我よりも人を、偽善よりも正義を
夕日に照らされ、紅く染まる海は輝いていてとても美しい。
夕日に照らされ、紅く染まる空も幻想的で美しい。
そしてまた、紅く染まるヒトも美しいと、僕は心の底から思う。
ギシリ、と音を立てて玄関の戸を開ける。
部屋は相変わらず物が散乱していて汚い。潔癖症でもない僕にとってそんなことは気にも留めなかった。寝ることができるのならそれでいい、そう思っていた。
ぐちゃぐちゃなシーツを下に横になり、後頭部で腕を組んで、目を閉じる。やがてあの時の光景が映し出された。『僕』という存在が生まれてしまった、あの日のこと───。
数時間程した頃だろうか、奥深くに仕舞われていた意識が帰ってきた。部屋を出ようとも考えたが、特段やる事もないのでそのまま寝ることにした。なんなら、このまま命を絶っても────いや、やるなら誰もいないところだろう。誰もいないところで安らかに眠るのだ。その方が処理も面倒じゃない、そうだ、そうしよう。
…………と、いつも考えるが、実行にまでは至らない。面倒なのだ。家を出て、誰もいないであろう場所を探して。そうするだけで既に疲れて、最後の段階にまで気力が持たない。そして、そのまま眠ってしまうのだ。寝るというのは非常に楽だ。体を動かさないし、誰とも話さない。ましてや見る事もない。僕が唯一好きだと思える事である。
僕が居住にしているところは森の深部に佇む屋敷。屋敷は僕と共鳴しており、僕が死ぬと屋敷も死ぬ。屋敷の共鳴先を誰かに渡していれば死ぬことはないが、そんな相手などいるはずもない。僕はずっと、独りのままだ。
寝室で寝転がったはいいが、今日の昼寝のお陰でなかなか寝付けない。暇つぶしに、机の上にあった水晶玉を手に取って『世界』を見ることにした。その時は、普段見ることを拒む死間界の様子を見ていた。
死間界は醜い。とても醜い。差別だの虐めだの、仲間のはずなのに気に食わないものはひたすら攻撃する。僕は、本当に死間が嫌いだ。………もしかしたら、ここも死間界の一種なのかもしれないが。
そんな死間界にも生間の心を持った死間はいる。だが、それは本当に一部で、殆ど前世が生間界で生まれた者ばかりだ。最初から生間なヤツなんている訳が………。
水晶玉に映る一人の少女。顔は決して良いとは言えないし、ところどころに傷がある。細身の身体ではあるが、綺麗とは言えない。そんな彼女の心を覗いてしまった。
彼女は、生間だった。
僕は当然目を疑った。外見の問題なんかじゃない。彼女は神が創り出してからまだ、一つ目の身体であった。それなのにも関わらず、生間だった。
彼女は学校に通っている学生で、中学生、というやつだ。自身の感情を殆ど表に出さず……いや、『出せず』に日々を過ごしているみたいだ。
そんな彼女の何かに魅入られた。彼女のことを知るにつれて、僕は何かの沼にハマったような感覚に陥っていった。
─────────
今日も僕は水晶玉を観察する。机には他にノートとペン。
目的は勿論、あの時初めて見た、女の子。
気付けばその子のことしか考えていなかった。好きなもの、好きな食べ物、好きなこと、嫌いなものから何から何まで、とにかく頭に入れまくった。彼女について纏めたノートももう50冊を超えている。彼女は潔癖症だ。彼女が嫌がらないようにと屋敷の隅から隅まで掃除もした。彼女が好きなゲームも揃えたし、好きなジャンルの傾向も掴んで知らないタイトルのものも買っておいた。そしてそのやり方も全部把握している。彼女の好みの服も買い揃えた。食事も、何もかも全部。作り方も覚えたし彼女はきっと喜んでくれる。きっと心の底から笑ってくれる。
幸せだと、きっと言ってくれる。
僕は、慢心してペンを置いた。不思議とノートよりも手に視線が残った。
手。僕の手。
胸から指の先まで真っ黒な、僕の腕。
指先は尖り、皮膚は硬い。手の大きさも人間と比べれば少し大きい。
──────何が、幸せだ。
こんな体で、魔物どころか魔法すら見たことない彼女が受け入れるとでも?戯言も大概にしろ。彼女の好きなものを揃えたところで僕自身を好いてくれなければ意味など皆無だ。所詮彼女は人間だ。魔物なんて除け者扱いに決まっているじゃないか。
それに、もし万が一、この醜い手で彼女に傷の一つでもつけてしまったら──────。
屋敷中に響き渡る怒り。破片を避けて、僕は部屋から出て行った。
─────────
それから何日経ったのかはわからないが、僕はめげずに彼女の様子を観察していた。最早これは、僕の中で『義務』となりつつあった。
「あ……また」
学校と呼ばれる屋上から、彼女は身を投げる。彼女は毎回決まった日にち、決まった時間に自殺をする。方法は様々だ。今のような飛び降りや首吊り、わざと車に跳ねられる、など。
─────僕が側にいてあげなかったから、またあの子の命が失われるんだ。
なんて考えたことはもう幾度とある。それはただ自分が傍にいたいだけの口実で、彼女は僕を望んでいない。彼女は確かに『イルネス』を模したぬいぐるみを肌身離さず持っているが、作品の登場人物として描かれる『イルネス』と僕とではあまりにも異なる箇所が多すぎる。
そもそも彼女は、既に生きることすら望んでいない。
どうすれば彼女を救えるのだろう?いや、彼女にとっての救いとはなんだ?本当に生きることが救いなのか?
僕は、まだまだ彼女に対しての理解が薄い。
─────────
今日も今日とて水晶玉と睨めっこ。
何度も何度も身を捨てる光景は、いつ見ても辛い。
助けに行きたくても、拒絶されてしまえば彼女を救う手立てはなくなる。
───そもそも、何も行動せず諦めている時点で、見殺しにしているのと同じなのに。
別の世界に切り替え、彼女を探す。
どうやら街中を歩いているようだった。ボロボロの服で、ボサボサの髪で、ひびの入った眼鏡をつけて、俯いている。
それだけで心が痛くなると言うのに、この子は普段から暴力を振るわれたり、仲間はずれにされたり。彼女の居場所は、その世界にはない。
だから僕が居場所となって、あの子を救ってあげたいのに、救って、あげたいのに。
この醜い手が、この醜い『影』が、全てを台無しにする。これさえなければ、僕がまだ化け物と呼ばれることのない姿形をしていれば。
………怒りを抱いても意味はない。
水晶玉に目をやると、彼女はアニメグッズが置いてある店にやって来ていた。すれ違う客は皆彼女に視線を送る。1人だけボロボロなのだから、人間社会では仕方ないと言えば仕方ないかもしれない。だが見るだけ見て声をかけようとはしない。
何かを探しているのか、きょろきょろしながら店の中を進んでいく。入り口から4列目ほど来たところの棚で足を止めた。
彼女の視線の先には、"僕"がいた。
いや、厳密には僕ではなく『イルネス』だ。その世界のキャラクター。僕じゃない。
彼女はキーホルダーに触れた。だが離した。買うものを吟味しているらしい。
悩んだ末、ぬいぐるみを手に取った。慣れない手で会計をし、店を出ては駆け出していく。向かったのは人気のない公園だった。
ベンチに座り、包装を外して彼女はまじまじと『イルネス』を見た。
瞳孔が揺らいだ。雫が溢れる。
彼女はぬいぐるみを抱きしめた。そこまで大きなものではない。本当に手のひらサイズだ。それを大事に大事に抱きしめたのだ。
そうだ。僕がこの子を救えると誤認するのは、この行動からだ。
彼女はテレビすら碌に見れない環境で育っているため、アニメなどほとんど見ていない。完全に一目惚れのようなものだ。キャラクターの名さえも、ぬいぐるみについているタグで知ったレベルだろう。
それでも彼女は、ぬいぐるみに、キャラクターに希望を抱いている。性格もやったことも何も知らないキャラクターに、一目惚れというだけで希望を抱いている。この世界での『イルネス』はヴィラン側に位置する。言動もクズなものばかりだ。そんなキャラクターに希望を見出し、心の拠り所にしている。どの世界でも彼女はそうしていた。
ぽろぽろと涙が溢れ、地面に落ちていく。
啜り泣く声が水晶玉越しに部屋に響き渡る。
また心が痛くなった。助けてあげたいのに何もできない。好意を抱いた相手にすら拒絶されてしまったら、僕は──────。
「………たすけて…っ」
「もう、やだ……っ……死にたい、死にたいぃ……!!」
「たすけて、いるねす……!!」
胸の内から、湧き上がるものがあった。
手が、腕が、足が。『影』が、動いた。
枷から解放された感覚だった。
僕は、計画を立てた。準備をした。必需品を揃えた。
動き出したら止まらなかった。そう時間はかからなかった。
あの子の"いるねす"は、屋敷を出て、自分の世界をも飛び出して。
世界と世界を繋ぐ中継都市へ、希望を掴みに踏み出していた。