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 ハルキはコートにかかっている雪を手で払い落として、コートをハンガーラックに掛ける。手が雪のおかげで冷たくなったけど、後で暖炉の前で暖めれば問題のないことだった。それよりも、今の彼が気になっていたのは、冷凍庫から取り出した手の魚のように身体中を霜だらけにした少女を、このままソファの上に横たわらせているままでいいのだろうか、ということだった。身体の冷え冷えとした霜や凍え寒さに関しては、自分の手の平同様、彼女の目の前の暖炉で熱し溶かせばいいことではあるのだろうけど。ハルキはとりあえず、少女の身体に厚手のブランケットを掛けてあげることにした。ブランケットを仕舞ってあるのは、彼の寝室のクローゼットの中である。他にも、冬用のコートが今しがた着込んでいたものの他に数着、それに加えて春、夏、秋と季節毎に揃えた幾つかの種類の半袖や長袖のものや、その中でも厚手薄手に捌き分けられる衣服上着と、下履きのズボンーージーンズや軽装用の布地の物などが収納されていた。その布地の深い森の中から、ハルキは少女に宛てがうべく、桃色の色褪せたコスモスの絵柄の付いているブランケットを取り出した。隣りには横長のタンスも置いてはあるのだけど、そっちの方には、また別のものが入っていた。主に書類の類で、それだけで大型のタンスでさえも一から十に埋め尽くされてしまうような量の紙束がその中には詰め込まれている。職業柄仕方のない事だったけど、ハルキはタンスの中身の出し入れを行う際に、必ず無意識にその紙束の留め止めない海にため息をついてしまうのだった。ハルキは颯爽とブランケットを引っ張り出して腕に掛けて、クローゼットの扉を閉める。横にあるベッドの頭側の壁に嵌め込まれた窓の格子の奥からは、今だに吹き荒び、勢いを弱めることのない雪の渦が外の冬の山中の景色を凍え冷たく彩り飾っているのが眺められた。冬の渦の風の中をまるで粒子のように片方向に流れ過ぎていく雪の結晶達の一つ一つの形が、はっきりと観て取れるような、軌道線のはっきりとした冬景色だ、とハルキは思った。窓からブランケットに視線を戻すと、ハルキは寝室を出ていき、少女の眠る居間へと戻った。  沸騰して湯立った鍋の中から、出涸らしになった野菜の破片を網で掬い取り、ハルキはスープの仕上げに入った。鍋杓子でハルキはスープを一盛り掬いあげると、その匂いを嗅いで、啜って味見をする。いい塩梅に根菜の旨み加減が鼻腔を通り過ぎるのを感じて、ハルキはコンロの加熱摘みを'止める'の方向に回して、火を弱める。鍋の中のスープの立てるグツグツやコポコポといった煮立った音が、徐々に小さくなり、やがて穏やかに緩やかなクツクツという耳を付近に近寄らせてようやく聞き取れるといった具合の大きさにまで変化した。ハルキは用意していた二人分の青い陶器皿にそのスープを八割方注ぎ入れると、それらを居間へと運んだ。  今に戻ると、暖炉はようやく本格的に炎が燃え始めていて、火花の弾ける安らぎの音とともに部屋の一端を暖かく照らしていた。居間の明かりといえば、その暖炉から放たれる紅く煌々とした熱の燃え盛りによるものと、卓上に置かれたスタンドライトと、キッチンや廊下から漏れる照明、それと窓から溢れる夜月の慎ましやかな自然光ーーといっても、それは吹雪の轟く風音や雪の散降のおかげでほとんど感じられないのだけどーーの各々の光源が、決して強く主張を凝らす事なく、大人しげに、そしてお淑やかに互いの放つ光の恩恵を尊重するように一体化となって暗がりの囲む部屋を彩る程度のものではあったのだけど、ハルキはその光景がとても好きだった。然るに、いつもこの居間はこんな風に半分が暗く、半分が各所に散りばめられた光源達の静かな力によってある種儚げに明るく色彩を加えられている形の空間につくり上げられていた。それに、今は拾ってきたかの少女も深く眠っている事だろうし、彼女の視界を特に気にする必要もない、とハルキは思った。そして、それならハルキは旭や午後陽の照らす日中よりも夜の方が好きなのかといえば、そうではなく、彼は昼間の時間帯も、夜と同様に好きだった。彼は太陽や晴れ澄んだ空の水色に浮かび流れる白い純性な雲が創り上げる景色が好きだったし、太陽が照らす草木や山の聳える広大な絵図、地面に咲き誇る季節毎の花の陰影、そして人影や誰かの歩行する姿や不規則的に道路を走って行く車両の姿形が暗闇や影に呑み込まれることなくはっきりと映し出されるのは何より日中の風景特有のものであるのだし、かくしてハルキは明け方から陽入りに至るまでの時間帯と空間を好んだ。  一方で、夜というのは、ハルキにとって昼方とはまた異なる特別な意味を持っている存在だった。彼にとって夜とは、当然のことながら、暗く闇を深くつくりだす、視界の安定しない存在だった。それは言うまでもなく世界中の誰彼にとっても同じ事であり、誰にとっても夜というのは時にその人の不安をこの上なく煽り、時に誰かの事故や事件、監視不注意の災害によって他の誰かが傷を負って痛い目にあったり、はたまた故意の悪業行為が引き起こされたり、嫌で逃げ出したくなる、明日という現実の概念世界に近づく時間帯であるのかも知れない。いや、きっとそうだろう。そして加えると、夜というのは、子ども達にとっては恐ろしい存在に違いないものだろう。特に、幼い子ども達にとっては。子どもという存在は何を隠そう、大人達よりも想像力が遥かに超越して豊かであり、どんな物事に対しても、初めは疑問を抱くのである。例えば、夜に目が覚めて、一人でトイレに行って用を足すことができない子どもが少なからず居る、というのが、その良い証拠だろう。子どもはTV番組などで放映されている未確認生物や心霊現象について扱う類の映像、またはそれを題材にしたアニメーション作品、そして学校内で友達と交わされる怪談話、それは各学校の中で言い伝えられる校舎に纏わる七不思議であったりだとかするのだろうけど、あるいは裏山を通って肝試しをするという事だとか、そいういう行為一つ一つが、どれが誰の何時の起点となるのかはわからないけど、かのような体験によって、胸の深く奥に秘めたる、不自然な現象や虚妄の中の不可解な、それまでの人生の数少ない知識による想像を越えた事象に対する恐怖心を反射的に発起するのである。従って、子ども達は夜にトイレに行く際には家族と一緒に出掛けるか、または朝が来て、夜が終わるまでを布団の中で我慢しながら待つか、そんな行動を試みようとするのである。それでなければ、夜に眠れない子どもだってきっと居ることだろう。しかし中には、そんな非現実的、非科学的とも言い換えられる事象、生物に恐怖心を抱かない、若しくは興味や関心をそもそも予めの内に示すことなく、目に見えていないのだから、そこには何もいない、とはなから現実というものは目に見えている物事が全てで、それらの存在によってのみでしか構成されていないのだという考えを既に構築し済ませている子どもがいる事もまた事実であり、そんな子ども達は、その幼い年齢に場合によっては見合わないとも語れる早すぎる達観性が故にーーこの場合、虚無・諦観主義(ニヒリズム)のような思想は幼児性故に宛て嵌り、その意識中に確固たるものとして存在しないものとしてーー、友達や至るところで関わりを持つ人たちとの交流の中やその後の人生の様々な分岐点に於いて、いわゆる子どもらしさというものを経験しない事になるとも言えて、それは環境によっては致し方のない事ではあるのだけど、結果的に創造性の無い不起伏的な選択のみを捉えざるを得ない生き方を過ごしていくに尽きる可能性もあるのではないだろうか。しかしそれは決して悪い事ではない。悪い事ではないのだけど、ある瞬間によっては、それが仇となる事もあるだろうし、それによって救われる事もあるだろうから、かのような子ども心に関する善し悪しを個人の目で一概には見定められないのだろうな、とハルキは数年前にそんな事を一人知り得て、考えた事があった。ハルキはといえば、彼はそんな非現実的物事を非現実的なものとして消化することのできない、まさに子どもらしい子どもだった。お化けが怖く、夜の野良犬や野良猫や鳥、虫達の存在が怖く、眠れなかったり、トイレに行く際には、親を起こして、手を連れて貰うなどして夜を過ごす日々を送っていたのだった。  話は少し変わり、夜が子どもにとって恐怖心を煽り覚えさせる存在という長らい説明に付随して、子どもは大人よりも想像力が遥かに豊かであるという事を先ほど一片の文に記載していたと思う。そう、子どもは大人よりも断然、巨大な想像力を誇り、その先のアイデンティティアルな世界を創造することに長けている存在なのである。しかし当然、幾多の経験を重ねて、長く苦労の多い人生を送る中で、やがて大人になり、身につく知識や思考能力によって培われる想像力というものも、確かに有るのである。だけど、子どもながらに、その幼さ故、無知性無垢純真性故の意識の中で生み出される世界というのは、何物にも優る暖かさや優しさや嬉々とした抱擁を時として誘発するというのも、また事実として確かめられるのである。だけどやはり、どんな子どもでも、いずれは身体や精神が否応なしに時間の流れとともに成長してゆき、大人になる。それは変えられない、生ける生物全てにおいてプログラミングされた自然界の仕組みであり、そうして大人になった子ども達はやがて他人の堕落に厳しく、資本競争の牙に蝕まれる世界へと足を踏み入れて生きて行かねばならないのである。  ハルキが夜を好きなのは、ごく簡単に言えば、彼曰く、夜には人間や動物の狂気と哀愁が混在し、その二つの概念事象が月明かりや部屋に灯る光によって生へと変換されるからである、という説明としてだけ、言葉足らずながら、ここでは記しておく。  ハルキは煌々と火の灯った暖炉の近くにいつも通り設けられた一人用のロッキンチェアに腰掛けて、膝下に置いた二つの底の深い手篭めサイズのスープの入った皿を取り敢えず側のテーブルに移動させようと思い、片方を少女の眠る方向へと送り、片方を自分の近くのところへと静かに置いた。そしてハルキはひと時ほど手の平を暖炉の前に広げて、冷たくなった指先や手の甲などを暖めた。料理をしたおかげか、多少は凍えるような冷たさも人肌近くに落ち着いてはいたが、それでもやはり寒いのには変わりなかった。
旭川黒介
旭川黒介
小説はジャンル問わず好きです。趣味は雑多系の猫好きリリッカー(=・ω・`)☆