好意があるのじゃないかと思われるかもしれませんがそういうのはなく、尊敬の意味では彼を好きだと思います。ここまで尊敬する人はいません。私はこの人にたくさんの言葉をもらいました。この言葉たちを先ほど、見返していました。忘れてはいけない言葉を。なのでお守りとして語り書きにしました。暖かく見守ってください。
当たり前は消せない。
当たり前をする。 それが人間だ。 当たり前の事とは、例えば何か。 例とするなら、「挨拶」にしてみよう。 挨拶は、人と人の始まりの コミュニケーションとも言える。 コミュニケーションができなければ、 今,友達はいないかもしれない。 「おはよう」 「こんにちは」 「こんばんは」 この一言、言えるだけで 全く違う未来が待っているかもしれない。 それなら君はきっと、当たり前のことをしだすだろう。 そしてもう一つ、例を出そう。 「親しき仲にも礼儀あり」 そんな言葉がこの世界にはある。 この言葉は言葉通りであり、当たり前のことだと言える。 何故当たり前なのか−−− それは、仲がどんなに良くても、 “人”と“人”であることに変わりはない。 ならば、親しければ人が人を傷つけて良いとは、限らない。 人権の尊重とも言えるのかもしれない。 どんなに親しい仲でも、 「礼儀があってこその親しき仲」 とも言えるだろう。 これは、人間として生きる中で 絶対的に必要なことだと、私は思う。 この「当たり前」で、 良き世界に。