さよなら、歌姫。

さよなら、歌姫。
6限まであった大学の講義終わり、コンビニのバイトで遅くまで働いて、足をふらつかせながらアパートに帰る。 人生、今までなにもいいことはなかった。ただあまりにも平凡すぎる日々の中で、朝の満員電車に酔ったり、ただつまらない授業を聞いたり、バイトで客に怒鳴られたり。何もない日々の中のあとどれくらいの苦労を重ねればこの人生は終わるんだろうか。疲れた日にはこんな暗いことばかり考えてしまう。 帰り道の月は今の心情に反して欠けることのない円が眩しすぎるほど輝いていた。 冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ベランダに出る。ため息を吐いても何も変わらなくて、ただこの丸いだけの光を眺めていた。 ボロい見た目のワンフロアに2部屋しかないこのアパートで隣の部屋から声が聞こえる。それはギターの音に乗せられた綺麗な歌声で。そういえば隣に誰が住んでいるかなんて考えたことがなかった。でもその声は酷いほど心に突き刺さって、心を掴んで離さない。 「歌姫、」 どこかの童話でしか聞いたことのないこの言葉もこの声の主にはぴったりに思えて。結局その声が聞こえなくなるまでベランダから動けずにいた。 次の日から、毎日バイトを終えると急いで帰って、ビールを用意して歌姫を待つ。綺麗な円だった月がどれだけ欠けていってその光を失っても歌姫のこの声があるだけで十分だった。きっとこの声が聞こえる限り、もうどんなことがあったって生きていけると思う。それほどに心酔しきった歌姫の声はもうこの心から離れることはない。 バイトで品出しをしている途中、昨日の夜歌姫が歌っていた曲を口ずさんでいることに気がついてにやけてしまった。顔を見たこともないような相手にここまで惚れ込むというのはバカみたいだけど、それでもあの声は真っ暗な夜のようなこの人生に月より輝く光を灯してくれたから。 品出しを終えて、客のこない店内を見渡しながらレジで待つ。あと30分もすれば仕事帰りのサラリーマンやバイト帰りか疲れた表情の学生やらで店は混雑するだろう。今日の夜のことを考えて、あと一息頑張ろうと顔を上げた時、ドアの外には身体より大きなギターを背負った学生風の美人となにか怒ったように美人に話しかけるスーツを着た女性がいた。女性が何度話しかけてもその美人は振り向かず、何かを決意したような表情で俯いている。あまり見ていると、顔を上げた美人と目が合ってしまったので、気まづくて急いで目を逸らした。
いくら
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