ある学生小説家

 “新宿行”と表示された列車は、私が乗ってから間もなく発車した。私は、湿っぽい赤紫の座席に腰を下ろすと、堀辰雄の「燃ゆる頬」を鞄から取り出し、古書らしい埃の香りを浴びながら、そのはっきりとしない活字の羅列を眺めはじめた。電車は駅のホームを抜け、どうやら県境の河に差し掛かっているようだった。今日は曇っているから、水面は何の光も反射せず、ただ黙々と波を漂わせているだけだった。やがてその橋も抜けると、次第に住宅地が増えてきた、そんな様子が窓の外に確かめられるのであった。  例の如く、車掌の低い声のアナウンスが響いたあと、電車はまた新しいプラットホームへと身を寄せた。私は、未だに一ページも読み進めていないことに気付いて、頭を軽く振り回したあと、もう一度手元に視線を送りなおした。 ....三枝.............蝋燭の影..... ...........脊椎カリエス........... しかし、紙に載ったそれらの単語は、私の頭の中に届こうとしてもいつも直前で力尽きて、どうにも意味を持たない亡骸を残していくだけだった。その上、私はそれをよく承知していながらも、ただその亡骸を拾い集めることに熱心に取り組んだ。いや、取り組むしかなかったのだろう。だから、私はそれを打破するがために、一度深く息をつくと、その本をぱたっと一息に閉じた。紅色の背表紙に記された「堀辰雄集」という金文字がこちらをじっと睨んでいた。 私は一度ぎゅっと目を瞑ると、また窓の外に目をやった。ホームには沢山の看板があった。その内の一つ、メガネをかけた白衣のキリンによれば、駅前のクリニックは、今日は定休日であるようだ。 「他人のことをよく観察してみろ」 キリンは、私に向かってそう言った。
道徳的な山羊
道徳的な山羊
「後川」だった者です。17歳の若造です。「カクヨム」での投稿も始めました。 第七回N−1 12位  435点 第八回N-1 9位  318点 第九回N-1 8位  489点 King of Novelee vol.3 5位