家族のだんらん
引っ越し初日。私は段ボールを開けて、荷物を整理していると、隣から「マイちゃん~ご飯だよ~」「は~い」という母親らしき声と娘の声の様なやり取りが聴こえた。そういえばカレーの匂いが漂っている。私もお腹が空いてきて、コンビニへ出かけた。コンビニから戻ると三十半ばくらいの男の人が私の家の隣から出てくるところだった。私は「こんばんは」と声をかけると男の人は「こんばんは。あれ、お隣ですか?」と尋ねてきた。私は「あ、そうなんです。今日引っ越してきて、後日挨拶に伺おうかと思ってました」と話し終えると、男の人は「あ、そうなんですね。よろしくお願いします」と言って、階段を下りて行った。私は家に戻ると、隣の家族構成を浮かべた。お父さん、お母さん、娘さんの三人家族かしら、とぼんやり考えていたところで、ふと何も音がしない事に気が付いた。あれ、コンビニ行く前まで、すごい家族の音がしていたのに。と不思議に思ったけれど、その日はある程度、荷解きを済ますと寝てしまった。
翌朝、「マイちゃ~ん、食べな~。冷めちゃうよ~」という声で起きた。お隣さんだ。やはり音が筒抜けのようだ。「ジャム、やだ、あんこ」とマイちゃんらしき声が聴こえた。昨日の男の人はお父さんなのかな。あ、そうだ挨拶に行かなきゃ、と思い出し。朝の身支度を済ますと私は買っておいたフィナンシェの箱を持って、隣をたずねた。
ピンポ~ンと、隣のチャイムを鳴らすと、しばらくして男の人が出てきた。
「こんにちは、引っ越しの挨拶に伺いました」と男の人も「こんにちは。わざわざどうも」と返してくれて、ご家族も奥にいるのかな?と、気になり私は家の中へチラッと目線を泳がしたものの、特に姿は見えなかった。私は「今後ともよろしくお願いします」と言って踵を返すと、隣人の扉が閉まるか閉まらないかくらいで「お菓子~?」と子供の声が聴こえた。私は多分マイちゃんだろう、と自分の玄関の扉を開け家に入った。
家に入るとお父さんの声で「フィナンシェだね」と聞こえ、お母さんが「あら~、いいやつじゃない。私、フィナンシェ好きなのよ」と言い、マイちゃんが「ふぃなんちぇ?」とかわいらしい声を出していた。お父さんが「フィナンシェってのはね・・・」と説明を始めようとするとお母さんが「堅苦しい話しなくていいのよ。おいしいのよ、このお菓子、マイちゃんどうぞ」「ふぃなんちぇ~。おいしい~」「よかったわね」と聞こえてきて、私は満足した。それに微笑ましいわね。家族っていいかもしれないな、と独身が長く、結婚の願望がなく、彼氏すらいない私にはちょっと羨ましくも聴こえた。仲のいい家族なんだな。とフィナンシェひとつで盛り上がっている隣の家族の様子を聴いて思った。
お隣さんのお母さんが「出かけるわよ~」と言うとマイちゃんが「公園いく~」と返し、お父さんが「帰りね。寄ろうね」と言って、隣の家の扉のガチャンと言う音が響くと急に静かになった。もともと一人暮らしなのに、なんだか不思議と寂しくなった。
それから、私の引っ越しが落ち着き、新しい街にも慣れ始めて、日々の生活に追われると隣の家族の声が癒しになってきていた。隣のマイちゃんの声が聴こえると、私も一緒に生活をしていて、これからマイちゃんはどんな大人になっていくんだろう、と勝手な想像をしたりした。これが母性本能なのかしら?とか、勝手にマイちゃんの成長に参加している気すらしていた。ホントに勝手だけど。やがて大きくなって、彼氏とか連れてきたりするのかな。道で挨拶されて「おとなりさん」なんて紹介されて。私は最近、寂しくなくなった。
ある日、近所のファミレスで食事をしていたら、お隣のお父さんが4人掛けの席に一人で座っていた。「あ、お隣さんだ」と思わず声をかけてしまった。「こんばんは」とお父さんが言って私は「あれ、ご家族はおトイレですか?」とずけずけと聞いてしまってから、後悔した。お父さんは少し驚いたような顔をして、「あ~はい」となんだか気の抜けた返事をして遠くを見ていた。私は急に一家団欒におしかけて申し訳なくなり「あ、それじゃ、この辺で失礼します」とそそくさと立ち去ろうとした。
「マイちゃ~ん、早く食べなぁ」とお母さんの声がふいに聴こえた。立ち去ろうとしていた私はもう一度振り向いて、お父さんを見ると「もうおなかいっぱ~い」とマイちゃんの声が聴こえた。お父さんの口元がゆっくり動き「だぁめ。残さず食べなさい」とお母さんの声だ。確実に毎日聞いているお母さんの声だ。「たべれな~い」とはっきりとお父さんの口が動いているものの声はマイちゃんだ。私は何が起こっているのか信じられなくて、立ち止まったまま動けなくなってしまった。
お父さんはいつものお父さん声で「私、独身なんですよ。全部一人芝居で。いつの間にかこんな声も出るようになっちゃって」
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カテゴリー: ホラー
投稿日時: 2025/9/25 23:19
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