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ハートフィールドはその生涯において一度も酒を飲まなかった。いや、正確に言おうとすれば、飲む必要が無かったと言うべきなのかも知れない。彼にとって生きることの困難さとは夏のアスファルトに記された雨の軌跡のようなもので、それらは虹の掛かる空の下で緩やかに分解され、やがて時の彼方へ消えていくこととなった。
彼は酒で心を洗うことをとても嫌がっていた。それは僕たちが思いがけずバー・タイムの営業時間に喫茶店に入ってしまった時の話になる。僕たちは近所の河原で一日中水切りをしていて、そのせいでお互い随分腹を空かせていたのだ。それで僕たちは河原から一番距離の近い喫茶店に入ったのだが、案内されたのはカウンター席、しかも入口から一番遠く離れていてトイレの脇に面した二席だった。黒を基調とした店内は電球色の温かな光と窓から見える黒い静寂によってありきたりなムードを醸し出していた。僕たち以外の客はテーブル席で各々の共同体の中で、各々に酒を飲み、その時間を各々に楽しんでいた。それで僕は「これはなかなかヘビーだ。」と心の中で呟いてみた。僕自身がアルコールを受け付けない体質だったし、何よりもハートフィールドが僕の隣で小さく震えていたからだ。旧世界の目覚まし時計みたいに無言で震えている僕たちに痺れを切らしたのか、カウンターで調理をする店員に飲み物を聞かれ、僕たちは虚しき抵抗でアイス・ミルクを注文した。それからサービスのリッツ・クラッカーをアイス・ミルクで胃にぐいと流し込み、半ば投げやりに千円札をニ枚カウンターに置いて店を出た。
「悪かったね。でも、あたしはどうも酒の場が苦手なんだ。」店から出てハートフィールドはそう言った。「別に酒を飲むことを悪いとは言わないよ。でもね、酒に頼らないと出来ない話や、それによって生まれる軋轢、差別、暴力。そういうのがあたしは酷く駄目なんだ。」分かるよ、と僕はそうハートフィールドに向けて小さく相槌した。「この世界は美しいものたちで溢れているのにね。」
それから僕たちは光を求めるようにして歩き、僕の住む家に向かった。そして母さんが作り置きしていたシチューをハートフィールドと二人で食べて、空腹の埋め合わせをした。ハートフィールドの要望で人参を切って新しく一緒に煮込み、それからトーストを二枚焼いて、僕たちはそれをちぎってシチューに浸しながら食べた。食後にハートフィールドはリビングのソファーで少し眠り、それで満足したのか自分の家へ帰っていった。
ハートフィールドが帰った後、僕は熱い湯船に浸かりながら“この世界の美しいものたち“について考えていた。しかしその思考は長く続くことはなく、立ち込める湯気の中で有耶無耶になってしまった。
いいさ。また明日がある。また明日…。
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カテゴリー: その他
投稿日時: 2022/3/27 7:50
最終編集日時: 2022/4/5 13:41
ハートフィールド