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 目を覚ました少女は、ソファの柔らかなのそ膨らみの上に身体をようやく起こして、早速ハルキの用意したスープに口をつけて、ゆっくりとそれを飲み込み始める。温め直されたスープは、新しい湯気が白く湧き上がっていて、少女の顔の前に小さな霧靄をつくった。少女はそのスープの熱を、か細く、まだ微かに震える呼吸遣いで冷ましながら、良い香りのする液体を彼女の喉の中に少しずつ流し入れた。少女は初めのうち、何度も覚ましたはずではあるのだけれど、やはりそらでもまだ冷めやらぬ液体の熱で火傷しそうになるのを察知したのか、舌先をスープの表面に浸して幾度も温度を自身で測っては数十回に分けて、それを半分程までようやく飲んだ。ハルキはその彼女のスープを飲み続ける姿を、静かに見守っていた。横では暖炉の火が途絶えるわけもなく燃え盛っており、パチパチパチパチとその終わりを知らぬかのように火起こしの時から変わらずと同じ音を立てて、部屋を紅く彩っているのだった。  ハルキは、目の前で少女が自分の手作りのそのスープを飲む姿を眺めて、やはりうっとりと、それはどこか放っては置けないような小動物を眺めるかのような目線にも似ているのだけれど、微笑ましげな彼自身の表情の綻びを隠せぬ身嗜みで以って彼女に胸の暖かみを覚えてはその喜優さとそして和穏やかさを暖炉の生み出す情景や景色光景と重ね合わせるのだった。少女は飲み始めの時から随分と時間が経つものの、相変わらず猫舌の如く息を細かく切るように急きながら手に持った皿の中の熱された液体を注意深く少量ずつ、又同じように熱々しげに飲み続けていた。けれどもしかし、その少女の表情付きには、どこか、そのスープの味を美味しそうに味わう嬉し気を含ませた模様が映って、輝いていた。彼女は間違いなく、自分のつくった、そのたかがスープといえども、歴とした気持ちの篭った一つの手料理を、しっかりと時間をかけて、丁寧に味わってくれてるのだろうな、とハルキはそんな風なことを、彼の目の前にブランケットを羽織ってソファの上に柔らか気に濡れた髪の毛を垂らして、重そうな瞼を開き、身体を自力で持ち立たせている、慣れぬ熱さの液状の滋養料理に対して時間をかけてでも最後までそれを深く味わい尽くそうとしてくれている、かつては捨て猫然としていた、今やこの部屋で暖炉の熱に野外にのさばる、若しくは蔓延ってならない冬の季節の凍える様な肌寒さ、身体を隅々まで差し痛めつけてこようとしている体にさえ思え感じさせる咎棘とした冷気、そしてこれは大袈裟ではあるかも知れ得ないけれど、現代社会を大きく黒く、そして暗く闇々しく渦巻いている人間達の辛苦の念恨、後悔、嫉妬、対人否定的な怠惰、優劣思想、愚鈍をひたすらに見下す慢心、偽善、無慈悲、理不尽な因果を受けて手に入れた虚無感とそれを更に増長しようとする冷笑的な風潮、我が先と欲望の赴くままに誰彼の波を押し除けて、ひたすらに利己夢想の哀れな実現に向かい、泥沼に取られ始めている足を苛立った動向で振り払おうと踠き試みて、周囲の穏やかな感情を時には当て付けに散り乱そうとする病んだ思考の救い様の無い持ち主達のつくり出す巨立した不生産的な非安心安堵に成り果てざるを得ない文化へと繋がるであろあ憎悪にも至る攻撃的それでいて都合よく何事にも無関心な自己精神保全に於いてはどんな他人に向ける迷惑や惨事も厭わないという絶望的な実態世相の一群一帯を、無知故に完全なる事象軌道として理解に結ぶまでとはいかないまでも、そんな息苦しい社会の成れ果ての逃げ場の無い内立の地上に宛たっても、世界全体の観点から見れば非常に非力で、生易しい心遣いを放棄し切ることさえも恐らくはできないであろうと思われる、けれども小さく優しく、きっと誰にとっても優しさと暖かい共感を忘れることはこの先も無いだろう、純粋無垢の権化、そしてその表れの姿形を確かに生まれ持っている、ただ一人の愛おしい名前も生まれ故郷の場所もその全ての素性を明らかにしていないまま今しがたの不可思議な少女を今夜に於いては、これ以上ないくらいに幸福気な胸持ちで成して見つめて、眺め続けているのだった。  話は少し変わり、ハルキの手づくりであるこのスープは、ブイヨンベースのコンソメ仕立てのものだった。これに生クリームなどを入れて混ぜ合わせれば、ホワイトシチューになるし、角切りにした野菜類やソーセージなんかを幾つか加えて火を通らせて煮込めば、ポトフにだって早替わりする。そのため、ハルキはこの、彼曰くスープ仕立ての料理全般に於いて万能的と云えるであろうスープを、そしてその調理方法の一通りの流れと料理本に印刷され記された手順の記載事項を気に入っていて、直近の内に何に使おうという訳でもない日であっても、よく暇つぶしや気分転換などを理由にしては、ここ数年間の変わらない生活の中での日常的につくっているのだった。  少女がスープを無事飲み終えた後で、ハルキは彼女にメモ書きの白い用紙とペンを手渡した。少女は何なんだろう、というような目付きでそれらを見つめる。  ハルキはかような様子の少女を見て、書記用具を渡したものの、もしかしたら彼女は、文字を書けないのではないだろうか、となぜかそんな懸念を感じたのだったけどーーそれは恐らく、道端で少女の手足が、まるで霜焼けの如くの凍冷たさを感じさせる風貌を思わせていたことからのハルキが感じた懸念なのかも知れなかったのだけれどーー、そんな杞憂虚しく、少女は多少拙いながらも、次々とハルキの質問に対する答えをその紙面に書き連ねていったのだった。 「君は何歳なの?」  まずハルキがそう尋ねると、少女はもらったメモ用紙に十五、という数字を記した。 「君の名前は何て言うの?」  次にそう尋ねると、少女は数字の横に、カタカナでルカ、と言う二文字の言葉を書いた。ルカか、とハルキはその名前を呟いて反芻する。そして、初めて聞いたのにも関わらず、どこか懐かしい感覚をその彼女の名前の響きに覚えて、いい名前だな、と思った。
阿部野ケイスケ
阿部野ケイスケ
小説はジャンル問わず好きです。趣味は雑多系の猫好きリリッカー(=・ω・`)