普通に対して

 以下は小論文です。  僕は教育において、普通を知ることに重点を置きたい。  一般的に言われる普通の人と言うのは、そこから外れたことをする自覚のない人を注視する。例えばアメリカではチップを渡すのが普通であり、日本にはそんな文化はない。況して貰って同然のお金を一度は断ろうとして、中々受け取ろうとしないのが日本の現状である。しかし相違した二つともは互いにとって紛れもなく普通であり、歴史など様々な要因に由来する。  共通した要素を持つ事例は国内にも多く存在しており、特に大阪などは比較的その対象に上がりやすい。漫才の町である大阪はユーモア溢れた人ばかりと感じられることが多々ある。しかし実際は全員がユーモアばかりな人でもない。その実情を知っている人達は、大阪の人たちに無茶振りなんて強いない。これは、大阪の人はユーモア溢れることが普通と感じることが少なくなったからだ。  二つの例には場所と時代、文化とイメージなどの違いはあるが、各々が特定の場所に普通という観念を持っていることは確実である。例えば、アメリカ人が日本に来てチップを要求すれば気持ちよく受け入れられることは少なく、同様に他府県の方が大阪に来て近くを通っていた人に漫才を強要しても良い目は向けられないだろう。  つまり普通とは多々存在し、それを当人の普通だけで計り知るのは余りにも甚だしく合理性に欠ける。チップを強要して口論になることが頻繁にニュースに取り上げられないのには、日本にはチップ文化がなく日本ではこれが当たり前と言うことが多くの人に認知されたからだと感じている。  これは教室の中でも同じことが言え、多くの場合では普通でないことが問題なのではなく、普通ではないことを自覚できず、普通を分からないことが問題になるのである。よって教育現場で普通について向き合うならば、他府県、他国、他人などについて深く学ぶ機会を取り入れなければならない。
宮浦 透 Miyaura Toru
宮浦 透 Miyaura Toru
みやうらとおるです。小説書いてます。興味を持ってくれた方はアルファポリスや公式LINEにて他の作品も見れます。