朝雲暮雨
夏が眼の前で死のうとしている。街路樹から聴こえる蝉の声は弱く、枯れていた。まだ土瀝青の上に立つ陽炎は辺りを歪めている。向日葵はまだ燃えるような輝きを秘めて太陽に向かって微笑んでいた。
思い返してみれば、もうエヴァン先生と話さなくなって五ヶ月も経つ。発端は私の書き上げた論文だった。西欧では珍しく、熱帯に多い細菌類についてのものと、昆虫は脳の構造を変化させることでギャンブル中毒になるのかというものだ。私も何故その題材にしようとしたのか覚えていない。だが当時の私は天才的だと舞い上がって、あの医学誌に載るかもしれないぞ、先生は立ち上がって私を抱き締めてくれるだろうと大いに期待を抱いて見せたものだ。すると怪訝そうに、あの爬虫の瞼をパチクリさせながら一瞥すると、ポツンポツンと欠点だけを挙げ始めた。言葉の一つ一つ、丁寧に磨き上げられた針が巻きつけられていて胸に突き刺さった。言われたことを一言に要約すると、面白い視点だが結論が固まっていないから書き直せとのことだ。そして調子に乗るな、お前は医者の端くれであり世界的に有名なわけでもないと付け加えられる。話を聞いているうちに私は堪忍袋の緒が切れて怒り狂った。顔も耳も紅潮して茹蛸みたいになっていただろうと思う。そして万年筆を入れた木箱も何もかもばら撒いて閉じ籠ってしまった。先生は鼻で嘲笑うと論文に赤字で修正をして扉の隙間から入れて来た。到頭、私は先生と会話を交わさなくなってしまった。
でも頭がツウンと冷えてくると罪悪感やらが吐瀉物になって散らばってゆく。先生の隣を通ると胸が締め付けられて眩暈がするし、胃が鉛のようになるのを感じた。ごめんなさいと言おうとしても彼の軽蔑した顔を思い出すだけで眼が熱くなって、涙がほろほろと出て来てしまう。泣いてはいけないしっかりせねば……考えても涙は止まらない。泣いているところを見られたくないから、顔すら合わせることが減ってしまった。もしかすると先生は私のことなど忘れているのかもしれない。そんな恐怖が膨張して、私の頭の中で破裂しようとしていた。過ぎゆく灼熱の夏は私の心を腐らせるだけで、爽快の爽の字もなかった。気分転換に歩いていても、先生の事以外考えられない。あゝ、申し訳ないことをした。貴方の弟子は、助手は愚か者です。本当にすみませんでした。そう言えたらどんなに幸せだろうか。謝罪したところで彼が私を罵って今更何を言うと責めて来ても、謝らないよりマシだろうと思う。此の蛆虫の沸いた心を潰して捨ててくれるのならば何だってする。地べたに膝をついてまで頼みたい。兎に角、砂浜に打ち上げられた海月のように苦しい。こんなに苦しい思いするのなら、いっそ溶けてしまえばいいのに。
気がつけば私は家の門の前で立ち竦んでいた。今、先生は書斎で研究の結果を纏めている。今のうちに話しかける事は出来ないだろうか。明日は大学の授業で一緒だから、内容を聞くふりをして謝れるのではないかという考えが頭をよぎった。それから鉄砲玉のように弾き飛んで、髪を乱しながら家の中まで駆けて行く。普段よりも長い階段を軋ませながら上がって書斎まで行くと、丁度良く扉が開いた。机には医学誌や法律の本が開かれてメモの書かれた付箋紙が幾つもついている。そしてノートは数式や南欧の言語が溢れて散らかっていた。覗き見していると、直立している先生は私を見るなり軽蔑の眼差しを向けて来た。相変わらずの大きな体躯とゴツゴツした臙脂の鱗は構造色で金緑の艶は凄まじい。緊張と圧迫感に思わず言葉を忘れていると、彼は痺れを切らして「何か用事でもあるのか」と言った。私は咄嗟に「いえ、ありませんが」と冷たく返す。先生は淋しそうに私の顔を見た後、ふーんとだけ反応を見せて立ち去る。どうにか服を掴もうかと思ったが大袈裟に私を避けて通るのでそれは叶わなかった。仕方なく書斎に入って散らかっている論文などを探ると、どうやら私の論文に足りないところを修正するためだけに何百冊も読んだり研究を続けているらしかった。考えを知る為、ノートの最初から辿りページを捲っているうちに私は腹の底から慟哭した。咽喉の奥がツーンと痛んだ。私は先生に頭を下げて謝らなければならない。だが、今日も言えなかった。あゝ、先生はこんなにも私を想っているのに。黙っているうちに涙も乾いていた。眼許の毛がパサパサしてくっついている。取り乱してはいけない、取り乱しては……。冷然として書経を開いて文字列を辿ってゆく。
嗚呼、夙夜罔或不勤。不矜細行、終累大德。爲山九仞、功虧一簣。
書から引用したものになるが、先生はこうとでも言いたかったのかもしれない。きっと私はあの論文の何処かで大きな失敗をしているのだ。ならば先生に頂いた修正の原文を基に書き直さなければならぬ。拗ねて部屋に篭っている場合ではない。先ずは勉学をする。善は急げと書斎から飛び出ていくと自室で紙を広げた。鉛筆を刃で削って、調べた事を挙げたり研究結果を見直して、と繰り返す。宵の空が真っ暗闇に染まって、月が廻るまで書き続けた。その間、先生は深夜に出て行って開頭術の執刀をしたらしい。此の頃、救急車で運ばれてくる患者が多く、当直になっても暇な事がない。午前の患者が少ない分、深夜に来る事が多いのだ。私はある程度で区切りをつけると、仰向けになって眠った。餡子屋の羊から饅頭を貰って、それを先生と分けて食べる夢だ。もっと夢の中に居たいのになと寝ぼけ眼を擦って窓を開ける。朝の冷えた風が秋の匂いを運んでやって来た。薄暗い雲の淵には太陽の針が滲んでいる。早朝の街ではパンやチーズを買いに来た紳士達が靴音高々に歩き進んでいる。私は隣の部屋を覗いて先生の帰宅を確認しようとした。すると、先生は堀の深い顔を横にしてぐったりとしている。寝息は荒く、冷汗のようなものが垂れていた。角が反って枕を傷つけるからか、枕は置いていない。ただ薄い毛布だけが掛かっていた。私はそろりそろりと近寄ると口吻に顔を近づけてじっくりと観察してみた。どうやら悪夢にうなされて踠いているらしい。すると、私は別の所に眼が届いた。その無防備に放られた鱗の分厚い手は何だろうか。思わず指を絡めてみると力強く握り返されて喉を締められた鶏のような声が飛び出て来た。先生も驚いたのか飛び起きて更に強く掴んでくる。突然の事に私は混乱したまま「違う違う、ごめんなさい」と叫んで逃げようとする。力は弱まったが解けることは無かった。
「君は何がしたい?」
はあ、ご尤もな質問である。私は謝らなければということしか頭になく真っ白になってしまった。
「あ、あ、申し訳ありません。その、苦しそうにしていたので。本当にごめんなさい」頭を下げ続けて寝室を飛び出すと、背後から待てとか細い声が聞こえた。だが振り返らず外に飛び出してしまう。家に帰る気分にもならず、結局フラフラと親友の家まで歩いて行った。路地裏は薬物中毒者が棒立ちしていたり、関節を捻じ曲げて寝そべったまま戯言を言っている。口からは泡と涎の混ざったものが滴り落ちていた。成る可く眼を向けないようにしながら動物の混んだ道を歩き進むと、牛の営むピッツァ屋が見えた。あの店を曲がると親友(先生の弟)の家があるのだ。林檎の樹が何本か生えていて、花壇には色彩豊かな花を敷き詰めている。そして深緑の三角屋根に白い煉瓦の古き良き家だ。私は古い木の扉を叩いて一心不乱にサーフィーと呼ぶと、彼は返事をして階段から下りてきたらしい。どたばたと音が転がって来た。
「朝早くにどうしたの? 早く入れ。もう、そんなに窶れてしまって」
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カテゴリー: 恋愛・青春
投稿日時: 2026/2/14 14:46
愛染明王
諦めないで。