猫とセーターについて

 これは僕が数年前に友人から頂いたお題である。このお題をいただいた当時、僕の周りでは様々なことが起きていて、僕は自分のことだけで精一杯になってしまった。そのせいでかけがえの無い友人を半ば裏切る形となり、このお題に沿った小説も未完になってしまったのだ。「様々なこと」について話そうとすると収集が付かなくなりそうなのでここでは割愛させていただく。  初めにお題をくれた本人に謝ろうと考えた。だけど連絡先を開いて悩んでいるうちに時間はあっという間に過ぎ去り、その刻まれた時の堆積に圧迫されるようにして僕は何も言えなくなった。だけどその繋がりを失いたくなくて、僕は仮面を付けて友人の元へ何も無かったかのようにして現れた。友人からしてみれば、それは白昼に歩きまわる幽霊と出会うくらい酷く奇怪な出来事だったと思う。  何故今になって書こうと思ったかと言うと、それは僕自身このことについてずっと考えていて、どうしても約束が果たせていないことにもやもやしていたからだ。そして何より今の僕にはそれらの過去について向き合う時間が充分にある。  前置きが随分長くなってしまったけど、本当にまず謝りたい。「ごめんなさい。」  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  私は冷たいコンクリートの隙間から陽の光を確認すると、次に自分に尻尾が付いていることを確認した。その行いは私を現実と繋ぐ唯一の手段だと思う。そして私はいつものように住宅地の路地裏を歩いて集会に向かった。そこには既に同じ縄張りの仲間が何匹か集まっていた。集会というのは食べ物の確保できる場所とか、そこが他の集団の縄張りに含まれていないかとか、危害を加えるものの出没とか、そういう類の話を共有することが本来の趣旨ではあるのだけれど、その多くは他愛もない世間話が占めていた。そのせいもあって集まりに出ないものも大勢いる。元来私たちは自由なのだ。  自然で生きる猫の世界(私たちに限らず他の種族にもあるはずだが)には縄張りというものがある。私も例外なくその縄張りに属しながら生活している。それは私たちの生活を保障し、均衡を保つ為に創られた古くからの習わしだ。多くの場合は人間の住む街を基盤として私たちの縄張りも形成されている。縄張り同士で争うところもあると聞くが、少なくとも私の周囲ではそういった荒っぽい事はなく、困ったことがあれば支え合うというのが世の常とされている。  ひとしきり集会を終えると私は町の公園に向かった。公園には小さな川があるし、運がよければそれなりの食料があるかも知れない。しかし人間には見つからないようにしなくては。誰もが良心と、そして良識を持ち合わせているわけではないのだ。
ハートフィールド
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