君が遺したスクリーンの向こう側

身を覚ました時、私の世界には何もなかった。 天井の白さも、漂う消毒液の匂いも、自分の名前さえも、頭のあちこちに開いた深い空白に吸い込まれて消えていた。医師や看護師たちは、私が「大事故から奇跡的に生還した」と言い、数年間の昏睡状態から目覚めたことを涙ぐみながら喜んでくれた。けれど、鏡に映る自分の顔を見ても、そこに誰の人生が宿っているのか、私にはさっぱり分からなかった。 退院して、用意されていた小さなアパートの部屋で暮らし始めても、現実感は一向に湧かなかった。私は事故に遭ったことすら、長い間眠っていたということすら、実感として捉えることができずにいた。過去を失った私の毎日は、まるでインクの切れたペンで白い紙をなぞるような、手応えのない日々の繰り返しだった。 そんなある日、部屋の引き出しの奥から、一台のスマートフォンが出てきた。 それは、画面に細かなひび割れが走った、少し古い機種だった。誰のものかも分からない。けれど、充電器を繋いで電源ボタンを長押しすると、画面は静かに光を放ち、起動した。 『システムを起動します。ユーザーの音声、または顔認証が必要です』 画面の向こうから聞こえてきたのは、合成された、酷く無機質で平坦な女性の「声」だった。スマートフォンの最新OSに搭載されている、高度な対話型AI。それは、私の顔をカメラで捉えると、一瞬の処理の後にこう告げた。 『未登録のユーザー、またはデータ不一致を確認。ゲストモードで起動します』 「あの、これ、誰のスマホか分かる?」 私は、すがるような想いで、その冷たい音声に向かって問いかけた。過去を失った私にとって、それは唯一の、外の世界との繋がりになり得るものだったから。
おまめ
おまめ
初めまして、おまめです 私の小説は恋愛小説がベースになります。儚い愛の美しさを表現できるように日々努力していきます もしよければ私の小説に一度目を通してみてください