第七章
その猫は、今まさに荒れ狂う戦場地帯を一心不乱に駆け走っていた。『戦場』には、銃声や破裂音、悲鳴や罵倒が飛び交い、散々としていて、まさに見るに耐えない光景だった。一体、何でこんなことになってしまったのだろうか。猫はそんなことを悩み続けながら、ただその地を走った。猫は、もう二百年以上も生き続けている年齢の存在であり、その事実から、半ば超常生物のような、いや、最早ある種の神のような存在といってもいいのかも知れなかった。その猫は雄猫であったのだけど、故に、彼は西暦一九〇〇年には少なくとも出生していたわけであるため、当然世界がかの「第一次世界大戦」を勃発し、参戦する各国が戦力を拡大化させるまたそれに於ける革命などといった事態が巻き起こるその十年以上も以前から生きていたことには相違なかった。彼は、最早とうに自身の生まれた地も、自分を産んでくれた親の存在も、果てには自らの名前までも忘れてしまっていたのだ。だけれどもしかし、彼は先述した「第一次世界大戦」や、その後に起こる「第二次世界大戦」といった地球上のあくなき悲劇をその目で確かに受け止めていて、今でも尚、全ての映像をはっきりと記憶している、そんな現代では稀有なーーいや、唯一無二といってもいいだろうーー存在の一人だった。それも、ただ一匹の、名前もない猫である。
彼は、第一次世界大戦の発端となった「サラエボ事件」から、当戦争の終間際の年に起こったロシア革命(第二革命)までの全貌や、またその後に凝り情けもなく起場した第二次世界大戦に於ける同じく発端とされる、ドイツ国による「ポーランド侵攻」についてや、各国の血肉行き交う決死の絶命的な醜態の戦場の有り様や、そして、戦事の最終局面に当たる、今その猫の彼が主な居住地区域としているアジア大陸並びに日本、その日本にアメリカによって襲撃を嗾(けしか)けられた、B-29による東京大空襲や、果ての国内の歴史に於ける、生来きっての大惨劇である、広島への世界初の使用である原子力爆弾「リトル・ボーイ」の投下、さらには長崎へのこちらはプルトニウム型原子力爆弾「ファットマン」の投下による、日本の無条件克服もとい圧倒的惨敗、これ以上ないといって恐らく過言ではないであろう屈辱的な敗戦記録までのその一連について、全ての悲劇然なる記憶を彼の脳裏に焼き付けていたのだった。否、焼き付けられることを(残酷にも)已むなく託(ことづ)けられていたのであった。
彼は、それらの各「世界大戦」を、両事項とも同然と憎み、そんな事態が招かれたというその事実を今でも嫌悪し、忌み嫌い、また許すまじ忘れまじと並列して人類歴史的な最大の大罪という元に銘じてその胸の内に確かに秘めてはいるのであったけれども、そんな中でも、彼は後者にあたる「第二次世界大戦」の方を傾選的に怨恨し、より嫌厭していると自覚していた。何故ならば、そこには多様な要因が在するのだけれども、そのまず一つには、何で以前に第一次世界大戦という、間違えても必然的な戦争であった、だとか、単なる過去の誤(あやま)ちであった、といったりだとかそんな解釈では明らかに済まされることのない悲劇が世界各国に無惨にももたらされたというのに、その悪魔的な、狂荒的な、虚廃的な残劇の再現を、しかもさらに多くの国々の参戦をもってして「第二次」などと誰が得をするのやら、格好つけたような割振りの称号を付番された戦争が起こらなくてはいけなかったんだろう、という対する拒否権をまるで与えられることのなかった無慈悲に対する果てない憤りや、それから当戦争で使用されたという、アメリカ政府の軍事力により日本国に発射された「原子力爆弾」という名前の、それは口にするのも、また目にするのも悍(おぞ)ましい、悪魔の具現化とも呼べるような、人類に対する殺戮凶器が、何ということであろうか二度も爆撃に至らせられたという、果たして人間の和解とは、人間の良心とは何処へ、とでも皮肉をこれ見よがしに込めてその馬鹿らしいにも程があり、反吐を堪えるのもやっとだと言わんばかりな青尻の粋り立った猿どもの名の通り猿芝居に向けて言い放ってやりたくなるような事実に対する怒りの心頭や、といった物事や理由が挙列されるのだけれども、それとは別に、更に彼の当戦争に対する拒絶心を遥かに強めさせる事件がこの第二次には存在していて、その事件こそが彼を今でも、記憶の深淵の奥底から遠隔的に苦しめて、悲痛に縛り付けて、辱め続けているものであったからというのが、第一の悪の根源として確かにされていたからだった。そしてその事件というものこそが、あのアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツによる、ユダヤ人種迫害虐殺を総括せられる「クリスタル・ナハト(水晶の夜)」なのであった。
その事件、クリスタル・ナハトは、先の概要の説明の通りに、いわゆるユダヤ人に対する、酷く差別的な人種意識を持つ主義者(イスト)達による、徹底とした非道的な陵辱、甚振(じんしん)を与えたもうとする事件であり、多様に根源を成す世界の歴史の人種差別事件の中でも、かなり有名なところに位置するであろう迫害行為であることに間違いはない筈であるといえるだろう。そして、その水晶の夜事件と、早二百年生き続けた雄猫の彼との間に、一体何の関係があろうか、という話なのだけれども、それは果たして、彼の幼少期の頃の、遥か昔の過去の記憶に繋がりが含まれているのだった。
その彼、名もなき雄猫の若かりし頃、ーー生まれて十年と経たぬうちにーー彼は実親を両方とも亡くしてーーそれは、彼の記憶から哀しくも姿形の一様がすっかりと抜け去ってしまった、今の彼にとっては単なる、「親がかつていた」という外枠だけの存在である両親であるーー幼くして、遠くの街に暮らすカワウソの夫婦のもとへと養子に預けられたのであった。当然、語るまでもなく猫とカワウソとでは、生物としての種類が全く異なるものであるし、側から見れば、親を亡くして可哀想な貧しい身へと堕ちた宛てのない野良猫の子どもが、こちらは子どもを幼くして亡くした可哀想な、些か年老いたカワウソの老夫婦(彼らは数十年前に実子を病気で失っていた)に拾われたというだけの、同種の中で生まれる種族間の結託も、その暖かみも得られないような、お互いの生活やそれに於けるいろいろな私利私欲的な益得の為に形を成されたようないわゆる「仮面家族」という光景にしか映っていなかったのかも知れないし、実際、そうだったのであろうと感じられた。だけれどもしかし、幼き猫の彼は、その自分を拾ってくれた、否、迎え入れてくれた、と表すのが適切だろう、カワウソの老夫婦に、一切の疑心暗鬼や世間体からの束縛観念とその自己否定の自尊心の抑圧によって生まれる可能性のある病的に天邪鬼な態度を見せるようなことはなく、新しい家族ーーかつての自分を育ててくれていた、今は亡き、それでも大切な存在には生物学的観点からという理由のみならずに愛されていた、自分を愛してくれていたと確かに言い語れる二人の両親に代わってーーとして、彼らの家へ訪れて、素直に彼ら夫婦の暖かい挨拶や手招きに、愛らしい子どもとしての甘えや寂しがり屋の、孤独から解放された安堵感を委ねたのだった。言うまでもなく、カワウソの老夫婦達は、猫の彼を自分達の記憶の中の実子のように、また現在(いま)となってはそれ以上の愛情で受け入れて、新しい彼らの人生に彼を抱擁したのであり、そこに紛れもなく、嘘や偽りといったものは存在しなかった。
そんな出会いから、猫の彼とカワウソの老夫婦の、本来の血の繋がった家族愛にも時として勝るかのような幸せな生活は始まって日々が流れ過ぎてゆき、こんな幸せがいつまでもいつまでもいつまでもいつまでも続いていけばいいのになあ。いや、きっとこの幸せに終わりなんていうものは訪れないはずだ。だって、今自分は、僕は、こんなにも幸せに満ち足りて、幸せの中に生きているんだから。終わりなんてあってはいけないんだ。ねえ、そうでしょ?お母さん?ええ、そうよ、終わりなんていうものはないわ。決してね。いつまでも続いていくのよ。ねえ?あなた?ああ、二人の言う通りだよ。僕も、そう思っているよ。そんな風に彼らはクリスマスや猫の彼の誕生日の夜などに笑い合って何一つ種科目の違いという壁の隔てのない幸福の団欒に永遠に暮らし続けられる確かな希望を満たしていたのだった。彼らの家のリビングには煉瓦造りの暖炉(ペチカ)があり、彼ら夜毎その暖かい優しい炎の前で暖をとりながら楽しい夕食を過ごしていた。
しかし、そんな幸せは突如として、束の間に残酷にも終わりを告げることとなったのだった。
ある日、猫の彼とカワウソの老夫婦の家の元に、四、五人の若者の雄猫達がやって来た。若者といっても、見るからにその彼らが良い歳であるのは間違いなく、そのために、ようゆくまだ十歳になったばかりの猫の彼の前には、彼らは幾分か屈強な、威圧感のある存在のように映るだろうに違いないのだった。「何かご用ですか?」と玄関先にいたカワウソのおばさんが不思議そうに尋ねると、いい歳をした猫の彼らの中から、「急に押しかけてすみません、ちょっと、御宅の息子さんに用事があって来たんです」とひと回り周囲の四人よりも背丈の小さい猫が言った。「あら、うちの子に用が?」とおばさんは更に問い聞く。「一体それは、どんなご用件でしょうか?」若者の猫達のうちの、割と背の高いやつが答える。「まあ、何で言えばいいのやら、とにかくここで説明を口で簡単に説明するのは難しいので、来てもらうのが取り敢えずは話が早いと思います。」「実は僕たちは、彼の古い古い、彼が生まれてすぐの頃からの友人なんです」メガネをかけた猫が言った。「あら、お友達でいらっしゃるの?」おばさんが言う。「ええ、そうなんです。まあ、とは言っても年齢はかなり離れてしまってはいますがね、でも、ちゃんとした付き合いがあったんですよ。しばらく会えていなかったですが」「そういうことです。僕たちは彼にーー息子さんに、とても大事な話があるんです。だからなるべく早く、息子さんを呼んできてもらっても、よろしいでしょうか?」「お願いします」残った二匹の猫達が、最後に交互に語った。「あら、そういうことだったのね。わかりましたわ。すぐにうちの子を呼んできますから、少し待っててくださいね」おばさんがそう言って、微笑みながら彼らの立つ玄関口を後にすると、若者猫の彼らは、どうもお手数ですみません、と愛想よく微笑みを浮かべて返した。「ミューちゃん(カワウソの老夫婦が名付けた、猫の彼の愛称)、お友達の方々がいらっしゃったわよ。ちょっときてくれないかしら?」その時、自分の部屋の中で本を読んでいたミューちゃんこと養子猫の彼は、ドア越しにおばさんの声を受け取って、返事をして一体何ごとか、と僅かながらに不可思議な思いを覚えたものの、すぐに部屋を出て、おばさんのいる元へと向かった。ミャーちゃんが顔を見せて、何?と尋ねるとおばさんは、あなたのお友達達のみんなが、ミャーちゃんに何か大事な用事があるって、と彼を『友達』の待つ玄関へと案内した。養子猫の彼は、その玄関先に立ち構えている若い見知らぬ猫達ーーそれは確かに、彼にとっては友達どころか知り合いですらない、赤の他人同然の猫の若者達であったーーを不思議そうに、また怪しげに、一通り恐る恐る容貌を見渡すと、そのうちの一人と目線が合って、どきり、と胸の中に不信感が浮き立つのを感じた。「この子が、うちのミャーちゃんですけれど」カワウソのおばさんはそう言って、養子の彼を若者達の前に連れ立てる。すると、若者達の中の背の低い猫が、にこり、ともにやりともつかぬーーそれはある種の不気味なーー笑顔を彼に向けた。「ちょっと、俺達と一緒に、来てもらいたいんだけど、いいかな?すぐ終わるからさ」その言葉に、猫の彼はやはり胸につかえるような不信感の鼓動の加速を冷や汗ながらに感じ取って、思わず首を振った。第一、見知らぬ奴らと、その用事の内容とやらが一体何なのかも知らないというのに、どこかさえも察しのつかない場所に同行しなければいけないというのか。しかし、若者達のうちの背の高い猫が、半ば強引に彼の腕を引くと、彼は抵抗虚しく玄関の外へと連れ出されてしまった。「そんなに恥ずかしがることないって。俺達も一緒なんだから」そんな様子をやはり同じく少し不思議に眺めていたカワウソのおばさんであったが、それでも若者達が何の邪気や悪気も一切に感じさせぬようなにこやかな笑顔をそちらに向けたまま、あくまで穏やかな動作で、本当の友達の中の如くにミャーちゃんの猫の彼を連れて行こうとしているのを見てからは、さほど大きな心配を抱くこともなく、それじゃあ、気をつけていってらっしゃいね、と彼らに微笑み返して、若者達とミャーちゃんを見送ったのだった。かくして、若者達にまんまと連れ出されてしまった、おばさんの養子猫の彼は、いやだ、早く家に帰してよ、とその腕や身体を締め抱えて離さない、屈強な若者の猫の強制的な連行により、抵抗不可な無力な泣き声を上げながら、その「彼と彼の家族の家」を後にせざるを得なかったのだった。
かくして猫の彼が連れて来られたその場所は、それもまた彼等若者達同様見覚えのない、樹木の乱立する空地の野原だった。若者達はそこに到着すると、一気に顔つきが変わったようになって、一本の針葉の樹木の前で並んで立ち止まった。それから、猫の彼の手を掴んでいた屈強な背の高い若者がその彼の身体を放り投げるように地面に突き放すと、ぺっ、と彼の顔に唾を吐きかけた。それを合図にか、他の四人の者達も、地面に寝転がるように苦痛と不安な表情を浮かべる猫の彼を取り囲むようにずらりと円を組んだ。「おい、お前、なんでこんなところに連れて来られたんだろって顔してるなあ?」背の低いリーダー的若者猫が前に出てきて、猫の彼の顔を見下ろす。「そうだよなあ、わかんねえよなあ。急にこんな辺鄙な場所に無理やり連れ出されることなんて、生きてるうち何回もないだろうからな」そう言って、じっ、とリーダー猫は猫の彼を睨みつけるように、また嗜虐的な笑みを含ませて、表情を崩した。「何でわかんねえんだよ」と後ろのやや血気盛ん気味な一人の猫が気に入らなそうに叫ぶ。「そいつは、俺達の事を、いままで馬鹿にしてきたんだろうが」「おい、落ち着け、まだ早いって」血気盛んの隣にいた猫がそれを宥める。血気盛んは、今にも猫の彼を蹴り飛ばそうとせんばかりの姿勢を堪えながら、「でも、俺頭に来てて我慢できねえんだって」と面白くなさそうに愚痴った。「今に、リーダーが始めの指示を出すから、それまで待ってなって」メガネの猫がそう言って、にやり、とその瞬間になるのを嫌らしい笑みで待っていた。「おい、お前ら少し静かにしろ」リーダーの猫が後ろの仲間達に注意して、声を上げる。それからまた猫の彼の方に目をやって「なあ、わからねえんだろ?だから、俺たちが今からここでそれをしかとお前に教えてやるわけだ。わかったな」と意気揚々を堪えるように笑んだまま言った。猫の彼は最早状況が飲み込めないうえに更に自身の身体中が変な吐き気や、恐怖から来る肌寒さに襲われるその感覚から逃れないのだけれどなんとかその震えを抑えようと、目を瞑って視界から目の前に群がる若者達を消し去ろうと試みた。「よし、覚悟はできたみてえだな。じゃあ、お前ら、早速やるぞ」「よっしゃあ、まずは俺からだ」「おい、俺にもやらせろ」「皆んなでとにかくやりゃあいいんだろ」「うひひっ」そんな風にリーダーの合図で周囲に控えていた仲間達はようやく身を乗り出して、あろうことか次々と地面に這いつくばっている猫の彼の身体を殴り、蹴り飛ばして、その小さな幼い姿形に暴行を加え始めた。「どうだ、痛えだろ」リーダーは特に何か殴打をしたりはしないが、猫の彼の痛みに耐えかねている表情をした顔を爪先でつねるように鷲掴んでいた。「なんだ、全然声出さねえじゃねえか」一人の猫が腹を蹴りながら言う。「痩せ我慢なんてしたって、意味ないんだぜ、気に入らねえ」一人の猫が腕や足を踏みにじる。「こんなことされても、何も言わねえでただじだばたしてるだけなのか?おめえは」猫の彼はそんな風に彼らに罵倒され、心当たりのない罪に対しての甚振りを受けながら、身体を気づけば痣だらけに、傷だらけに変化させていった。猫の彼はもう、二度と目を開けないことに決めた。少なくとも、今この彼らに暴行を受けている時には。「おい、それじゃあなんでお前がこんな事される目にあっているのか、俺が教えてやろう」リーダーの猫は、猫の彼の顔を鷲掴んでいた手を一度緩めながら、声を唸るようにして語り始めた。その時猫の彼の尻尾に誰かの足が踏み重なり、猫の彼は不意に悲鳴を小さく上げた。それを聞いた二、三匹ほどの若者達が笑い声を洩らした。「俺はな、お前のその身分が気に入らないんだ。お前がノコノコノウノウと暮らしている、その態度っていうやつがだ。お前みたいに、人並みの生活ができる奴なんてのは、今の世の中ほとんどいねえんだよ。それも、お前みたいに親二人とも失ってさ、それでもちゃんと新しい、里親ってのか?そういうのを見つけてよ、ちゃんとしたまともな生活に戻れるようなやつなんて、まあ俺は見たことはねえな。俺だけじゃねえぜ、こいつらだってそうだ」リーダーの猫はそこで、再び殴られ続ける猫の彼の顔を鷲掴む手に力を込めて、背後に立つ背の高い猫の方を顎で示した。「こいつなんかはよお、母親がヤクやって家をほっぽらかして出て行っちまったもんだから、金もねえし、住む場所も今やまともに暮らしてられねえって状態なんだ。わかるか?家があるのに家がないみてえな生活ってのが、お前には、よお、わかるか?わかるわけねえよなあ、それも、同じ猫じゃなくて、カワウソの爺さん婆さんの家なんかに転がり込んで、何の問題もなく楽しくチャラチャラとやって過ごしてやがるお前みたいなお気楽モンにはよ。そんでこいつは、ヤクやってまともじゃなくなった母親もそうだが、父親の方も借金抱えて気づいたら夜逃げ、トンズラってわけだ。哀れなやつなんだよ。こいつは、全く哀れで仕方ねえ」すると背の高いそのリーダーが言うに哀れな若者の猫は、それを聞いて再びその自分の哀しくて仕方がない過去、否、現在の自分の荒れ果てた生活を不意に思い出して実感が湧いてしまったのか、しかめ面を浮かばせて、胸に立ち篭める苦しさを紛らわそうとしてか、より猫の彼の身体を蹴る力を強く込めた。「それに、そん隣のメガネのやつは、もしかすればお前には至って真面目な、優等な学生かなんかに見えるかも知れねえけどなーーまあ、目え瞑ってるから優等生みてえかどうかはわかんねえだろうが、とにかくこいつは、生まれた時から孤児院で育ってきたやつなんだ。どう言うことかわかるか?こいつは、親に捨てられたんだよ。お前に食わせるようなメシとか服とか買う金はねえんだってな。そんで、赤ん坊の頃に親に捨てられちまったこいつは、そのまま故事の児童施設ん中に入って、今までに至るってわけだ。その施設ってのが、これまたひでぇところでよ。例えばそこにいるガキどもは、うまく言葉が喋れなかったり、耳が聞こえなかったり、暴れん坊で聞かず耳だったり、果てるところに行くと、クスリやってるやつまでなんかいやがるんだぜ。まあ、そいつの場合には、親の影響とかもあるかも知んねえけどな。まあとにかく、そんな風にこいつの育った施設ってのも、言わずとも最低な最悪な場所で、まともに生きるに生きられねえ環境だったっつーわけよ、って言っても、今もそこでこいつは哀れにも暮らしてるわけなんだけどよ。なあ、そうだろ?」リーダーの猫が声を掛けると、確かに一見メガネのせいか彼らの中でも一番まともに見える姿の猫は「ああ、その通りだよ。本当に俺はイカれちまってるんだ。その場所のせいでもあるが、俺を捨てた親のせいってのが、一番でかい理由だな。それは間違いないぜ。って、それにしても、リーダーも喋り過ぎなんだよ。いくらこいつに言ってやるからって、そこまでぶっちゃける必要なんかねえだろ」と少しリーダーに向けて苛立ったように声を上げて、二、三度その腹いせにやはり猫の彼の横頬を爪の立った手の先で殴った。「そんで、さらに言えば、他の二人の奴らも大体おんなじような感じだ」リーダーはそう言って背の高いのとメガネを掛けたのの他にいる残りの二人の猫を示すと、わざとらしく、その彼等二人を憐れむような表情をつくった。「そうだ、そうだ、その通りだ」「お前みたいなやつと、同じ猫なんて呼ばれたくはねえんだよ、この、何にも知らねえ、くたびれたガキが。調子に乗るなよ。少し、良い暮らしして、いいもん食ってからって。お前に何ができるってんだよ。小児愛性癖の大人に身体を売って、金儲けすることか?それとも、万引きして宝石でも盗むつもりか?」二人の若者達は、ひたすらにそんな罵倒と殴打を繰り返して、猫の彼の身体は見る見るうちに衰弱していき、疲弊して傷だらけになっていった。「おい、何とか言えよ、このガキっ、泣けよ、ほら、叫べよ、痛えとか何とかよお、こんなことされても、泣き真似はしたくねえってか?変にカッコつけるんじゃねえ。イライラすんなあ。痛えだろって、なあ?痛くねえのか?おい、返事しろよ、何とか言えよ何とかっ、言葉も喋れなくなったってか?おい!」ついにはその罵倒に混じって、リーダーも幼い猫の彼に手を出し始める。リーダーの攻撃は周りの皆んなよりもより強い力が込められていて、流石の猫の彼も我慢に耐えきれずに、苦痛の声を叫んだ。すると、若者達の間で笑い声が一斉に盛り上がる。更にそして暴行は加速して、ついに猫の彼の防衛本能に於ける堪忍袋の尾が切れると、猫の彼は束の間、うわあああ、と思い切りに声を上げたかと思えば、次の瞬間には、リーダーの足首に必死の形相で牙を鋭く噛み付かせていた。その牙は、リーダーの足首に深く刺さり込み、リーダーの足からは出血が始まった。「痛えっ、おい、何すんだよこのガキ!痛えじゃねえか、離せっ、離せって!」悶えるリーダーの足首から流れる真っ紅な血を啜り飲むかのように、幼い猫の彼はその毛並みに牙を食い込ませる。それを見た仲間達は、次々のリーダーの足と獰猛な獣の如く牙を剥く猫の彼の口元を引き剥がそうと、殴る蹴るをやめてその引き剥がしに奮闘した。すると圧倒的人数差で、猫の彼はリーダーの足首からその口元を引き離され、息を荒げ、血の混じった糸状の唾液を垂らしたまま、ただ一心に、思っても見なかった幼子の猫の反逆に目をひん剥いて驚愕している若者達の怯える姿を、そのうちの誰を見やるでもなく睨みつけて眺めやっていた。「くそっ、なんだよこいつ、変に尖った歯なんか持ってやがって。おい、とにかく今日は逃げんぞ」「リーダー、俺に掴まれ。運んでやっから」「あーあったく、これじゃバイ菌なんか入ったら大変だぜ」「おいガキ、少しやってやったからって、いい気になんじゃねえぞ。次会ったら覚えとけよ!」そんな風に若者達は口々にあれこれ言い合うと、さっきまでの強気な威勢やら殴る蹴るの血気は何処へやらといった撤退ぶりを見せながら、そそくさと怖気付いて、地面に涙や鼻水を垂らしながら口元を血に塗れさせながら横たわっている猫の彼から急足に遠ざかって行ったのだった。そんな取り残された幼き猫の彼は、決してあの若者達に対する抵抗による勝利などの喜びは感じるところになく、それどころか、この横たわる閑散とした見ず知らずの寂しげな樹木の少ない広原の物哀しさと時折吹き流れる風の冷たさ寒さに自身の恐怖心を重ね合わせて、力なく身体を震えて、何もかもから一人きりになってしまったような果てない恐ろしさに静かに宛てもなく身や心を溺れさせるばかりだった。今も、あのリーダーの足首に噛みついた時の牙や下の感触が、彼の口ものとにはリーダーの嫌な血の味と共に残っていた。それは、猫の彼を更に哀しくさせて、怖さに怯えさせるような存在であり、彼は再び抵抗虚しく、そんな静かな恐怖心の中に心身を貶められてしまったのだった。彼はそして、今、誰か自分のことを助けに来てくれはしないのかな、と淡い期待を胸に秘め抱いていた。それは、カワウソのおばさんであったり、もしくはカワウソのおじさんだったり、空を飛んでいく見知らぬ鳥だったりカラスだったりであるのだけれど、とにかくそういうように、自分の傷つけられた鈍痛の身体を嘆きながら、あのいつかの夜におばさんやおじさんと一緒に夕食を食べた時の暖かく燃えかがやく暖炉の優しさと愛の熱に満ちた光景を思い浮かべては、生温い涙を溢した。そしてようやく猫の彼は、少し身体を立ち上げようとしたところで、急激に訪れた睡魔により、不可抗力な眠りの中へと、重い瞼と共に落ちていったのだった。そしてその時の彼の目の前に写り残っていた景色は、儚く、どこか薄暗い澄んで晴れ渡っただけれども退廃的な、無機質な水色の空だった。
0
閲覧数: 72
文字数: 10290
カテゴリー: その他
投稿日時: 2026/4/15 15:06
最終編集日時: 2026/4/21 14:51
注意: この小説には性的または暴力的な表現が含まれています
旭川黒介
小説はジャンル問わず好きです。趣味は雑多系の猫好きリリッカー(=・ω・`)☆